10:00 「氏家宿」
宿並みのほぼ中央部、光明寺の境内の岩上に青銅像の不動明王坐像が安置されている。
丈六仏と云われる大きな仏像で江戸時代の絵巻物「奥州道中分間延絵図」にも描かれている。
剣を持ち、縄を持ち、火炎を背負った姿は凛々しくそしていかつい。
奥州道中を往く7日目は、ここ光明寺から佐久山宿をめざす。
Navi73. 上町交差点(右折)→<市道~国道293号>→佐藤自動車前 4.0km 50分
氏家宿を抜けて旧櫻野村に入ると旧い遺構が残っている。
名主であった村上家の棟門もまた「分間延絵図」に描かれている。
この門には享保8年(1723年)の五十里洪水の際に、水に浸かった痕跡が残っている。
紡績などで財を成した瀧澤家住宅は県の指定文化財となっている。
明治天皇が小息所として立ち寄った住宅は一般公開されている。長屋門が立派だ。
10:50 「狭間田一里塚」
日本橋から32番目にあたる狭間田一里塚は南塚のみが残っている。塚木が「梅」と珍しい。
坂本家の敷地内になるので、家人にお願いして拝見させていただいた。
こんもりとした小さめの塚と梅の古木が、庭の一部として美しく残っている。
11:00 「明治時代の水準点」
内務省地理寮(国土地理院の前身)が明治9年の水準測量に際して、大黒天に記号を刻んだ。
水田地帯の狭間田一帯には他に不朽物がなかったからだと推測される。ちなみに標高158mだ。
R293はここを大きく右にカーブして喜連川をめざし、街道は真直ぐ山道を越えて最短ルートを行く。
Navi74. 佐藤自動車前(直進)→<市道>→古道入口 1.1km 15分
喜連川に向けて早乙女坂(弥五郎坂)を上って行く。路傍の石仏がここが街道であったことを物語る。
Navi74. 古道入口(斜め右)→<奥州街道古道~市道>→連城橋南詰 1.6km 20分
早乙女坂のピークから右に奥州街道(古道)を歩くことができる。
急坂は長らく難所とされ、明治13年に迂回路が開かれている。
古道がふたたび市道に合流し、県道180号線を越えると荒川に行き当たる。
向こう岸の展望台が立っている丘が喜連川城址だ。麓には温泉が湧く。
連城橋で荒川を渡ると喜連川宿に入る。江戸時代には木橋が架かっていたと云う。
Navi75. 連城橋南詰(左折)→<県道114号~県道74号>→台町交差点 1.3km 15分
11:35~12:15 「喜連川宿」
龍光寺は喜連川藩主である喜連川足利氏の菩提寺である。
徳川家康は喜連川足利氏を客分として扱い、参勤交代の免除、正室の国許居住を認めた。
みちのくの諸大名が参勤交代で当地を通過する際にも、住民に土下座をする必要がなかったと云う。
喜連川神社は速須佐之男命(スサノオノミコト)と櫛名田比売命(クシナダヒメノミコト)を祭神とする。
永禄6年(1563年)に創建された近隣15郷の総鎮守だそうだ。
夏の天王祭(例大祭)の暴れ神輿は、県を代表するお祭りであると云う。
喜連川宿の規模は天保年間において本陣1、脇本陣1、旅籠19軒であった。
本陣上野家の跡地はカフェレストランになっていて、地元喜連川産の高級ポーク「あさの豚」が味わえる。
ひときわ立派なのは笹屋呉服店の蔵、250年を超える歴史がある。
茶屋で一服を気どって紙屋菓子店に寄って、大福と栗饅頭をいただく。
お孫さんが家業を継ぐとかで店舗を新築中とか、幸せそうな女将さんの話を仮店舗で伺う。
ほんのりミルク風味の生地にモチモチ食感の黒糖のお餅が詰まった "喜連川鮎" を土産に求めた。
地元の名産でもある鮎に見立てて作った可愛らしいお菓子なのだ。
Navi76. 台町交差点(右折)→<市道>→丁字路 0.1km 1分
Navi77. 丁字路(左折)→<市道>→金竜橋南詰 0.2km 2分
Navi78. 金竜橋南詰(右折)→<県道114号>→JAしおのや 1.9km 25分
日本橋から33番目の喜連川一里塚は宿場の中に在ったはずだが痕跡はない。
宿並みは台町交差点で鉤状に折れて内川に行き当たって終わりとなる。
内川に架かる金竜橋は、街道当時も常設橋だったそうだ。流出した際には蓮台で渡したと云う。
それにしても雲行きが怪しくなってきた。迂闊にも雨具の用意がない。
Navi79. JAしおのや(左折)→<市道>→ヤマギシズム 0.1km 1分
Navi80. ヤマギシズム(右折)→<古道>→さくら市南和田地籍 3.4km 45分
大規模な養鶏場脇から、畑中そして雑木林の中へと尾根筋の高い地形を古道が延びている。
日本橋から34番目の南和田一里塚も山中に没している。この古道も本来の道筋とは微妙に違うようだ。
Navi81. さくら市南和田地籍(左折)→<県道25号>→曽根田交差点 0.9km 10分
Navi82. 曽根田交差点(右折)→<県道114号~県道48号>→きらり佐久山 4.7km 60分
引田一里塚の目印は見落として通り過ぎたらしい。路傍に3体のほほえみ仏像を見つける。
ここを過ぎると間もなく大田原市に入る。っと、とうとう大粒の雨が降り出した。
14:00 「和楽庵」
緊急避難の雨除けを探して5分歩かないうちに、コンビニと食事処が眼前に現れる。
喜連川宿から佐久山宿の間に在る唯一の現代の茶屋なのだから極めて幸運である。
準備中の札に掛け替えたばかりの「和楽庵」にお願いして入れてもらう。
今日の街道めしは "蕎麦セット"、野菜天ぷら、黒ごまごはん、ぶどうまめが付いてつまみにもなる。
先のことは気にせずに生ビールも呷ってしまおう。
Navi82. きらり佐久山(左折)→<市道>→郡司理容店前 1.2km 15分
Navi83. 郡司理容店前(直進)→<県道48号>→神明町交差点 7.0km 90分
コンビニで求めた青いポンチョを羽織って残り一里を往く。足元はグチョグチョなのだ。
左手に佐久山の日帰り温泉を通り過ぎる。恨めしい。
JAの直売所前で分かれた県道114号を佐久山前坂交差点で横切ると佐久宿の江戸方入口だ。
宿並みに旧い遺構は殆どない。長宗寺の大日堂が唯一か。中には不動明王立像が安置されている。
15:20 「佐久山宿」
佐久山宿は箒川の河岸段丘上に東西に延びている。
天保年間におけるその規模は本陣1、脇本陣1、旅籠27軒であった。
本陣井上家は郵便局の隣になる。ここに立つ顕彰碑は本陣とは何ら関係はない。
「友白髪」という縁起物を銘柄にした酒は、日本に幾つか在るようだ。
佐久山宿の東の外れにも島崎酒造という蔵元が「友白髪」を醸していた。今は廃業している。
街道が北に直角に折れると、健保2年(1214年)建立の正浄寺がある。
親鸞聖人が東北御巡錫の折、一宿した家に阿弥陀如来を授与したのが起源と云う。
正浄寺は佐久山宿の白河方の入口になり、街道はこの先直ぐに箒川を渡って大田原城下へと向かう。
不動明王に見送られた奥州道中7日目の行程は、喜連川宿を経て佐久山宿までの21.1km。
冷たい雨に降られながらの5時間20分の旅であった。那須岳を眺めながら白河まではあと50kmだ。