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潟東の用水の鯉の近くで案内された”キリシタ姥”のお地蔵様?・・この地域を救った老婆を祀った祠とか・・地元の人の説明では、古い祠でのお地蔵様の土台には十字が彫られていたそうだ。
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伝説(言い伝え)とは結構(相当)いい加減(都合のいい様に作られている)なものと、まち歩きに参加してつくづく感じさせられた次第だが。
(岩室温泉の源泉公園の立札(現在は撤去されている)がそうだ!)
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この長岡藩の高札と言われている年号”天和二年”とは江戸大火(八百屋お七の火事)の年で西暦では1682年だ。
家康のキリシタン禁止令は1614年(慶長19年)と言われ、天草四朗で有名な島原の乱は1637年(寛永14年)でいかに東北、越後が遅れていたとは言え、幾らなんでも計算が合わないのではと思う?
*米沢藩でのキリシタン弾圧は1629年(寛永5年)と伝えられている。
でも米沢か島原から逃れて生き延びた老婆とすればつじつまが合いそうだ!
潟東と味方は同じ長岡領だったそうだが、何故この老婆は潟東のこの地区に味方したのだろうか?・・意地の悪い筆者は聞いてみた”この地と味方は仲が悪かったのだろうか?”と。
答えは・・悪かったのだそうだ!
*この話が作り話(失礼だが)だったとしたら、天草四朗に使えていた女性が逃れて来て、その御落胤の子孫が・・・とかあったら面白いと思うのだが・・全く無責任な話ですが。
天草四朗自身にも豊臣秀頼の落胤の風雪?がある位ですから・・
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真面目な話に戻って?、民家を改修したハーブ喫茶に案内されました・・小学校の校長(女性)を退職してからオープンしたとの事です・・日々グータラしている筆者には真似出来ません!
*田んぼばかりで何も無い地域と思っていたが、結構面白い処でした・・案内してくれた担当者の一生懸命さが伝わりました!
口の悪い筆者ですが、今回は頭が下がります! 有難うございました。