ぐうたらかあさんのなげき

二人の息子は発達障害、家事は嫌いなダメ主婦、そんな母のぐうたらな、でも悩み多き日々・・・

小学一年生の時を思い出す〜苦しい記憶

2020-06-02 00:38:12 | 日常生活
私は変な子どもだったと思う。
先生からしてみれば、躾のなっていない育ちの悪い子どもだったのだろう。

給食、嫌いな物が出た時は辛かった。
私は、玉ねぎ、長ネギ、鶏の皮がどうしても嫌だった。
特に長ネギは死ぬほど嫌いだった。
給食の時間が終わっても、昼休みが終わっても、午後の授業が始まっても、食べ終わるまで、許して貰えなかった。残すことが出来なかった。
さすがに、ぶつ切りの長ネギを口に入れただけで、それまで食べたものまで吐いてしまった時は、食事が中断されたけれど。。。

母親の実家が牛を飼う酪農家であったせいなのか、母はたまに牛乳をご飯にかけて食べる事があった。
給食で私は、それを真似してみた。それを見た担任の先生が、「なんだその食べ方は!お前はブタか!」と、クラスじゅうに聞かせるように言い放ち、笑った。
私は、恥ずかしさと悲しさで、でも残すことは許されないので、泣きながら隠しながら食べた。

私は、だらしのない子どもだった。
それこそ、鼻水を垂らしているような子だった。
着ているものも親戚からのお下がりがほとんどだったし、時代遅れのものも多かった。それでイジメられることもあった。

一年生のとき、上靴の踵を踏んで履いて、三学期になる頃には靴がボロボロだった。でも母は二年生になるまで靴を買ってはくれない。
先生は踵を踏んで履いている状態を見て、「ちゃんと靴を履け!」と、私に言った。
ボロボロの踵を起こして履き直すと先生は、
「お前は靴も買ってもらえないのか!」と、またみんなの前で見下すように笑った。
先生に対する悲しさと、自分のだらしのないことの結果でもあるのだという自分に対する腹立ちと恥ずかしさと。情けなかった。

それからは、靴を買ってもらっても踵を踏んで履くことはなかったけれど、ボロボロになって、ワニの口のように指先が飛び出て走れなくなってしまうくらい壊れても、なかなか買ってもらえないということは、小学生のあいだ中続いた。
六年生のときの外靴に至っては、数カ月のあいだ、目の病気になって毎日、家から少し離れた市街地の眼科まで通う日々で、汽車に乗っても、駅の待合室で待つのも靴を見られている気がして恥ずかしくて、覚えたての裁縫で、自分で靴を繕ったりもしていた。

当時写っている集合写真などを見ると、背が小さくて一番前の列に座らされている私は、必死で靴のつま先を隠そうとする体制で写っている…

(そんなこともあって、小学六年生の秋から始めた新聞配達で得たお金の使い道は、服や靴を買うことも大きな目的だったと思う。父や母は私の好きなもの・欲しいと思っている気持ちを否定して、自分の都合、好きなものを子どもに押し付ける人達だったから、自分の欲しいものは親には言わず、自分で買うようになっていった。
勿論、親が買ってくれなかった学校の教材、部活等で使うものなども、自分で買うようになっていったし、高校の修学旅行も自分で積立をして旅費を貯めた。)

小学一年生の時のこと、思い出したから書き留めておこうと思ったら、どんどん記憶の範囲が広まってしまった(苦笑)

もう一つのエピソード。
小学一年生の時の教科書に『なかよし』という表題のものがあった。
それがなんの教科書だか知らなかった。
入学してすぐの授業。
先生に教科書を忘れた事をひどくとがめられた。
『なかよし』という教科書は、『社会』の教科書だった。
時間割に『なかよし』とは書かれていなかったので、私は何故怒られているか理解できず、みんなが『なかよし』の教科書を机の上に乗せているのも不思議だった。
先生に「時間割に『なかよし』なんて書いてなかった」と言うと、「『しゃかい』って書いてあっただろ!」と怒られた。
同級生たちは親と一緒に時間割を見てもらったのだね。。。私の親はそんなことはしてくれなかったし。。。

先生も、小学一年生の担任だっていうのに、子どもに寄り添ってくれる先生ではなかったね。
ア○ネト○オ先生。未だに名前も覚えている。

今、こんな古い記憶が未だに沸々と湧き出てきて、胸が苦しくなる。だから、私は、思い出したときに、こうやって書き留めておこうと思う。

昇華できますように。



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