いろはにぴあの(Ver.4)

音楽、ピアノ、自然大好き!

そして

2020-08-07 | 日記

やっぱりだらだらと書いてしまった。長文大魔王の気がまた出てしまった。明日から再びしばらくブログからお別れかな。本ブログにアクセスし読んでくださった皆様に感謝します。

もうすぐ本当の連休が始まる。

当然旅も帰省もできない。友人と会う約束もコロナ禍のためになくなった。でも少しばかり楽しい予定も入っている。予定以外にもやるべきことやりたいこともある。よかったと思える1週間にしたい。

 


池之端ライヴ弐千弐拾年七月号 幻想と香り 

2020-08-07 | ピアノ、音楽

 私の昔のブログに、自己紹介のコーナーがある。その中の「好きな作曲家」のところを読み、まさにそうだ!と思いつつも、片足を穴に突っ込みたくなってきた。「幻想、ポリフォニック、土臭いものに弱い傾向がある」10年前からこの傾向はあったことにびっくり、しかしこのようなことを書くことがどういうことか分からずに書いていたし、かなり背伸びもしていたのではと思い始めているのだった。好きな作曲家も沢山書いているけれど、作曲家たちの本質もあまり理解できていなかった。

 ところで本ブログでも先月紹介したが、渡邊智道氏による池之端ライヴの7月号のCDがやってきた。

  スクリャービンの詩曲、ショパンの前奏曲作品45、有名曲とはいえないかもしれないけれど魅力的な2曲がCDを聴いたとたん愛おしき2曲へと変身。スクリャービンの詩曲は動画もアップされているのでリンクを紹介する。

それとともに今回は特別に世界的チェリストの伊藤悠貴氏も出演。昨年の12月おふたりによるオールブラームスの演奏会に行ったときにデュオのCDを出していただけたらと思っていたがこのような形で実現するとは!

デュオ演奏の曲目は、歌曲三曲、すなわち歌とピアノの為の作品三曲だ。その三曲とは

 雁部一浩氏が八木重吉の詩

 伊藤悠貴氏が石川啄木の詩、

 渡邊智道氏が井上井月の詩に

曲をつけた作品。彼ら、演奏家だけではなく作曲家でもあった。しかも、名作曲家。過去の偉人たちとは一緒にしたくないので大作曲家とは呼ばないことにする。(ちなみに雁部一浩氏は本ブログで3年前に紹介していた『ピアノの知識と演奏』の著者であるとともに歌曲作品も出している。)

その歌曲がたまらないのだった。確か音だけの世界で出来ているはずなのに、それに伴い切なさとかはかなさとか包み込みたい思いとかそういうものが湧き出てきた。どうしたらよいのだろうという気持ちになってしまった。濃縮した表情のうつろひ。

そうだ、香りだ。冊子、六等星に書かれていた。香りも伝わってきた。光、音はインターネットを通じても伝わってしまうようになったけれど、香りはどうあがいても伝えることはできない、そんな香りが、音楽からふんだんに伝わってきた。

さらに六等星、さらに前の方にはあのことば「幻想」が!今のようなコロナ禍の状態にあっても幻想世界に心の底から価値を見出し。。。というくだりには心が震えた。

私も幻想が好きだとかつてから言ってはいた。しかし幻想世界へのアクセスについては遥かに歳下でありながらそのような世界にアクセス、自分のものとし体現している若き彼らの足元にも及んでいないと感じた。しかし幻想が好きであること自体には自信を持ちたいと思うようになった。作曲家の魂にしっかりとアクセスし世界を深めることができたらどんなに素晴らしいだろう。

今月の六等星、他にも面白いところがあったのだけど割愛する。

音楽家たちご本人作曲の歌曲が入ったCDは一聴に値すると思う。特定の月だけのご希望にも対応するともある。こちらからぜひ♪


ドリップ・ミュージック 

2020-08-07 | ピアノ、音楽

 白寿ホールで開催された「心が喜ぶ演結び、新しい出会いの形へ バッハとコンテンポラリーの融合」をオンラインで視聴した。ヴァイオリン成田達輝氏、坪井夏美氏、ヴィオラ田原綾子氏、チェロ笹沼樹氏、ピアノ中野翔太氏で、バッハ作曲フーガの技法の各コントラプンクㇳゥスとコンテンポラリー作品とを交互に演奏するという演奏会。曲目は以下の通り。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲 フーガの技法よりコントラプンクトゥスⅠ

Jアントン・ウェーベルン作曲 弦楽四重奏曲作品28(1938)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲 フーガの技法よりコントラプンクトゥスⅡ

クラウス・フーバー作曲 インタルシーミレ ヴァイオリンソロのための(2010)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲 フーガの技法よりコントラプンクトゥスⅢ

ブライアン・ファーニホウ作曲 アダージッシモ、弦楽四重奏のための(1983、東京初演)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲 フーガの技法よりコントラプンクトゥスⅣ

ジョン・ケージ作曲 4分33秒(1952)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲 フーガの技法よりコントラプンクトゥスⅤ

ジョージ・ブレクト作曲 ドリップ・ミュージック(1959)

休憩

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲 フーガの技法よりコントラプンクトゥスⅥ

一柳慧作曲 イン・メモリー・オブ・ジョンケージ ピアノソロのための(1993)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲 フーガの技法よりコントラプンクトゥスⅦ

モートン・フェルドマン作曲 直線的思考Ⅱ(1963)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲 フーガの技法よりコントラプンクトゥスⅧ

エイグロ・ヘスクルドゥスドッティル・ヴィヴォルグ作曲 シルフラ 弦楽四重奏のための(2019、日本初演)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲 フーガの技法よりコントラプンクトゥスⅨ

梅本佑利作曲 フラッフィー・ピンク! 弦楽四重奏のための(2020、世界初演)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲 フーガの技法よりコントラプンクトゥスⅩⅧ

大好きなバッハとなじみのないコンテンポラリー作品とを交互に演奏するという実験的な試み、中には初演の曲もあり何が飛び出すかわからないところにも惹かれて視聴することにした。コンテンポラリー作品については理解ということは全く考えず目と耳で触れられたらという想いで。

いや~楽しすぎた!どうしてこのような響きが生み出されたのかと思えるコンテンポラリー作品、わけがわからないながらもとがった感じが印象的だった。楽器の限界に挑むために作られたのではと思える曲もあり演奏するためには奏者も楽器も想像を絶する負荷がかかっているのではないかと思えた。人が作り出す音楽の世界の無限性を感じた。世界初演だったフラッフィー・ピンク! 、作曲した梅本氏はなんと10代、相当な想像力がないとこんな曲は作れないと思えるひとことでは形容できないすごい曲だった。弦楽器の曲が多かった中ジョン・ケージ作曲のピアノソロのためにの美しさにも心惹かれた。ピアノの響きが際立って聴こえた。そして超硬派なコンテンポラリー各曲の間にくると硬派なはずだったバッハ作曲フーガの技法が丸みを帯びた温暖気候の音楽に聴こえてきた。各曲の魅力が引き出せるような選曲、プログラミングだったように思えてきた。

そんな中、楽器がヤカン、水、空き缶という音楽もあった。ジョージ・ブレクト作曲 ドリップ・ミュージック。演奏者たちが舞台から背後に立ち去りヤカンに入った水を空き缶にそそぐ、そのときの音が曲になっているのだった。思わず集中して耳を傾けてしまった。ポットで水を注ぐ音って、なんて美しいのだろう!集中して聴けば聴くほど素晴らしく魅惑的な音の世界に思えてきた。珈琲の香りもしてきたし。実際に注がれていたのは珈琲ではなくて水だったのだけど。考えてみたら世界は音に溢れている。注ぐ水の音だけではなく、セミの鳴き声、風のそよぐ音、電車の音。これらも音楽かもしれない。これからはもっと耳を澄まさなくちゃ。私の今後の音楽観も変えたくなってしまいそうな一曲だった。

その時の記憶を頭の片隅に残したまま、後日題名のない音楽会を録画で観たところ、またまたドリップ・ミュージックが登場してびっくり。こちらは水が注がれる先が空き缶の代わりになんと人の口。攻めの姿勢もここまでくるとただただ脱帽するしかない。


瀬川泰代氏オンラインコンサート

2020-08-07 | ピアノ、音楽

 先週末、瀬川泰代氏のオンラインコンサートを視聴した。瀬川氏のことを知ったきっかけは、左手のピアニストということでテレビに出演されたときだった。右手指に局所ジストニアを患い右手での演奏が難しくなりどうしたらよいだろうと苦悩していた時に左手のピアノ曲に出逢い音楽留学も実現、ピアニストとして音楽を届けるという決意を抱き音楽活動を続けているという話を知り心打たれ、演奏を聴く機会が持てたらと思っていた。そんな矢先に広島のゲバントホールでリサイタル開催とのお知らせ、今は遠方に住んでいてもオンラインなら聴けると知り聴くことにした。

 曲目は

岡村 星見作曲 blue star
バッハ作曲ブラームス編曲 シャコンヌ
ボルトキエヴィチ作曲 詩人 
ボルトキエヴィチ作曲 ウエディングソング 
- 休憩-
月足さおり作曲 風の彩 
1.Hiraeth
2.Forelsket  
濱川礼作曲 - Untranslatable Words(左手版)から 
リスト作曲光永浩一郎編曲 愛の夢 第3番
光永浩一郎作曲 サムライ 

 左手のために作られた音楽、なんと世界中に3,000曲もあるのですね!バッハ作曲ブラームス編曲のシャコンヌは怪我をして右手が使えなくなったクララ・シューマンのためにブラームスが編曲した曲だったとのこと、シャコンヌ、名曲だと知りながらも重厚さと長大さに自分が追いつけず、なかなか心を入れ込んで聴くことができなかったのだけど、瀬川さんの演奏するシャコンヌからはすうっと世界に入ることが出来た。音楽の持っている愛と瀬川さんの音楽愛が伝わったの思う。ボルトキエヴィッチは最近聴く機会が増えている作曲家の一人だが、左手のためのピアノ曲を沢山作った作曲家だということを知りさらに好きになった。詩人、ウェディングソング、音楽からにじみでる情感がにじみ出るように伝わってきた。

 後半は日本人の作曲家による作品。全員瀬川さんとゆかりのある方たちで、それぞれの作曲家たちのお人柄について演奏前に話してくださりさらに愛着を持って聴くことができた。響きにはっとさせられ、ロマンチックな世界に浸り、音楽を通して多くの感情世界に浸ることができた。愛の夢第3番の美しさにもはっとさせられた。プログラム最終曲の「サムライ」、そしてアンコールで演奏された吉松隆作曲「風のトッカータ」、緊張感、激しさ、切れの良さに息をのむばかりだった。そして音楽している瀬川さんの悦びがほとばしるように伝わってきた。お話されるときの優しく温かくほっとする雰囲気と、演奏時の音楽に入り込まれた時のエネルギーとのギャップも印象的だった。

 このような時世になりなかなか生の演奏会には足を運べなくなっている状態だが、このように遠方で行われる演奏会も聴くことが出来るようになったという面については本当に有難いお話だ。広島への帰省も難しくなりそうな今、かつて私も演奏会を聴きに行ったり練習会を行ったりしたことがあるゲバントホールでの瀬川さんの演奏を聴くことができて本当によかった。


ブログへの敷居

2020-08-07 | 日記

 ここ数日、ブログを書きたい思いが募っている状態だ。そう思いつつも、なかなか一歩を踏み出せない状態でいた。最大の理由に、今、私がブログを書くまでの敷居がぐんとあがってしまっていたことにある。  SNSの普及。自宅のPCの立ち上がりの遅さ。そして最後、これが最大の原因かもしれない、何かを感じて感激したとする、その感激について文を書くエネルギーがあるのなら、例えば趣味のピアノだったらもっと練習して音に反映させないと、とか、水彩色鉛筆だったらもっと作品を描かないと、とか、ドイツ語を始めたのだったらいい加減文法の入門段階から卒業しなくては、とか、その他の例えば物つくりだったらスカートもう一枚縫おうとか(実はミシンを使い始めました。面白いのだった)。。。それでなくても限られた時間、もっと時間もエネルギーも有効に使える方法があるではないかという気持ちとせめぎあっていた。私がいったんブログを書き始めたら最後、長文大魔王状態、時間がかかってしまいそうだという懸念も多々ある。しかもその文章がお粗末だったらどうしようという懸念も伴うし。

 独身時代のことも書かれているブログ(いろはにぴあの)。その頃は気負いなく書けていた。結婚したばかりの頃のブログ(いろはにぴあのいろはにぴあのVer.2)その頃の文章は今読んだら理解できないような難しいことも書いていた。エネルギーいっただろうな。いろはにぴあのVer.3 後半あたりからSNSに割く割合が増えて、ブログの更新への腰が重くなり始めた。SNS、本当に、便利だし、楽しいんだもの。情報の入手は最速だし、やりとりがすぐにできるというのもすごいと思う。驚くほど世界も広がったし。しかし、このままでいたら、自分の中の何かが浮遊したまま流れていき落ち着かなくなっていく感もしていた。ブログ出身の性か。

 言い訳を色々書いた。やるべきこともあるし、時間もエネルギーも、ブログを書くよりも有効に使えることもあると分かってはいるのだけど、今はブログを書くのが私が前へ進むのに必要なことに思えてきたのでちょっと書くことにする。有難いことに、早めの夏休みもいただいちゃったし^^