平野啓一郎の「ある男」を読む。四日間かかって、昨日読了したのだけど、その余韻はまだまだ消えてくれそうにない。
平野啓一郎と言えば華々しいデビュー作、「日蝕」で知られる純文学作家。だから、こんなミステリー調の小説を書くこと自体に驚かされたのだが、プロフィールを見ると、随分多岐にわたる作品を発表している。
幼い子供を病気で失い、夫とも離婚した女性は、一人だけ残った息子を連れて故郷へ戻ってきた。そこで出会った林業伐採の仕事に携わる男性と再婚し、とても幸福な日々が訪れるのだが、ある日、突然夫は、倒木の下敷きになって死んでしまう。
だが、死後の手続きに訪れた夫の兄は、「これは弟ではない」と断言した。何と、夫は他人の名前とその人生を奪い、自分のものとしていたのだ。
では、夫だと思った男は、果たして誰だったのか――?
残された妻は、かつて、自分が前夫と離婚する時、大きな力となってくれた弁護士の城戸に解明を依頼する。
そして、城戸の調査がはじまる。というのが、全体のストーリーなのだが、こうサビをふっただけで、面白そうでしょう?
中年にさしかかりかけた弁護士の城戸は、一見恵まれた境遇に生きている。しかし、幼い息子のいる家庭生活が軋みはじめていることや、在日三世という立場に鬱屈をかかえてさえいる人物でもある。彼が半ば同情心から、かつての依頼者である女性の頼みを引き受け、彼女の夫「X」の捜査に乗り出すというわけ。しかし、自分も彼と同じように、別の人間として生きたいという願望にかられたり、と城戸自身の心も微妙に揺れ動いている(これは、中年という後戻りのできない年齢になってしまったせいもあるだろう)。
やがて、Xは別の人と戸籍を交換したということがわかるのだが、ここからⅹの悲しい生い立ちがわかってゆく――。
これ以上書くとネタバレになりそうなので、端折っておくけれど、物語の構成が息を飲むほど、素晴らしい。ストーリー自体も、よく練られていて面白いのだが、私の見るところ、それ以上に素晴らしいのが、主人公である城戸の人物造形。
知的で、穏やかでありながら、死刑制度や司法の立場に断固とした考えを持つ男。そして、ⅹの立場に心から同情し、その人生に心を添わせてゆく様に、深い人間味を感じさせさえする。
本の帯に「静かな感動を与えてくれる作品」と銘打ってあるが、長い物語を最後までたどりついた私の心に、舞い降りてきたのも、そうとしか言いようのないものだった。
人間が人間に出会う物語。懸命に生きる人間達を照らす、恩寵のような希望。さすが平野啓一郎だなあ、とうならされながら読んだのだけど、この量感は、一流の作家にしか作り出せないものですね。