高宮宿の本陣・脇本陣

2015年11月20日 | デジタル高宮町史





 

● 高宮宿の本陣・脇本陣 

慶長八年(1603)、徳川家康は、征夷大将軍になり
江戸に幕府がつくられ政治の中心となると、最も人切な
五街道を決めました。その中に、京と江戸を結ぶ東海道
と中山道が選ばれました。この中山道は、東海道と北陸
道の三つの道の中間の山道を意味する。

高宮が宿場町として再生するのは、江戸時代当初からの
ことです。江戸時代に入ると、幕府は宿駅制度の整備を
始めるが慶長七年(1602)、その基本となる伝馬継
所に高宮が定められる。高宮は中山道六十七次の一宿で
江戸から六十四番目。その宿駅を設けて、隔年に出仕す
る人名.行の宿泊のための宿場と、幕府の命令を各地に
伝えるための駅として成立させた。

街道には南北ともに、石で囲まれた宿駅の見付けに常夜
燈のついた恐龍と旅の安令を見守る地蔵等があって、そ
れらは大変政派なものだった。天保十四年(1843)
の高宮宿の石高は、29213石6斗2升で、美濃の鵜
沼宿(現岐阜県各務原市)に次いで高く、ま
た当時の人
口も3560人と武蔵の本庄宿(現埼
玉県本庄心)に続く
第二の大きな宿場だった。

※駅:律令制で、公用の旅行や通信のために駅馬・  駅
  船・
人夫を常備しているところ。 


宿場は幕府の道中奉行の配下にあって、人馬の継立、旅
宿飛脚、街道の維持管理などの宿場業務を行う。それら
の業務を統括したのが問屋であり、これを補佐する年寄,,,
人馬継立の実務にあたる馬指・帳付などがいた。宿場に
は、旅宿のための本陣・脇本陣・旅版屋・茶屋等の施設
が設けられている。この本陣・脇本陣は、大名、勅使・
公家・旗本などの公的旅行者が休泊する施設であって、
一般の旅行者は旅版屋に泊まり、茶屋で休息をとったも
の。脇本陣の前には街道に沿って、幕府の命令を伝える
高さも幅とも一丈(約三メートル)を越える高札が立ち、
村役人が控えていた。

※道中奉行:江戸幕府の職名。大目付・勘定奉行の兼務。
 諸、
国街道・宿駅の取締り、道路・橋梁などの修復、
 宿場の公事訴訟の吟味などをつかさどる。



 この人たちは旅人の注文により、人や荷物を運ぶ人足
二十五人と馬二十五頭用意して、割り当てたりして、一
日中忙しく活気があった
。高宮宿には本陣一軒と脇本陣
が二軒あった。宿絵図を見ると、圓照寺の中山道をへだ
てた東側に本陣があり、三軒とも宿場の南に偏して設け
られていることが分かる。
 この高宮宿本陣の表門は現存している。本陣について
もう少し見てみよう。享和四年(1804)に描かれた
絵図が残されている。これによりると、敷地の間口は十
五間四尺(約29メートル)、奥行は二十八間(約51
メートル23坪(約406平方メートル)が建坪であっ
た。

 

 建物は中山道に面して、表向の格式をもつ門構えの表
門と奥
向の人口があり、表門を入ると白砂の敷き均され
た庭を経て
玄関・広間、書院遣いの上段の間へと直線上
に表向の各部屋
が配されていた。
 いっぽう奥向は、入口から通り庭を挟んで勝手・だい
どこ(台所)・料理の間、陪臣の
部屋が並んでいた。
 脇本陣は、さきに見た本陣の六軒南と、中山道を挟んだ二
軒北にあり、ともに本陣を補助する施設であった。
 建物の規模は、71坪(約235平方メートル)と74坪(約24
5平方メートル)と本陣に比べ小さいが、本陣と略同様の建物
構成を形成している。北の脇本陣は、享和四年の絵図による
と、門の横には、高さ一丈三尺(約4メートル)、幅一
丈三尺
五寸の高札場が設けられていた。
 この脇本陣宅は、慶長十三年(1608)以来明治維新を迎
えるまで脇本陣と問屋を兼ねていた。
 江戸期の終わり頃になりますと、旅龍も二十三を数え、その
大きいところでは二十余りの部屋があった。
 宿場から宿場間の街道――縄手――には、旅人に夏に
は暑さから、冬には寒風や降雪から守
るため桧並木が両
側に土手を追って植栽されていた。また、旅人の目安に
するため、街道一里(約3・9メートル)ごとに土を盛
って、その上に松や榎を植えた一里塚をつくった。

※書院造り:室町末期から起り江戸初期に完成した住宅
 建築の様式。和風住宅として、現在まで影響を及ぼし
 ている。接客空間が独立し、立派につくる。主座敷を
 上段とし、床・棚・付書院・帳合構を設ける。
 角柱で、畳を敷きつめ柱間には明かり障子・襖を、外
 周りには雨戸を用いる。

※一里塚:街道の両側に一里(約4キロメートルごとに
 土を盛り、里程の目標とした塚。多く榎・桧を植えた。

※[高宮宿本陣・脇本陣 彦根市高宮町331・074
 9(22)3
501 彦根市高宮町地域公民館」


● 高宮の「むちんばし」


 江戸時代の初期の頃は、東海道や中山道は一応整備さ
れたが、大きな川の
その多くには橋はなかった。川に水
がない時には浅瀬を捜し求めて歩いて、足元に
注意を払
って、そろそろと渡った。

 降雨により出水すると人足の助けを借りて、おんぶを
して貰ったり、井桁に組まれた
胡坐を散人の人足の肩を
がり渡った。

 大水のときは、川止めといって渡ることはできない。
このことは、徳川幕府や
彦根藩の役人も同じで、急な用
事で川を渡るときは、大勢の人足を集めなければならな
。時には、夜などでは人足を集めることができないこ
とがあり、役人も宿場の
人たちも大変難儀となる。
 ときは明和四年(1767)のこと。中山道高宮宿の
人たちは、高宮川(大上川)
に仮りの橋を架けることを
奉行に願い出た。この計画は、中山道よりは少し下流に
人も馬も、ともに渡ることのできる丈夫な板で仮橋を造
る。これは出水時のみのこと
にして、普段は片付けてお
くというものだった。


井桁:ものを組むとき、「井」 の字の形にする、その形。
※奉行:上命を奉じて公事・行事を執行すること。ま
  その担当者。


 そのころの本橋は大水の時には、よく流されたりした
ので、そ
の水の減水したときを見払らって歩いて渡らな
ければならかった

 こうした不使さをなくするために、彦根藩は領地の金
持ちなど多
くの人の募金を得て、丈夫な橋を架けるよう
命じた。この橋の
維持・管理などの費用も、宿場の有力
者から集めたお金が当てられ
た。
 そのお蔭で、旅人はお金を払わずに橋を渡ることがで
きた。

 橋は旅人に「むちんばし(無賃橋)と呼ばれ、大変親
しまれ、ま
た喜ばれた。
 高宮橋の袂に建っている「むちんはし」の標石は、天
保三年(2832
) の橋のできた頃に建てられたもの。
 この木造の橋は何度も大水で流されている

 "中山道はじまって以来の盛事で、街中が一日じゆう明
るくなった・・・。"島崎藤村は「夜明け前」のなかで、そ
の日の宿場のことを書いている。

※公卿:公(太政大臣および左・右大臣)と郷(太・中
 納言、参議および三位以上の朝官)との併称。
※殿上人:清涼殿の「殿上の間」(清涼殿の南廂にあっ
 て、殿上人の昇殿を許された所) へ昇殿を許された
 人。四位・五位以上の一部および六位の蔵人が許され
 ました。
※朝廷:君主が政治をとりおこなうところ。

 これは、文久元年(1861)のこと皇女和宮が徳川
将軍家茂とのご成婚のため、都の公卿・殿上人をした
がえ、それを護衛する何千人という武士またお通りの周
りの村むらから集めた人足数千人、馬数百頭の大行列で
あった。
 これは、文久元年(1861)のこと皇女和宮が徳川
将軍家茂とのご成婚のため、都の公卿・殿上人をした
がえ、それを護衛する何千人という武士またお通りの周
りの村むらから集めた人足数千人、馬数百頭の大行列の
江戸末期のことです。京都の朝廷と江戸の徳川幕府の対
立を和らげるため、前後六回にわたり京の都の姫君と幕
府の将軍との間にご成婚が行われる。それらは、すべて
中山道を通り、都から江戸へとお下りになっている。
 相宿のご一行は、結果においては最終を飾るに相応し
い盛大な大行列だった。この和宮一行が京都を出発され
たのは文久元年(1861)10月20日のことで、高
宮宿を通過されたのは、同月23日のお昼前のことで、
小休止をとっている。
 和宮一行のため高宮川(大上川)に架けられたこの橋
の図が残っている。この図の右下に"和宮様が江戸へお
下りの時の高宮川の御馳走橋を書きおく者です"との意
味のことばが記入されている。
 この「御馳走」とありますのは、それこそ立派な料理
だけを指す言葉ではない。
 ここでは、高貴の方を歓迎申し上げるときにこの表現
をしたものと解する。
 この御馳走橋も残念なことに僅か十年ほどしか続かな
かった。
 ところで、この木造の橋は、何度となく大水で流され
和宮が江戸へ向かう時などには、さきに話しのように新
しく架け替えたりしながら高宮の人たちは力を合わせて
橋を守ったので無料で渡ることができた。

【エピソード】



 

【脚注及びリンク】
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  1. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  2. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  3. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル
  14. 「城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中島一
    サンライズ印刷出版図  2002.9.20

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