40才の長男は昨年の夏まで、自分のことを
いっぱしの経験を積んだ立派な大人だと思っていた。
つまりは、自信満々の横柄なおっさんだ。
しかし8月に夫が63才を迎えた途端に老人扱いとなり
本社は夫から様々な権限をもぎ取って、それを藤村に移行させた。
その藤村が与えらた権限を悪用して、自分の王国を作ろうとしたことは
これまでにお話ししてきたが
長男はその経緯の中で、少しずつ変わり始めた。
藤村と日々対峙するうちに、彼がこれまでに出会った人々とは
ケタ違いのゲスが存在することを知り
この世には正義や努力では…
ましてや、たかが知れた自分の経験だけでは
太刀打ちできないことがあると思い知ったからだ。
やがて長男は自ら私の教えを乞うようになり
今では藤村講習の一番熱心な受講生である。
今回、親しい佐藤君の…大袈裟に言えば裏切りを体験した長男は
私の話を真剣に聞いている。
チャンスだ。
この際、言いたいことを言ってやるもんね。
「あんたは佐藤君に親切をしよったつもりじゃろうけど
わたしゃ、そのうち止めよう思よったんよ」
「何で?何が悪いわけ?」
長男は不服そうだ。
「自分じゃ親切をしたつもり、優しくしたつもりじゃけん
佐藤君のしたことが裏切りに思えて腹が立とうけど
向こうは違う。
マコト君は優しいなあ…なんて、1ミリも思うとりゃせん。
あんたの昼ごはんに、付き合わされとるつもりなんよ。
最初はそうじゃなかったかもしれんけど
だんだんそうなってくるもんなんよ」
「え〜…」
「人の気持ちって、そういうもんじゃん。
忘れたんか」
私は3年前に起きた西日本豪雨の際
我々が経験した前例を持ち出した。
長男の親友、理容師のトンジは水害のひどかった町に住んでいて
店も隣接する自宅も氾濫した川の水に浸かった。
家族は事前に、市外にある奥さんの実家へ避難していたが
トンジだけは店と家が心配なので残っていたのだ。
車も水没してしまったので、トンジは身動きできない。
彼の安否を確認した長男は決死の覚悟で彼を迎えに行き
うちで風呂に入らせ、食事をさせた。
落ち着くまで泊まれと言ったが、店や近所の人が心配なトンジは
水没してない二階で寝起きする意思が硬い。
朝と昼はパンが支給されるということなので
それから約2週間、長男は毎晩トンジを送迎しては
うちで入浴と食事をさせ
そのうちトンジのお兄さんも一緒に訪れるようになった。
やがて自衛隊が、トンジの町に風呂を設置してくれた。
その頃には食品の流通が再開し、ガスや電気も通って
トンジの家族も避難先から帰って来たので長男の送迎は終わった。
私も微力ながら、トンジの役に立つことができて満足だった。
その2日後のことである。
家族でニュース番組を見ていたら、トンジが出た。
「町にお風呂ができて、どんな気持ちですか?」
トンジは自衛隊の設置した風呂へ入りに来たらしく
テントの前でインタビューされている。
トンジは美男だし、小さい子供連れだったので
絵ヅラが良かったのだろう。
「はい、とっても嬉しいです」
答えるトンジ。
思わぬ登場に、我々一家は沸きに沸いた。
「お風呂が無い間は、大変でしたか?」
女性インタビュアーは、なおもたずねる。
「すごく大変でした」
「その間、お風呂はどうされていたんですか?」
「時々、友達の家で入らせてもらいましたけど
気兼ねでシャワーしか使えなくて、つらかったです」
「それは大変でしたね。
町にお風呂ができたら、もう気兼ねしなくていいですね」
「はい、思う存分、入れます」
ニッコリと笑うトンジ。
我々の興奮は、一気に冷めた。
(ここ、笑うところよ)
時々じゃなくて毎日じゃないか…
何が気兼ねだよ…
食事と送迎付きで、酒まで飲んでいたじゃないか…。
しかし、人の気持ちとはそういうものなのだ。
我々が偶然、テレビを見てしまうことなんぞ
トンジは想像していない。
アップで撮影される緊張も手伝って
あらぬことを口走ってしまうこともあるだろう。
嬉しいことがあればなおさらで
今までの生活との落差は大きいほどいいってもんよ。
確かに感じは悪いが、家と店が被災したトンジの気持ちは
我々に計り知れない。
まだショック状態だろうし
我々も感謝してもらいたかったわけではないので
この件については以後、触れないようにしてきた。
とまあ、トンジと佐藤君の心変わりは性質が異なるものの
人の気持ちは時と場合によって簡単に変化することに加え
こちらが良かれと思ってしたことが
相手に必ずしも響くものではないことを復習。
そして私の教育は、いよいよ本題に入った。
「明日から、昼は前みたいに家へ帰っておいで。
特定の社員と2人で毎日外食なんて、ゴタゴタする元じゃけん」
「なんで?」
「わからんのじゃろ?
そこがあんたの甘いところよ」
「ますますわからん」
長男は不服そうだ。
「あんたと佐藤君は確かに同僚じゃけど、佐藤君はあんたより15も年上。
あんたは佐藤君より先輩で、父さんの息子であるからには経営者の身内。
こういう微妙な関係は、接近せん方がええ」
「シュウちゃんなんて、30以上も年上じゃん」
「シュウちゃんは別じゃ。
若い頃は祖父ちゃんの会社に勤めようたけん
うちの家のことを何もかも知っとるし、73才で変な野心は芽生えん。
でも55才の佐藤君は違う。
最後にひと花咲かせとうなる年頃よ。
一緒にラーメンか何かすすりゃあ、色んな話のついでに
つい藤村や会社の愚痴も出よう。
そしたら向こうはだんだん、あんたを下に見るようになるわいね。
そこへ藤村においしい話を吹き込まれたら、気持ちは動くわ。
あんたを裏切っても、たいした仕返しは来そうにないけん
藤村に付いた方が得じゃと思うたんよ。
佐藤君ばっかり責められんよ」
長男が佐藤君の裏切りに遭った、たまたま同じ日。
義父の七回忌が近いということで
シュウちゃんは御供えを用意して出勤し、夫にことづけた。
中身は義父の好きだったアラレ。
こういう人こそ、大切にしなければならない…
などということを話して聞かせる私だった。
《続く》
いっぱしの経験を積んだ立派な大人だと思っていた。
つまりは、自信満々の横柄なおっさんだ。
しかし8月に夫が63才を迎えた途端に老人扱いとなり
本社は夫から様々な権限をもぎ取って、それを藤村に移行させた。
その藤村が与えらた権限を悪用して、自分の王国を作ろうとしたことは
これまでにお話ししてきたが
長男はその経緯の中で、少しずつ変わり始めた。
藤村と日々対峙するうちに、彼がこれまでに出会った人々とは
ケタ違いのゲスが存在することを知り
この世には正義や努力では…
ましてや、たかが知れた自分の経験だけでは
太刀打ちできないことがあると思い知ったからだ。
やがて長男は自ら私の教えを乞うようになり
今では藤村講習の一番熱心な受講生である。
今回、親しい佐藤君の…大袈裟に言えば裏切りを体験した長男は
私の話を真剣に聞いている。
チャンスだ。
この際、言いたいことを言ってやるもんね。
「あんたは佐藤君に親切をしよったつもりじゃろうけど
わたしゃ、そのうち止めよう思よったんよ」
「何で?何が悪いわけ?」
長男は不服そうだ。
「自分じゃ親切をしたつもり、優しくしたつもりじゃけん
佐藤君のしたことが裏切りに思えて腹が立とうけど
向こうは違う。
マコト君は優しいなあ…なんて、1ミリも思うとりゃせん。
あんたの昼ごはんに、付き合わされとるつもりなんよ。
最初はそうじゃなかったかもしれんけど
だんだんそうなってくるもんなんよ」
「え〜…」
「人の気持ちって、そういうもんじゃん。
忘れたんか」
私は3年前に起きた西日本豪雨の際
我々が経験した前例を持ち出した。
長男の親友、理容師のトンジは水害のひどかった町に住んでいて
店も隣接する自宅も氾濫した川の水に浸かった。
家族は事前に、市外にある奥さんの実家へ避難していたが
トンジだけは店と家が心配なので残っていたのだ。
車も水没してしまったので、トンジは身動きできない。
彼の安否を確認した長男は決死の覚悟で彼を迎えに行き
うちで風呂に入らせ、食事をさせた。
落ち着くまで泊まれと言ったが、店や近所の人が心配なトンジは
水没してない二階で寝起きする意思が硬い。
朝と昼はパンが支給されるということなので
それから約2週間、長男は毎晩トンジを送迎しては
うちで入浴と食事をさせ
そのうちトンジのお兄さんも一緒に訪れるようになった。
やがて自衛隊が、トンジの町に風呂を設置してくれた。
その頃には食品の流通が再開し、ガスや電気も通って
トンジの家族も避難先から帰って来たので長男の送迎は終わった。
私も微力ながら、トンジの役に立つことができて満足だった。
その2日後のことである。
家族でニュース番組を見ていたら、トンジが出た。
「町にお風呂ができて、どんな気持ちですか?」
トンジは自衛隊の設置した風呂へ入りに来たらしく
テントの前でインタビューされている。
トンジは美男だし、小さい子供連れだったので
絵ヅラが良かったのだろう。
「はい、とっても嬉しいです」
答えるトンジ。
思わぬ登場に、我々一家は沸きに沸いた。
「お風呂が無い間は、大変でしたか?」
女性インタビュアーは、なおもたずねる。
「すごく大変でした」
「その間、お風呂はどうされていたんですか?」
「時々、友達の家で入らせてもらいましたけど
気兼ねでシャワーしか使えなくて、つらかったです」
「それは大変でしたね。
町にお風呂ができたら、もう気兼ねしなくていいですね」
「はい、思う存分、入れます」
ニッコリと笑うトンジ。
我々の興奮は、一気に冷めた。
(ここ、笑うところよ)
時々じゃなくて毎日じゃないか…
何が気兼ねだよ…
食事と送迎付きで、酒まで飲んでいたじゃないか…。
しかし、人の気持ちとはそういうものなのだ。
我々が偶然、テレビを見てしまうことなんぞ
トンジは想像していない。
アップで撮影される緊張も手伝って
あらぬことを口走ってしまうこともあるだろう。
嬉しいことがあればなおさらで
今までの生活との落差は大きいほどいいってもんよ。
確かに感じは悪いが、家と店が被災したトンジの気持ちは
我々に計り知れない。
まだショック状態だろうし
我々も感謝してもらいたかったわけではないので
この件については以後、触れないようにしてきた。
とまあ、トンジと佐藤君の心変わりは性質が異なるものの
人の気持ちは時と場合によって簡単に変化することに加え
こちらが良かれと思ってしたことが
相手に必ずしも響くものではないことを復習。
そして私の教育は、いよいよ本題に入った。
「明日から、昼は前みたいに家へ帰っておいで。
特定の社員と2人で毎日外食なんて、ゴタゴタする元じゃけん」
「なんで?」
「わからんのじゃろ?
そこがあんたの甘いところよ」
「ますますわからん」
長男は不服そうだ。
「あんたと佐藤君は確かに同僚じゃけど、佐藤君はあんたより15も年上。
あんたは佐藤君より先輩で、父さんの息子であるからには経営者の身内。
こういう微妙な関係は、接近せん方がええ」
「シュウちゃんなんて、30以上も年上じゃん」
「シュウちゃんは別じゃ。
若い頃は祖父ちゃんの会社に勤めようたけん
うちの家のことを何もかも知っとるし、73才で変な野心は芽生えん。
でも55才の佐藤君は違う。
最後にひと花咲かせとうなる年頃よ。
一緒にラーメンか何かすすりゃあ、色んな話のついでに
つい藤村や会社の愚痴も出よう。
そしたら向こうはだんだん、あんたを下に見るようになるわいね。
そこへ藤村においしい話を吹き込まれたら、気持ちは動くわ。
あんたを裏切っても、たいした仕返しは来そうにないけん
藤村に付いた方が得じゃと思うたんよ。
佐藤君ばっかり責められんよ」
長男が佐藤君の裏切りに遭った、たまたま同じ日。
義父の七回忌が近いということで
シュウちゃんは御供えを用意して出勤し、夫にことづけた。
中身は義父の好きだったアラレ。
こういう人こそ、大切にしなければならない…
などということを話して聞かせる私だった。
《続く》