PTSDの体験は悲惨なものが多い、というよりはほとんどがそれといっていいだろう。
自分で言うのもなんですが、私の場合もそうです。
だれも救われない話です。では・・・
私の暴露療法の一環として・・・
これは私が二十代の半ばだった頃ですから十数年前です。
私は田舎で仕事に従事する傍ら空手道に汗していました。
その年は稽古も出来ていて調子がよく、県大会を前にして張り切っていました。
その頃、昔から空手をやっていて諸事情で空手を辞めていた連中が、
社会人になってまた復帰してきました。
私たちにとってはウエルカムです。
高校生までやっていて、社会人になって辞めるパターンが多く、
社会人の空手人口は少ないからです。
彼らは久しぶりの空手に張り切っていて
私たちにいろいろ質問をしてきたりしてきていました。
大人数での県大会が楽しみになってきました。
大会当日・・・
当日の記憶はあいまいですが、エントリーは沢山だったはずです。
私の一回戦の相手は、社会人になって復帰してきて熱心だった彼でした。
私は調子の良さから負ける気はしませんでした。
しばらく経って、私の蹴りが彼の腹部に当たったはずでした。
審判はノージェスチャー、続けて私の上段蹴り、これは外れました、相手が場外。
両者開始線に戻って、審判の「始め」を待つはずでした。
その時、彼は直立の姿勢のまま後方へ倒れてしまいました。
しばらくすると、痙攣が起きました。
医師と看護師らによる人工呼吸が始まり、会場は騒然としました。
私は茫然自失となりました。
なにが始まったのか理解できませんでした。
彼は約30分後に来た救急車に乗るまで意識が戻りませんでした。
会場は騒然としたまま大会が続行され、私自身は相手棄権の為、
不戦勝で勝ったものの、次の試合は魂が抜けたような
状態になっていて試合になりませんでした。
大会が終わって、大会役員は病院へ向かい、私は会場へ残るよう言われました。
しばらくして、電話が鳴って病院へ来るように言われ、同時に彼の死も告げられました。
病院では駆けつけた警官がいて、簡単な事情聴取を受けました。
警察は非常に同情的で、医師もそうでした。
あとで聞いた話では、亡くなった彼はてんかんの発作持ちで
何度も死にそうになっていて、
今回の大会出場もドクターストップが掛かっていたそうです。
最後のお別れに、彼の亡骸に接しました。
ちょうど、心臓のところには私の親指の爪の跡と思われる傷跡がついていました。
それが後々になって、私の心の中に「私が発作の引き金を引いた」と思っています。
数日後、彼の葬儀に行き彼の友達が大勢詰め掛けていました。
私は「ただでは済まない」と思いました。
会場では彼の死因についての話しが飛び交っていました。
会場奥では彼の彼女と思われる女性が大泣きしていました。
正に針のむしろです。
私は逃げるように会場を後にしました。
その後も狭い田舎の空手界では何度も嫌な思いをしました。
関係者に言わせれば「死ぬよりましだろ」と言われるかもしれませんが・・・
その五、六年後二度目のPTSDに遭うことになります。
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自分で言うのもなんですが、私の場合もそうです。
だれも救われない話です。では・・・
私の暴露療法の一環として・・・
これは私が二十代の半ばだった頃ですから十数年前です。
私は田舎で仕事に従事する傍ら空手道に汗していました。
その年は稽古も出来ていて調子がよく、県大会を前にして張り切っていました。
その頃、昔から空手をやっていて諸事情で空手を辞めていた連中が、
社会人になってまた復帰してきました。
私たちにとってはウエルカムです。
高校生までやっていて、社会人になって辞めるパターンが多く、
社会人の空手人口は少ないからです。
彼らは久しぶりの空手に張り切っていて
私たちにいろいろ質問をしてきたりしてきていました。
大人数での県大会が楽しみになってきました。
大会当日・・・
当日の記憶はあいまいですが、エントリーは沢山だったはずです。
私の一回戦の相手は、社会人になって復帰してきて熱心だった彼でした。
私は調子の良さから負ける気はしませんでした。
しばらく経って、私の蹴りが彼の腹部に当たったはずでした。
審判はノージェスチャー、続けて私の上段蹴り、これは外れました、相手が場外。
両者開始線に戻って、審判の「始め」を待つはずでした。
その時、彼は直立の姿勢のまま後方へ倒れてしまいました。
しばらくすると、痙攣が起きました。
医師と看護師らによる人工呼吸が始まり、会場は騒然としました。
私は茫然自失となりました。
なにが始まったのか理解できませんでした。
彼は約30分後に来た救急車に乗るまで意識が戻りませんでした。
会場は騒然としたまま大会が続行され、私自身は相手棄権の為、
不戦勝で勝ったものの、次の試合は魂が抜けたような
状態になっていて試合になりませんでした。
大会が終わって、大会役員は病院へ向かい、私は会場へ残るよう言われました。
しばらくして、電話が鳴って病院へ来るように言われ、同時に彼の死も告げられました。
病院では駆けつけた警官がいて、簡単な事情聴取を受けました。
警察は非常に同情的で、医師もそうでした。
あとで聞いた話では、亡くなった彼はてんかんの発作持ちで
何度も死にそうになっていて、
今回の大会出場もドクターストップが掛かっていたそうです。
最後のお別れに、彼の亡骸に接しました。
ちょうど、心臓のところには私の親指の爪の跡と思われる傷跡がついていました。
それが後々になって、私の心の中に「私が発作の引き金を引いた」と思っています。
数日後、彼の葬儀に行き彼の友達が大勢詰め掛けていました。
私は「ただでは済まない」と思いました。
会場では彼の死因についての話しが飛び交っていました。
会場奥では彼の彼女と思われる女性が大泣きしていました。
正に針のむしろです。
私は逃げるように会場を後にしました。
その後も狭い田舎の空手界では何度も嫌な思いをしました。
関係者に言わせれば「死ぬよりましだろ」と言われるかもしれませんが・・・
その五、六年後二度目のPTSDに遭うことになります。
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