大川原有重 春夏秋冬

人は泣きながら生まれ幸せになる為に人間関係の修行をする。様々な思い出、経験、感動をスーツケースに入れ旅立つんだね

小樽の街

2010-08-13 17:43:00 | 旅行
先日、小樽の街をふらっと訪れました。タクシーでにしん御殿を案内していただき、その後石川啄木の歌碑「こころよく 我のはたらく仕事あれ それを仕遂げて 死なむと思ふ」ともう一ヶ所の啄木碑、小林多喜二の文学碑を訪ねました。高校生の時に『蟹工船』と『党生活者』という小説を読み、小林多喜二に興味をもっていたので、小樽に行ったら是非ゆかりの地を訪ねてみたいと思っていました。小樽の街は、明治以降の古い建物がたくさん残っていてノスタルジックな気分を味わっていたのですが、小林多喜二の文学碑の由来を読み、突然全身が凍り付くような感覚になり身震いし、思わず身の毛がよだつ思いがしました。なぜなら僕のギャラリーから1キロも離れていない築地警察署で、彼はわずか29歳の若さで特高に撲殺されてしまったという事実を知ったからです。旅行気分も吹っ飛び、現実の世界に引き戻されてしまいました。偶然、戦前・戦中期日本の言論弾圧_(年表)という記事をパソコンで見る機会があったのですが、今の日本の社会が『新たなる戦前』に似通っているように思えてなりません。毎日、築地近辺を歩いていて『戦前』は遠い過去の話ではなくて、ついこの間のことなのだと、改めて身に染みる思いがしました。

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以下、ウィキペディアからの引用。
小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年10月13日 - 1933年2月20日)は、日本のプロレタリア文学の代表的な作家・小説家である。満29歳没。4歳の時に北海道・小樽に移住。警視庁特高係長中川成夫の指揮の下に、小林を寒中丸裸にして、先ず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかったとある。その後警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分に死亡が確認・記録された。
死の間際にも「母親にだけは知らせてくれ」と言ったという。 母は変わり果てた多喜二の遺骸に取りすがり「ああ痛ましや!心臓まひなんて嘘だでや。・・・警察の奴がしめ殺したんだ!絞殺されるのがどんなにくるしかったか。・・ほれ!あんちゃん!みんなのために立たねか!」と呼びかけた。


以下、このページよりメモ。
<築地警察署と小林多喜二>
プロレタリア文学の代表的作家に『蟹工船』(昭和4・1929)を書いた小林多喜二(明治36・1903~昭和8・1933)がいますが、ここ築地警察署は彼に関係した悲しい歴史を秘めているのです。大正末から昭和初期にかけて興ったプロレタリア文学は労働者に対して団結をうながし、社会変革につなげていこうという思想をもちます。当然、危険思想として弾圧の対象になりました。当時は治安維持法という、政府にとって便利な法律があったのでした。そして大正15年(1926)、治安維持を目的に特別高等警察が結成されました。略して「特高」と言います。
小林多喜二は、この特高によって治安維持法違反容疑で逮捕され、築地警察署に連行されます。昭和8年(1933)2月20日昼過ぎのことでした。そこで多喜二は、凄まじい拷問を受けます。その後、危篤状態に陥ったため、築地署裏にある前田病院に担ぎこまれましたが、間もなく絶命しました。家族に引き取られた遺体には、首筋やこめかみに5,6ヶ所の裂傷と、首には縄で絞めたような痕。下半身はひどい内出血で、大腿部には10数か所、釘で刺されたように裂け傷があったといいます。まだ29歳と4ヶ月という若さでした。

石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年(明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)は明治時代の歌人・詩人・評論家。
地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」




石川啄木碑                    小樽の街                     小林多喜二碑