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捕虜収容所跡に響く三線の音色 屋嘉で追悼演奏 

2018-06-24 04:58:09 | ニュース

沖縄戦で多くの日本兵が収容された金武町の屋嘉捕虜収容所跡地に建つ石碑前で23日正午ごろ、琉球古典音楽野村流音楽協会石川支部の吉野久一師範(70)と門下生ら9人が追悼演奏した。

追悼演奏は2年前から慰霊の日に合わせて行われている。今年で3回目。

披露された民謡は「無情節」の曲調で歌われた「屋嘉節」など。「屋嘉節」は収容所にいる捕虜によって作詞されたといわれている。当時の生活の様子や捕虜として捕らわれた人の心情などが歌われている。

収容所には当時、日本兵約7千人が収容され、236人が収容所で命を落とした。そのうち56人の名字が沖縄にある名字だったという。また約3千人がハワイ州オアフ島へ移送され、12人が命を落とした。

正午を知らせる時報が鳴ると、追悼演奏のために石碑前に集まった参加者らは1分間の黙とうをささげ、追悼演奏をした。

屋嘉収容所では物資が不足する中、お菓子の缶を使ってカンカラ三線が作られたと言われている。吉野師範はカンカラ三線を手にして、屋嘉節を演奏した。吉野師範は「屋嘉節と言えばカンカラ三線。(屋嘉節が作られた)当時と同じように演奏したかった」と話した。演奏会について「ここで亡くなった人に演奏を捧げ、未来に向かって私たちが歩んでいけるように演奏会を続けている」と話した。

 

正午を知らせる時報に合わせて祈りを捧げる参加者=23日正午、金武町屋嘉
 
 
屋嘉節
 
 

悲しい(の)は沖縄 戦場になり 世間御万人の袖を(涙で)濡らし

涙(を)飲んで 私は恩納山(に)登り 多くの人と共に戦(を)凌ぎ

哀れ 屋嘉村の闇の夜のカラス(よ) 親(が)いない私が泣かないでいられるか

貴女は石川村茅葺きの長屋 私は屋嘉村の砂地(が)枕

心励ますことができるのは四本入り煙草 淋しさは月に流していくよ

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補足
 
県人捕虜のハワイ移送、捕虜増え収容所の環境悪化懸念が理由 米軍文書で判明

ハワイ捕虜の移送について記されていた米軍文書

沖縄戦で3600人余の県人捕虜がハワイに送られた理由として、捕虜の増加による沖縄内の収容所の環境悪化を米軍が懸念していたことが背景にあったことが、1945年5月27日付の米軍文書で分かった。

県人捕虜のハワイ移送の理由を示す初資料だ。米軍は沖縄戦の激化に伴い収容所の環境悪化を避けるため県人捕虜をハワイに移送した可能性が高い。同年5月13日付文書は「捕虜を(ハワイの)オアフ島に移送する」と記している。

沖縄戦研究の中でハワイ捕虜の実態は未解明な点が多い。特に移送の理由は体験者にとっても最大の謎だった。

米公文書や資料は元琉球大教授の保坂廣志氏が米国立公文書館や県公文書館で収集した。公衆衛生に関する別の米文書(作成日時不明)で、県系人捕虜の第1陣約2千人が6月13日、オアフ島へ到着したことも分かった。

捕虜の抑留期間は最長で約1年6カ月に及んだ。沖縄からハワイ司令部に宛てた46年1月17日付の文書には、沖縄の困窮と住居や食糧不足の問題を挙げ「帰還の受け入れは不可能だ」と記していた。

1945年5月27日付文書は第10軍情報部戦闘情報収集課(CICA)、ジョージ・J・クラーク中佐が作成した部隊間文書。日本軍が沖縄で召集した防衛隊の取り扱いについて記録している。

文書では防衛隊員を捕虜としてハワイに移送するため、軍人と民間人のいずれに該当するのか軍内部の速やかな決定を求めていた。「捕虜収容所は手狭になることが予想され、状態はさらに悪化することは間違いないだろう。(防衛隊問題の決定を)速やかに行うべきだ」と記している。「CICAは防衛隊員200人に完璧な尋問をしている。転送する準備や他への配置も準備が整っている」と続けた。

1945年5月13日付文書は戦史班として沖縄戦に従軍したジョン・スチーブンス少佐の「沖縄日記」。機密扱いの私文書として保管されていた。

ハワイに移送された県人捕虜に関する研究事例は少ない。具体的な日時などの多くは、これまで体験者の証言に頼っていた。保坂氏は「県人のハワイ移送は、米軍収容所の管理運営上の都合から発生したと考えるのが妥当だ。『情報提供者としての価値がない』との見方もあっただろう」と分析した。 (島袋貞治、当銘千絵)

 

ハワイ州 オアフ島 地図 

 
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