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沖縄のことあれこれ。

Hiraraさん、台湾版グラミー賞 先住民と共作、宮古島出身

2018-06-25 03:52:16 | ニュース

琉装で金曲奨の授賞式に参加したHiraraさん=23日夜、台北市の台北アリーナ

宮古島出身の歌手・Hiraraさんと、台湾の先住民族アミ族の音楽グループ「CMO樂團(がくだん)」が共同製作したアルバム「直美」が23日、台湾版グラミー賞と呼ばれている「第29回金曲奨(ゴールデン・メロディー・アワード)」の最優秀原住民語アルバム賞に選ばれた。

同日夜、台北市にある台北アリーナで行われた授賞式に参加した。

Hiraraさんは昨年、宮古島市城辺福里地区に伝わる古謡「アンナ(母)」をCMO樂團とコラボして、宮古島とアミ族の言葉を織り交ぜて歌い「直美」に収録した。

Hiraraさんは受賞について「台湾のアミ族の文化と歴史は沖縄と共通している部分がある。古くから伝わる宮古の古謡を海外で紹介し、名誉ある賞をいただいて大変うれしく思う」と話した。

 

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捕虜収容所跡に響く三線の音色 屋嘉で追悼演奏 

2018-06-24 04:58:09 | ニュース

沖縄戦で多くの日本兵が収容された金武町の屋嘉捕虜収容所跡地に建つ石碑前で23日正午ごろ、琉球古典音楽野村流音楽協会石川支部の吉野久一師範(70)と門下生ら9人が追悼演奏した。

追悼演奏は2年前から慰霊の日に合わせて行われている。今年で3回目。

披露された民謡は「無情節」の曲調で歌われた「屋嘉節」など。「屋嘉節」は収容所にいる捕虜によって作詞されたといわれている。当時の生活の様子や捕虜として捕らわれた人の心情などが歌われている。

収容所には当時、日本兵約7千人が収容され、236人が収容所で命を落とした。そのうち56人の名字が沖縄にある名字だったという。また約3千人がハワイ州オアフ島へ移送され、12人が命を落とした。

正午を知らせる時報が鳴ると、追悼演奏のために石碑前に集まった参加者らは1分間の黙とうをささげ、追悼演奏をした。

屋嘉収容所では物資が不足する中、お菓子の缶を使ってカンカラ三線が作られたと言われている。吉野師範はカンカラ三線を手にして、屋嘉節を演奏した。吉野師範は「屋嘉節と言えばカンカラ三線。(屋嘉節が作られた)当時と同じように演奏したかった」と話した。演奏会について「ここで亡くなった人に演奏を捧げ、未来に向かって私たちが歩んでいけるように演奏会を続けている」と話した。

 

正午を知らせる時報に合わせて祈りを捧げる参加者=23日正午、金武町屋嘉
 
 
屋嘉節
 
 

悲しい(の)は沖縄 戦場になり 世間御万人の袖を(涙で)濡らし

涙(を)飲んで 私は恩納山(に)登り 多くの人と共に戦(を)凌ぎ

哀れ 屋嘉村の闇の夜のカラス(よ) 親(が)いない私が泣かないでいられるか

貴女は石川村茅葺きの長屋 私は屋嘉村の砂地(が)枕

心励ますことができるのは四本入り煙草 淋しさは月に流していくよ

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補足
 
県人捕虜のハワイ移送、捕虜増え収容所の環境悪化懸念が理由 米軍文書で判明

ハワイ捕虜の移送について記されていた米軍文書

沖縄戦で3600人余の県人捕虜がハワイに送られた理由として、捕虜の増加による沖縄内の収容所の環境悪化を米軍が懸念していたことが背景にあったことが、1945年5月27日付の米軍文書で分かった。

県人捕虜のハワイ移送の理由を示す初資料だ。米軍は沖縄戦の激化に伴い収容所の環境悪化を避けるため県人捕虜をハワイに移送した可能性が高い。同年5月13日付文書は「捕虜を(ハワイの)オアフ島に移送する」と記している。

沖縄戦研究の中でハワイ捕虜の実態は未解明な点が多い。特に移送の理由は体験者にとっても最大の謎だった。

米公文書や資料は元琉球大教授の保坂廣志氏が米国立公文書館や県公文書館で収集した。公衆衛生に関する別の米文書(作成日時不明)で、県系人捕虜の第1陣約2千人が6月13日、オアフ島へ到着したことも分かった。

捕虜の抑留期間は最長で約1年6カ月に及んだ。沖縄からハワイ司令部に宛てた46年1月17日付の文書には、沖縄の困窮と住居や食糧不足の問題を挙げ「帰還の受け入れは不可能だ」と記していた。

1945年5月27日付文書は第10軍情報部戦闘情報収集課(CICA)、ジョージ・J・クラーク中佐が作成した部隊間文書。日本軍が沖縄で召集した防衛隊の取り扱いについて記録している。

文書では防衛隊員を捕虜としてハワイに移送するため、軍人と民間人のいずれに該当するのか軍内部の速やかな決定を求めていた。「捕虜収容所は手狭になることが予想され、状態はさらに悪化することは間違いないだろう。(防衛隊問題の決定を)速やかに行うべきだ」と記している。「CICAは防衛隊員200人に完璧な尋問をしている。転送する準備や他への配置も準備が整っている」と続けた。

1945年5月13日付文書は戦史班として沖縄戦に従軍したジョン・スチーブンス少佐の「沖縄日記」。機密扱いの私文書として保管されていた。

ハワイに移送された県人捕虜に関する研究事例は少ない。具体的な日時などの多くは、これまで体験者の証言に頼っていた。保坂氏は「県人のハワイ移送は、米軍収容所の管理運営上の都合から発生したと考えるのが妥当だ。『情報提供者としての価値がない』との見方もあっただろう」と分析した。 (島袋貞治、当銘千絵)

 

ハワイ州 オアフ島 地図 

 
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沖縄から鉄道が消えた理由 慰霊の日に考える

2018-06-23 14:12:09 | ニュース

沖縄戦で奪われたものは、住民の命だけではなかった。

戦前から沖縄の人々の暮らしを支えてきた重要な公共交通だった県営の県軽便鉄道(ケービン)も空襲などで破壊された。それらは戦後の米施政権下でも復興されず、日本復帰後も鉄軌道が敷設されることなく沖縄の車社会が形成され、深刻な交通渋滞を引き起こしている。

現在はかつての鉄道に代わって、県都那覇市に沖縄都市モノレールが敷かれて新たな県民の足として利用されている。戦後72年がたつ現在は那覇市に隣接する浦添市へのモノレール延伸が着々と進められている。さらには那覇と名護の沖縄本島を南北で結ぶ鉄軌道の検討も進む。


公園整備で発掘された県軽便鉄道のレール。後方の機関車は南大東島のサトウキビ運搬用の車両=6月21日、那覇市壺川東公園

戦争で消えたレール 米軍は再建せず


 

沖縄県内の鉄道は明治時代から民間資本での建設が計画されてきたが、資金不足などで計画倒れになってきた。

民間敷設が困難な中で県による敷設が模索され、1914年(大正3年)に機関車が走る県軽便鉄道(後に県鉄道)の那覇―与那原線が開通。民間会社の沖縄電気軌道による電車も同じ年に走り始めた。

軽便鉄道の敷設は、国が地方の鉄道網整備を目的に法規制を緩和した軽便鉄道法を制定したことで実現に拍車がかかった。

那覇―与那原線に次いで那覇―糸満、那覇―嘉手納も開通し、営業距離は47・8キロ。本来は「ケイベン」と読むが、県民には「ケービン」「ケービングヮー」の呼称で親しまれた。


姫百合橋を行く県軽便鉄道と女学生ら(ひめゆり平和祈念資料館提供)

那覇―与那原間の運賃は2等で18銭。定期もあり、通勤、通学の足としても利用された。高めの価格設定ということで無賃乗車もあったという。高学年の生徒が乗ると優先して席に座ることになっていたと、学生だった住民は語っている。

当時の与那原町は、沖縄本島のやんばるからの船が入港する一大物流拠点。通常は機関車に、3両ほどの客車のほか、後ろに貨車も接続され、物流網としても機能していた。

それが沖縄戦に入ると軍事物資の輸送路として活用されることになる。通常列車の合間に兵員や軍事補給物資を輸送する臨時列車が走った。軍事物資を載せた車両が爆発し、犠牲者を出す事故も起こった。


占領後の沖縄で県軽便鉄道に乗って興じる米海兵隊員=1945年5月(県公文書館所蔵)

1944年10月10日の大空襲「10・10空襲」で那覇駅が焼失。唯一のコンクリート製の駅舎だった与那原駅も損壊した。嘉手納線は米軍の沖縄本島上陸を目前に控えた1945年3月23日ごろ、与那原、糸満線が28日ごろを最後に運行を停止した。

15歳で沖縄戦を体験した具志堅貞子さん(86)=与那原町=は「毎週ケービン(軽便鉄道)に乗るのが一番の楽しみだった。那覇まで行って買い物をした。終戦後、ぼろぼろに崩れた与那原駅を見たときは何も言葉が出なかった」と小さな声で語った。

戦後、沖縄を占領した米軍政府は、新たな輸送手段として鉄道復興を計画していた。

志喜屋孝信・沖縄民政府知事からの要請に対し、ウィリアム・H・クレイグ軍政府副長官が「沖縄本島の運輸機関の欠乏は深刻で、軍政府も鉄道再建に必要な資材を獲得する特別な努力を続けている」と建設へ前向きな姿勢を示していた。しかし米側が鉄道を再建することはなかった。


沖縄県民待望のモノレール ウチナータイムに影響も?


この沖縄に鉄軌道が“復活”するのは2003年の沖縄都市モノレール開通まで待たなければならない。
 
那覇空港駅から首里城のある首里駅までを結ぶ沖縄都市モノレール(通称・ゆいレール)。かつての県軽便鉄道のように、沖縄県民の通勤・通学の足として活用されているほか、増加する観光客の利用もめざましい。
 


2003年に開通し、県民の足として定着したゆいレール

2016年度の乗客数は、前年度比116万7086人増(7・22%増)の1732万3988人を記録、2003年の開業以来の過去最高を更新した。年間乗客数は7年連続で増えている。それに伴い2016年度決算では、売上高に当たる営業収益が過去最高となり、純損益は2億2053万円の黒字で開業以来で初めての単年度黒字となった。

ゆいレールの定時運行が、時間のルーズさを表す「ウチナータイム」への影響を指摘する声も出るなど、県民生活に大きく影響を与えている。

2014年10月には沖縄初のIC乗車券「OKICA(オキカ)」を導入した。SUICAなど全国的な交通系ICカードとは連携していない「独立系ICカード」だが、乗客の約4割が使用している。今後SUICAなどがゆいレールでも使える仕組みも検討されている。

それでも深刻な交通渋滞 新たな鉄軌道はできるか

戦後72年がたった現在、沖縄県内では南北を骨格軸とし、那覇―名護間を1時間で結ぶ鉄軌道の導入が検討されている。県が7つのルート案を提示していて、利用者数や事業費などから最終的に1ルートに絞って計画案としてまとめ、国に整備を求める予定だ。

鉄軌道導入により、県は①県土の均衡ある発展②県民や観光客の移動利便性向上③中南部都市圏の交通渋滞緩和④駐留軍用地跡地の活性化―などが図れると期待している。とりわけ交通渋滞は深刻で、平日の渋滞時の交通速度(混雑時旅行速度)の2012年度調査時に那覇市は時速16・9㌔で、全国県庁所在地の中で最も遅かった。

県は計画案をまとめるまでの工程を5段階に分類していて、現在、4段階目まで進めている。導入に当たり、初期費用が多額に上ることから、県は全国の新幹線で採用された公設民営による「上下分離方式」での事業着手を内閣府や国土交通省などに要望している。

県は当初、2016年度中に計画案をまとめて国に提出する予定だったが、事業費などの比較に時間がかかり、ルートの絞り込みも含めていまだ決定しきれていない。

(滝本匠、当銘寿夫、嘉数陽)

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全国一早く沖縄地方が梅雨明け 暑い夏に突入

2018-06-23 13:58:21 | ニュース

慰霊の日と重なった梅雨明け。摩文仁の丘から青い海と空が広がった=23日午前、糸満市摩文仁

暑い、熱い夏が来る―。沖縄気象台は23日午前11時、沖縄地方が梅雨明けしたとみられる、と発表した。

平年の梅雨明けと同日で、昨年より1日遅い。

今年の沖縄地方の梅雨入りは5月8日で、台風6号が接近した6月中旬まで空梅雨が続き、水不足が心配された。

梅雨の期間は46日間だった。



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沖縄の夏といえば…エイサー! 沖縄市エイサーナイト開幕

2018-06-21 05:26:52 | ニュース

県内各地の青年会などが沖縄市内の各所でエイサーを披露する「エイサーナイト2018」が17日から始まった。

8月12日までの週末、市内の街頭で各団体の演舞を楽しめる。

初日の17日はコザ・ミュージックタウン1階の音楽広場で中の町青年会、久保田青年会、うるま市天願青年会、照屋青年会、東青年会が出演した。


迫力ある演舞を披露した青年会のメンバーら=17日、沖縄市のコザ・ミュージックタウン音楽広場


 今後の日程は次の通り。

 【6月30日午後7時半】コザ・ミュージックタウン音楽広場(琉球風車、南桃原、うるま市江洲、諸見里)

 【7月1日午後7時】沖縄市泡瀬パヤオ交流広場(嘉間良、名護市伊差川、北谷町北玉、松本、越来)

 【7日午後7時半】市役所前広場(園田、中の町、胡屋)

 【8日午後7時】ミュージックタウン(山里、久保田、うるま市赤野、松本、東)

 【21日午後7時半】ミュージックタウン(沖縄市国際交流協会、室川、読谷村渡慶次、知花、池原)

 【8月11日午後7時半】東南植物楽園(諸見里、知花、越来、池原)

 【12日午後7時】ミュージックタウン(照屋、南桃原、嘉手納町南区、山里、園田)

 

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