郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol2

2012年02月14日 | 桐野利秋

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1の続きです。

 海援隊につきましては近年、商社活動的な面が、誇張されて語られる傾向があります。
 現実に行ったことを見ます限り、商業活動が成り立っていた、とは言い難く、亀山社中のときは薩摩の、海援隊となりましてからは土佐の、藩営商社の手伝いに手を染めていた、程度のこととしか、私には思えないんですね。
 青空文庫に海援隊約規(図書カードNo.51377)がありますが、これを読みましても、とても利潤を追求します商社のものとは思えませんで、むしろ、塾から発展した結社と言った方が、的確な気がします。

 実際、亀山社中は、勝海舟の私塾の一部が発展したもの、といってもそう大きくはちがっていないでしょうし、江戸時代の有名塾は、諸藩から人材が集まって切磋琢磨する場ですから、それが発展した結社に、諸藩の人間が集まっていても不思議はないんですね。
 龍馬の発想がユニークでしたのは、塾的な、同志としての人間関係を、できうるかぎり藩から独立した場で成り立たせ、その結社で、政治的な働きかけを実行しようとしたことでした。
 しかし、その政治的方向が、いわば幕藩体制の転換にあったのですから、これは危険きわまりないことでした。

 安政南海地震の直後、河田小龍は縁あって鏡川沿いの築屋敷の空き家に引っ越し、饅頭屋の近藤長次諸を引き受けます。そこへ、龍馬がやってきて、これからの日本をどうすればいいのか問答となるわけなのですが、このときの対話が、後の海援隊の種となりましたことには、まちがいはないでしょう。
 「藤陰略話」の肝心な部分は、前回、私がいいかげんな現代語訳をしておりますが、これってコーストガード、つまりは土佐に根付いた海岸線防備のための発想ではなかったのか、と思えます。つまり、殖産興業の延長線上に国防があって、幕藩体制の変革にまでおよぶ話では、ないんですね。
 年齢のせいなのか、世捨て人的な気質のためなのか、小龍は、政治からは遠いところにいます。

 そして、近藤長次諸が、その小龍の影響の元で学問を修め、小龍にとって恩人ともいえます吉田東洋との縁で、勝海舟の塾へ行き着きましたのに対し、龍馬は、まったく別の道をたどって行き着くことになったんです。

 
流離譚〈上〉 (講談社文芸文庫)
安岡 章太郎
講談社


 作家の安岡章太郎氏は、土佐郷士のご子孫でした。
 祖先のご家族に、吉田東洋を暗殺しました三人の一人、安岡嘉助がいまして、安岡章太郎氏は、祖先の記録をもとに、土佐の幕末を「流離譚」に描かれました。古い記事ですが、坂本龍馬と中岡慎太郎で、安岡氏の描く龍馬を紹介しております。お断りしておきますが、私自身が全面的に氏の描かれる龍馬像を肯定している、ということでは、かならずしもありません。
 ともかく、氏の描かれる土佐土着の郷士と、サラリーマン上士の対立は迫真でして、参考になります。

 ごくごく簡単にまとめますならば、以前、大河ドラマと土佐勤王党に書きましたように、戦国時代からの対立が、幕末まで尾を引くんです。
 そして、土佐の郷士や庄屋層、いわゆる長宗我部侍が特殊でしたのは、集団強訴をするようになったことです。郷士から上士への道が大きく開けた、というのではありませんで、郷士は郷士のまま、幕末には集団の力を持つようになっておりました。

 この郷士層が、政治的に目覚めましたのは、やはり黒船です。
 文化露寇、フェートン号事件あたりから、日本全国の沿岸は、たびかさなる黒船騒動に見舞われまして、文政7年 (1824)、水戸の大津浜事件では、上陸したイギリス船員から会沢正志斎が話を聞き取り、危機感を持って「新論」を書きます。
 土佐は海岸線が長いものですから、黒船出没への危機感も大きく、早くも文化7年(1810)には、郷士や地下浪人に海岸警備が命じられ、これは断続的にずっと、続けられることとなります。
 海岸警備といいましても、ろくに砲があるわけでもなく、たいしたことはできませんが、これもコーストガードでして、兵役ですから、集団行動が身につきますし、いったい、黒船が押しよせてくる世界はどうなっているのか、どうすれば国を守ることができるのか、考えるきっかけともなり、政治的にも目覚めていくことになったわけなのです。

 ペリー来航から安政の大獄までの概略は、寺田屋事件と桐野利秋 前編をご覧ください。前編しか書いていませんけれども(笑)。
 近藤長次諸が岩崎弥太郎に学んだりしておりますとき、龍馬は再び、江戸へ剣道修行に出かけ、安政の大獄がはじまると同時くらいに、土佐へ帰ります。長次諸が江戸へ向かいましたのは、大獄の最中の安政6年(1859年)正月ではなかったかと、「龍馬の影を生きた男 近藤長次郎」で吉村淑甫は推測されていまして、龍馬とは、ほぼ入れ違いであったようです。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社


 安政5年(1858年)、孝明天皇が水戸藩主に密勅を出し(戊午の密勅)、それが安政の大獄の引き金となったこともありまして、直接、密勅にかかわっておりました水戸藩がもっとも騒然とし、この時期には、水戸の志士活動が活発でした。
 水戸の次に、やはり日下部伊三次、西郷隆盛などの藩士が密勅に関係していました薩摩も、一部藩士の激昂は募ったのですが、一橋派の開明藩主・島津斉彬が急死し、幕府の意向を怖れました薩摩藩の方針は急旋回。西郷は島流しで、西郷の同志たち(精忠組)もなりをひそめるしかありませんでした。

 茨城県立歴史館のサイトに「水戸藩尊攘派の西国遊説」が載っておりますが、大獄ははじまったばかりで、この時期にはまだ、吉田松陰も処刑されていませんから、長州の松下村塾門下の奮起もまだまだですし、土佐藩主・山内容堂は、隠居の勧告は受けていますが、一般の土佐藩士には、まだまだ事態がよく、のみこめてはなかっただろう時期です。

 江戸遊学からから帰ってきておりました安政5年の12月、龍馬は立川の関所で水戸藩士の応接をするわけなのですが、水戸藩士が龍馬を名指ししましたのは、どうも江戸の千葉道場のつながりであったようなのですね。
 学問の塾と同じで剣道の塾も、当時は、他藩士との交友を深めて見聞をひろめ、つきあい方を学び、縁故を育てる、というような意味合いが大きく、幕末の各藩の志士が多く江戸の剣道場に遊学していますのも、まあ、いまでいいますならば、首都圏の大学の教育学部の体育科に進学することにでも例えるならば、多少、近かろうかと思われます。

 で、当時の龍馬は、片田舎の土佐の郷士にすぎませんでしたし、水戸藩士の力になれようはずもなく、適切な応対もできかねたようですけれども、呼び出されるといいますことは、それだけで、政治活動にも無関心ではないと見られていたのではないか、と推測することは可能でしょうし、江戸での生活が社交的なものだったことは確かでしょう。

坂本龍馬 - 海援隊始末記 (中公文庫)
平尾 道雄
中央公論新社


 この平尾道雄氏の「坂本龍馬 - 海援隊始末記」なども参考に、しばらく、龍馬の足跡を追いたいと思います。

 結局のところ、土佐藩の郷士、地下浪人、庄屋層が、持ち前の団結力を発揮しまして、激動の幕末の政局に乗り出しましたのは、直接には、万延元年(1860年)3月3日に起こりました桜田門外の変の影響でした。
 水戸と薩摩の脱藩浪士が、公道で幕府の大老の首を、打ち取ったのです。

 幕府の権威は、表面はまだちゃんとしていましたが、内部から音もなく崩れていき、幕府の権威がそうなったということは、です。それにともないまして幕藩体制がゆらぎ、藩庁の権威も薄れていかざるをえない、ということでした。
 とはいいますものの、桜田門外の変に呼応しようとしました、薩摩精忠組の京都突出は押さえられ、安政の大獄によります謹慎処分などがすぐに解かれたわけでもありませんで、一見、なにごともなかったかのように政局は推移したのですが、諸藩の志士たち(主に西日本)の活動は解き放たれたように活発化し、土佐では、文久元年(1861年)、江戸に遊学中でした武市半平太(瑞山)を中心として、郷士、地下浪人、庄屋層の政治結社、土佐勤王党が結成されました。

 wiki-土佐勤王党に盟約文が載っておりますが、起草は大石弥太郎。大石弥太郎は、英国へ渡った土佐郷士の流離で書きました大石団蔵、後の高見弥一の従兄弟です。
 この盟約文には、確かに、元藩主・山内容堂の話が出てまいります。
 かしこくもわが老公つとに此事を憂ひ玉ひて、有司の人々に言ひ争ひ玉へども、かえってその為めに罪を得玉ひぬ。かくありがたき御心におはしますを、などこの罪には落入り玉ひぬる。君辱めを受くる時は臣死すと。

 まあ、あれです。
 安政の大獄において、土佐で弾圧を受けましたのは、隠居、謹慎となりました容堂だけなんですよね。
 複数の藩士が命を落としました水戸はもちろん、吉田松陰が処刑されました長州とも、日下部伊三治が獄死しました薩摩ともちがいまして、土佐の下々の藩士は、実はほとんど関係ない状態。

 当時まだ、容堂の謹慎は解けていませんし、「我が老公の御志を継ぎ」という言葉を持ってきますと、反幕府の旗も、土佐藩内ではあまり刺激的にならないですみますが、しかし、です。この盟約書でもっとも注目すべきですのは、「 錦旗若し一たび揚らば、団結して水火をも踏む」の一言、天保庄屋同盟と同じく、自分たちは天皇の直臣だという理屈につながるこのくだりです。

 土佐勤王党には2百名近い加盟者がおりますが、名簿の最初の数名は、当時江戸にいました土佐郷士です。在土佐のトップに近い位置に坂本龍馬の名は出てきまして、結成されてまもなく、龍馬は加盟したと思われます。
 ここで注目したいのは、名簿の四番目に、間崎 哲馬(滄浪)の名があることです。

 間崎哲馬の略歴は、京都大学附属図書館の 維新資料画像データベース 間崎哲馬(滄浪)をご覧ください。
 龍馬より二つ年上で、中岡慎太郎の先生でした。
 ものすごく早熟な英才でしたが、土佐の三奇童の一人、といわれたそうで、借金で訴訟沙汰になったという話も残っていますし、えらく自炊派珍味グルメな書簡も残しておりますし、型にはまらない人柄だったようです。

 それはともかく、この間崎哲馬、嘉永2年(1849年)、16歳のときに江戸に遊学し、安積艮斎の塾で学んで塾頭となり、土佐に帰って、中岡慎太郎などに学問の手ほどきをしながら、自分は、吉田東洋の少林塾に学んでいたんです。つまり、饅頭屋長次諸に教えていました岩崎弥太郎と同塾だったわけですし、安積艮斎の塾頭だったことがあるわけですから、長次諸の大先輩でもあった、わけなんです。
 つまり、です。饅頭屋長次諸は、小龍と吉田東洋、岩崎弥太郎のつながりから、龍馬をぬきにしましても、間崎哲馬と知り合いであった可能性が高いことに、とりあえず留意しておきたいと思います。

 浪士の活動が活発になり、騒然としてまいりましたこの文久元年10月、龍馬は剣道修行を名目に旅に出て、翌文久2年1月14日には、武市の密書をたずさえて長州に姿を現し、久坂玄瑞や佐世八十郎(前原一誠)など、松下村塾の門下生たちと会っています。
 このとき、龍馬が預かりました久坂玄瑞から武市半平太宛の手紙に、有名な一節があります。
 
 ついに諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合、義挙の外にはとても策これ無き事と、私共同志中申合居候事に御座候。失敬ながら尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず、両藩とも存し候とも恐多も皇統綿々万乗の君の御叡慮相貫申さずては、神州に衣食する甲斐はこれなきかと、友人共申居候事に御座候。
 「大名も公卿もなんの頼りにもならないから、各地の志あるものがいっしょになって事を挙げるほかに方策はないと、ぼくたちは話しているんだよ。うちの藩もおたくの藩も、滅びたってかまうものか。天皇のご意向を無視して、通商条約を結んでしまった幕府を、このまま許しておくわけにはいかないだろう?」

 いいかげんな現代語訳ですが、ともかく、安政の大獄で、幕府に松陰を殺されました門下生たちは、火の玉のようになっておりまして、龍馬はその意気込みに圧倒されて、しかし世の中が激変しそうな予感に、うきうきしたのではなかったでしょうか。
 ちょうどこのとき、江戸では、水戸浪士と大橋訥庵塾生によります坂下門外の変が起こっておりました。
 そして、このころから、西日本をかけめぐりましたのが、薩摩の島津久光の率兵上京の噂です。
 ずいぶん以前の記事ですが、これについては一応、慶喜公と天璋院vol1に書いております。あら、龍馬の脱藩にまで、触れておりますねえ(笑)

 島津斉彬が死の直前に、率兵上京を計画していたといわれておりましたし、安政の大獄この方、薩摩が動くのではないか、という期待はずっとありまして、ようやっとのことで大久保利通を中心とします精忠組が久光を動かすことができたのですが、久光自身のつもりでは、まったくもって反幕府のつもりはありませんで、おそらく、なんですが、島津家は前将軍の御台所の実家なわけですし、「改革に力を貸してやるから幕府もがんばって生まれ変わり、勤王に励んでくれよ」くらいのつもりでいたのではないでしょうか。

 まあ、島から呼び返されました西郷隆盛が言った通り、とんでもない地五郎(じごろ)、田舎者です。
 あーた、外様大名の前藩主でさえもないただの父親が、これみよがしに一千の兵を率いて圧力をかけたのでは、地に落ちかかった幕府の権威が、さらによけい、ゆらぎまくるだけの話でしょうが。
 しかし、NHK大河ドラマ「篤姫」、堺雅人の徳川家定と、山口祐一郎の島津久光だけは、大嘘でもよすぎるほどによかったです(笑)

 いわば、ですね。外様大名が大軍(当時としては、です)を率いて京へ入る、なんぞ、それだけで幕府が張り子の虎になったことをはっきりと示す行為でして、秩序破壊なんですから、諸国の志士たちが、「こうなりゃ、幕府なにするものぞ。さあ、おれたちの時代だ!」と張り切ってしまったのも、致し方のないことです。
 実際、薩摩藩内でも、有馬新七を中心とします精忠組激派が抜け駆けし、久坂玄瑞を中心とします長州の多数の有志、その他主に九州各地の志士たちと連携し、京都所司代を襲って、久光が率います藩兵をまきこみ、大争乱を巻き起こす計画を立てていました。

 後の桐野利秋、中村半次郎は、満の24歳。ここで従軍がかなうことになりまして、生まれて初めて鹿児島を離れることになりましたが、父は島流しで、兄は死んでいて、一家を背負う立場です。
 桐野が一番なじんでいました上之園方限には、鎮撫の大山格之助に斬られて死にました弟子丸龍助がいましたし、その他、鎮撫された側の激派には、生涯の友となる永山弥一郎もいたりします。また、薩英戦争ころまでの話ですが、やはり激派側にいた三島通庸と行動をともにしていたりしますので、あるいは、心情激派であったりしたのだろうか、と思ったりもします。

 久光率兵上京前夜、嵐の前の静けさの中で、久坂などと連絡をとりあっておりました武市半平太は焦ります。
 勤王党、つまりは郷士結社のみの突出ではなく、薩摩のように藩を挙げての勤王活動を望んでいたのですが、手強い障害がありました。
 吉田東洋です。
 東洋の家は、土佐上士では他に例がないのですが、長宗我部の旧臣であったといわれています。馬回り役の家ですから、中の上といったところでしょうか。

 東洋は、剛腹がすぎまして、とかく問題を起こしやすい性格ではあったようですが、非常な俊才で、豪腕でした。
 容堂の前々藩主・山内豊熈に引き立てられまして、藩政改革にとりかかっておりましたところが、豊熈は34歳で急死します。慌てて実弟の豊惇が藩主となりますが、ほんの二週間後、わずか25歳で死去。このままでは、お家お取りつぶしの危機です。
 幸いにも、豊熈の正室は、島津斉彬の実妹・候姫(智鏡院)。島津家を中心とします親戚に奔走してもらい、分家から豊信(容堂)を迎えて、候姫の養子とし、一代限りの藩主として、ようやく危機を乗り切りました。

 豊熈の死によって、一度は無役となりました東洋ですが、やがて、型破りな新藩主・豊信(容堂)に見いだされ、大目付から参政へと累進し、藩政に大なたをふるいます。前回書きましたように、小龍は東洋に目をかけられて才能をのばすことができたのですし、東洋は、人材発掘にも長けた、なかなかの人物であったようなのですが、とかく問題を起こす性格でして、一時逼塞し、塾を開いて、岩崎弥太郎や間崎哲馬、後藤象二郎などに教えておりました。
 これが、かえって東洋には幸いしました。
 この逼塞で東洋は、一橋派としての容堂の活動とは無縁に過ごし、安政五年に参政に返り咲いた後に、安政の大獄で容堂は隠居を余儀なくされますが、次の藩主を立てることに尽力し、そのまま藩政を牛耳ることができました。

 この東洋を、武市半平太は、説得しようとしたといわれます。
 しかし、当然のことなのですが、東洋は郷士・庄屋層の結社であります土佐勤王党を認めようとはせず、そしておそらくは、薩摩の率兵上京も、果たして実現するものなのかどうか、疑いの目で見ていたのでしょう。
 結局のところ半平太は、東洋を暗殺した上で、門閥の守旧派と結託し、若い藩主を押し立てて、動こうとしました。
 その独断専横によって、東洋は守旧派から嫌いぬかれ、また下にも敵が多かったですし、東洋を引き立てた容堂は、隠居して江戸住まいですし、藩主・豊範は若く、東洋さえ除いてしまえば、という心づもりであったようです。

 さて、数名の土佐勤王党員は、半平太の一藩勤王のための模索にしびれをきらし、脱藩します。
 他藩士から直接話を聞き、単身でも義挙に加わることを望んだ吉村寅太郎と沢村惣之丞、宮地宜蔵は3月4日に脱藩。果たして彼らが、吉田東洋暗殺計画を知っていたでしょうか? 
 東洋の暗殺は4月8日で、その前に二度、待ち伏せに失敗しているといわれますが、一ヵ月も前だとしますと、知らなかった可能性が高そうです。
 しかし、一度脱藩しました沢村惣之丞が、義挙の同志を募るために土佐へ帰り、3月22日に半平太のもとへ姿を現したのですが、このときには、計画が明確になり、すでに暗殺志願者を募っていたはずです。

 この沢村惣之丞なのですが、実は、中岡慎太郎と同じく、間崎哲馬の弟子なのです。
 この時期、間崎哲馬がどこにいたのか、なにか資料をご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。
 先に書きましたが、奇才グルメな間崎先生、吉田東洋の弟子でもあるんですね。
 だからといって、間崎は勤王党なのですから、東洋暗殺に反対したとは限りませんが、ただ、沢村惣之丞も東洋の孫弟子にあたるわけでして、そうではない勤王党員にくらべましたら、なんらかの感慨、というものを持ったのではないでしょうか。

坂本龍馬 (講談社学術文庫)
飛鳥井 雅道
講談社


 龍馬を勝海舟に紹介した人物がだれであったか、平尾道雄氏の千葉重太郎説をくつがえし、最初に間崎哲馬ではないかと推測されたのは、飛鳥井雅道氏ではなかったでしょうか。
 現在では、それが定説となっているようでして、次回、詳しく述べたいと思いますが、とりあえずは、間崎が吉田東洋の弟子であり、沢村惣之丞が間崎の弟子であることに注目したいと思います。
 3月24日、龍馬は沢村と連れだって、脱藩を決行します。

 そうなんです。私は、龍馬の脱藩に、東洋暗殺が関係するのではないか、と思っています。
 反対だった、というわけではなかったでしょう。
 土佐を大きく変えるために、必要なことだと割り切っていたのではないかと、私は推測するのですが、しかしその一方、海防のための殖産、といった方策が、勤王党で取り組めるものなのかどうか、おそらく、そのころ江戸にいたらしい間崎に、龍馬はその期待をよせてはいたのでしょうけれども、そういう方面にかけては、噂に聞く東洋の辣腕が、惜しまれるものだったのではないのでしょうか。

 それで、もう、ここからは、まったくの私の妄想でしかないのですが、沢村と話あった龍馬は、二人で、河田小龍のもとを訪れたのではないでしょうか。
 龍馬は、小龍が東洋に引き立てられた人だとは知っていたでしょうし、饅頭屋の長次諸が、岩崎弥太郎を通して東洋の孫弟子になり、間崎が塾頭を務めたことのある安積艮斎の塾に入ったことは、知っていたでしょう。
 安積艮斎は、これも次回に詳しく述べたいと思いますが、海外事情通でもあります。
 薩摩に滞在したことのある小龍に、薩摩の率兵上京をどう思うか、東洋は本気にしないらしいが、実際に長州へ行ってきた沢村が、下関の薩摩の御用商人のところで、実際に行われることを確かめてきているが……、と、解説を求め、そして小龍は、おそらくは、土佐がかなわない薩摩の軍備について、語ったにちがいありません。
 義挙なんぞに期待するのではなく、土佐は軍備で、地道に薩摩に追いつくことを考えなければならない、と。

 小龍は、国防を充実させるのは地道な努力だと考えていて、国防のためにこそ一挙に世の中をひっくり反す必要があるとは、けっして考えないタイプだったでしょう。
 龍馬は、武市半平太と河田小龍のちょうど中間にいて、半平太の施策も認めつつ、しかし土佐には、火器の充実、海軍の整備といった現実的な軍備の増強策が欠けていて、それを怠ったままでは、一藩挙げても、日本のためにできることは限られていると、そういう思いももっていたのではないでしょうか。
 あるいは小龍は、伝え聞く薩摩の海軍への取り組みについても、語ったかもしれません。

 脱藩した龍馬の足取りは、かならずしもはっきりとはしないのですが、下関で沢村に分かれ、薩摩をめざしましたところが、入国できなかった、というような話も伝えられています。
 当然のことなのですが、龍馬は義挙には間に合わず、したがいまして薩摩の上意討ちであります方の寺田屋事件に巻き込まれることもありませんで、6月には大阪に姿を現し、8月には江戸にいました。

 次回に続きます。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ 
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1

2012年02月10日 | 桐野利秋

 最初は、「普仏戦争と前田正名」シリーズで書こうかと思ったのですが、ちょっとそれも変かなと、もう一度シリーズをお休みして、このお題にしました。
 まずは、この絵葉書を御覧ください。
 なんと桐野は、島津斉彬、西郷隆盛、大久保利通、村田新八と並んで薩摩の五偉人の一人です。そ、そ、そ、そうなんですかねっ!!!




 それはともかく、今回、図書館から借りてきました「坂本龍馬全集」 (1978年)をぺらぺらと眺めておりまして、あんまりにも意外なところで「中村半次郎」の名前を見まして、えええええっ!!! と驚き、あれこれ考えあわせますと、桐野は中岡慎太郎だけではなく、坂本龍馬とも、かなり親しかったように見えるんですね。
 慎太郎はもちろんのこと、龍馬の資料につきましても、西尾秋風氏は十分に読み込んでおられたはずでして、どこをどう狂われて、まともな資料の交流関係を無視し、高松太郎書簡の「石川氏は十七日の夕方落命す。衆問ふといえども敵を知らずといふ」をまた、無視してしまわれたんでしょうか。私のような凡人の理解が及ぶ範囲を大きくはずれた、斜め上の奇才でおられたんでしょうけれども。

 と、また脱線しかかっておりますが。
 「坂本龍馬全集」に収録されております「藤陰略話」。
 これ、明治27年ころ、京都に住んでいました河田小龍のもとに、故郷の高知から、近藤長次郎(上杉宗次郎)の履歴を問い合わせてきたのに答えて、小龍がしたためたものです。
 Wikisourceに全文ありましたので、リンクしてみます。「坂本龍馬関係文書/藤陰略話」です。これに、半次郎が登場いたします。

 其頃坂本ハ伏見遭難ヨリ潜行シ、新宮ハ九州ヘ行、近藤ハ自殺セシトノコトヲ聞、烏丸薩州邸ヲ訪、中村半次郎、別府彦兵衛ナドニ近藤自滅ノ顛末ヲ聞及ベリ。(慶応二年四月、中村別府ヨリ近藤ノ実ヲ聞ク)

 まず、河田小龍から説明していくべきなんでしょうけれども、世間一般では、龍馬を海外事情に目覚めさせたお師匠さん、として有名なんじゃないでしょうか。
 とりあえず、手に入りやすかったこの本を読んでみました。

龍馬を創った男 河田小龍
桑原 恭子
新人物往来社


 この「龍馬を創った男 河田小龍」が小説仕立てでして、「藤陰略話」と大きく内容がちがっているわけではないのですが、後述しますように、作者の想像か、と思われる事柄が断定的に書かれていたりもしまして、もう一冊、高知市民図書館が1986年に発行しました「漂巽紀畧 付研究河田小龍とその時代」も手に入れました。

 小龍は、高知の御船手組の軽輩の家に生まれ、祖父の養子となり、絵を習います。
 船奉行だった吉田東洋が、その才能を目にとめ、京へ連れていってくれましたので、狩野派に入門して学ぶことができました。
 その後、長崎へ行って蘭学などを学び、土佐へ帰国。

 ジョン万次郎は、小龍より三つ年下で、現在の土佐清水市の漁民の家に生まれ、14歳のとき、漁に出て嵐に遭い、伊豆諸島の無人島・鳥島に流されて、アメリカの捕鯨船に救助されます。
 非常に利発だったため、船長に気に入られ、養子となってアメリカ本土で学びます。
 一人前の捕鯨船員となりましたが、望郷の念にかられ、資金を貯め、ハワイへ渡っていっしょに漂流した仲間と再会し、嘉永4年(1851年)、上海から琉球へ渡ります。

 ペリー来航の二年前のことでして、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1に書いておりますが、日本近海には頻繁に黒船が出没し、薩摩支配下の琉球には、すでに天保15年(1844)、フランスの軍艦が現れ、開国要求をしていたりします。
 薩摩では、開明的な島津斉彬が藩主になったばかりでしたし、海外情報を求めていましたので、幕府の許可を得た上で保護し、教師として待遇しました。

 万次郎は土佐へ帰され、縁あって、小龍は万次郎から海外事情の聞き取りをします。
 この聞き取りを、挿絵をまじえて小龍がまとめました「漂巽紀畧」は、藩主に献上されましたが、複数の写本があるようでして、その一つが、早稲田大学図書館の古典籍総合データベースで検索すればでてきまして、デジタルで見ることができます。うまくリンクが張れますかね。漂巽紀畧. 巻之1-4 / 川田維鶴 撰なんですが、PDFで見るときれいです。

 一方、土佐藩庁の万次郎取り調べを元にした「漂客談奇」と呼ばれる本もあり、これも多くの写本が出回っているのだそうです。
 また万次郎は「漂巽紀畧」の草稿を小龍の家から盗み出しまして、土佐の識者だった早崎益寿に渡し、早崎がそれをまる写しにして「漂洋瑣談」を出版し、万次郎の漂流譚は有名になり、しかし、小龍はこの事件で万次郎と絶交したという話もあります。
 ともかく、「漂洋瑣談」には、小龍が万次郎から聞き取った話をもとにしている旨、明記してあるそうでして、流布本が出まわりましたことで、小龍はいやな思いをしましたが、万次郎とともに、海外事情通として有名になりもしたようです。
  
 小龍は、安政元年(1854)には、家老だった吉田東洋の推挙で、土佐の筒奉行と洋式流砲術師範が薩摩へ勉強に行くのに、図取り役として随行しました。
 「龍馬を創った男 河田小龍」の桑原恭子氏は、以下のように書いておられたので、どびっくりしました。

 小龍は、薩摩藩士中村半次郎(後の桐野利秋)や別府彦兵衛らの案内で、これら薩摩の富強ぶりを見て歩き、最後に斉彬の案内で鹿児島城内の写真研究所を見学する。

 い、い、いや……、流罪人の子で、百姓に土地を借りて芋を作って食いつないでいました16、7の半次郎が、藩の客人を案内するなんて、ありえないですから!!!
 
 桐野は、龍馬より二つ若くて、近藤長次朗と同じ年なんです。長次朗より八ヵ月ほど若いわけですし、文久2年(1862)、島津久光の率兵上京に従うまで、藩士らしい扱いは受けておりません。
 これ、桑原恭子氏が想像で書かれたことかと思いましたら、あきれましたことに、先に書かれました「漂巽紀畧 付研究河田小龍とその時代」の方が、さらに上をいくまちがいをしてくれていまして。

 (小龍は)この様な滞在の日を送る内当初より付人を勤めてくれた中村半次郎(筆者注・後の桐野利秋)別府晋介(筆者注・いづれも西南役に戦死)その他多くの友を得て、永らく親交があった。

 い、い、いや……、別府彦兵衛を勝手に晋介にしないでくださいな!!! 安政元年には、晋介はわずか七つかそこらのガキだから!!! 

 おそらく、最初に引用しました「藤陰略話」の後年の話から、昔、誰かが勝手に、安政元年に小龍が薩摩を訪れたときにまで半次郎との交流をさかのぼらせて想像し、想像だけで書きましたことを、高知の人々は踏襲してまちがえておられるようなんですけれども、年齢くらい計算していただきたいものです。

 この安政元年の暮れ、日本列島は大地震に見舞われます。
 11月4日に安政東海地震、そして翌5日に安政南海地震が起こったんです。
 この二日後には豊予海峡地震が起こりまして、私の高祖母の出身地、松山平野でありながら大洲藩領の郡中(いろは丸を買った国島六左衛門が奉行をしていた土地です)でも、大きな被害が記録に残っておりますが、去年、土佐赤岡の絵金祭に行きましたときには、絵金蔵に地震と津波の様子の素描が展示してありました。複製があれば欲しかったんですけど、ありませんで。
 当時の土佐の被害も、すさまじいものだったみたいです。

 大地震は、小龍が薩摩から帰ってまもなく起こり、浦戸にあった小龍の家は被害にあい転居を余儀なくされますが、この転居先の縁で、新たな弟子を育てることになりました。高知城下の饅頭屋の近藤長次郎です。長次郎は利発な少年で、才覚を惜しんだ義理の叔父が、学問を教えてやって欲しいと、頼んだものです。
 浦戸におりましたころから小龍は、新宮村の農民の出の新宮馬之助を内弟子にしていましたが、馬之助は絵を習いに来ていました。

 小龍は学者ではないのですが、蘭学を学んでいましたし、「漂巽紀畧」を記したくらいで学識もありますし、ずっと近所の少年に学問を教えていたようなのですが、その才能で小龍をうならせておりましたのが、同じ浦戸町内の医者の息子、長岡謙吉です。
 浦戸といいましても、この当時の浦戸とは、現在のはりまや町のことでして、小龍の家は、はりまや橋観光バスターミナルの裏手、高知市消防団南街分団の向かい側あたりにあったそうです。

海援隊遺文―坂本龍馬と長岡謙吉
山田 一郎
新潮社

 
 この「海援隊遺文―坂本龍馬と長岡謙吉」、ずいぶん大昔から持っていた本なのですが、内容を忘れこけてしまっておりました。
 かなりしっかり、長岡に関する資料は調べられ、きっちりと書き込まれてはいるのですが、龍馬・長岡ラインで海援隊の平和路線が強調されすぎ、と私は思いまして、桐野利秋と龍馬暗殺 前編で、つっこみを入れたりもしました。大政奉還の直後に、長岡と中井(桜洲)が横浜へ行っている部分、龍馬の指示で「議会ってどんなもん? 教えてくんないかなあ~♪ サトちゃん~♪」と、二人は出かけたのだと、なさっておられるんです。

 しかし、すでにこのつっこみを入れたとき、私は本の前半部分をすっかり忘れこけていまして、長岡謙吉って、長崎で再来日したシーボルトに師事し、息子のアレクサンダーくんが少年だったころから、知り合いだったんですねえ。アレクサンダーくんは、横浜のイギリス公使館勤務なんですが、ただこの慶応3年秋には、ヨーロッパに帰っていたかと思います。

 話をもとにもどしまして、長岡謙吉は後に海援隊に入りまして、大政奉還の建白書の草案を起草したのではないかと言われております。これに手を入れましたのが欧州帰りの中井弘(桜洲)で、中井桜洲と桐野利秋に書いておりますように、中井は桐野と仲がよさげで、時期はちょっとちがうんですけれども、桐野と海援隊のつながりにリンクしている話のようにも思われます。

 長岡謙吉は、龍馬よりは二つ、近藤長次よりは四つ年上です。
 小龍に学問を教わっておりましたのは十二、三歳のころで、その後大阪、江戸で、医者になる勉強をしました。
 大地震のころ、謙吉は高知に帰ってきていて、謙吉の親戚だった坂本龍馬も、そうでした。
 嘉永6年(1853)、龍馬は、剣術修行に江戸に行っていまして、ペリー来航を目の当たりにし、土佐藩江戸在府の臨時雇いとして海岸警備にかり出され、「異国の首を打取り帰国仕る可く候」と、故郷の兄への手紙に書きました。

 故郷へ帰った龍馬は、黒船来航の衝撃から、今度は大地震。黒船の脅威に対抗して、日本はいったいこれからどうすればいいのか、思案をめぐらせていたのでしょう。土佐には、「漂巽紀畧」を記した小龍がいる!ということだったのでしょうか。あるいは、山田一郎氏が書いておられますように、謙吉と親戚で、年が近いですし幼なじみで、以前から謙吉の師だった小龍を知っていたのでしょうか。

 ともかく、大地震の後、小龍が転居して間もないころ、龍馬は小龍を訪れ、「黒船がきちゅう。どがいしたらええがか、意見を聞かせてくれまいか」と、勢い込んで意見を乞います。小龍は、「「私は世捨て人で、書画をたしなみ、風流で世に対しているだけだから、俗世間のことには関心がない。意見などないよ」 と、笑いました。
 結局、小龍は語りはじめるのですが、このときの二人の対話が、後の海援隊につながっていったようなのです。

 小龍の意見は、だいたい、次のようでした。
 「攘夷か開国か、それは対立するものじゃないんだよ。攘夷はとてもできない相談だけれども、もし開港した場合にも、かならず攘夷の準備をしておかなければだめでしょう。今の日本の軍備は役に立たないものばかりで、わけても海軍がそうです。土佐藩の場合、弓隊や銃隊を船に乗せて浦戸湾へ押し出しても、船がひっくり返るほどに揺れ、目標が定められず、十人中七、八人までは船酔いでなんにもできやしませんよ。どこの藩でもそんなもので、西洋の黒船を迎え、なんで鎖国ができるでしょう。開国だ攘夷だとうちわもめをしているうちに、黒船は続々とやってきて、国は疲弊して人心は乱れ、ルソン島(当時スペインの植民地だったフィリピン)みたいに植民地にされてしまうかもしれません。ともかく日本人は航海に慣れなければいけません。泥棒を捕らえて縄をなうのたぐいかもしれませんが、海運を盛んにすることが手始めですので、黒船を外国から買い求めて、これで商売をはじめるべきでしょう。」

 「藤陰略話」は、明治になって書かれたものですから、本当に当時、この通りのことを小龍が言ったのか、と疑問を呈するむきもあるようなのですが、ただ、趣旨としましては、当時の識者がかなり共通して抱いていた意見だった、と思います。すでに18世紀末、林小平の「海国兵談」が書かれておりますし、幕府は、ほどなく、なじみのオランダに頼みこんで長崎で海軍伝習をはじめ、蒸気船も買おうとしておりましたし、危機感から、最初の伝習は諸藩から広く生徒を募って行われることになりました。
 また佐賀、薩摩、宇和島などの開明諸侯は、さっそく、なんとか蒸気船が造れないものかと試行しはじめましたし、海外交易事業についての模索も行われようとしていました。

 しかし、蒸気船は買うとしても、いっしょに海運事業をする仲間をどうすれば集められる? と問う龍馬に、小龍は「恵まれた上級サラリーマン武士には、志がありません。庶民の秀才で、志があってもそれを実現する資力がない人々を募るべきでしょう」と答え、これは、いかにも小龍らしい答えだったのではないでしょうか。
 小龍が農民、饅頭屋の子供を好んで弟子にしておりましたのは、想像をたくましくしますと、万次郎から聞き知ったアメリカの制度に好もしい点を見いだし、国防は国民のすべてが意識してなすものであり、そのためには、身分の差は基本的にとりはらわれるべきだということへの理解が、生まれていたからかもしれません。

 このときの二人の対話が機縁となり、後のことになりますが、龍馬は海援隊を起こし、小龍の弟子だった長岡謙吉も新宮馬之介も、そして近藤長次郎も、海援隊(亀山社中)の一員となります。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社


 で、饅頭屋の近藤長次郎です。
 「龍馬の影を生きた男」って、本の題名もさみしいのですが、結末を知って写真を見るせいか、長次郎くんはどこか、さみしい目をしていますね。
 私は、長次郎は龍馬の影を生きたのではなく、小龍の分身として龍馬のそばで生き、そのことが長次郎を死に追い込んだのではないか、と推測していますが、詳しくは後述することとしまして、まずは「龍馬の影を生きた男 近藤長次郎」を主な参考書といたしまして、長次郎の経歴を追います。

 長次郎16、7。小龍の弟子になり、日本外史から読みはじめ、史記、新唐書と読み進みました。
 その後、小龍の紹介で、甲藤市三郎と岩崎弥太郎にさらに学問を学ぶようになります。
 吉村淑甫氏によれば、甲藤市三郎は郷士出身、小龍と同年配の軽輩ですが、吉田東洋に私淑した開明派だったのだそうです。
 岩崎弥太郎はいうまでもなく、後年、長次諸が死んで後のことですが、海援隊の経理を担当し、明治、三菱を創始して大物政商となった人物です。

 弥太郎は地下浪人(郷士株を売ってしまった者)の子供として生まれましたが、非常な俊才で、江戸に遊学し安積艮斎の塾で学んでいました。
 この当時、父親のもめごとで土佐へ呼び戻され、訴訟に負けたことなどから、蟄居をよぎなくされました。この蟄居が長次郎には幸いし、江戸で学んだ俊才に、学問を見てもらえることになったのだろうと、吉村淑甫氏は推測しておられます。
 ちょうどこのとき、参政として藩政改革を進めておりました吉田東洋も、江戸の酒席で旗本に無礼を働いたことで罷免され、隠居して塾を開いていたのですが、弥太郎は長次郎に学問を教えるかたわら、東洋の塾に通っていて、東洋の親戚の後藤象二郎とも知り合います。
 つまり、長次郎は小龍のおかげで、末端ながら、吉田東洋の人脈につながることになったんです。

 龍馬と長岡謙吉は、郷士であり、土佐では身分が高くはありませんでしたが、私費で江戸、大阪に遊学できたわけですし、経済的には恵まれていました。
 しかし、長次郎は貧しい饅頭屋の息子。夜には槍剣も習って、文武両道に励んでおりましたが、父の手伝いで、おそらく饅頭の振り売りに、だと思うのですが、毎日伊野村まで出かけていた、というのです。
 同じ年の桐野と、いったいどちらが貧しかったのでしょうか? 貧しさでいいますならば、桐野の方が上か、と思うのですが、桐野は流罪人の子で、下級とはいえ、れっきとした鹿児島の城下士の生まれですから、志を果たす機会を将来に見ることも、無理な望みではありません。
 しかし長次郎は饅頭屋の息子ですから、これほどの努力も、土佐にいたままでは報われることがありません。

 小龍は、長次郎の才能を惜しみ、知り合いの藩の重役に頼み込んで、江戸藩邸に出向く際の下僕の一人に長次郎を加えてもらえるよう、計らいました。
 長次郎は、この最初の江戸行きで、弥太郎の紹介だったんでしょうか、最晩年の安積艮斎の塾に入門したのではないか、と推測されています。
 長次郎は、どういう事情があったのか、両親が年がいってから生まれた長男でして、長次郎が江戸へ行って一年もたたないうちに、両親はそろって世を去ります。知らせを受けて帰郷した長次郎は、饅頭屋は将来妹に養子をとって譲ることに決め、少々の資金を得て、再び江戸へ向かいました。

 ところが、東海道の富士川で、渡し船が転覆するという災難に見舞われ、長次郎は荷物をすべて流してしまい、苦労して江戸にたどりつきます。
 そこで頼りましたのが、土佐藩邸の刀鍛冶・左行秀です。行秀は、長次郎が幼い頃から近所に住んでいて、知り合いだったんだそうです。
 これも吉村淑甫氏によれば、なんですが、行秀は刀鍛冶といいましても、吉田東洋の人脈につながる人物で、鉄砲鍛冶として江戸で研究を重ねる使命を担っていた、ということでして、長次郎はその紹介で、当時、幕府の砲術指導をしていました高島秋帆に弟子入りします。学費は行秀が出してくれたといいますから、研究の手助けをしていたということなんでしょうか。
 さらに長次郎は、勝海舟の塾へも入り、そこで学業が進んで認められたことから、土佐藩から名字帯刀を許され、陸士格となったんだそうです。
 この海舟塾入門につきましては、龍馬の入門と前後していまして、左行秀の世話だったとします話と、龍馬の紹介だったとする話と、二つあるのだといいます。

 長次郎が海舟塾に入門し、龍馬と再会し、武士となりましたところで、長くなりましたので、次回に続きます。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐野利秋と伊集院金次郎

2011年01月23日 | 桐野利秋
 えーと、実は下の野口武彦氏の本について、批判を書きかけていたんです。

鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間 (中公新書)
野口 武彦
中央公論新社


 しかし、去年、勝之丞さまのお勧めでこの本を読みましたとき、最初から、「野口武彦氏にしては、ちょっと」という違和感がなかったわけではないのですが、それよりなにより、伊集院金次郎に関する記述が出てまいりまして、驚きました。
 「中井桜洲と桐野利秋」に書いておりますが、伊集院金次郎は、幕末におきまして、桐野の仲のいい友人でして、鳥羽伏見で戦死しております。20年前、なにかで読んで、相国寺にお墓があると知り、私はお墓探しに出かけました。

 えーと、ですね。
 「鳥羽伏見の戦い」への私の違和感は、野口氏のご感想の文言と、これはあいかわらず、なんですが、あとがきに対するものでして、戦いそのものの事実経過を追った記述については、これまであまり一般に知られていませんでした「慶明雑録」(内閣文庫蔵)の「鳥羽伏見戦状」を読み込まれており、非常によくまとめられたものです。
 野口氏が、この活字化されていない史料にあたられました最大の動機は、鳥羽伏見の戦いで、幕府の伝習歩兵隊がシャスポー(フランスの元込め銃)を使っていたことを証明なさるためでして、私も、この点に関しましては野口氏のご意見に全面的に賛同しております。
 これについては、批判とともに稿を改めて書きたいと思っていますが、さて、そのシャスポー銃が使われていました証拠として、野口氏は、以下の文章を「慶明雑録」の「高崎左京覚書」から、引用しておられるんです。

 「奉行所へ籠り居たる歩兵、小銃を持って大に戦う。伊集院金次郎戦死。貴島勇蔵・山田孫次郎深手を蒙る」

 奉行所といいますのは、伏見奉行所です。
 つまり、どうやら伊集院金次郎は、鳥羽伏見開戦の正月3日、伏見奉行所をめぐる初戦で、戦死したようなのですね。
 中村さまが、「鹿児島県史料集9明治元年戊辰戦役関係史料」(昭和43年 鹿児島県立図書館)から、伊集院金次郎の項目を送ってくださいまして、裏付けがとれます。

 小銃第一隊 小頭見習 伊集院金次郎正雄 三十二 明治元年正月三日伏見に於て戦死

 中村さまが送ってくださいましたページには、伏見初戦におきます小銃第一隊からの戦死者が、金次郎を含めて三名載っています。
 同じく小頭見習の山田孫一郎有清(27)、八田幸輔共古(26 八田知紀じさまの愛息です)。この二人は「重創を被り」後日に死去していまして、金次郎は即死だったようなのですが、三人ともどうやら、銃弾による戦死であったようです。
 
 実はつい先日、20年前に撮りました相国寺林光院の薩摩藩士の墓の写真が出てきたんです。
 私は、伊集院金次郎のお墓を見つけて撮ったように思い込んでいて、中村さまにそうお話していたんですが、出てきた写真を見てみましたら、なんと!!! 金次郎ではなく、伊集院與一の墓でした。ちなみに、現在は施錠されていて、墓域に入れないそうなんですが、20年前には鍵がかかってなくて、入れました。







 2番目と3番目の写真、大正4年建立の碑の台座に、細かく文字が書かれているように見えまして、どうも、これが戦死者名らしいんです。
 私のあやふやな記憶では、なんですが、伊集院與一の墓は比較的大きく、墓碑面もはっきり読めたのですが、他のお墓はもっと小さく、墓碑が読めるものが少なかったような。

 この與一さんも、野口氏の「鳥羽伏見の戦い」に登場いたします。正月3日、開戦の直前に、伏見関門で幕府大目付滝川播磨守の応接をした、というのですね。
 慶応3年12月25日、幕府は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにし、江戸にいた滝川播磨守は歩兵200人とともに軍艦に乗り、28日、大阪の慶喜公にこれを急報します。
 そんなわけで大阪城は大騒動。
 慶喜公上京の先供、という名目で、幕府歩兵隊、伝習隊、会津・桑名などの一部の兵が、伏見に張り出します。
 京都でこの動きを察知した薩長軍も、伏見に関門を設けて、警備兵を出します。
 幕府方、伏見方面の指揮者は、陸軍奉行・竹中丹後守で、1月2日夕刻には、旧伏見奉行所の陣屋に入っていました。
 ここらあたりは、別稿にゆずりたいと思いますが、情報を得ていた薩長側も、3日開戦を予測して増兵し、御香宮に本陣を置きます。

 開戦は、鳥羽が先でして、討薩表をかかげた滝川播磨守と薩摩藩士の問答があって、押し通ろうとした幕府軍に薩摩側が発砲し開戦になった、といわれているんですけれども、この滝川播磨守、鳥羽で問答をする前に、伏見でも問答をしていて、らちがあかないので、鳥羽にまわったのだろう、と野口氏は推測されています。
 ともかく、伏見において、滝川播磨守を丁寧に応接したのが小銃十二番隊長・伊集院與一だと、野口氏は書いておられるのですが、このとき、十二番隊は伏見にいませんし、與一さんは、単身で連絡にでも来ていたというのでしょうか。野口氏が引用しておられます幕府遊撃隊士・堤兵二郎の回顧録では「伊集院某」となっていまして、野口氏がなにによって與一さんとされているのか、わかりません。
 ともかく、薩摩小銃十二番隊はその翌々日、正月5日に伏見街道を進軍しまして、隊長の伊集院與一さんは、淀堤千両松の激戦で戦死しております。

 さて。金次郎さんに話をもどしましょう。
 実のところ、32歳で戦死した金次郎さんについては、あんまりたいしたことはわかりません。
 しかし、桐野(中村半次郎)と仲がよかったことは確かでして、慶応3年には、長期間、行を共にしています。
 これについても、土方久元の「回天実記」などで、おおよその足取りがつかめるだけなのですが。

 まずは慶応3年3月17日、桐野と金次郎の二人は、九州太宰府に到着しています。
 えーと、ですね。三条実美を中心とします過激派公家・七卿は、8.18クーデターで都を逃れ、長州に落ちていたのですが、そのうちの五卿が、第一次長州征討の結果、太宰府に移ることになり、筑前、薩摩、筑後、肥前、肥後の藩兵が守護しました。これは、西郷隆盛の案だったといわれ、守護兵の中心は薩摩でしたから、薩長同盟の素地になり、五卿のまわりに、薩長土三藩の志士がつどうことになったんですね。
 といいますのも、五卿の側近になっておりましたのは、土方久元など、多くは土佐勤王党士だったからです。

 この3月17日の太宰府は盛況でして、薩摩を訪れていた中岡慎太郎がまず帰ってきまして、土佐の容堂公や宇和島伊達公と西郷の会談の模様を披露します。
 そこへ、長州の木戸孝允が、長州に身を寄せていました土佐勤王党の後藤深蔵を供に、やってきます。
 そして、桐野と金次郎です。
 木戸、桐野、金次郎のこの日の太宰府着は、中岡慎太郎の「行行筆記」にも記されています。

 翌18日。以下は「回天実記」から引用です。

「暮頃より長使(木戸孝允)へ御酒被下に付罷越候処、伊集院(金次郎)、中村(桐野)並竹田祐伯も来合わせ、後藤(深蔵)共六人に相成、薩長土三藩二人宛之会合にて談論頗愉快を極め、互に肝胆を披き夜四つ時に至帰宿」

 暮れ頃、三条実美が長州からの使者・木戸孝允に酒を下されたので、土方久元は御殿に上がったんですね。桐野と金次郎、竹田祐伯も来合わせていて、後藤(深蔵)を入れると六人になり、薩長土から二人づつの会合になって、愉快きわまりなく、お互いに肝をわった話ができて、夜の10時頃に土方は宿に帰った、というわけなんですが、竹田祐伯とは、どうやら長州から派遣されていた藩医のようです。
 とすれば、薩長土三藩から二人づつ、というのは、薩摩が桐野と金次郎、長州が木戸と竹田祐伯、土佐は後藤(深蔵)と、あと一人、土方は自分を数えているように読めます。
 しかし、「行行筆記」の3月18日条には次のようにあって、中岡慎太郎は加わっていなかったのか、迷うところです。

「雨。午後晴る。拝謁相済、諸友と別杯す」

 中岡慎太郎が桐野や金次郎、木戸、後藤などと別れの酒を飲みかわして宿に帰った後に、土方が呼び出された、ということなんでしょうか。
 ともかく、慎太郎は翌20日に旅立ち、翌々21日、高杉晋作が重病になったというので、竹田祐伯が長州に呼び返されます。
 桐野と金次郎は、その翌22日、薩摩に向けて旅立ったようです。

 だいぶん以前に「桐野利秋と高杉晋作」で書いたのですが、桐野の維新以降の通称「信作(新作)」は、高杉晋作に心酔してもらったもの、という噂話があります。
 もしかして、なのですが、高杉の病が篤いと聞いた桐野と金次郎は、このとき、竹田祐伯を頼って、高杉に会いにいったりしなかったでしょうか。
 中岡慎太郎は、20日に下関で坂本龍馬に逢い、21日に高杉を見舞っているのですが、病が篤く、会うことができませんでした。

 桐野と金次郎の薩摩滞在は」、1ヶ月に満たなかったようでして、4月21日、太宰府にいる土方久元の「回天実記」に、突然、金次郎が現れます。

 「薩藩伊集院金次郎於満盛院酔狂之挙動有之」

 いつ、金次郎と桐野が太宰府に着いたのか、わからないんですが、「満盛院」とは、太宰府におきます当時の三条実美の宿舎のようです。
 要するに金次郎は酔っぱらって、三条公の宿舎に押しかけ狂態を見せたので、五卿警護の薩摩藩士隊長格・大山綱良がわびを入れ、「明日、本人の酔いが醒めたら処分するから、よろしく三条公に取りなしてくれ」と土方に頼みこむ、というような騒ぎになったんですね。
 しかし翌22日の「回天実記」の記述をあわせ読みますと、金次郎が暴れたとき、たまたま三条公は留守にしていて、翌朝、留守中の騒動を聞きはしたものの、「この目で見たわけではないし、金次郎は忠義の士で悪意があったわけでもなく、穏便にはからえ」と言ってくれたものですから、大山綱良もほっとして、「このたびはお咎めなしということで、その代わり今後、国事の為にこそ死んでくれ」と金次郎に言い聞かせた、というんです。
 その日、金次郎は、桐野とともに、三条公のもとに現れて、同様の口上を述べて別れを告げ、太宰府を発ちました。

 えーと、これ、ですね。私、20年前にすでに読んでいて、お墓さがしに出かけたわけなんですけれども、この事件を五卿の一人の東久世も記録していたことは、知らなかったんです。
 最近になり、モンブラン伯爵を調べはじめて、どーしてもこれは東久世の日記を見なければ、ということで、古書店で買いましたところが、モンブラン伯爵のことはほとんどなにも書いていませんで、がっかりしたんですが、金次郎の「酔狂之挙」が載っていまして、ちょっとびっくり。しかし、どこへやったものやら出てきませんで、引用もできませんし、内容も忘れております。
 桐野作人氏が、さつま入国誌に「薩摩藩士・伊集院金次郎の最期」を書かれて、詳しく引用しておられますので、ごらんになってみてください。

 それにいたしましても私、大昔に「回天実記」で読んだときの印象の方が強く、この事件をたいしたものとは、思ってなかったんですね。
 なにしろ、大虎になった薩摩藩士の乱暴狼藉なんて、帝国海軍にも酒の席の無礼講大暴れの伝統が受け継がれたくらいで、珍しくもないですし、三条公は留守だったわけですし、大暴れして、翌朝酔いが醒めたらしゅんとして、腹を切る、と騒いで、まわりが「まあまあ、反省しているなら国のためのご奉公に命はかけろや」となだめるって、よくある話じゃないですか。
 お詫びの口上も、下戸の桐野といっしょに、ですしね。
 桐野は、どこからどう見ても、身分ちがいに恐れ入るタイプではないですし、「酒が入ってのことなんか、気にすんなや、わははははは」と、金次郎の肩を叩いたりしたんじゃないのかと、妄想したり。

 (追記)桐野が「身分ちがいに恐れ入るタイプではない」ことについて、野口氏の「鳥羽伏見の戦い」に、これまで私がまったく知らなかったエピソードが載っておりまして、これも驚きでした。史談会速記録(第二十三輯)ですし、伝聞にすぎないのですが、おもしろい話です。
 「鳥羽伏見の土方歳三」に出てきます、幕府勘定奉行配下の役人・坂本柳佐の回顧談です。この人のお話は、実におもしろくて、ファンになりました。柳佐さんが長州藩士・久保武三から聞いた話だそうなんですが、開戦三日目、征夷大将軍となった仁和寺宮が、錦の御旗とともに戦場に姿を現します。実はこのとき、弱冠23歳、還俗したばかりの宮さまの後ろに、桐野がついていた、というのです。「桐野利秋という人が、我が輩はどうしても進む。鳳輦を守護して丹波道から逃げるという事はないといって、抜刀して仁和寺宮にお進みなさいといって、桐野が跡からお泣きなさる宮に付いて伏見に参ったということを久保が話しておりました」 これを読んで、私はつい、笑い転げてしまいました。


 それよりも、ですね。今回「回天実記」を読み返して、気付いたんですが、金次郎酔狂之挙の記事の直前に、高杉晋作の死の知らせが太宰府に届いた、とあるんですね。もしかして、なんですが、このとき金次郎が悪酔いしたは、高杉の死を知って、ではなかったんでしょうか。
 4月22日に太宰府を発した金次郎と桐野は、実はその足で下関へ行き、長州の山縣有朋と鳥尾小弥太を伴って、5月2日に、京へ向けて出発しています。
 山縣の回顧録によれば、「どうしても上京したかったが、当時、長州人は近畿へ入れなかったので、藩庁に頼み込んで、太宰府の薩摩藩出張所に連絡してもらったところ、中村半次郎と伊集院金次郎が下関へ来た」ということです。
 日数からしまして、桐野と金次郎は、しばらく下関に留まったと見られ、これはかなりの確立で、高杉のお墓に参ったのではないか、と、私は思います。

 それから半年余り、伊集院金次郎は、伏見開戦のその日に戦死するわけなのですが、同じ小銃一番隊には、桐野もいました。
 この小銃一番隊は、伏見奉行所の東、桃山方面に配され、その左隣、宇治川に接しては、有馬藤太率いる外城四番隊(出水・阿久根)の半隊がいました。
 有馬藤太の回顧録によれば、最終的には外城四番隊も奉行所に突入したのですが、すでにそのとき、桐野は先に入り込んでいたのだそうです。
 野口武彦氏の書かれていますところでは、どうも、東の桃山方面に対したのが、シャスポーを持った伝習歩兵だったらしく、外城四番隊も、緒戦で激しい射撃を受けたようです。「慶明雑録」、活字になっていなくて、容易に読めるものではなさげなのが残念です。
 なお、伏見におきます小銃一番隊が、銃撃戦しかしていないらしいことは、「慶応出軍戦状」の「一番隊戦状」(これも中村さまからコピーをいただきました)によって、裏付けがとれます。

 ところで、ですね。
 開戦時に桐野と金次郎がいた位置からはだいぶん離れて、伏見市中の北側には、長州軍が布陣していたのですが、そのうちの一隊は他藩人が多くいた長州遊撃隊で、土佐出身の後藤深蔵が率いていました。
 そうです。太宰府へ木戸孝允の共をしてきて、桐野、金次郎と、気持ちよく酒をくみかわした人物です。
 こちらは市街戦でしたが、ともに伏見で戦い、そして深蔵もこの日、銃弾に倒れました。
 児玉如忠編「維新戦役実歴談」(マツノ書店復刻)の林友幸(半七)の談話に、以下のようにあります。

 (問)後藤深蔵が戦死して居りますな。
 (答)彼も死なずとも宜かったろうが酒を飲んでいて、何の構ふことはないと言ふて出た拍子に撃たれた。


 そのー、位置も離れていましたし、まさか夕刻の開戦直前、金次郎もいっしょにお酒を飲んでいて、ということは、いくらなんでもなかっただろー、とは思うのですが、もしかして、当日の午前中には「おー、いよいよじゃあ。まあ景気づけにいっぱいやろうぜ!!!」なんぞと、飲みまくった………、なんてことなら、ありそーな気がしたりします。
 桐野は下戸ですが、えー、きっと素面で盛り上がれるタイプ、だったと思いますので、お汁粉でつきあったか、と。

 すみません。いっこうにしんみりしませんで。
 林半七さんが悪いんです。


人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (21)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井桜洲と桐野利秋

2010年11月09日 | 桐野利秋

 えーと、またまた突然ですが、中井桜洲です。

 「桐野利秋と龍馬暗殺 前編」に書いているのですが、慶応3年後半、桐野が個人的なつきあいをしているらしい友人として、中井桜洲がいます。
 なぜ個人的か……、といいますと、桐野の愛人・村田さとさんの家に桐野が持っていたらしい部屋で会っているから、です。必ず永山弥一郎とともに、なんですが、けっこう仲よさげ、なんですよね。

 それもあるんですけれど……、明治11年3月発行の金田耕平編『近世英傑略伝』(近デジで読めます)に、短いながら桐野の伝記がありまして、これは、もっとも早く書かれた桐野の伝記ではないか、と思われますが、桐野がもっとも親しくしていた友人を、伊集院金次郎、肝付十郎、永山弥一郎の三人とするなど、かなり正確なんですよね。ただ、西郷隆盛とは幕末から一環して意見があっていなかった、という点が、ちょっと極端な感じなんですが。
 西南戦争終結間もなく書かれたこの伝記の最後は、田中幸介(中井桜洲)の話でしめくくられています。

 曾て京師に在るの日、同藩の兵士田中幸介の脱走して京師に在るに會し、始めて文事を談するを暁(さと)り、頗る天下の形勢を了知するの益を得たりと云ふ。此田中なる者は、曾て欧州に航し帰て、維新の際に尽力せし人なり。氏(桐野)は常に談を好み、日夜壮士を集め戦事を論するを常とせしが、他人之を論弁すれとも断乎として用ゆることなし。独り其之信聴する者は田中のみにして、田中は氏に逢ふごとに古今の形勢、各国の人情風俗を談ずるに氏は耳を傾むけて之を聴き、敢て非斥することなく、他人の若し田中を誹議する者あれば大いに憤激して之を排撃せしとぞ。惜いかな、この田中なる者は方今其の所在を知らず。若し田中をして氏の傍らに在らしめば、氏は必ず西郷の暴挙に左袒せざる@しと痛惜する人@しと云ふ。嗚呼、亦勢運の然らしむるに非ざるなきを得んや。

 これ、西南戦争を「西郷の暴挙」と表現しているんですが、このすぐ後に西郷隆盛の伝記があって、もちろんそちらの方はそういう書き方はしていませんで、あきらかに筆者がちがいます。
 そして、「この田中なる者は方今其の所在を知らず」といいますのは、意味深な書き方です。田中幸介は、中井弘と名を変えただけで、この当時、工部省の官僚です。
 つまり、なにが言いたいかといいますと、あるいは、この伝記は中井の筆になるのではないか、と、私は思うのです。桐野の友人として「伊集院金次郎、肝付十郎、永山弥一郎」の三人をあげることができるほど幕末期の桐野と親しく、明治11年初頭、死んでもいなければ入牢もしていないで、なおかつ筆が立つ人物といえば、ちょっと私には、中井しか思い浮かびません。

 それに、です。中井の伝記として、伊東痴遊が中井の異母兄の書いたものをもとにした、というものがありまして、私はこれ、痴遊の聞き書きではないかと思うのですが、講談調で、かなり疑問の多い伝記ではあります。
 が、ともかくこれに、中井生前の言葉として、西郷批判とともに、「西南戦争を起こしたのは、西郷ではなく桐野である。桐野は篠原のような西郷の子分ではなく、独立した親分だ」といったようなことが、書かれているんです。「西南戦争を起こしたのは桐野」という部分は、明治11年の桐野の伝記と正反対なのですが、西郷嫌いの気分と、桐野は決して西郷の子分ではない、独立した存在だ、といった部分は、共通しているんです。
 他に桐野のことを語り残した人物としては、有馬藤太がいますが、こちらは、本人が西郷を尊敬していますし、桐野が西郷と意見があわないでいたなどとは、一言も言っていないんです。

 つまり、西郷と桐野の関係は、見る者によってかなりちがって見えたのですし、中井の伝記に異母弟と痴遊のフィルターがかかっているにしましても、そこに描かれました中井の西郷・桐野観は、明治11年の桐野の伝記のトーンと似ていまして、伝記が中井の手になることを、思わせるのです。

 まあ、そんなこんなでして、昔から、中井のことは気にかかり、多少、資料をあさったりもしていたのですが、なにしろ私の関心が、桐野生存時、それも、幕末から明治初頭に集中しておりまして、となりますと、ろくろく資料がありません。
 fhさまが中井のファンとなられてから、相当に調べられたようなのですが、それでも幕末に関しては、講談みたいなお話しか出てきません。
 おもしろいのは、桐野の伝記を書き残してくれました春山育次郎が、中井に話を聞いて書いたエッセイです。私は、fhさまのブログで拝読しただけなのですが、ともかく中井弘という人は、二重にも三種にも尾ひれをつけた与太話で、他人を煙にまく名人だったようです。

 そんな中井の伝記を、ご子孫のお一人が出されたというので、さっそく買ったのですが、私もあっちこっちと関心が分散しておりまして、やっと先日、拝読いたしました。

中井桜洲 明治の元勲に最も頼られた名参謀
屋敷 茂雄
幻冬舎ルネッサンス


 いや、そのー、これまで、執筆と縁のない方ですし、仕方がないことなのだとは思うのですが、なんというのでしょうか、素材がもったいない、とでもいいますか。失礼な言い方かもしれませんが、あの人ともこの人とも、あらゆる有名幕末明治人士と親しくて、ということを強調なさるあまりに、肝心の本人像がぼやけたものになっているんです。
 資料を淡々と並べるか、そうするには資料が少なすぎる、ということならば、独断でいいんです。もっと中井の心情にまで踏み込んだものにならなかったものなのでしょうか。
 私の個人的欲求のみからいたしますと、新資料を単独で、全文収録してくださっていればあ、と(笑) 私にとりましては、肝心な部分が、かなり省かれております。
 
 新資料と言いますのは、中井の重野安繹宛書簡でして、そこに、かなり詳しく、自分の経歴を書いていた、というのです。
 しかし、ここでまたわかりませんのは、この書簡、実物ではなく「痴遊雑誌」に掲載されたものだそうでして、うーん。
 い、いや、確かにこれまであまり知られてなかったものだというのはわかるのですが、 「痴遊雑誌」って、柏書房が集成本を出しているみたいで、それならば国会図書館にはあるでしょうから、何年何月発行の何号に掲載と、書いていただくわけにはいかなかったんでしょうか。

 あと、そのー、どうにもわからないのが、この新資料から、中井が、脱藩(脱走と書いています)して大橋訥庵と親交を持ち、訥庵が「幕ノ嫌疑ヲ受タル時」、薩摩藩邸に捕らえられ、国許へ帰されて士族籍剥奪、終身禁固となった、とされながら、以下のように書いておられることです。

 「うなずけないのは、大橋や藤森たちが活発に行動したのは尊王攘夷運動である。それに加担したからといって、士族籍の剥奪や終身禁固などという刑を薩摩藩庁が科すであろうか」

 い、いや、「大橋ガ幕ノ嫌疑ヲ受タル時」と中井が書いているなら、それはあきらかに、坂下門外の変への関与を疑われたのであり、終身禁固くらいありえると思うのですが????? 

 (追記)忘れていました。書簡の解説文で???となった点がもう一つ。明治天皇に謁見するイギリス公使パークス一行が襲撃されたときのことなんですが、「各国公使の宿舎はオランダが相国寺、フランスは南禅寺であり、ここは中井の記憶ちがいである」と書いておられます。単純な思い違いでおられるんでしょうか??? 反対です。オランダが南禅寺で、フランスが相国寺です。したがいまして、中井の記憶ちがいは「オランダが天龍寺」としている点のみでして、それも確かー、いまちょっと資料が手元になくて記憶が定かじゃないんですが、当初、天龍寺だったような話もあったような。ともかく、堺事件直後でもっとも危ないと思われていましたフランスは、薩摩が警護しましたので、相国寺なんです。知恩院を宿にしましたイギリスは土佐が警護しましたし、オランダは加賀前田藩です。薩摩、土佐の警護したフランス、イギリスの宿について、中井の記憶は確かです。

 もう一つ、中井の父親が島流しになっていた、という件です。書簡の引用部分から、その部分は省かれ、確かなことだと、なにをもとに判断されたのか、読者にはわからないんです。
 これが確かなことだとしますと、中井の生き方、桐野との関係を見る上で、もしかしたら、という憶測を、私は抱いたのですが。
 
 桐野の父親も、遠島です。
 理由はささいなこととしか伝えられていないのですが、このおかげで非常に貧しく、どうも、一人前の藩士となる機会さえ、なかなか与えられなかった印象を受けます。

 えーと、ですね。海老原穆という薩摩人がいます。
 明治6年政変の後。東京で評論新聞という政府批判紙を立ち上げるんですが、「西南記伝」によれば、非常に桐野を信奉していた人だ、というんですね。
 司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」においては、なにをもとに書かれたのか、調所笑左衛門の親族であるような書き方をされているのですが、私は、証拠はつかんでないのですが、海老原清熙の親族だったのではないか、と思っています。
 海老原清熙は、調所笑左衛門の優秀なブレーンだった人です。

 で、この海老原清熙、「中村太兵衛兼高の二男で、文化5(1808)年、海老原盛之丞清胤の養子となった」ということを知りまして、もしかして、桐野の親族では? と調べてみたのですが、これもわかりませんでした。
 しかし、ふと、思ったんです。
 桐野の父親の遠島は、海老原清熙がらみだったのではないかと。

 調所笑左衛門の切腹は、お由羅騒動につながります。
 藩主の島津斉興が、正室との間の嫡子・斉彬になかなか家督を譲らず、側室・お由羅の子である久光にゆずるつもりではないのか、という疑いがもたれました。
 実質をいいますならば、斉興と斉彬、親子の確執があり、それに家臣団がからんだ、ということでしょう。
 斉興のもとで、経済改革を成し遂げた調所笑左衛門は、その財政引き締め政策によって、下級藩士たちの多大な恨みを買っていました。
 父親が家督を譲らないことに業を煮やした斉彬は、嘉永元年(1848年)、自藩の琉球密貿易を老中阿部正弘に密告する形で、その責任者・調所笑左衛門を切腹に追い込みます。しかし、調所が一身に罪をかぶって死んだため、斉興の隠居とはならず、斉彬の襲封には、至らなかったのです。
 このことは、藩内の緊張を高め、斉彬の男子の夭折をきっかけに、行動を起こそうとした斉彬派に対して、斉興派の徹底的な弾圧が行われます。下級藩士の多数は斉彬派で、西郷、大久保をはじめ、明治維新の中核となった者は、大方そうでした。
 したがいまして、薩摩において、調所は長らく悪者にされていたんです。あからさまに親子喧嘩だと言ってしまいますと、斉彬公の値打ちが下がりますから。

 島津家から養子が出ていた他藩の助力などもあり、ついに嘉永4年、斉興は隠居に追い込まれ、斉彬が藩主になります。
 従来、それによる報復人事は行われなかった、とされてきたのですが、どうもちがうように思われます。少なくとも、調所派だった海老原清熙は失脚し、後に島流しになっているのですし、やはり調所とつながりの深かった島津久徳も罷免されています。
 私、この件ではまだ、まったく史料を読んでいませんで、「斉彬公史料」でも読んでみる必要があるのですが、図書館で借り出せないんですよねえ、ふう。
 
 したがいまして、まったくの妄想なのですが。
 これだけ大規模なお家騒動になりますと、積極的な反斉彬派ではないにしましても、斉興の藩政の要だった調所や海老原や島津久徳や、に縁があった、あるいは、彼らの取立を受けていた藩士にも、粛清は及ぶでしょう。
 桐野の父親も中井の父親も、そうであったのではないのでしょうか。
 中井の父親の島流しが、明治2年まで許されなかった、ということしか、傍証はないんですけれども。

 中井はもちろん、なんですが、私にとりましては桐野も、どことなく、薩摩の下級士族団の絆から、浮き上がっていたように見えるんですね。
 父親が調所派だったのだとすれば、その背景が、納得できるように思うのです。
 これから調べてみたいこと、なんですけれど。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (28)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「半次郎」を見て……。

2010年10月14日 | 桐野利秋
 書こうかやめようか、相当に悩んだんです。
 えーと、ですね。
 桐野が主人公の映画を、けなしたくはありません。
 しかも、西南戦争が起こった理由の描き方は、これまでのドラマや小説からすれば珍しいほど、私の見解と重なります。
 多くの方に見てもらえたら、と………、思わないではないのです。
 しかし、映画としての出来は、まったくもって、よくありません。
 いえ……、もし桐野が主人公でなかったならば、きっと私は、「見る価値無し!」と、斬り捨てていたでしょう。
 まあ、あれです。よく知っている内容でありますだけに、パロディとして見ることも可能ですから、楽しめなかったわけではないんですけどね。
 
 「長州ファイブ」から「半次郎」への続き、ということになるでしょう。
 行ってきたんです。東京まで、映画「半次郎」を見に。
 まあ、国会図書館に行きたくもあったんですが、どちらがついでかというと、国会図書館がついでかも、です。



 あー、なにがいけないって……、まず第一、榎木孝明が似合わないんです!
 最初から、不安は大きかったんです。俳優さんが役に入れ込んで映画を企画すると、往々にしてろくなことにならないんです。なぜかわかりませんが。
 小松帯刀が、身をやつして半次郎のふりをしている!とでもいうのでしょうか、品が良すぎて、どうにもしっくりきません。
 半次郎、つまり桐野って、妙に三枚目じみたところもあるはずなんですが、えー、ほんと、榎木さんでは、なにをなさっても笑えませんし。品が良すぎる上に、真面目すぎ、とでも申しましょうか。
 ごいっしょに映画を見ました大先輩・中村さま、Nezuさまとお話していまして、永山弥一郎をやったAKIRAの方が、イメージ近いかな、と。じゃあ弥一ちゃんはだれが? ということになるんですが、篠原国幹をやりました永澤俊矢がぴったりです。篠原はもう少しこう、和風のイメージでして。

 シナリオについて言いますならば、幕末をはしょるしかないのはわかるんですが、はしょるならいっそ、慶応3年(1867)の暮れからやればいいのに、と思ったんですのよ。薩摩の貧乏時代にはじまり、文久2年(1862年)の上京、とずっとやるものですから、青蓮院に長州藩士がしのびこんで、半次郎が斬り殺すなんぞというわけのわからないフィクションが焦点になってみたり。
 白文ならまだしも、当時は子供でも読んでいました書き下しが読めない、っていうのも、ねえ。
 それに、京で長州人に共鳴し、革命を志すんですから、孔子じゃだめです。吉田松陰の講孟余話の類を、実際に目にした可能性が高いです。

 あー、愛人・村田さと役の女優さん、京都弁が超下手。関東出身者とまるわかりですわ。まあ、いいんですけど。
 なんか、ですね。こう、愛人二人との関係もねちねちっとした感じで、桐野らしいさわやかさに欠けます。正妻・ひささんは出てこないし。
 男女関係がそうですから、肝心の男同士の情が、しみじみしません。
 桐野と弥一ちゃんの友情を、もっと前面に出して欲しかった。

 あと、陸軍少将時代が最低最悪、ですね。好色な鯰ひげの官吏になった、といわんばかりの描き方でして。
 こう、ですね。貧乏やって芋を作っているのと同じトーンで、豪快にフランス軍服をまとい、金銀装の儀礼刀をひらめかしますのが、桐野の真骨頂ですのに。
 西南戦争になって、少しほっとしたのもつかの間、なんとも軽すぎ、なんです。
 まあ、金がないのは仕方ないんですが、いくらなんでも官軍、臨場感なさすぎ、です。あー、なんで自衛隊にエキストラ頼まなかったんでしょう。いえ、せめて一ヶ月……、いえせめて一週間でもいいから、エキストラ全員、自衛隊で訓練してもらうべきでした。

 ただ一点、しみじみよかったのが、薩軍の少年戦士です。実にかわいい上に演技達者で、メインで描かれていた13歳の子もよかったのですが、最後に英語の本を持って死ぬ子もよかった……。
 もういっそう、西南戦争少年戦士物語にすればよかったのでは? と思いましたわ。

 えー、そして最大の不満は、主要人物の死に方くらいは語り伝え通りにやってくれ、です。
 弥一ちゃんは、小屋に火をかけて、炎の中で死んで欲しかった。
 桐野は、少年戦士を逃がし、堡塁でライフルをうちまくって、最後に抜刀して死んで欲しかった。愛人がすがりつくなんて、嘘はなしで。
 NHK大河ドラマの「翔ぶが如く」は、いろいろと描き方に文句はあったんですが、この桐野の最後の場面は、実に秀逸でした。

 海軍軍楽隊(薩摩バンド)が戦場で惜別の演奏をした場面は、悪くはなかったんですが、検索をかけてみましたら曲目についてはわからないみたいですし、ヘンデルの「見よ勇者は帰る」は、どーにも、表彰式のイメージが強すぎていけません。ここはもう! ぜひとも、帝国海軍軍楽隊の「告別行進曲」、つまりオールド・ラング・サインでいってもらいたかったのですが、それじゃあ、「長州ファイブ」といっしょになりますかね。

Daniel Cartier "Auld Lang Syne"


 Should auld acquaintance be forgot,and never brought to mind ?
 Should auld acquaintance be forgot, and auld lang syne ?

 かつての薩摩バンドが薩軍に贈るに、これほどふさわしい曲は、ないと思います。
 「告別行進曲」は、西南戦争のとき、まだ子供だった薩摩人・瀬戸口藤吉の編曲みたいですが、薩摩バンドと海軍軍楽隊のお師匠さんフェントンが、オールド・ラング・サインを教えないわけはないでしょう。子供の頃、城山最後の日、海軍軍楽隊の演奏するオールド・ラング・サインを聞き、耳底に残した瀬戸口が、後年、「告別行進曲」として編曲した、という推測は、成り立つように思うのです。

 あと、村田新八さんがアコーディオンで弾いていた「ラ・マルセイエーズ」ですけどね、ここで桐野が前田正名を思い出し「あいつは、パリで元気にしちょっかい」とかつぶやくと、個人的にはとっても満足だったんですが。

 最後に、テーマソング、平原綾香の「ソルヴェイグの歌」です。

my Classics2
平原綾香
ドリーミュージック


 ラストに桐野の死体にすがりついた愛人・村田さとさんの思いにかぶせているんでしょうけれど、もともと「ソルヴェイグの歌」は、奔放な男の帰りを故郷でじっと待つ妻の歌でして、意を決して男を追いかける愛人の歌じゃないですわ。

 桐野の死を……、そして西南戦争の終結とともに消えていった薩摩隼人たちを悼むにふさわしい歌といえば、これはもう絶対、The Last Rose of Summer、「庭の千草」です。

 The Last Rose of Summer in Kerkrade


 So soon may I follow, When friendships decay,
 And from Love's shining circle The gems drop away!
 When true hearts lie withered, And fond ones are flown,
 Oh! who would inhabit This bleak world alone?

 アイルランド出身のウィリアム・ウィリスはきっと、逝ってしまった懐かしい薩人たちを思い出して、この歌をうたったんじゃないでしょうか。
 アーネスト・サトウが、ぽんとその肩に手を置いて、なぐさめたんですのよ、きっと。
 ぜひ、平原綾香さんに、うたっていただきたかった!

 
人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐野・花の生誕祭ー追いかけて

2008年12月04日 | 桐野利秋
 ご迷惑にも、こんな夜中まで、大先輩とそのお友達の方のお部屋で話し込んでしまい、優雅というにほど遠いホテルライフです。お二人のおかげで、宿願が果たせました。ありがとうございます!!!

 とはいうものの、です。本日は鹿児島を離れますし、このままで……、といいいますのは、桐野・花の生誕祭ーためいきが出ちゃうの状況に、圧倒されたままで去るのはいかにも残念です。
 そこで、ここはやはり、この胸の燃ゆる思いを、私も形として現すべきだろうと、昨日の午後、一人タクシーをとばして、花束をささげてまいりましたっ!!!


  

 これって、どう見てもお墓にお供えするお花ではないですよね。だって……、お誕生日ですもの。お許しくださいませ。



 午後の日差しで、お供えの品々もうまく撮れました。
 今回のBGMはこれで。恋のフーガ ザ・ピーナツ YouTube
 またしばし、さようなら桜島山。


人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐野・花の生誕祭ーためいきが出ちゃう

2008年12月02日 | 桐野利秋
ただいま、城山観光ホテルの10階の一室で、これを書いています。
窓の外の桜島は、闇に溶け込んで、鹿児島の街のネオンがきらきら。
立ち上がれば眼下に、メリー・クリスマスの電飾。
はるばる運んできたMacBook Airが快適に作動してくれています。

本日は桐野利秋の生誕170年です。お誕生日にお墓参りをと、大先輩のお誘いを受け、鹿児島までやってまいりました。
ともかく、すごいんですっ!!!!!
なにがって…………、お誕生日かクリスマスのケーキのデコレーションを思わせるこのお花!!!



 うーん。なんだか影が濃すぎて、あんまり、あのスウィートな豪華さが、うまく撮れていません。ともかく、です。クリームとホワイトとピンクの薔薇にかすみ草が散って、ロココかロリータかマリー・アントワネットか、といった花々のデコレーションが、生誕祭を祝っていたのです!!!

 ところで、夢の国の「シルクと幕末」の最後に書きました、これ。

「つい先日、大先輩が桐野のお墓参りをなさいましたところ、なんとお墓には、薩摩切子のぐいのみと、きれいな香水瓶が、捧げられていたのだとか」

 高価な薩摩切子が気になっていたのですが、ちゃんとありました!!!

 

 切子だけではありません。金の薔薇やら鶴やら、影にかくれて写ってませんがきらきら小箱やら、まあなんというのでしょうか、まるで下妻物語の世界、でした。

 


 BGMは、なぜかこれです(笑)
 
恋のバカンス ザ・ピーナツ YouTube

 詳細は、また帰りましてから。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寺田屋事件と桐野利秋 前編

2008年11月09日 | 桐野利秋
 実はここのところ、じわじわと腰痛が激しくなってゆきまして、ついに日常動作に支障をきたすようになり、病院にまいりましたところが、「りっぱな腰骨です! なんの異常もありません」と医者。「でも痛いんですけど……」と、力無く訴える私に、医者の宣告は「ぎっくり腰です。痛み止めとしっぷで様子を見てください」
 ああ、そうですか。これがぎっくり腰というものですか。
 というわけで、パソコンの前に座るのも少々苦痛だったりしたのですが、痛み止めとしっぷのおかげで、ましにはなりまして、かといって活発に動きまわりはできないわけですので、この際、たまっているブログ記事でも書こうではないか、と。

 忘れないうちに、アーネスト・サトウと龍馬暗殺で書きました、fhさまが松方日記から発見してくださいました桐野の動静、について、書きたいと思っていたのですが、これが、寺田屋事件に関係あり、でして、かなり面倒な記事になりそうなんです。で、まあ、勢いづけにまたまたなんですが、大河の「篤姫」への苦情を。

 まず一言。なんで、あそこまで似合わない小松帯刀の総髪にこだわるのか、ドラマの意図するところが、さっぱりわかりません。
 で、なんなんでしょうか、龍馬と帯刀だと自称する総髪コンビのあの気持ちの悪いかけあいは!!! 千秋くんと峰くんの下手くそな学芸会にしか見えません。
 だいたい坂本龍馬が、あんなアホなドリーマーなわけないでしょうがっ!!! 「海のかなたに行きたい!」って、あんたは「朝びらき丸東の海へ 」ナルニア国ものがたり (3)リーピチープかよっ!!! そういや、ネズミみたいな顔ではありますが。
 いや、東へ行きたいのか西へ行きたいのか知りませんが、あーた、ファンタジーじゃないんだから!!!
 
 すでに万延元年(1860年)には、小栗上野介が加わった遣米使節団の一行が、世界一周して日本へ帰ってきてますし(ちなみに咸臨丸はアメリカ西海岸までで引き返していますので、勝海舟は一周してません)、密航留学生も多いですが、慶応2年(1866年)には渡航が解禁され、続々と留学生やら芸人やらが海を渡り、薩摩藩はフランスを舞台に交易のあり方をめぐって、幕府と大喧嘩しているその時期に、つーか、そもそも当時の幕府の海外交易のあり方は、討幕の大きな要因ですのに、ただただ漠然と、「世界の海援隊ぜよ。海のかなたに行きたい!」って、あーた。
 「ねえ、ねえ、そこのポエマーなぼく。世界ってどこ? 海のかなたってどこ? 地球は丸いのよ。幸せは海のかなたの空遠く、じゃなくって、足下にあるかもっ! お船に乗って海のかなたをめざしたら、日本に帰ってきちゃうからね」と、頭なでなで、正気かどうか確かめたくなってしまうぼうやちゃんが、龍馬とは!!! 
 で、なんなんでしょうか。あの徹底した中岡慎太郎無視!!!は。
 もう、前言撤回、あんな気色の悪い、地に足の着かないふわふわドリーマーが小松帯刀だというのなら、小松帯刀の名が世に知れないままの方がましですっ!!! 

 と、ほとんど腰痛ストレス発散の罵倒大会になっておりますが、えー、実は今回苦情を言いたかったのは、もっとずっと以前の話でして、寺田屋事件の描き方です。つーか、「篤姫」にうんざりしはじめたのは、あのころから、でした。
 
 「篤姫」の寺田屋事件の描き方が、どう馬鹿馬鹿しかったのか、ですが、まずはこの事件について、わかりやすい解説書のご紹介から。

寺田屋騒動 新装版 (文春文庫 か 2-52)
海音寺 潮五郎
文藝春秋

このアイテムの詳細を見る


 なにしろ海音寺潮五郎氏の著作ですから、心情西郷隆盛より、とでもいうんでしょうか、西郷びいき気味な書き方ではあるのですが、事実関係はほぼ正確で、なおかつ、書簡文などは、すべて口語訳されていますので、非常に読みやすい文章です。

 で、「篤姫」での描き方のなにが私にとって不満だったか、といいますと、有馬新七など、寺田屋で上意討ちにあった突出組の存在を、薩摩藩のみの突出であったかのように描き、結果、西郷隆盛が島流しになったについては、久光との個人的軋轢のみをクローズアップし、あげく、ここがもっともうんざりしたところ、ですが、こともあろうに、有馬新七たちは久光に浪士取り締まりの手柄を立てさせるため、あえて逆らって討たれた!!!と、お口ボカーン、ギャグ漫画みたいな歴史改変をやらかしてくれたことです。なんとも………、笑うに笑えないおやじギャグを聞いた気分でした。
 
 なんでこんな珍妙な解釈をやらかしてくれるのか、つらつら考えてみますに、近年、ですね、戦前の「勤王史観」とでもいったものが否定されるあまりに、禁門の変で長州が敗退するまでの各藩の志士たちを「古いタイプ」として、彼らの尊王討幕論を「観念的なもので、現実性のない行き止まり論」であると、軽視といいますか………、軽視ならばいいのですが、無視してしまう傾向が強すぎるから、なんじゃないんでしょうか。

 確かに、実際の討幕は、薩長の下級武士、それも政治的には、薩摩の西郷、大久保、小松帯刀を中心とした討幕派の、きっちり外交を意識したプラグマティックな舵取りで実現しますけれども、です。薩長土肥の討幕派下級士族たちが、帝を君主とする新政府成立と同時に、自藩の藩主やら家老やらを脇に置いて、日本全体の舵取りの中枢におどり出たについては、それまでに積み重ねられてきた、身分を超え、藩を超えた志士活動による規制秩序のつきくずしがあったから、可能だったことなわけです。
 つまり、土佐の天保庄屋同盟が典型的な事象ですが、尊王思想によって、自らを天皇の直臣と位置づけたとき、下級士族も庄屋も農民も商人も、ひととびに藩の枠を超えて、藩主と対等な立場を得るわけでして、その帝を西洋近代的な君主に位置づけますと、帝の直臣はそのまま、すんなりと近代国民国家の一員に移行しうる可能性をもっていました。
 だからこそ、これまでにもたびたび紹介しましたが、土佐の庄屋だった中岡慎太郎の、以下の大攘夷討幕宣言が、生まれえたのです。

「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケンはかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」


 とりあえず、寺田屋の惨劇が起こるまでにいたった当時の状況を、大まかにでも理解するために、薩摩突出組の中心になっていた有馬新七を追ってみましょう。

 新七は、西郷より三つ、大久保よりも五つ年長です。伊集院の郷士の家に生まれましたが、三歳の時、父が城下士の籍を買って有馬氏を継ぎ、加治屋町に移り住みましたので、西郷、大久保のご近所まわりとなりました。
 城下士の籍を買ったくらいですから、新七の家は、薩摩の下級城下士にしては裕福な方です。父親は、新七が7歳のときから、近衛家に嫁入った島津郁姫の付き人となって、ずっと京詰めでした。
 幼少期から学問熱心で、長じて崎門学派(江戸時代の体制維持思想であった朱子学に国学、神道的な要素を取り入れられ、反体制的な尊王思想となった儒学)に傾倒し、剣は薩摩固有の示現流ではなく、直心影流を学びました。
 19歳にして江戸に私費遊学。崎門学派の私塾に学び、その後、京都の父のもとに滞在して、近衛家に出入りするとともに、同じ崎門学派の梅田雲浜や、梁川星巌など、いわば京都のインテリ名士たちと交遊を深めます。

 こうして経歴を見てみますと、新七は、西郷、大久保にくらべれば、都会的で、洗練された素養を身につけていたようですね。反体制的な要素を持った学問の私塾に遊学、ということは、藩官僚としての立身出世は眼中になかった、ということで、最初から、藩の枠をはみだす可能性を身につけていた、ということでしょう。
 後に安政の大獄で獄死することになる梅田雲浜は、元は小浜藩士でしたが、度重なる藩政批判によって版籍を削られ、浪人の身で、諸国を遊説してまわった人です。
 新七もまた、「藩全体が勤王に邁進できない場合には、藩を離れて個人で勤王に励むべき」というようなことを、述べています。

 ペリー来航は、嘉永6年(1853年)、新七が28歳の時のことです。
 以降の大騒動は、それまで海に守られていた日本が、産業革命を経た欧米の蒸気船と砲の発達によって、周囲の海が攻撃の回廊と化してしまい、砲艦外交に対応する軍事力を、まったく備えていないことに気づかされたことで、巻き起こりました。
 なにしろ、です。江戸300年の太平は、幕府が諸藩の軍事力を削ぎ、押さえつけたことで保たれたのであって、幕府に卓越した軍事力があったわけでもなんでもありません。まあ、現代の世界に例えていってみれば、です。軍事力に関する限り、幕府は国連のようなもので、覇権国アメリカのようではなかったのです。しかし幕府は、国連のように強制力を持たないわけではなく、独裁機関でした。で、諸藩はさまざまな制約をかされ、軍縮をしいられていましたから、日本全体の国防力なぞ、ゼロに等しかったといえるでしょう。
 
 幕府は結局、翌、嘉永7年には、日米和親条約を結ぶことになります。
 征夷大将軍府である幕府が、夷敵(外国)の脅し(砲艦外交)になすすべもない、という状況は、それだけで幕府の権威を落としましたが、だからといって、この時点で、反幕府気運が芽生えたわけではありません。
 このときの幕府の国内的な対応は、なかなかに適切なもので、これは老中・阿部正弘の手腕だったのでしょうけれども、うるさ型といわれた水戸の徳川斉昭を筆頭に、福井の松平春嶽、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂など、親藩、外様を問わずに、見識のある大名を幕政に引き入れ、旗本から庶民にいたるまでに、外交に関する意見を求めましたので、いくら強硬な攘夷論者であっても、条約締結を認めた上で、国防を考えるしか道はないと、あきらめざるをえなかったのです。

 反幕府感情が高まったのは、阿部老中が死去し、保守派の井伊直弼が大老に就任して、斉昭ほか外様大名など、幕政改革派を遠ざけたときからです。
 それまでの幕府の独裁状態を保とうとするならば、たしかに幕政改革は、あってはならないことでした。しかし、井伊大老は大きな勘違いをしていたのです。幕府の権威が落ちたのは、幕政改革を許容しようとしたからではなく、砲艦外交になすすべがないことを、露呈したからなのです。なすすべがない状態をそのままに、改革を忌避してみても、不満が高まるだけでした。
 事は将軍後継者問題にはじまり、かならずしも単純攘夷派ではなかった改革派大名たちが、朝廷に働きかけたことで、安政5年(1858年)、アメリカに迫られて幕府が結ぼうとしていた日米修好通商条約に、孝明天皇は勅許を与えませんでした。
 勅許が降りないまま、大老は強引に条約に調印し、そして、安政の大獄を開始したのです。

 薩摩に帰り、結婚もしていた新七が、再び、京、江戸への遊学を志したのは、安政3年の暮れのことでした。ちょうど、篤姫が、将軍家定のもとへ輿入れした時期です。
 当時、西郷隆盛は、島津斉彬公の指示で、将軍後継者工作に動いていましたが、新七は藩とは関係なく、個人的に、内大臣・三条実万(実美の父)に、建白書を提出したりしています。この時点での新七は、王政復古による中央集権化を目標としながらも、将軍家が自ら朝廷の権威に服することを、思い描いていたようです。
 西郷とちがって、のんびりと物見遊山のように、諸処を旅行してまわり、富士登山にも挑戦していた新七ですが、安政の大獄がはじまり、藩主・斉彬公が国許で死去したことで、がぜん奮起しました。

 えーと、途中なのですが、長くなってしまいましたので、次回に続きます。
 
 
人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ


コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「長州ファイブ」から「半次郎」へ

2008年09月16日 | 桐野利秋
  ええと、突然ですが、昨日、「桐野利秋と結婚したい」とおっしゃるほどの大ファンの先輩から電話で、ヤフオクに春山育次郎著の少年読本の桐野の伝記が出ていることを教わりまして、さっそく入札したのですが、値段がつりあがって落とし損ねました。
 まあ、仕方がないですね。長年、古書店でさがしていたのですが、出たことのなかった本ですし。コピーはもっているわけですから、まあいいか、と。
 それで………、というわけでもないのですが、以下、書きかけで放っていたこの記事を、完成させることにしました。

 ちょっとよそで、半次郎~桐野利秋 風伝~(オフィシャルサイト)の企画が進行中であることを、教えていただきました。
 最近、頭の中が、オスカー・ワイルドだとかラファエル前派だとか、もうすっかり中高生のころに帰った感じで、そっち方面の英語サイトばかりをただよっていまして、存じませんでしたわ、まったく。

 ところで、ご紹介が遅くなりましたが、耳の家のみみこさまが、愛のバトンを受けてくださって、アーネスト・サトウへの熱い愛を、語ってくださっています。
アーネスト・サトウは………、萩原延壽氏の名著のおかげなんですが、読めば読むほど、ほんとうに魅力的な人物でして、私も、バーティとくらべてどちらに愛を感じているかといえば、サトウなんですが、………バーティは、一昔前の少女漫画の登場人物かよ、というくらいに、生まれ育ち、容姿、才能、腕力となにもかもそろいすぎな上に、莫大な財産は転がり込むは、皇太子のお気に入りになって地位も得る、結婚生活も順風で、陰がなさすぎ、とでもいうんでしょうか、でも本当はちょっと変な人みたいな、という疑いがなければ、興味の持ちようもないほどでして………、いや、負けますわ。ありがとうございました、みみこさま。

 で、桐野利秋(中村半次郎)についても、Nezuさまがコメントくださいましたように、「結婚したい!」とおっしゃる大先輩がおられまして、負けますです、はい。
 とはいえ、こうも長く思い続けてきますと、です。私にも強固に、自分のイメージが出来上がっておりまして、映画化には、複雑な気分です。
 ロード・オブ・ザ・リング(The Lord of the Rings)、「指輪物語」の映画化話を知ったときには、飛び上がって喜んだんですけどねえ。物語世界がどう描かれるか、というのと、実在した人物がどう描かれるか、というのでは、なんかこう、ちょっと、私の中での受け止め方が、ちがうみたいです。実在した人物の方が、私の思い入れが深いんでしょう、おそらくは。
 しかし、今度の映画化の話が、もしかすると、期待してもいいかな、と思えるのは、監督が、「長州ファイブ」の五十嵐匠氏であることです。

長州ファイブ

ケンメディア

このアイテムの詳細を見る


 この映画、封切りよりはずいぶん遅れて、うちの地方でも奇跡的に小劇場にかかりまして、喜んで見に行き、そのときにも、そしてDVDを買ったときにも、ブログに感想を書こうかな、と思ったんですが、なぜ後半のファンタジックな、つまりはフィクションである恋物語に心惹かれるのか、その理由を、自分で分析しかねていたんです。
 そりゃあもちろん、松田龍平演じる山尾庸三がとても魅力的だった、というのは、真っ先にあるのですが、それだけでは説明しきれないものが、確かに存在している感じを受けました。

 というのも、この映画は、題名そのままに「長州ファイブ」、つまり幕末に英国密航留学をしていた長州の5人、山尾庸三、野村弥吉、志道聞多(井上馨)、伊藤俊輔(博文)、遠藤謹助を描いている、というふれこみで、実際、前半は確かにそうなのですが、後半はがらりと、山尾庸三一人の恋物語となっていまして、まったくのフィクションであるその部分がなければ、私がDVDを買うことはなかった、と断言できるのです。
 なにしろ、ちょうど薩摩留学生のことを調べていたときでしたし、つっこみどころは豊富で、史実とくらべると、思わず、おい!と、いいたくなる場面も多々あったのです。

 山尾庸三が、後年、盲聾唖者の教育に尽力した、という事実にしても、俗説では、「伊藤博文とともに国学者の塙忠宝を暗殺したことを後悔して」といわれます。
 塙忠宝は「続群書類従」の編者でして、最初にこれを知ったときには、!!!でした。なにしろ当時、音楽や香に関する古書を編纂した「続群書類従」にはお世話になっていましたから、そんなありがたい人物を、「廃帝を画策している」とかのデマに踊らされて暗殺するとは、どういうおっちょこちょいの大馬鹿な二人なんだろう!!! と思ったような次第なんです。
 日本の文化をですねえ、大切に守ろうとしている人物を攘夷気分でまちがえて暗殺しといて、あっさり「さあ、イギリスへ!」って、なんとも小憎らしかったんですよねえ。
 この映画が、です。そういったことをいっさい出さないで、山尾の「聾唖のスコットランド女性との恋物語」というフィクションに語り代えたことは、通常ならば私は、あざとい感じを受けるはずなんですが、それが………、受けなかったんです。どころか、この恋物語こそに、魅せられました。

 それがなぜなのか、自分でもよくわからなかったのですが、今回、大ファンの先輩とともに、映画「半次郎」への期待を語っているうちに、気づかされました。

 山尾庸三は、周防出身でした。
 以前に書いたような気もするんですが、長州における周防出身者は差別されていまして、赤根武人の不運にも、それがあったのだと言われています。
 そして周防には、水軍関係者が多いんです。毛利氏に仕えた村上水軍本家が、伊予から周防大島に移住して、長州藩お船手組をとりしきった歴史があり、瀬戸内海の水運にかかわっていた人々が、多く居住していた地域でした。

 映画で、山尾が恋をする聾唖のスコットランド女性は、シェトランド諸島の出身で、シェトランド諸島といえば古のバイキングの地であり、近代化から取り残されたグレート・ブリテンの僻地です。

 維新以降、日本が近代化して、汽船が登場し、鉄道網が発達するにつれ、従来からの瀬戸内海の回船はしだいに衰えていき、周防でも新しい波に乗れなかった多数の人々が落魄れていきます。
 映画「長州ファイブ」は、前半で、西洋近代への日本人の恋を単純に描きながら、なんといいますか、こう………、近代化を受け入れる中で、見捨てられていく人々への哀惜を込めた断念、みたいなものが、男女のストイックな恋という形で、後半をふくらませたのではないか、と、私には感じられたのです。

 だったのだとすれば、五十嵐匠が描く桐野利秋には、もしかすると………、期待できるのではないかと思うのです。
 オフィシャルサイトのトップに、永山弥一郎の名が出てくるのも、希望の種です。
明治11年、西南戦争の直後に出ました短い桐野の伝記には、永山弥一郎、伊集院金二郎、肝付十郎の三名のみが、桐野のもっとも親しかった友人としてあげられていまして、このうち、伊集院と肝付は戊辰戦争で戦死していますから、西南戦争の時点で桐野の親友といえば、永山弥一郎のみだったのです。
 そして永山は………、まさに桐野への友情に殉じてくれたのだと、私は思っています。

「降り積もるはあの日も雪………」
 この歌で、あの日の桐野をしのびつつ、わくわくと次第に期待をふくらませているこのころです。
 たしか、GO!GO!7188は、鹿児島出身のバンドと聞いたような。

浮舟Ukifune GO!GO!7188-YouTube


人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛のバトン・桐野利秋-Inside my mind-

2008年08月18日 | 桐野利秋
 突然ですけれども、いつものfhさまが、今回は資料ならぬ、「バトン」をくださいました。
 最初、「バトンとはなんぞや?」と考え込みまして、小学校の運動会で、なんでだったか理由は忘れましたが、リレー走に出なくてはならなくなったときの恐怖が……、一瞬、蘇りましたです。
 しばらくして、ようやく意味がわかりまして、嬉しゅうございましたわ、fhさま。


【愛してるんだけどバトン】

1.包み隠さず全て語ること
2.アンカーを突っ走るのは禁止
3.指定されたキャラの萌を語ること
4.指定するキャラは男の子キャラであること
5.回されたら何回もやること
指定→ 桐野利秋


1.初めて出会った場所は?

それが………、よく覚えてないんです。
司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」だと思いこんでいたのですが、よくよく考えてみれば、先に海音寺潮五郎氏のエッセイ集「乱世の英雄」の中の一編で出会っていたような。
萌えたのは、まちがいなく、「翔ぶが如く」を読んでからです。
海音寺氏が描く、伊達で豪快で陽気な桐野と、司馬氏が描く、じとっと暗くて恰好がいいのか悪いのかよくわからない桐野と、こう、「どうしてここまでちがうの?」と、ミステリアスな魅力を感じまして。

(追記)
思い出しました!!!
最初の出会いは、司馬遼太郎氏の「新選組血風録」でした。
土方歳三を追いかけて読んで、これに出てくる中村半次郎(桐野)は、土方のむこうをはる感じで、けっこう印象には残っていて、その後に海音寺氏の著作、です。


2.どこに萌を感じる?

まず、「男は容姿」が私のモットーです。
容姿については、同時代人の証言があります。
大隈重信「身体も大きくて立派なら容貌態度ともに優れた男であった」
佐々友房「容姿秀逸、威風凛然」

しかし、いくら「男は容姿」と申しましても、お人形さんみたいにきれいなだけでは、萌えるわけはないのでございまして、なにより、はあ???とお口あんぐりになるような、アンバランスなところ、です。
やけに農業熱心で、芋ばかり食べて育って、後年にも、最近はやりのエコロジー地味版かよ、という感じで、好んでぼろを着て開拓に励む、かと思えば、一転、上着が青でズボンが真っ赤で金モールいっぱいのフランス軍服(おそらく、明治初期はそのはずです)に、名刀綾小路を金銀のサーベル仕立てにして、フランス製の香水を愛用し、消費の王道を行く!
これが萌えずにいられましょうかっ!!!


3.M?orS?どっちでいて欲しい?

Mにはなっていただきたくないです!
だって、病気で気弱なM気分になったりすると、ド下手くそな上に乙女なお歌を作りますからねえ。
それよりは、チェストォォォーッ!!! と、稲藁相手にSをやっていていただきたいです。


4.どんな仕草が萌?

どんな仕草でも萌えます。お歌を作る以外の仕草なら。
しかし、さっそうと白いアラビア馬に乗って榊原邸に駆け込み、ぱさっと緋色のマントをひるがえして下馬して、太郎くんに手綱をあずけ、ぱぱっと上半身裸になるやいなや、鍬をにぎって、庭の芋畑をたがやしはじめたりしたら………、ほんとに萌えます!


5.好きなところは?

えええええっ!!!というような、意外性、ですかしら。

市来四郎「速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」
桐野は民権論者だったわけでして、こういった意外な話が次々出てくるところが、奥が深くて、好きです。
もうないか、と思っていたら、つい最近も、実は、モンブラン伯爵の秘書をした前田正名と仲良しだったらしい、とわかったり。


6.嫌いなところは?

ド下手くそなお歌を作るところ。
だって………、あの不細工な山県有朋に負けている!!!わけですから。

まあ、いいですわ。お歌の上手い軍人なんて、ろくなもんじゃないからと、それでも弁護してあげる私がけなげです。


7.望んでいることは?

あと1回も2回も3回も………、お墓参りに行きたい。


8.もっとこの子と絡んで欲しい人は?

最近、三つどもえがいいな、と。

永山弥一と中井桜州と、いったい三人でどんな漫才をやっていたのか………、不思議です。

時期は非常にかぎられてしまうのですが、前田正名とモンブラン伯爵と三人、もいいし。

吉田清成と中村太郎くんと三人、なんかもよさげで。
吉田清成がダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとお茶したことと、桐野の絵描き好きをからめたいなあ、と、ちょっと考えてみたんですが、場面設定がとてもむつかしくてー。
いつか、挑戦してみます。


9.この子を描くときに特に主張して描く所は?

絵はまったく描きませんので、文章で、ですかねえ。
うーん。やっぱり意外性を。


10.家族にするなら?

いやです、絶対。
薩摩の田舎で、暮らしたくないです。
でも、うちの曾祖父は、ほんとうに半次郎という名です。


11.学ランとブレザーどっちを着て欲しい?

通常、学ランのイメージなんでしょうけど、ぜひ、ブレザー………、といいますか、イートン校の制服を。
似合いましてよ、絶対!!! シルクハットを投げ捨て、バーティ・ミットフォードと、鼻の骨がまがるまで、ボクシングで喧嘩なんかするとステキです。


12.私服ではジャージとGパンどっちでいて欲しい?

ジャージ着て、潮風の中、豪快にかつおの一本釣りなんかしている姿も捨て難いのですが、破れGパンに銀のピアスなんかつけて、シンフォニック・メタルのリード・ギターなんか弾いてくれるといいですわ。
歌っているところを想像すると、あい、きゃんとげっとのおー さーてすふぁくしょん!とか、薩摩語なまりになりそうなので、ギターがいいです。


13.結婚したい?

いやです、絶対。
薩摩の田舎で姑さんに仕えて、肝心の半次郎さあは、ろくろく家にいない暮らしに、この私が、耐えられるわけがありませんですわ、はい。
私は自分のお家にいて、半次郎さあが通ってきてくださる愛人なら、よさげな気はするんですけど、それでもけっこう、気まぐれにふりまわされて、ヒステリー起こして茶碗をなげつけそうな気が。特にド下手くそなお歌なんか作られますと。


14.最後に愛をどうぞ

KIRINO TOSIAKI
In all your fantasies, you always knew
that man and mystery……


IRATUME
……were both in you.

Nightwish "The Phantom Of The Opera" with lyrics



15.回す人

 耳の家のみみこさまが、なんと!、アーネスト・サトウで、お引き受けくださるとのこと。なんて幸せでしょう! みみこさまのサトウ萌えを読ませていただけるなんて……。よろしくお願いします。




クリックのほどを

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする