郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

墓碑銘が語る赤松小三郎暗殺の真相

2008年03月03日 | 桐野利秋
 もう、どびっっくりしました!!!
 いや、中村太郎さまが、またまたコピーを送ってくださいました。
 その中に、2006年5月号、歴史読本「幕末京都志士日誌」から、結城しはや氏の「桐野利秋 京都日記」というエッセイがあったんですが、美少年と香水は桐野のお友達で話題になりました、黒谷・金戒光明寺の赤松小三郎の墓石のことが詳しく書かれていました。
 やはり、墓石の側面と背面に追悼文が刻まれているそうですが、右側面は剥落し、背面が判読可能なんだそうです。
 そこになんと、緑林之害而死と、刻まれているんだそうなんです。
 
 どうも、fhさまの備忘 中井弘50でご紹介いただきました、忠義公史料の文面と、大きくはちがわないようなのです。引かせていただきます。

先生、姓源、諱某、赤松氏称小三郎、信濃上田人也、年甫十八、慨然志於西洋之学、受業同国佐久間修理及幕府人勝麟太、東自江戸西至長崎遊、方有年、多所発明、後益察時勢之緩急、専務英学、於其銃隊之法也尤精、嘗訳英国歩兵練法、以公于世、会我邦兵法採用式旦夕講習及、聘致先生於京邸、所其書更使校之原本、而肆業焉、今歳之春、中将公在京師也、召是賜物、先生感喜益尽精力、而重訂書成十巻、上之 公深嘉称、速命刻�*、将少有用於天下国家也、蓋先生平素之功、於是乎為不朽、可不謂懿哉、不幸終遭緑林之害、而死年三十有七、実慶応三年丁卯秋九月三日也、受業門人驚慟之余、胥議而建墓於洛、東黒谷之塋、且記其梗概、以表追哀意云尓、
                                   薩摩 受業門生謹識


 不幸終遭緑林之害とありますよね。
 反討幕派の高崎正風が、中井桜洲にかかせたものらしいことが、高崎の日記でわかります。
 桐野が赤松小三郎を斬った理由については、王政復古と桐野利秋の暗殺で推測しました。
 そして、「これは、どう考えてみても、薩摩藩討幕派首脳部との連携でしょう」と、書いたのですが。
 緑林之害ってなんなんでしょう?
 緑林之害に死す、資料原文は、不幸にして終(つい)に緑林之害に会うではないかと、fhさまのご教授です。

 私、漢文が苦手です。
 以前、入江九一から吉田松陰宛てだったと思うんですが、あるいは松蔭の書簡だったか、漢文で読むとなにを書いているのやらさっぱりわからない箇所がありまして、読み下し全集を持っている友人に頼んでコピーを送ってもらったのですが、その註釈を見てもさっぱりわからず、図書館で後漢書だったかを必死になってひっくりかえし、まる一日がかりで、ようやく、その言わんとした故事をさがしだしたことがありました。
 戦後の松蔭全集の註釈がまちがっていたのですから、あきれてものがいえません。
 あれ以来、苦手な漢文は、すすっと、だいたいの意味をとって頭の中で流すようにしていまして、緑林之害がなんであるのか、気にとめていませんでした。
 便利な世の中になったものです。検索をかけてみましたら、ありましたわ。

 wiki緑林軍
 緑林軍は、新代に荊州を主要な活動地域とし、王莽が創立した新に反抗した民間武装勢力である。
新の統治の末期に、荊州江夏郡新市県で顔役を務めていた王匡と王鳳は 、衆に推されて数百人の民衆の頭領となった。そこへ、馬武、王常、成丹などの浪人たちも加わり、離郷聚を攻撃した後、緑林山(荊州江夏郡当陽県)に立て篭もった。その軍勢は、数ヶ月の間に7,8千人に膨らんだという。地皇2年(21年)、荊州牧が2万の軍勢を率いて緑林軍を討伐しにきたが、王匡は雲杜(江夏郡)でこれを迎撃し、殲滅した。これをきっかけに、軍は5万人を超えたと称し、官軍も手を出せなくなった。


 緑林軍が、薩摩受業門生ですね。
 王匡と王鳳って、だれでしょう?
 大久保利通と西郷隆盛以外に、考えられるでしょうか。
 「衆に推されて数百人の民衆の頭領となった」なんですから。

 いや、中井桜洲って………、すごいですわ。


 追記 妄想です。
 11月17日、ちょうど、高崎と中井は、この日、龍馬と慎太郎が襲われたことを知ったところでした。
 中井は、龍馬とも海援隊士ともつきあいがあります。
 といいますか、海援隊の長岡謙吉と遊覧旅行をしてきたばかりです。(桐野利秋と龍馬暗殺 前編参照)

 長岡謙吉といえば、この翌日、龍馬と慎太郎の葬儀の日、京在土佐藩政・寺村左膳道成の日記に以下の記述があります。
 今夜御国脱走人長岡謙吉ともうす者、福岡へ対面のため松本へ来候ところ、もとより才谷、石川同断の者につき、会、桑、新撰組などの目をそそぐところとなり、すでに今夜右長岡の跡付来候者これあるよし、密に告るものあり。依而にわかに松本より裏道を開き、川原へ出し、立ち退かせたり
 今夜、脱藩人の長岡謙吉というやつが、福岡孝弟(土佐藩士)に会うために松本(料亭ですかね)へ来たんだがね、もとより長岡は、暗殺された龍馬や慎太郎の仲間なんで、会津、桑名、新撰組に目をつけられ、跡をつけられていると密かに言ってきたものがあった。いま土佐藩のものが、こんな連中と会っていたとわかってはまずいので、裏道から川原へ出して、引き取ってもらったよ。

 自らも脱藩の身の中井さんには、海援隊士の悲哀がよくわかったでしょう。
 「海援隊、陸援隊は、緑林兵みたいなものだからなあ」と、深いため息をつきます。
 高崎さんいわく。
 「赤松をやったうちの奴らだとて、似たようなもんじゃないか。三郎さま(久光公)のお気に召された者に手をかけるとは! ともかく、墓碑銘を書いてくれ。薩摩がやったと会津の連中が怒っているが、三郎さまは関係ないんだからな」
 桐野がやったらしい、と勘づいていた中井は、苦笑い。
 「ま、赤松は不幸にして緑林の害にあった、とは、いえるかもしれんな」
 と、こうして、不幸終遭緑林之害という言葉は生まれた………、かもしれません。
 

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桐野利秋と龍馬暗殺 後編

2008年03月01日 | 桐野利秋
 桐野利秋と龍馬暗殺 前編に続きます。
 慶応三年十月、大政奉還が公表された当時の京は、殺伐とした空気を濃くしていました。
 昨日もご紹介しましたが、10月14日、大政奉還のその日、京在海援隊士・岡内俊太郎から、長崎の佐々木高行への手紙の最後は、この文句で結ばれています。
 「新撰組という奴らは私共の事に目をつけ、あるいは探偵を放ちある由にて、河原町邸(土佐藩邸)と白川邸(陸援隊)との往来も夜中は相戒め居候次第に御座候」
 新撰組のやつらはぼくたちに目をつけて、探偵にさぐらせていたりして、ここ白川邸と河原町藩邸とを行き来するのも、夜はやめておこうと気をつけているほどなんだよ。

 「私共」というのは、郷士や庄屋、軽輩が中心の土佐勤王党、つまりは主に陸援隊、海援隊士です。
 土佐勤王党と新撰組は、壮絶な闘争を重ねてきました。
 もっとも知られているのが、池田屋事件でしょうか。禁門の変の前に、長州よりの尊皇派の会合を、新撰組が襲った事件です。
 土佐藩は、望月亀弥太、北添桔磨、石川潤次郎、藤崎八郎、野老山吾吉諸の五人という、最大の死者をだしました。
 このうち望月亀弥太は、勝海舟の海軍塾にいた人で、私、高知市内の草深い小山へ、お墓参りに行ったことがあります。
 
 次に知られているのが、三条制札事件です。
 これは、慶応2年の9月、ですから、この大政奉還のちょうど一年ほど前の話です。
 長州を朝敵であると公示する幕府の制札が、三条大橋のほとりに建てられていたんですが、これが墨で塗りつぶされ、鴨川に投げ捨てられました。これは十津川郷士たちがしたことでしたが、当時、犯人はわかりませんでした。すぐに町奉行所が、立て直しましたが、また川へ捨てられたんです。
 またまた制札は立て直されたのですが、9月12日月明の夜、8人の土佐藩士が加茂川沿いを三条大橋の方へむかっていました。
 これを怪しいと見た新撰組原田左之助の一隊は、尾行し、土佐藩士たちが犯行に及ぼうとした瞬間、新撰組隊士二人は屯所へ援軍を呼びに行きます。
 原田佐之助は抜刀し、驚いた土佐藩士たちもそれに応じますが、そこへ新撰組の援軍がかけつけました。
 土佐藩士の刀は長いことで知られていましたが、捨て身の覚悟を決めた8人の白刃が月光に輝き、鬼神も思わずさけてしまいそうな、すさまじい気迫の抵抗だったといいます。
 しかし、多勢に無勢です。土佐側は、藤崎吉五郎が斬られ、宮川助五郎が深手を負ってとらえられ、残りの6人が逃走しようとしたところへ、さらに新撰組の援軍が到着します。
 安藤鎌次は、他の五人に、「おれがここでささえるから、早く逃げろ! みんな、生き延びてやることがあるだろ」と叫び、松島和助、豊永貫一郎、本川安太郎、岡山貞六、前嶋吉平を逃がしました。
 全身に刀傷を負い、絶命したかに見えた安藤でしたが、新撰組が引き上げて後に蘇生し、刀を杖に河原町の藩邸に帰り着きました。邸内の同志は、藩邸にいては咎めを受けるので、逃がそうとしましたが、安藤にはもうその体力がなく、自刃しました。
 捕らえられた宮川助五郎は、奉行所の牢に入れられましたが、土佐藩邸では、厳罰を加えるから引き渡してくれといい、むしろ、そうなることでよけいに過激に走られることを怖れた幕府の方が、引き渡さなかったといいます。
 そして、逃げた5人は、薩摩藩邸にかくまわれました。

 大政奉還の一月後、宮川助五郎は土佐藩邸に引き渡され、藩邸の牢に入れられましたが、坂本龍馬と中岡慎太郎は、それを陸援隊で引きとっては、という話し合いをしていた最中に、刺客に襲われたのです。
 一方、薩摩藩邸にかくまわれていた5人は、大政奉還の前に、薩摩藩邸を出ました。

 以下、10月6日の桐野の日記です。
 松島和助、豊永貫一郎、本川安太郎、岡山貞六、前嶋吉平
 この者どもは、昨年9月13日より故あって、薩摩屋敷へ召し入れ、置かれていたが、このたびまた故あって、お暇下されたとのこと。
 今日より十津川方面へ行くとのこと。

 五人は、どうやら全員陸援隊士となり、本川はこののちも、桐野に会いに来ています。

 龍馬と慎太郎が襲われたとき、まず新撰組が疑われたことには、土佐藩士、脱藩士と新撰組の対立が、ずっと続いてきたことがあったのです。

 大政奉還の後、京は不気味な空気に包まれ、ますます治安は乱れました。
 諸侯は上京してきません。
 そりゃあ、そうでしょう。
 なんの準備もない朝廷に、ぽんと名目だけの大政が投げ帰されて、表面上、無政府状態になったのです。
 いったい、なんのための上京でしょうか。藩地に引きこもっていた方が安全です。
 名目だけでも大政が奉還されたことの不安から、直後に、大政再委任運動が起こりました。
 佐幕派にとっては、大政奉還は討幕への布石ととれ、事実、そうなりつつあったわけですし、佐幕派、討幕派の対立は、かえって激化します。
 なにより肝腎の土佐藩において、その激化から、容堂公は身動きとれず、いっこうに上京の気配はありませんでした。

 10月28日の桐野の日記には、そんな殺伐とした状況をうかがわせる記事があります。
 桐野の従兄弟の別府晋介と、弟の山之内半左衛門が、四条富小路の路上でいどまれ、「何者か」というと、「政府」との答え。「政府とはどこか?」とさらに聞けば、「徳川」とのみ答え、刀をぬきかかったので、別府が抜き打ちに斬り、倒れるところを、半左衛門が一太刀あびせて倒した、というのです。
 大政奉還があった以上、薩摩藩士は、すでに幕府を政府とは思っていません。
 一方で、あくまでも徳川が政府だと思う幕府側の人々にとって、大政奉還は討幕派の陰謀なのです。

 そして………、土佐藩在京の参政、神山佐多衛の日記です。
11月14日
 薩土芸を会藩より討たずんば有るべからざると企これあるやに粗聞ゆ。石精(中岡)の手よりも聞ゆ
 「会津藩は薩摩、土佐、安芸藩を討つべきだということで企てがあるという。中岡慎太郎も同じ事を言っていた」というんですね。
 
11月15日
 町御奉行より今日宮川祐五郎を受取、河原町御邸牢屋へ入候事
 松力へ行、否ヤ我宿より家来申来るは、才谷梅太郎(坂本変名)等切害せられ候由、仍て直に藤次下宿へ行、諸事手くばり等取扱致し候事
但梅太郎即死、石川精之助数カ所疵受、梅太郎家来深手也

 まず、町奉行所から宮川祐五郎が帰され、とりあえず牢に入れたことが語られます。
 そして、その夜、龍馬と慎太郎は刺客に襲われました。
 
 神山と同じく、土佐京都藩邸参政で、大政奉還の建白書に署名した寺村左膳の日記は、後にまとめられたものだけにもっと詳しいものです。事件の詳細が書かれた部分は省きまして、しめくくりの部分を。
11月15日
 多分新撰組等之業なるべしとの報知也。右承る否、御目附方よりは夫々手分し而探索させたるよし也。然るに此者両人とも、近此之時勢に付寛大之意を以黙許せしといえども、元、御国脱走者之事故、未御国之命令を以て両人とも復籍事にも相成ず、そのままに致し有し故、表向不関係之事
 ここで、すでに、新撰組のやったことだろう、という話が出ています。そして………、犯人は探索させているけれども、二人は脱藩者であると。こういう時勢になったので、罪は問わないことになったけれども、復籍したわけではないので、表向き、土佐藩邸は関係ないということだ、というのです。

 桐野がそれを知ったのは、翌々日のことでした。
11月17日
 坂元龍馬、一昨晩何者ともわからぬが、無体に踏み込み、もっとも坂元をはじめ、家来ほかに石川清之助手負いとのこと。家来と坂元は即死、石川は未だ存命とのこと。しかしながら、右の仕業は壬生浪士と見込み入る

11月18日
山田氏が同行し、土佐藩士岡本健三郎のところへ行き、それより坂元龍馬、石川清之助へ墓参りするところに、土佐藩士高松太郎(龍馬の甥・海援隊)、坂元清次郎(龍馬の姪の夫)が墓参りにて、同行して帰る。

 墓参りといいますか、二人の葬儀はこの日に執り行われたわけですから、岡本健三郎、龍馬の親族の二人といっしょだったということは、野辺送り、そして埋葬に、桐野は参列したということです。
 ここらあたりから、粛然と、桐野は、下手な歌も詠まなくなります。

 11月20日 再び神山日記です。
一昨日御邸へ駆込候新撰、薩へはいり候由、其者の口にて梅太郎一事大要分り候事但、恭助中村半次郎(桐野利秋)より聞
 土佐藩邸へ逃げ込んで来た新撰組が、結局、薩摩藩邸でかくまわれて、その者の口から、龍馬暗殺者がだれか、だいたいわかったと、土佐目付の毛利恭助が桐野から聞いてきた、というんですね。

 
 「土佐藩邸へ逃げ込んで来た新撰組」というのは、伊東甲子太郎を中心として、新撰組から分派して御陵衛士となっていた高台寺党です。新撰組本体により、伊東甲子太郎を殺され、斬り合いとなってまた死者を出し、生き残りが薩摩藩邸に保護を求めてきていたのですが、当日に他出していた阿部十郎と内海次郎は、土佐の河原町藩邸に駆け込んで追い出され、薩摩藩邸に保護されました。
 阿部十郎の回顧談では、河原町藩邸を追い出された二人は、陸援隊の白川藩邸をめざしましたところが、その門前で桐野が待ち受けてくれていて、薩摩藩邸にかくまわれた、ということになります。
 一方、西村兼文の「新撰組始末記」では、白川藩邸の陸援隊・田中光顕が、桐野に連絡をとって、二人は薩摩藩邸にかくまわれた、ということです。
 実際に、11月19日の桐野の日記には、三樹三郎、加納道之助、富山弥兵衛が駆け込んできたことと、その子細がのべられ、翌20日には、篠原泰介、内海次郎、阿部十郎の名前が並んでいます。
 しかし、土佐藩目付の毛利恭助の名前が見えるのは、その翌日です。

11月21日
我は土佐藩士毛利恭助、谷守部と同行して、伏見へ行き、泊す
高台寺党の面々は、薩摩の伏見藩邸にかくまわれていて、桐野は、谷と毛利を案内したんですね。

 もっとも簡潔に、王政復古の前夜、二人の暗殺から、海援隊、陸援隊が新撰組を襲う天満屋事件にまでいたる経過を報告しているのは、桐野が二人の埋葬の後にともにすごした、龍馬の甥、小野惇輔(高松太郎の変名)の書簡です。
 本文中にも見えるのですが、この手紙は、翌年、鳥羽伏見の戦いが終わったのちに、龍馬の兄夫婦に宛てて書かれたものです。親族への知らせが、二ヶ月も遅れるほどに、慶応三年の暮れは、激動の中にありました。
 卯之十一月十五日の夜、邸前の下宿にて海陸両隊長会談致しいたり。然るに辰の半刻戸外より案内を乞うものあり。僕藤吉といふもの出てその名を問ふ。十津川の士と答へ尋ねいで名札を出し、才谷先生に逢んことを乞ふ。僕先づ名札を取て樓に上る。彼も亦ひそかに其迹に尾ふ。僕知らずして才谷氏に告ぐ。ひとしく斬りて入る。僕六刀を受けて斃る。十六日の夕方落命。次に才谷を斬る。石川氏同時の事、然れども急にして脱力にいとまもなく、才谷氏は鞘のまま大に防戦すると雖、終にかなわずして斃る。石川氏亦斃る。石川氏は十七日の夕方落命す。衆問ふといえども敵を知らずといふ。不幸にして隊中の士、丹波江州、或は摂津等四方へ隊長の命によりて出張し京師に在らず。わずかに残る者両士、しかれども旅舎を同うせず。変と聞や否や馳せて致るといえども、すでに敵の行衛知れず、京師の二士速に報書を以て四方に告ぐ。同十六日牛の刻に、報書の一つ浪花に着く。衆之を聞き会す。すなわち乗船17日朝入京、伏見より隊士散行す。其夜邸の命を受け、隊の式を以て東山鷲尾に葬る。神葬なり。
 十七日の夜、新撰隊(これは会の司る幕の隊なり)、京師七条の辺りにて戦ふ。王政復古に就て隊長近藤と井藤との二つに分る也、かの井藤は王政復古と知るべし。然るに同十八日之朝、井藤氏の隊中二士難を避け、ひそかに薩の邸に走り来り、才谷、石川氏の事件を中村半次郎といふ人に告ぐ。またわれらが隊中に告る。皆大にいかるといえども大事を思ひ、獨君公よりの御書付あれば、その確証を得んとしてみな白川邸に退く。同十九日の朝、隊中より二士を出して新撰の脱士に面会せし時、確証を得んとて薩の邸に行かしむ。行いて計らず毛利公の二士にあひ、二士われらに今日はまかせと留めらるるを以て、すなわちたくしてまた白川に帰る。夕方また新撰井藤の隊伏見の帰り、変を聞きしとて河原町の邸に入んことをこふ。邸、俗論を以て入れず。すなわち白川にさく。この夜子の刻頃、右の両士を薩の伏見の邸に送る(かたく衛るなるべし)。これより衆敵をうかがう。ついに十二月七日の夜辰の刻より衆茶屋に会し(この時白きはち巻をなす)、紀伊殿下陣御馬屋通り油の小路入る所に三浦休太郎(この人は幕、会、紀の間にありて大に奸をなすとなり)をはじめ、新撰隊長等およそ二十余人、薩土芸の王制復古の論を妨げんとて会せしを告る者ありて、すなわち十六人をまとめて表裏の二つに分ち、彼らを斃さんとて行く。策大にあたり、敵の人数十九人を斃す。手負す者八人と聞く(これは翌日に聞きしこと也)。味方一人死す。手負三人。乱れ皆よく苦戦す。のがるる者追て斃し、あるいはピストルにてうち大に心よく復仇して速に退く。すなわち子の刻なり。翌日の風聞、子の刻ころ、新撰隊士五十有余人変を聞きおしよせ、味方退きし後なれば空しく反るよし。
 右の通りの儀にござ候。実に隊中手足を失ひし如く存じ奉りそうらえども、仕方ござなく候。なお私よりは変死の節はやに申し上げ候儀なれども、時勢急なる故、やむをえず延引つかまつり候。惇輔も天下の為に死を致し候心得にござ候間、それより西東へ走り回りい候ゆえ、御叔父上様の変ははやに申し上げず候。この段平に御ゆるし願いたてまつり候。頓首   正月二十三日 小埜惇輔


 龍馬と慎太郎が襲われた11月15日、高松太郎は大阪にいて、翌16日の昼ころに知らせを受け取ります。
 大阪近辺にいた仲間に知らせがいきわたり、一同が伏見へ向かう川船に乗り、京へ着いたのは翌17日の早朝です。
 まだ命を保っていた中岡慎太郎に、みなが「いったいだれがこんなことを!」と問いますが、慎太郎は「知らない奴らだった」と答えて、17日の夕方に絶命します。
 18日の東山鷲尾埋葬時に、高松太郎は桐野と出会い、嘆きをともにします。
 高松太郎は桐野より四つ年下ですが、旧知の仲であったわけです。
 前回にも述べましたが、元治元年の暮れ、小松帯刀は大久保利通に「中村半次郎が神戸海軍塾に入りたいと言っているので、はからってやってくれないか」と頼み、同時に、脱藩扱いで海軍塾にいることができなくなった龍馬ほかの塾生を、薩摩で引き受ける話をしています。
 この塾生に、高松太郎もいたわけでして、おそらく桐野は、このころから塾生と親交があったのだろうと思われるのです。

 高松太郎は、ちょっと日にちをまちがえているようなのですが、以降の経過は、おそらくこういうことなのではないでしょうか。
 この18日の深夜に油小路事件が起こり、翌19日の早朝、三樹三郎、加納道之助、富山弥兵衛が薩摩藩邸に駆け込んできて保護を求めるのですが、桐野はちょうど帰京していた大久保利通の許可を得て、三人をかくまいましたところが、どうやらこのうちの二人が、龍馬と慎太郎の暗殺者が新撰組である旨を告げたようです。それを桐野は、ひそかに海援隊士に伝えたと。
 寺村左膳の日記に見えますように、すでに二人が襲われた15日から、新撰組がやったのだという噂はありました。
 また「新撰組始末記」は、生前の伊東甲子太郎と、20日に一人で薩摩藩邸に駆け込んだ篠原泰之進が、龍馬と慎太郎に新撰組が狙っている、と告げたという話を、「新撰組始末記」は載せています。
 おそらくこれは、11月14日の神山日記「薩土芸を会藩より討たずんば有るべからざる」に相当する話でしょう。
 ともかく、海援隊、陸援隊は騒然となっていたようです。
 
 この19日、内海次郎、阿部十郎は河原町土佐藩邸で門前ばらいをくらいます。
 邸、俗論を以て入れずの言葉に、高松太郎の歯ぎしりが聞こえるようです。
 ここにいたってまだ、土佐藩庁は覚悟を決めないのか、というもどかしさと、そして高松もまた、脱藩浪士であったがゆえに、よるべなく追われる身の悲哀を味わいつくしていたわけでして、自藩に頼ってくる者をかばう度量が欲しい、という切望があったでしょう。
 次いで、内海次郎、阿部十郎は陸援隊の白川邸に駆け込み、あるいは阿部の回想にあるように、白川邸には桐野が来ていたのでしょうか、夜を待って二人は薩摩の伏見藩邸へ送られます。おそらく、暗殺者が新撰組であると詳しく語ったのは、この二人であった可能性が高く、翌21日、海陸援隊から二人が、もっと詳しい話を聞こうと伏見へ行ったのですが、そこには、桐野とともに、土佐藩の目付である谷干城と毛利恭助がいて、「ここはおれらに任せとけ」といわれたので、引き下がったわけです。

 そして、翌11月22日、三千の藩兵を引き連れて、島津忠義公が、西郷隆盛とともに、伏見へ着きます。
 龍馬と慎太郎を失ったことへの悲しみは、西郷をもとらえていたでしょう。
 王政復古、新しい政体創出へ向けての大詰めは、この日にはじまりますが、龍馬と慎太郎は死をもって、薩長に土が並び立つ土壌をかためたのです。

 王政復古のクーデターを目前にして、12月7日、天満屋事件が起こります。
 海援隊の陸奥宗光が、海陸援隊士ほか浪士から有志をつのり、新撰組が守護する紀州藩の重臣三浦休太郎を襲った事件です。
 手紙に見えるように、この襲撃に高松太郎は加わっていました。そして、制札事件の後、薩摩藩邸にかくまわれていた松島和助、豊永貫一郎、本川安太郎、岡山貞六も加わっていたのです。
 三浦休太郎は、この年の春、海援隊が運用する大洲藩のいろは丸と紀州藩の汽船がぶつかった事件で、紀州藩側の中心となっていた人物であり、海援隊とは因縁がありました。交渉で、紀州藩が負けた形になったところから、龍馬に恨みを持ち、新撰組に暗殺させたのではないか、というような憶測もあって、この日の襲撃となったようです。
 しかし、高松太郎が「この人は幕、会、紀の間にありて大に奸をなすとなり」と書いていますように、龍馬の直接の仇というよりは、「薩土芸の王制復古」のためだったのではないでしょうか。
 長州はいまだ晴れて京都に入ることはできないため、王政復古のクーデターは薩摩が行ったのですが、その薩摩がはっきり味方と認識したのは、土佐と安芸だけです。
 ここに土佐が入ったのは、もちろん土佐藩討幕派に期待してのことですが、薩長の間に立って大きく働いてくれた、龍馬と慎太郎があればこそでした。
 ところが土佐は、この日になってもまだ、容堂公は京へ姿を現していず、後藤象次郎は煮え切らないままに、クーデターの日を迎えようとしていたのです。
 海援隊、陸援隊の中心人物は、岩倉具視あたりから、王政復古の概容は聞いていた可能性があり、同時に土佐藩への危惧も耳にしたでしょう。
 陸奥宗光は、「薩長に並んで土佐が立つ」という龍馬の悲願のために、土佐の支配下にある陸海援隊が紀州藩重役を襲った、という既成事実をつきつけ、後藤象次郎と土佐藩庁に後戻りの道がないことを、思い知らしめようとしたのではないでしょうか。
 しかし念願かなって土佐が立ったとき、高松太郎は、叔父・龍馬と慎太郎の死の大きさを実感します。
 二人が築いたものを受け取ったのは、藩の上士たちだったのです。

 そして12月9日、王制復古のクーデターの日。桐野は簡略に記しました。
 今朝八時、幕会の賊を攘わんため、一番隊はじめ、出勤する
 天気は、と。

 文久二年(1862)、はじめて京へ出た桐野は、それから幾度も脱藩を考えたでしょう。
 わけても元治元年には。
 しかし、西郷隆盛と小松帯刀の理解に守られ、脱藩することなく、この日を迎えることができたのです。
 外へ出たい、という思いを、常に桐野は抱いていたからこそ、脱藩士に共感を抱き得たのではなかったかと思うのです。
 国許にいたころ、脱藩する中井桜洲の背を、むしろうらやましく見たのではなかったかと。
 父を早くに失い、兄にも死なれ、貧しい一家を背負った身で、それは不可能なことでした。
 が、このとき桐野は、脱藩の身のよるべなさ、悲哀もまた、知る年齢になっていました。

 龍馬と慎太郎と、そして多くの非命に倒れた脱藩同志たちの思いを、桐野はこの日の風花のような雪に、かみしめていたでしょう。


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桐野利秋と龍馬暗殺 前編

2008年02月29日 | 桐野利秋
 とりあえず、おそらく、大政奉還 薩摩歌合戦の続きです。
 最初にお断りしておきますが、私、薩摩陰謀説とか、リアリティの感じられないものはほとんど読んでいませんので、それに対する反論ではありませんので、悪しからず。

 大政奉還と桐野利秋の暗殺にいただいておりますfhさまからのTB、そのころ、ほんとは、左太朗さんは。から以下。

10月17日 高崎左太郎(正風)
小松、西郷、大久保など発京、夕方後藤大東をとふらふ。語ふかして田中の寓にやとる。天気よし。

で、桐野利秋の日記
10月22日
備前藩士青山某の所へ行き、帰りに村田へ寄り、ここより永山、田中氏が同行し、暮に帰邸する。

 この田中が、おそらくは同一人物なんです。
 田中幸介は変名で、中井弘(桜洲)のことです。
 鹿鳴館と伯爵夫人に書きました簡単な人物紹介。

 中井桜洲、桜洲は号で、維新後の名前は中井弘ですが、彼は鹿鳴館の名付け親でした。
薩摩の人ですが、脱藩して江戸に出たところで連れ戻され、また脱藩します。薩摩の気風が、肌にあわなかった人のようです。
二度目の脱藩後、土佐の後藤象二郎と親交を深め、また伊予宇和島藩に雇われて京都で活躍したりするのですが、宇和島藩は薩摩と関係が深かったわけですから、脱藩したといっても、引き立てを得る薩摩の人脈は、あったのではないかと思ってみたり。
後藤象二郎が金を出したといわれるのですが、慶応二年の暮れから渡欧し、パリの万博も見て、簡略ですが、そのときの日記を残しています。

 明治時代に出版されました桐野の伝記の中に、この中井桜洲の回想が出てまいりまして、ちょっといま実物が手元にありませんで、正確ではないんですが、中井の脱藩を一人桐野が見送ったりしていまして、桐野と仲がよかった人なんですね。
 ただ、この人は西郷嫌いです。市来四郎もそうなんですが、桐野はなぜか、西郷嫌いの人々に評価されていたりします。

 パリから帰って来た中井さんは、とりあえず長崎にいて、なにしろ土佐の後藤象二郎の援助で欧州へ行きましたから、後藤の手助けをすることとなります。
 いったい、なぜ後藤が、薩摩脱藩の中井に、洋行の金を出したのかは謎です。
 海援隊には、洋行志願者がいっぱいいますのにね。土佐には古風な攘夷論者が多いですから、脱藩といえども、土佐の人間を洋行させるのに金を出すことが問題だったのか、あるいは、強固だった土佐上士の郷士(土佐勤王党の脱藩者はほとんどそうです)への差別意識に配慮したのか、なにはともあれ中井が気に入ったのか。
 ここらへんは、fhさまのところの方が詳しいかと思うのですが、まあ、そんなわけで、欧州帰りの中井は、坂本龍馬とも知り合い、大政奉還の建白書に手を入れました。(慶応3年6月24日「薩の脱生田中幸助来会、建白書を修正す」と佐々木高行の日記にあります)。
 なにしろ欧州帰りで、薩摩藩留学生たちともお話しして帰ったわけですから。
 ただし、期間が短かったものですから、付け焼き刃だったことは否めませんが。

 で、日記に話をもどしますと、大政奉還の直後です。
 反討幕派の高崎さんは、討幕の密勅をまったく知りません。小松、西郷、大久保の三人が、密勅を奉じて京を発った日、高崎さんは後藤象二郎を訪ねて、おそらく祝杯をあげたのでしょう。語るもつきず、結局、「田中」のところへ泊まります。
後藤と語って泊まったのなら、この「田中」は、薩摩出身の中井であろうと推測されるわけです。

 一方の桐野の日記のこの日の「田中」が中井であるかどうかについては、ちょっと問題があります。
 桐野の日記に最初に「田中」が登場しますのは、9月12日で、田中幸介とフルネームです。この日も田中は永山といっしょで、「田中」は薩摩の永山弥一郎とも親しかった様子なのです。
 永山、桐野は討幕派です。大政奉還建白書に手を加えた中井が親しげに出てくるのは、ちょっとうん?という感じもあるんですが、栗原智久氏は中井であると断じておられます。
 あるいは、土佐脱藩の陸援隊士・田中顕助(光顕)ではないのか? とは、私も思ったんですが、桐野の日記の書き方が、他藩士(脱藩でも)が登場するときには、かならず藩名を書いていまして、「田中」は薩摩藩士のようにあつかわれているんですね。
 それと、田中顕助には、「丁卯日記」という慶応3年6月1日から8月22日までの日記がありまして、薩摩藩士との交流は盛んなんですが、桐野も永山もいっさい名前を見せず、桐野の日記にみられるように、個人的に親しかったとは、とても思えないんです。
 ここは、田中幸介とフルネームが出ているんですし、栗原智久氏の断定が正しかろうと思われます。
 ただ、もう一つ、この日の桐野の日記に中井が出てくるについては、問題があります。

 土佐の京都藩邸にいた重役で、大政奉還の建白書にも署名している神山左多衛の日記に、こうあります。

10月20日条
 長岡謙吉、田中幸輔両人を以て今日出立にて横浜へ指立候事

 つまり、中井は海援隊の長岡とともに、20日に横浜へ出発したことになっているんです。
 なにしに行ったかといいますと、京都土佐藩邸の公費で遊覧旅行です。
 ああ、いえいえ……、表向きは、といいますか、金を出した土佐藩庁は真剣だったみたいですが、イギリス公使館員のアーネスト・サトウに、議会のことなんかあ、教えてくんないかなあ、サトちゃん~♪と、聞きにいったんです。
 で、まずサトちゃんに見せたのが、大政奉還の建白書です。
 それに目を通したサトちゃんは、まず、「これって、体制を変えるつもりはないってことだよねえ」、とつぶやきます。
 議会の開設、教育の普及、条約改正の項目には注目していますが、根本的な変革ではなく、幕府に改革を求めたものとしか、受け取っていないんです。
 そりゃあ、そうでしょう。
 なにしろ、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたが、モンブラン伯爵がパリの地理学会で発表した「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は諸侯のひとりにすぎない」という趣旨の論文をもとに「英国策」を書き、薩摩がパリ万博でなにをしたかも、十分に知っているサトちゃんです。
 さらには、薩摩がモンブランの世話で、これまでにない本格的な軍艦キャンスー(春日丸)を、購入したばかりだということも、知っているんです。
 で、それもそうなんですが、議会の開設を建白しておいて、いまさら外国の公使館を訪ねてきて、「議会ってどんなもん? 教えてくんないかなあ~♪」です。
 なんというあほ!なんでしょう。泥棒をつかまえて縄をなうとは、このことです。
 もっともサトちゃんは、こんな失礼なことはいいません。
 「ぼく、そんなお勉強していないし、こんど開港で大阪へ行くから、ミッドフォードさんに頼んでおいてあげるよ」と、上手に断ります。
 イギリス公使館のミッドフォードは、名門のおぼっちゃんで、パークスやサトウとはクラス(階層)がちがいます。当然、教育環境もちがい、イートンからオックスフォードというエリート教育を受けています。
  まあ、このことは長崎まで伝わったでしょうし、あまりに恥ずかしいですから、そんなこともあって、モンブラン伯の長崎憲法講義で書きましたように、五代は欧州の議会制度や憲法などのモンブラン講義を企画し、土佐の佐々木高行は国許にその講義録を送ったんでしょうね。

 それはともかく、聞きに行った中井と長岡は、どこまで本気だったんでしょうか。
 短期間とはいえ欧州へ渡り、薩摩の留学生たちと親交を持った中井が、ちょっと横浜でサトちゃんから議会を教わろう、と本気で考えたとは、とても思えないんです。
 長岡謙吉は、この旅行で、「握月集」という漢詩集を作っているんですが、その冒頭は「丁卯の秋、予、濃尾に遊ぶ。往還15日」なんです。
 つまり、横浜へ行って来たよ、じゃなくて、濃尾で遊んできたよ、なんです。
 さらに二人が京都へ帰って来たのは、11月12日で、龍馬暗殺の三日前です。
 往還15日ですから、ほんとうに10月20日に京を発ったのかどうかは、疑問なんです。
 妄想をたくましくしますと、神山に多額の旅費をもらったとたんに二人は、一仕事終わったんだしい、金はあるしい、急ぐ旅でもないんだからさあと、京の遊郭にしけこんだんじゃないんでしょうか。

 で、もし、10月22日に中井が京にいたと仮定します。
 桐野は、高崎左太郎が中井の宿に泊まり込んだ10月17日に、密勅を奉じて帰国した小松、西郷、大久保を、伏見まで見送っているんです。密勅のことは、当然中井は知らないわけなのですが、大政奉還の報告に帰国するにしましても、三人そろってとは、尋常ではありません。
  中井が仲良しの永山とともに、桐野の話を聞きに訪ねたとしても、不思議はないんじゃないでしょうか。
  後藤によりそい、反討幕派の高崎正風になつかれていたらしい中井は、しかし一方で桐野に会っている。
  中井は反討幕派なんでしょうか?
  後藤はともかく、海援隊と親しいことは、反討幕派のあかしなんでしょうか。

 つまり、なにが言いたいかと言いますと、後藤が代表する土佐藩庁と、龍馬が率いる海援隊は、ぴったり意志が重なっていたとは、いいがたいのではないか、ということです。
 以下、10月14日、大政奉還のその日、京在海援隊士・岡内俊太郎から、長崎の佐々木三四郎(高行)への手紙です。(宮地佐一郎編「中岡慎太郎全集」より)

 (前略)翌日、才谷(龍馬)、私、中島三人同伴して、白川本邸内に参り、石川清之助(中岡慎太郎)に面会、方今の事情各藩の形事等を聞く。薩長はいよいよ進んで兵力を以て為すの薩論一決し、長藩素より其論一決し、薩長一致協力いよいよ固しとの事に御座候て、下関において聞きたる処寸分違はず、実に愉快なる事に御座候。然る処、御国は象次郎(後藤)もっぱら尽力にて御隠居様の御建言に尽し、石川はもっぱら薩長の間にあって兵力の事に尽し、才谷等私共ぜひ薩長とともにする事の周旋尽力仕り、この際、長岡謙吉はもっぱら筆を採て才谷を助け、才谷は薩長人の間に周旋し、また吾後藤象次郎殿に論議参画し、とにかく御建言は御建言に進め、また薩長の挙兵論は挙兵論に進め(後略)

 くだいて言いますと、こういうことでしょうか。
 京に着いた翌日、龍馬とぼくと中島とで、白川の中岡慎太郎を訪ねて、現在の状況を聞いたんだよ。
 中岡が言うにはね、長州はもちろん以前からそうなんだけど、薩摩もいよいよ挙兵で藩論がまとまったんだって。薩長一致協力で挙兵すると、下関で聞いたこととまったくちがわなかったね。なんて、喜ばしいことだろう。
もっともお国(土佐)じゃ、後藤象次郎が容堂公の大政奉還建言のために尽くしているけどね、中岡は薩長の間に立って兵力のことでいろいろがんばってるし、龍馬と僕はね、ぜひとも土佐を薩長とともに事がなせるよう、ひっぱっていこうとしているよ。で、そのために、長岡は筆で龍馬を助け、ぼくは後藤に入説してるんだけど、まあ大政奉還は大政奉還で進めてね、挙兵は挙兵で進めていこうってことだよ。

 中岡慎太郎は、岩倉具視とひじょうに親しく、討幕挙兵推進論者ですし、討幕の密勅について、知っていた可能性がとても高いのです。この場で、その話はでなかったのでしょうか。
 この日の前日、すでに徳川慶喜は二条城で、大政奉還を発表していたのです。
 ただ、慶喜公がぽんと朝廷に大政奉還したところで、まず朝廷改革からやらなければ、なにごとも前へは進まないのです。
 とりあえず諸侯会議が催されるという話でしたが、いったい、どれだけの諸侯が上洛してくるというのでしょう。
 武力なしには、大政奉還建白書の実現は不可能でしょう。
 だからこそ西郷隆盛は、兵を率いてこなかった後藤象次郎に「土佐はやる気がないのか」と言ったわけです。

 で、この翌月、11月に書かれた坂本龍馬の「新政府綱領八策」。
 1.天下に名の知れた人材を集めて、顧問にしよう
  2.大名の中から有能な人を選んで、朝廷の直臣にして、名前だけの官職は除こうよ
 3.外国との交際を論じなくちゃね
 4.法律を整え、新たに「無窮の大典」(憲法のつもりらしい)がいるね。法律が定まれば、諸侯はみなこれを守って藩士を率いるんだよ
 5.上下議政所(議会のつもりらしい)がいるね
 6.海陸軍局がいるね
 7.近衛兵もいるよね。
 8.金銀の価値を外国とそろえないとね

 これらのことはね、あらかじめ物事のよくわかった二、三人で決めておいて、諸侯が集まったら承認を得ようよ。
 とあって、その後です。
 「○○○自ら盟主と為り、此を以て朝廷に奉り、始て天下萬民に公布云云。強抗非礼、公議に違ふ者は、断然征討す。権門貴族も貸借する事なし」
 ○○○が自ら盟主と為って、これを朝廷に奉ってね、天下萬民に公布して、逆らうものは征討するべきだよ。諸侯貴族だって容赦することないよ。

 「○○○自ら盟主と為り」というこの伏せ字が、これまで、主には慶喜公である、といわれてきたんです。
 以前に書いたことがありますが、容堂公説もあります。
 松浦玲氏は、もともとだれと決めているわけではなく、これを見せられたものが、それぞれに考えればいいように書いたのではないか、というユニークな説でしたが、その後に慶喜公、「大将軍」ではないか、とされました。

 ありえないと思うんです。
 だいたい、なんでここに将軍や諸侯が入るんでしょうか。
 幕藩体制をくずしていこうというときに、それはないでしょう。

 「大名の中から有能な人を選んで、朝廷の直臣にして、名前だけの官職は除こうよ」
 これが朝廷改革、幕藩体制解消の第一歩でなくて、なんなんでしょう。
 そしてこれは、多くの既得権を奪うことでもあるんです。
 武力なくして、どうして成し遂げることができるでしょう。だから、「逆らうものは征討するべきだよ。諸侯貴族だって容赦することないよ」なんです。
 ○○○は、薩長土ではないでしょうか。
 岡内俊太郎が言っていますよね。「才谷等私共ぜひ薩長とともにする事の周旋尽力仕り」と。
 中岡慎太郎にとっても、薩長とともに土佐が立ってくれることこそが悲願です。
 土佐郷士たちは、勤王党を結成して以来、藩内で多くの犠牲者を出し、多くが脱藩し、多くが非命に倒れてきたんです。
 その間、時期こそちがえ、かばってくれたのは薩長でした。
 主に土佐脱藩郷士の集まりである海援隊と陸援隊が、薩長の挙兵を喜ばないはずはないのです。
 討幕がなって、はじめて、彼らは故郷に帰ることができるのです。
 この時期、海援隊、陸援隊は土佐藩の庇護下にありますが、その中心人物である龍馬も慎太郎も、いまだ脱藩者扱いであったことは、二人が暗殺された日の寺村左善の日記でわかります。

 桐野は、元治元年、禁門の変以前から、中岡慎太郎と知り合っていました。
 この年の暮れには、神戸海軍操練所に入塾を希望していたことが、小松帯刀の大久保利通宛書簡に見えます。
 同じ小松の書簡に、龍馬をはじめ、もともとは海軍塾にかかわっていた土佐脱藩者を、薩摩藩で傭う話が見えます。
 有馬藤太の後年の回顧ですが、寺田屋で襲われた龍馬が薩摩の伏見藩邸でかくまわれていたとき、桐野がついていた、という話も見えます。
 慎太郎とも龍馬とも、桐野は親しかったんです。

 慶応3年の秋にも、桐野は二人に会っています。
 
 10月12日 
 土佐脱藩士石川清之助が来訪する。

 11月10日
 山田、竹之内両氏が同行し、散歩するところ、途中にて、土佐脱藩士坂元龍馬に逢う。
 
 そして11月17日、龍馬と慎太郎は維新を目前にして、非命に倒れるのです。

 次回に続きます。

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大政奉還 薩摩歌合戦

2008年02月24日 | 桐野利秋
 えーと、またまた書きかけたものがあったんですが、fhさまからすばらしいTBをいただきましたので、予定を変更しまして。
 大政奉還と桐野利秋の暗殺の続きですが、雰囲気はがらりと変わります。参考文献および引用は、すべて昨日のままで。

 慶応3年9月3日、約束を違え、兵を連れず京へ帰って参られました土佐の後藤象二郎さまは、西郷隆盛さまにお会いになられます。
 「土佐は言論でやるじゃがき!」
 その4日後の7日、西郷さまが後藤さまにお答えになられました。
 「もはや口先ではなりもはん。薩摩は兵を挙げもす」


 翌8日、討幕反対派の高崎左太郎(正風)さまは、仁和寺に参られまして、光格帝のお手紙や御経文なんぞを拝観なさったようでございます。
 氷とけみずぬるむえの水のあや をるやつつみの青柳のいと

 西郷さまが、挙兵に言及なされたのは、6日に国許から歩兵三小隊と一大砲隊が到着いたしましたからでございます。
 桐野利秋さま、このときのお名は中村半次郎さまですが、ともかく筋金入りの討幕派でおられる桐野さまは、7日、8日と上京して来られた旧知の方々と会われ、討幕挙兵が決したことへの喜びをかみしめられたようでございます。
 つつみおく真弓もやがて引しぼり 打はなすべき時は来にけり

 高崎さまは、後に宮中のお歌掛長を勤められ、明治大帝のお気に召されたお方でございますので、この歌合戦、当然のことながら、高崎さまに軍配があがりそうなものでございますが、なにしろ合戦でございますので、お歌の出来のみで勝敗がつくものでもございますまい。






 チェストォォォーッ!!! 行けえーっ!!! 
 この桐野さまの迫力には、引いてしまう………、あー、いえいえいえ………、魅せられるものがございます。
 ところがところが。
 そうは問屋がおろさなかったのでございます。
 後藤さまの口先大政奉還運動は、雅におすごしの高崎さまのお望み通りにうまく運びまして、薩摩さまでは、討幕反対の声が高まります。
 お国元では、ご家老の関山糺さまが、このように言っておられたのだそうでございます。
 「京の連中は長州なんぞに義理立てしもうして、お国を滅ぼすつもりでごわんどか!」
 先に大久保利通さまは、長州に赴かれ、木戸孝允さまなどと、出兵の協議をされておられました。
 ところが、お国元の反対が強いことなどもあり、薩摩さまのさらなるご出兵は、遅れたのでございます。
 機会は失われました。
 そこで、西郷さまや大久保さまは、新たな戦略を練られたのでございます。
 大政奉還の実現を、むしろ好機ととらえよう! 
 大政奉還の後には、名目上のみでも、幕府の諸藩への拘束力は消え失せるのでございます。
 その上で、薩摩の藩論をまとめあげ、本格的に軍勢を出せば、諸藩をなびかせることが容易になる、とでもいうことになりましょうか。
 そこで、討幕の密勅でございます。
 天子さまが、薩摩さまに討幕をお命じになれば、それに逆らうことは朝敵となることで、日ごろ尊皇の志云々と申しております以上、だれも逆らえない、というわけでございます。

 慶応3年10月13日、島津久光公、忠義公に、討幕の密勅がくだりました。
 そのようなことは夢にもご存じのない高崎さまは、大政奉還の行方のみを気にかけておいでです。
 10月13日の高崎さまの日記にはこう書かれております。
 今日諸藩を二条城にめす。我藩小松ぬしいでられぬ

 一方の桐野さまの気がかりは、兵のことばかり。
 密勅工作はさすがに詳しくご存じなかったとみえまして、薩摩さまの出兵が遅れておりましたことに、大政奉還の前になんとかと、焦りを感じておられたようでございます。
 このたび長門の国まで兵士が来たと密に告げに来る。悦びに詠む。
 よろこびも袖の中なるうれしさを やがて人にもつたうなりけり
 

 翌10月14日、徳川将軍慶喜公は、朝廷に大政を奉還されました。
 前日には、慶喜公は諸藩の代表を集められ、そうなさる旨を発表されておられまして、薩摩さまの代表は高崎さまの日記に見られますごとく、小松帯刀さまでございました。
 この日高崎さまは、こう記しておられます。
 朝かへりて小松ぬしを訪、きのうふのこと詳に聞く。よろこびにたへず。

 一方の桐野さまは、昨日にうってかわって、うち沈まれたようでございます。
 まず、「川上仲太郎が今朝発足帰国のこと」とありますので、あるいは川上さまに関係することかとも思われますが、やはりこれは、大政奉還前に挙兵が間にあわなかった衝撃ではありませんでしたでしょうか。
 思うことあって。
 草枕おもうもつらき世の中は ただうたたねの夢にこそあれ
 
 ところがところが。
 その翌日、桐野さまは、心願成就の感触を得られるのでございます。
 10月15日、桐野さまはこうしたためられます。
 西郷氏の所へ行き、御朝議のことを承ったところ、いよいよ将軍は職を退職御免となるなどの御内決であるとのこと。もっとも、ほかに勅書を写し置く。
 桐野さまは、不安をかかえながらも、西郷さまを訪ねられたわけでございますね。
 「西郷(せご)さあ、どげんぐあいでごわんそか?」
 「半次郎どん、心配はいりもはん。こいがありもす」
と、にっこり、討幕の密勅を見せてもらわれたわけでございます。

 チェストォォォーッ!!! 行けえーっ!!! 

 いえ、まあ、それからもいろいろと難しいことはございましたが、小松さま、西郷さま、大久保さまのお三人は、討幕の密勅を奉じて国許へ立たれまして、10月17日、それを桐野さまは伏見まで見送りに行かれました。
 こうして挙兵へ向け、ご藩主忠義公さまの兵力を伴っての上京が、実現したのでございます。

 本日の最後をしめるのは、これでいかがでございましょうか。Gackt-闇の終焉-紅白歌合戦
 (日本版はあげる片端から消されているようですが、外国の方がまた次々あげてくださってます。美しくも笑えます)


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大政奉還と桐野利秋の暗殺

2008年02月23日 | 桐野利秋
「王政復古―慶応3年12月9日の政変」 (中公新書)
井上 勲
中央公論社

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 中村太郎さまから、昭和10年に発行されました赤松小三郎の伝記「幕末の先覚者 赤松小三郎」のコピーをいただきました。著者は、千野紫々男氏です。
 まだ、まったく他の史料を読み込んでないのですが、とりあえず、桐野が赤松小三郎を斬った理由について、考察してみようと思います。
 王政復古直前、慶応三年の政治状況につきましては、井上勲氏著の「王政復古―慶応3年12月9日の政変」を主に参考にさせていただきまして、赤松小三郎暗殺について、克明に記されました桐野の「京在日記」については、栗原智久氏著「桐野利秋日記」を、参考にさせていただきます。

 薩摩藩首脳部の討幕派が、はっきりと討幕を決意したのは、慶応三年五月、京での四侯(松平春嶽、島津久光、伊達宗城、山内容堂)会議が決裂したからです。
 井上勲氏は、そもそもこの四侯会議の前に、薩摩の策謀で、佐幕派の公卿が退けられた、と推察されています。
 といいますのも、この一月前、イギリス公使ハリー・パークスが、京都への旅行を望み、幕府はそれを拒みましたが、洛中には入らない、という約束で、大阪から伏見を通り、日本海側の敦賀(現福井県)へぬける旅行を許可しました。
 これが尊攘檄派を刺激し、公家たちも多く、怒ったわけですね。
 京都の近くまで、夷人を入れるとは! ということです。
 薩摩藩討幕派はもちろん、積極的開国論でして、幕府を困らせるためにパークスをそそのかした可能性が高いのですが、これを利用します。
 親幕派の廷臣(公家)たちを、罷免させたのですね。
 徳川慶喜は、これに抗議しますが、なにしろ朝廷には攘夷派が多いですし、また前年の暮れの孝明天皇の崩御を受けて、二条斉敬が関白となり、新帝はお若いですし、専横が目立つと、近衛、一条、九条という、かならずしも反幕府ではない摂家の当主たちも、親幕派の廷臣罷免に賛成で、抗議は退けられます。
 それで、いよいよ本格的に四侯会議なのですが、議題は兵庫(神戸)開港と長州処分です。
 四侯はみな、神戸開港には賛成です。その点について、慶喜と、つまりこの場合、幕府と、ということになりますが、意見の相違はありませんでした。
 問題は長州処分です。
 長州藩の全面的な復権を認めるかどうか、なんですが、これで、薩摩藩と慶喜は対立しました。
 薩摩藩は、幕府がただちに長州復権を認めることを求め、慶喜は、長州が許しを請う必要がある、としたわけです。
 結局、会議は決裂し、京の薩摩藩首脳部は討幕を決意します。

 そこへ、土佐の後藤象二郎が持ち込んだのが、大政奉還案です。
 とりあえず薩摩側はそれを承認して、土佐と同盟を結びますが、この時点では、幕府が大政奉還案を呑まないだろうと見込んでのことです。呑まないことで、倒幕の兵を挙げる絶好の機会が生まれると。
 ところが、幕閣の一部が、この案に関心を持ちます。慶喜の信頼が厚い永井尚志です。
 野口武彦氏をして、「永井尚志という武士は、三島由紀夫の曾祖父にあたるので何となく言いにくいのだが、有能な外交官だったせいか責任転嫁の名人であった」といわしめたお方です。(彼らのいない靖国でも参照)

 まあ、それはいいんですが、さて、島津久光は京都藩邸にいます。
 もしも幕府が大政奉還案を呑むならば、久光が討幕の必要を認めるかどうかは未知数です。
 大政奉還が実現され、薩摩藩内に討幕反対の声が高まれば、討幕を承認しない可能性がありました。
 土佐の山内容堂は、国許に帰っていました。
 7月2日、後藤象二郎は、小松帯刀、大久保利通と会合し、国許へ帰り、容堂候に訴えて、土佐の藩論を大政奉還論に統一し、10日後には、兵力を率いて再び上京することを約束します。大政奉還を幕府に呑ませるために、兵力による圧力が必要となるだろう、ということです。
 これが予定通りにいっていたならば、あるいは、状況は少々変わったものになったかもしれません。
 しかし、後藤象二郎は約束を果たすことができませんでした。
 イカルス号事件の折衝に追われることになってしまったのです。長崎で英国船の水夫が殺され、殺害の疑いが、海援隊にかかったんです。このころの海援隊は、すでに薩摩の手を離れ、土佐藩の組織ですから、それは土佐藩士に嫌疑がかかったことになるわけです。

 どうも、このあたりで、赤松小三郎が活発に動いていたようなのです。
 赤松小三郎は信州上田藩の下級士族の次男に生まれました。
 18歳で江戸へ出て蘭学を学び、帰藩後、赤松家の養子となって、藩の兵制改革に携わります。
 安政2年、長崎でオランダ海軍伝習が行われることとなり、勝海舟、矢田堀鴻に随行して長崎へ行った、というのですが。
 つまり第1期生だということになり、それなら幕臣以外も学んでいますので、私、デジタルライブラリーでオランダ海軍伝習生の名簿を見てみたのですが、赤松小三郎の名はありません。
 だいたい、ほとんどが西日本、九州の雄藩で、上田藩は一人も出してないのです。甲賀源吾と回天丸、そしてwikiでちらりと書いていますが、東日本で伝習生を出しているのは、掛川藩の甲賀源吾の兄さんだけです。
 wiki 甲賀源吾で、これ、私が推測しているんですが、2期以降、他藩からの受け入れはなかったので、甲賀源吾は矢田堀鴻の個人的弟子として、伝習を受けたのではないだろうか、と思うんです。それと同じように、赤松小三郎も、勝海舟か矢田堀鴻あたりの個人的な弟子として、オランダ伝習を受けた可能性はあると思います。
 そうでなければ、まさかこの伝記の筆者、幕臣の赤松大三郎(則良)とまちがえているわけじゃあ、ないですよねえ。勝海日記や伝習所報告書に名前が見える、としているんですけど、いや、たしかめてませんが、少なくともこれは、赤松大三郎のまちがいなのではないかと。
 信州松代藩の佐久間象山とは親交があったようで、勝海舟とのつながりは、こちらから考えた方がよさそうな気がするのですが。

 元治元年、赤松は藩主の共で江戸へ出て、その機会に横浜を訪れ、英語を学んだようです。
 そのときの学友でしょうか、金沢藩士・浅津富之助(南郷茂光)と共同で「英国歩兵練兵」を訳したことで名を挙げました。
 しかし、どうやら藩での待遇が不満で、慶応2年、京都へ出て塾を開きました。
 越前、薩摩、会津、大垣、岡山など、在京の藩が競って藩士を塾へ通わせたようで、条件がよかったのでしょう、私塾はそのままに、赤松は薩摩藩の講師として迎えられます。
 この年の暮れ、赤松には幕府からの誘いがかかるのですが、これを上田藩が拒んで、赤松に帰郷を命じます。藩としては、惜しくなった程度のことだったようなのですが、ここで赤松が幕臣になっていれば、薩摩藩との縁は切れたでしょうし、赤松の功名心もおさまり、悲劇は起こらなかったでしょう。
 
 赤松は帰藩を拒み、幕府から福井藩、会津藩、薩摩藩と、はばびろく人脈があることを活用し、政治活動に乗り出します。
 慶応3年、なぜか会津藩は、赤松の帰藩を止めようと工作していたようです。以下、赤松の兄への書簡から。
 
 慶応3年7月16日
 会藩にてはしきりに止め候て、今諸藩の間に入り一和を謀り候人(赤松自身)を、用もなき国(上田藩)に帰し候てはあいならずと申し候て、幕府へもこの節周旋いたし、また赤座(上田藩京都留守居役)を説き、上田へも公用人より説得書差出候はずにござ候。


 帰藩をうながす兄への言い訳ともとれるのですが、会津藩が、赤松を「一和を謀り候人」と見ていたことがわかります。
 会津藩もけっして一枚岩ではないのですが、この春、長らく蝦夷へ左遷されていた秋月悌次郎が、京へ復帰しています。いうまでもなく秋月悌次郎は、薩摩の高崎正風とともに、8・18クーデターをなしとげた人です。
 つまり、会津藩の中にも、薩摩と「一和を謀る」勢力ができていたことになります。
 しかも、時期が時期です。
 後藤象二郎が約束した10日間は過ぎ、土佐の大政奉還案がどうなったものか、関係者が気をもみはじめたころでしょう。もちろん、永井尚志も。
 続いて、また兄への手紙から。

 8月17日
 この節、小生は薩幕一和の端を開候事につき、薩西郷吉之助え談合し、幕の方は会津公用人にて談じ始め居申候。小生は梅澤孫太郎、永井玄蕃(尚志)え説く、少しは成りもうすべく見込に候。

 会津公用人と西郷隆盛に、なにを話したんでしょうか。
 後藤象二郎の約束からすでに一ヶ月。
 薩摩藩討幕派(中心は西郷、大久保、小松帯刀です)にとっては、困った存在になってきていたはずです。
 といいますのも、いくどか書きましたが、薩摩藩も一枚岩ではないからです。
 当時、京都にいた討幕反対派としては、高崎正風をあげることができるでしょう。
 高崎正風は歌人ですから、公卿たちのもとへ個人的に出入りできますし、久光公のお気に入りでもあります。そして、会津の秋月悌次郎との縁もあり、もしも高崎正風が、赤松小三郎を久光公に面会させて、薩摩が挙兵することの不利を並べて、薩幕一和を説かせたとしたら、兵術家としての信頼を得ているだけに、耳を傾ける可能性は高いでしょう。

 慶応3年9月2日、後藤象二郎は大阪へ着きました。
 翌日、西郷と会います。
 後藤象二郎は、兵を連れてきていませんでした。容堂公が許さなかったのです。
 土佐の兵が上京していたならば、幕府が大政奉還案を呑む前に薩長が挙兵すれば、その勢いで土佐も引きずりこめる可能性は高いのです。土佐もまた一枚岩ではなく、討幕派も多いのですから。
 しかし、兵を連れてきていないとなると。

 桐野が赤松小三郎を斬ったのは、この日、9月3日です。
 単独ではありません。田代五郎左ェ門とともに、ですが、あと三人を饅頭屋に待たせておいて、ということで、あるいは、桐野と田代が失敗した場合の控え、と考えることができます。
 桐野の日記で、暗殺理由は「探索におよんだところ佐幕派奸賊で、将軍にも拝謁している」、つまり、工作をしている、ということです。
 しかし奸賊状には、「西洋を旨とし、皇国の御趣意を失い」とのみしたため、攘夷派の仕業に見せかけています。
 これは、どう考えてみても、薩摩藩討幕派首脳部との連携でしょう。

 この3日後の朝彦親王日記に、赤松暗殺のことが見えます。
 朝彦親王とは、青蓮院宮。8.18クーデターの中心人物で、佐幕派です。
 もともとは、薩摩藩と良好な関係だったのですが、薩摩が長州よりに大きく舵をきって以降、一会桑政権との連携を深めてきたお方です。

 慶応3年9月6日
 深井半右衛門参る。過日東洞院通五条付近にて薩人キリ死これあり候風聞のところ、右人体は信州上田藩洋学者赤松小三郎と申す者のよし、右人体天誅をくわえ候よし書きつけこれあり候。
 もっとも○十印、よほどこのころなにか計これあるべくか内情難斗よし、よほど苦心の次第仍摂公へもって封中申入る。もっとも秋月悌次郎へ申し入る。

 やはり、どうも、秋月悌次郎がかかわっていた可能性が高まります。
 そして、高崎正風の日記。(fhさまのご厚意です)

9月29日条。
朝、小松を叩、秋月(会)堀(柳河)を訪、後、大野と村山に行。


 やはり、秋月悌次郎に会っています。
 ふう、びっくりしたー白虎隊でも書きましたが、後年、秋月が熊本の第五高等中学校で漢文を教えていたところへ、高崎正風がたずねて来ます。8.18クーデターから30年数年の後、二人は終夜酒を酌み交わし、秋月は翌日の授業の準備も忘れるのです。
 私、なにかこう、ですね、中村彰彦氏の小説に出てくるように、慶応三年の高崎が、秋月に冷たくて、居留守を使うような状態であれば、このときの会合が、それほど秋月にとって、心に響くものとはならなかったと思うのです。
 クーデターを成功させた二人が、時勢の変化をかみしめ、それでもなんとかならないものかとあがいてみた、そんな共通の体験があったのではないでしょうか。

 美少年と香水は桐野のお友達でご紹介しましたfhさまのブログ。
 11月17日、高崎正風は「赤松某の碑文」を手配しています。「薩摩受業門生謹識」、つまり薩摩藩受講生一同の名義で、赤松小三郎を悼んだのは、反討幕派の高崎正風だったのです。


 そして、一夕夢迷、東海の雲に出てきました、秋月悌次郎がその晩年、西郷隆盛の墓に参った時の詩。

 生きて相逢わず、死して相弔す 足音よく九泉に達するや否や
 鞭を挙げて一笑す、敗余の兵 亦これ行軍、薩州に入る

 8.18クーデターのとき、西郷は島流しの憂き目にあっていました。
 西郷が京に復帰し、秋月は蝦夷に左遷。
 そして慶応三年、久しぶりに京へ復帰した秋月の前に、薩摩藩討幕派の中心人物として、西郷が影を落としたのです。
 秋月は、西郷に会おうとしたのではないでしょうか。
 西郷隆盛を動かすことができれば、薩会の和合はなると。赤松もそう思ったのですから。
 しかし、西郷は拒んだでしょう。もはや、遅すぎたのです。
 そう考えたとき、「生きて相逢わず」の言葉は、より深い響きをもつのではないでしょうか。

 幕末、人はそれぞれの信念を持って、それぞれに命をかけて、生きていました。
 桐野利秋は、元治元年の春、薩摩藩が汽船を沈められて長州と敵対していたころから、長州よりの志士と気心をかよわせていた筋金入りの討幕派です。
 高杉晋作とともに、中岡慎太郎が久光公暗殺を考えていたころ、その中岡と会って、中岡たちから「正義の趣」といわれているんです。
 翌慶応元年には、やはり土佐の土方久元をして、「この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」と言わしめています。
 そして桐野は、同志の多くの死を、見つめてきました。
 自らの信念に基づき、薩摩藩討幕派首脳部と連携して行ったこの暗殺を、桐野が後悔することはなかったと、私は思います。

 レクイエムは再びこれを。SleepingSun Live-Nightwish(YouTuve)



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揚州周延と桐野利秋

2008年02月17日 | 桐野利秋
  

 揚州(橋本)周延の錦絵「幻燈写真競 洋行」と「千代田之大奥 歌合」です。
双方とも、オリジナルプリントを持っています。
 周延は開化ものを得意とした明治の浮世絵師で、鹿鳴館風俗、というんでしょうか、バッスルスタイルの洋装の貴婦人の錦絵は、大方、この人の作です。
 明治の宮廷行事などもけっこう画題にしていまして、憲法と天皇のはざまに出しました憲法発布の錦絵も、周延のものです。
 私、この他にも周延の開化ものを持っていますが、「幻燈写真競 洋行」は、ネットで見かけてとても気に入り、神田古書街のお店に電話をかけて捜しまして、かなりな代金を払って、手に入れたものです。憲法発布の方は、安価に手に入りました。
 一方、周延は、幕府御家人の出身だといわれていまして、千代田之大奥シリーズも代表作で、こちらは残った数が多いのか、比較的安価に手に入ります。この歌合は三枚組で、三枚とも持っていますが、とりあえず右端のみをあげました。
 大奥シリーズは、最後のお立ち退きが夜の風景で、これも気に入って手にいれたのですが、えーと、私のスキャナーでは取り込めませんで、まだ、取り込みを頼んでなくって、あげることができません。
 状態や刷りをあまり気にしなければ、周延の錦絵は、ヤフー・オークションでけっこう安価に手に入るものがあります。

 で、です。本日、桐野ファンの先輩、中村太郎さまから、いろいろと資料を送っていただきましたところが、なんと、その周延と桐野が、上野の戦争で出会っていた、という記事があったんです!

 歴史読本昭和52年5月、渡辺慶一氏著の随筆です。
 周延が上野の戦争で幕府側にいて、有名な浮世絵師だと知った桐野が助けた、というんですが、うーん。どうなんでしょう。
 だいたい、私の持っております周延の錦絵は、全部明治20年代のもので、開化絵が20年代の前半、大奥が20年代後半、なんです。オークションで見かけた宮廷画で、明治10年代のものがあったようには記憶しているのですが、明治20年代が全盛期なんじゃないんでしょうか。
 御家人という話は聞いていましたし、周延が上野のお山に籠もっていても不思議はないんですが、当時から浮世絵師として活躍していた、というのが、ちょっと腑に落ちないんですけれども。
 貧乏御家人で浮世絵師、というのは、けっして珍しくないですし、たしかに明治以前から浮世絵師であってもおかしくはないのですが、ひっかかるのは、名前が知れていた、というところです。
 瓦解で禄を失い、本格的に浮世絵師として活動を始めたものだ、と、私は思いこんでいました。
 だいたい、周延が桐野と同じ天保9年(1838)生まれとは! もっと若いのかと勘違いを。

 この随筆によりますと、周延は御家人ではなく、越後高田藩(藩主は榊原家)の江戸屋敷詰め下級藩士(八石二人扶持)だったんだそうです。
 はじめは歌川国芳および二代目豊国に絵を学び、22、3歳ですでに、独立した版画家となり、一鶴斎または二代芳鶴と号したんだそうで、いや、22、3歳ならば、安政5、6年あたりで、安政の大獄のころ、ということになりますねえ。
 さらに豊原国周に師事して門弟中第一とうたわれるようになり、周延と称し、陽洲または陽洲斎と号して、どんどん大奥風俗絵を出した、とあるんですが、いや、大奥風俗絵ねえ。
 明治になるまで、大奥もそうなんですが、徳川家のことを、直接描くことはできなかったはずです。
 皇妹和宮さまの江戸お輿入れを、狐の嫁入りとして描いた錦絵がありまして(欲しいんですけど)、まあ、そういう風に、なにかに例えて描くならあり、でして、もしほんとうに幕末から大奥風俗を描いていたのだとしましたら、「偽紫田舎源氏」みたいに、足利将軍家の大奥、とでもして描いたんでしょうか。
 それで、「一説によれば、彼は濃艶な美人画ばかり描くので、朱子学を藩学とする藩侯に嫌われて、幕府の御家人に追いやられたが、これがかえって彼の画筆に幸運であったという」なのだそうです。

 さて、周延数えの30歳、幕府が瓦解します。
 高田藩主榊原政敬は、恭順を決し、長岡城の攻撃に官軍の先導を命ぜられて従軍。
 ああ、これは確か、越後口の長州の山縣有朋が、盟友・時山直八の戦死に呆然として、ものの役に立たないので、薩摩の黒田清隆と吉井友実が高田藩懐柔をはかって成功した、って話だったじゃなかったですかね。

 ともかく、それより以前、江戸の高田藩邸では、硬軟ニ派に分かれて対立。
 佐幕派は神木隊を結成して、彰義隊とともに上野のお山にこもります。
 周延もこれに加わり、さて上野戦争の当日。
 周延は黒門口の守りについていたそうなんですが、やがて攻めてくる薩摩藩兵に押されて、覚成院へ引き上げました。
 敗戦を悟った周延は、薩摩本陣に斬り込みをかけましたが、足に銃弾を受けて倒れ、薩摩藩兵にとらえられ、桐野の前に引き出されます。
 氏素性を問いただされ、「おれは絵かきの周延だ! さあ斬れ! 斬れ!」と叫びましたところが、桐野はただちに、黒門に近い絵草紙屋で調べさせ、いま売り出し中の周延であることがわかり、殺すに忍びず「すぐ帰れ!」と。
 周延は言い返します。
 「このままでは帰れん。死ぬ前におれの一言を聞け! 薩長はなぜ兵を収めないか? 将軍はすでに昨年10月、大政を奉還し職を辞しているではないか。(中略) 幕府に代わって薩長の政治にする積りか! おまえらこそ錦の御旗の影にかくれた逆賊だ! 許されない!」
 桐野はこれを聞き流し、二人の護衛兵をつけて、上野に送り返した(つまり釈放した)んだそうです。
 その後周延は、品川沖の榎本艦隊に至って蝦夷へ渡り、五稜郭陥落まで戦いぬいたんだそうです。

 いや、たしかに桐野は、上野戦争当日、一番小隊監軍として黒門口で戦っていますし、刀傷を負ってもいるのですが。
 どうにも話ができすぎていまして、西南戦争後に桐野が人気者となり(なにしろ絵双紙になったり歌舞伎になったりしてますし)、売り出し中の周延の人気を盛り上げようと、版元か絵双紙屋が作って流した逸話なんじゃないですかしらん。

追記
 どうもその、「越後高田藩榊原家」というのが、桐野との関係でひっかかっていたんですが、思い出しました! 桐野が陸軍少将時代に住んだ屋敷が、旧榊原家江戸屋敷(現岩崎邸)じゃないですか!
 もう、こうなってきますと周延が神木隊に入っていた、というあたりから、作り話めくんですが、もし本当なら、すごい因縁話ですよねえ。

 
 江戸の、といいますか明治の東京の庶民にとって、上野戦争と西南戦争は、妙な言い方ですが、物語の宝庫、だったように感じます。
 ほんとうだったのかどうか、月岡芳年の血みどろ錦絵は、上野の戦争を見に行って、写生した成果で、あんなにも迫力があるのだといいますし。これは、製作年代が上野戦争と近接していますし、ほんとうだったのではないか、という気がします。
 ちなみに芳年の錦絵の中でも、血みどろ武者絵はかなり高価でして、手が出ません。

 ただ、これも中村太郎さまが送ってくださった資料で、桐野は京都時代、絵を習っていたのだそうなのです。
 1968年発行、南日本放送の「維新と薩摩」図録に、丙子重陽、つまりは明治9年重陽の節句の日付がある、桐野の和歌入り書画の写真が載っておりまして、そのコピーです。
 山に咲く菊の絵で、モノクロのあまり大きくない写真のコピーですが、なかなかうまい絵のように見受けられます。
 和歌の方は、くずし字で、読めません。

 桐野が和歌を習っていたことは、市来四郎が断言していまして、薩摩で和歌を習うとなりますと、三千世界の鴉を殺しで書きましたように、八田知紀じいさまに習った可能性が高いんです。あるいは、八田のじいさまは、近衛家に嫁ぐ島津家の姫様について京にいたこともあったみたいですし、京の薩摩藩邸で希望者に教える、なんてことだったかもしれないですね。

 桐野が絵を習ったのは、中村太郎さまの推測では、丸山派の森寛斎だったのではないか、ということです。
 森寛斎は文化11年(1814)、長州藩士の子として生まれ、天保2年(1831)、大阪へ出て丸山応挙門下の森徹山に学んで養子となり、25歳で京都へ出て丸山派の復興をはかったんだそうです。
 その後、長州藩士に復して、密使として京都、長州間を往復。品川弥二郎とは長く親交があったんだとか。
 品川弥二郎は、薩長同盟の中心人物で、薩摩藩邸に長くひそんでいましたし、なるほど、長州びいきの桐野が絵を習った先生として、うなずけますよね。

追記
 中村太郎さまのご教授に従い、霊山歴史館に電話して、お聞きしました。
 桐野から森寛斎宛、二見浦の絵が入った葉書のようなものがあって、それを他館に貸し出して展示したことがあるのだそうです。お忙しい中でお聞きしたので、私の思い違いで、もしかすると桐野宛の森寛斎葉書、だったかもしれません。どちらにせよ、交際があったことは、確かなようです。

 ともかく、です。桐野はきっちり和歌も絵も習い、私、和歌はどうにも感心いたしませんが、絵心はかなりあるように感じます。
 つーか、けっこううまいんです。
 だから、もしかして、あるいは……、桐野が揚州周延を逃がした話も、ほんとうであったかも、しれないですね。

 正名くんといい周延といい、私はこのお気に入りの「幻燈写真競 洋行」を見るたびに、これからは桐野を思い浮かべることになりそうです。

 
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美少年と香水は桐野のお友達

2008年02月13日 | 桐野利秋
えー、昨日は、うそだろ!!! の連続でございました。
まずはこれ、いつものお方のブログ。

備忘 中井弘50

ええ??? 赤松小三郎のお墓が金戒光明寺にあって、しかも墓石の横に「中村半次郎の名前で師匠を称える言葉と死を悼む言葉が書かれた碑がある」ってえ?????
いや、ほんとにwikiにそう書いてあるんですけれども。
だいたい、京都黒谷の金戒光明寺といえば、会津藩がいたところじゃないですか! そんなところに、桐野が斬った赤松小三郎のお墓があるなんて知りませんでした。
が、たしかにそれはあるみたいなんですが、中村半次郎の名前の碑?
えー、ぐぐっても他に出てきませんで、信じられないんですが、どなたか京都にお住まいの方、おられませんか?(笑) いますぐ、たしかめに行きたいんですが、そうもできませんで。

いや、8.18クーデターを会津の秋月悌次郎と協力してやった高崎正風(左太郎)は、です。倒幕反対派で、ふう、びっくりした白虎隊でご紹介しました「落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎 」ではそうは描かれておりませんが、慶応3年の秋、京に帰ってきた秋月(左遷されて蝦夷にとばされていました)と会ったりしていたわけですし、薩摩藩邸にも軍学を教えに来ていた赤松小三郎への気配りを見せるのはわかるんですが、討幕派の桐野が、私の憶測では、おそらくは大久保利通、西郷隆盛の藩内倒幕推進コンビと連携して、公武合体論者の赤松小三郎を斬った桐野が、です。「師匠を称える言葉と死を悼む言葉が書かれた碑」をほんとうに建てているんだとすれば、です。赤松個人に恨みがあるわけではなく、倒幕のためにやったことだから、悼んだ、とでもいうことになりますかねえ。

 いえ、実はまた、桐野ファンの先輩がお電話をくださいまして、ああでもない、こうでもないと、この金戒光明寺にあるという碑のことや、その他、桐野のことを話していたところが、です。桐野の嫁さんの回顧談の話になりました。
 大正年間の桐野の嫁さんの回顧談、というのがあるんです。
 これのコピー、私は持っているんですけれども、たしか、一坂太郎氏からいただいたもののような気がしまして、どこでどうコピーしたものやら、まったく覚えがないんです。しかし、持っております。
 これをさがしたきっかけ、といいますのが、やはりこの先輩から、桐野が吉田清成に出した手紙の印刷コピーを、送っていただきまして、えー、吉田清成って、薩摩藩密航英国留学生で、最初に江戸は極楽であるに登場しまして以来、このブログには、たびたび出てまいります。

 手紙は短いもので、まあだいたいの意味は、こういうことなんだと思います。
「お元気でがんばっておられてなによりです。太郎のことなんですが、先日こちらへ来て、函館へ共をしたいというんです。なにぶん、あなた(吉田)に相談しなければと聞き置いたんですが、また来て、お暇を願ってお許しを得てきたからつれていってください、というんですが、その通りでしょうか。もしあなたの方で差し支えがなければ、つれていってやりたいのですが」
 8月10日(旧暦です)とあって、年はわからないのですが、吉田清成は明治3年にアメリカから帰国して大蔵省に奉職していまして、「太郎」を桐野が函館に連れていきたい、と言っているわけですから、考えられるのは、明治4年です。
 明治4年の7月(新暦ではないかと)、桐野は函館出張命令を受けていまして、この年しか考えられません。
 で、太郎くん、なんですが、桐野のまわりで太郎くん、といえば、桐野が京都でひろった少年、太郎くん、しかいません。

 で、私、なんとなく、桐野が京都でひろった太郎くんに、英語の、といいますか英学の勉強をさせてやろうとしていたのに、明治6年政変で桐野が帰郷するとき、どうしてもついて行くといってきかず、結局、西南戦争でも桐野に殉じた、という話を、なにかで読んだよーな気がしまして、だとするならば、桐野は太郎くんを、同郷でアメリカ帰りの吉田清成のもとへ学僕として預けていて、この手紙になったのかなあ、などと考えたりしました。
 にしても、なにに太郎くんのことが書いてあったっけ?と、最初に思い出したのが、桐野の嫁さんの回顧談です。
 たしかに、この回顧談には、「御維新の際、京都から召し連れてきました太郎」とか、太郎くんの話が出てくるんですが、「勉強をさせてやろうとしていた」というような話はありませんで、もうひとつ回顧談を持っていたはず、と一生懸命思い出していたのです。
 お電話の途中で、ムックの中の記事だった! と思い出しまして、お電話を切ってから、さがしました。
 あったんです。私、勘違いをしていまして、こちらの方は、桐野の嫁さんではなく、お孫さんで、桐野富美子さんといわれる上品なおばあさんの回顧談でしたわ。
 たしかに、こちらにも、太郎くんの話は出てきました。以下です。

 大正の初め頃、鞍馬天狗の活動写真を観て帰った祖母が、「杉作とうちの太郎はすっかり同じだねえ……」「中村太郎はおじいさんの京都でのお仕事に、その意をよくくんですばしこく立ち回ったそうです。でも、あれだけ止められていたのに、後を追い戦死したのはいじらしくてたまらなかった。この子のお墓参りを忘れないでね」と目頭をおさえて言いました。

 結局、「勉強をさせてやろうとしていた」は、こちらにもなしで、いったいなにで見たのやら、それとも記憶ちがいなのやら、なんですが、それよりも、どびっくりだったのは以下です。

 生前の祖父と親交があり国士として世界中を旅していた前田正名翁が帰国して訪れ、私の兄利和に、「お前は顔も気性も、利秋によく似ている」と嬉しそうにみつめ、「この子は俺に食いかけの芋をくれた、うまかったなあ!」と言われたので、皆大笑いしました。
 この人に、父が赤い布に包んだ金太刀を桐箱から取り出して見せていた光景が、今でも私の脳裏から離れません。

 えええええっ!!!!! 前田正名あ????? 
 いや、「世界中を旅していた国士」が、桐野の孫を見て桐野をなつかしんだ、というようなことが書いてあったことは、覚えていたんです。ただ、その「国士」が前田正名だったなんて!!!!!
 もうすっかり、名前を忘れこけておりましたわ。
 つーか昔は、前田正名ってだれなん? とわからないまま、放っておいたですわね。ネットもないままに。いや、経歴くらいは調べたかもしれないんですけど、まったく印象に残らなかったようでして。
 美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子の美少年です。
 モンブラン伯爵についてパリに行き、ヴェルサイユ宮殿に圧倒され、普仏戦争とパリコミューンを経験し、貴公子新納少年の悩みも聞き、これはまだ書いたことがないですが、ゴンクールからも絶賛された美青年、正名くんです。
 そりゃあ、同じ薩摩藩士です、知り合う機会はあったでしょうが、正名くんは、桐野より12歳年下なんですけど。
 
 じゃあ、です。明治2年の初め頃、モンブランは薩摩に入国していますし、もしかして、正名くんも帰郷していて、桐野も会津から凱旋帰国していますし、太郎くんもまじえて、おフランスの香水の話なんかしたりって、ありなんでしょうかっ?????
われながら、いままで気づかなかった自分のうかつさに、愕然としました。

 ちなみに、当時の香水は、そう甘ったるい匂いのもではありません。当時流行ったと思われる、ゲランが初めて作った香水「ブーケ・ド・ユジェニー」。
ユージェニーは、ナポレオン三世の妃で、その皇妃にささげられた(といいますかささげて宣伝にしたんですが)香水なんですが、現在、「オー インペリアル」という名前で復刻され、男性用ということで売られています。私、持っていますが、柑橘系の香りのとてもさわやかなものです。


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三千世界の鴉を殺し

2008年01月15日 | 桐野利秋

昨年は、さまざまな災難がふりそそぎ、ひたすら落ち込んでおりまして、ブログどころではありませんでした。
年末ころから、そろそろ再開、と思っていたのですが、今度は風邪をひきこんでしまいまして。

同好のお知り合いとは、ありがたいものです。
昨夜、桐野ファンの先輩からお電話をいただきまして、久しぶりに桐野の話をしましたら、元気が出ました。
それにしましても、どびっくりなお話。

 「三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい」

という都々逸があります。
一般に、高杉晋作が作ったといわれていますが、まあ都々逸、俗謡ですから、実のところ、だれが作ったものやらわかりません。
こういう流行歌の歌詞は、作者不明の古謡、民謡から歌詞がとられ、その歌詞が場に応じて歌いかえられたり、宴席などで即興で歌った歌詞がよければ、それがまた自然にひろまっていったりで、作詞者などわからないのが普通です。

普通に解釈すれば、これは、玄人の女が、好いた男に語りかけるセリフです。
芸者(遊女かもしれませんが)さんは、パトロンへの借金もあるでしょうし、義理もしがらみもあります。好いた男がいても、自由にその男とばかりつきあうことはできません。
身も心も焼きつくすような恋をして、「ああ、できることなら、あなたとゆっくり朝寝ができる身分になりたい。それを邪魔する、この世のすべてのしがらみ(三千世界の鴉)を、消してしまうことができればいいのに」
というのですから、切ない歌です。
「朝寝がしてみたい」ではなく、「添寝がしてみたい」という歌詞もあったようでして、意味としては添寝の方がふさわしいのでしょうけれど、音の響きとしては「朝寝」の方がいいですね。
「三千世界」という仏教用語を使うことで、スケールの大きさが出て、恋情の強さが感じ取られ、しかもゴロがいい。
梁塵秘抄の昔から、俗謡に仏教用語が入るのは珍しいことではないのですが、要は使い方でしょう。

この歌詞が、高杉晋作の作だと仮託されると、意味が変わってきます。
検索をかけてみますと、木戸孝允(桂小五郎)説もあるようですね。

26字詩 どどいつ入門―古典都々逸から現代どどいつまで
中道 風迅洞
徳間書店

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上の本に詳細が載っているんだそうです。
詳細はともかく、木戸説、高杉説ともに、活字としてあらわれるのは大正年間で、久坂玄瑞説もあったようです。
要するに大正年間には、長州の志士作、という伝説が出来上がっていたのでしょう。
高杉、木戸、久坂。
だれでもいいんですが、維新回天の志を持ちつつ、追い詰められています。
幕府役人に、新撰組に、あるいは藩内俗論派に追われ、愛人のもとでのんびりとくつろぐことは許されません。
「長州を、そして日本を縛りつけているすべてのしがらみを消して、おまえとゆっくり朝寝ができたらなあ」と、つかの間の休息を、ひいきの芸者の膝枕でとりながら、つぶやく……。
仮託から浮かび上がってくるのは、そういう状況でしょうか。

高杉晋作とおうの、木戸孝允と幾松、久坂玄瑞とお辰。
それぞれに有名な芸者の愛人がいましたし、俳句、和歌、漢詩ともにそこそこ達者で、木戸と久坂には、他にも作ったといわれる都々逸が伝わっています。

 木戸孝允 「さつきやみ あやめわかたぬ浮世の中に なくは私とほととぎす」

 久坂玄瑞 「咲いて牡丹といわれるよりも 散りて桜といわれたい」

 こう並べてみますと、高杉晋作説が有力になっていった理由が、わかるような気がしますね。

 「三千世界の鴉を殺し」と雄壮に言い切り、一転して「主と朝寝」という生々しい男女の情景をもってくる。
 花鳥風月を排した言葉の選び方が近代的で、秀逸です。破天荒な性格の高杉作と仮託するのに、いかにも似つかわしい。


 って……、いえ、どびっくりしたのは、この秀逸な都々逸を、桐野利秋作だと書いているブログがある、とお聞きしたからです。
 はあ?
 桐野の和歌は、すばらしく下手です。
 かなり若い頃から、いい先生について学んでいたらしい、にもかかわらず、です。

 薩摩の国学者で、歌人に、八田知紀という方がいます。
 寛政11年(1799)生まれで、島津斉彬公の先生でもあった方で、多くの薩摩藩士が学んでいるのですが、桐野も不肖の弟子であったらしいのですね。
 去年、いつものお方が、この八田知紀が明治元年(1867 慶応4年)に、関東へ旅をしたときの歌日記「白雲日記」を見つけてくださったのです。デジタルで読めます。
 戊辰の夏です。江戸城は無血開城、上野戦争は官軍側の勝利に終わりましたが、奥羽越列藩同盟が結ばれ、戦争はまだこれから。そういう時期です。

 八田のじいさまは、小松帯刀や大久保利通や、薩摩藩士たちと酒をくみかわし、小松帯刀の案内で横浜へ行きます。
詳細ははぶきますが、横浜の病院で、桐野を見舞っているのです。
 「白雲日記」を見つけた方が調べられたところでは、じいさまの息子が、桐野と同じ隊(城下一番小隊)にいて、伏見で戦傷を負い、京都の病院で死んだそうなのですね。
 したがいまして、じいさまは、息子のことを桐野に聞きたかったのでしょうけれども、同じ一番小隊にいたということは、です、じいさまの家は、桐野の家と同じ賴中にあった可能性が高いのではないでしょうか。
 桐野がちゃんと和歌を習っていた、という話は、市来四郎が書き残していて、だとすれば、師匠は八田のじいさまだった可能性は大きいでしょう。

 それにしても下手です、桐野の和歌は。
 土方歳三の俳句とどちらが下手なのか……、いえ、俳句というのは、下手は下手なりにおもしろみが出ることもあるので、個人的には土方に軍配をあげてしまいたいほど、です。

 その桐野が、このすばらしい都々逸を作ったあ?????
 
 お口ぽかーんで、ぐぐってみましたら、ほんとうにそういうことを書いておられるブログがありましたわ、仰天。
 しかもそのブログのこの都々逸の解釈が………、「邪魔なものは全て殺してしまえという考え方を述べたもの」ということで。
 いや、まあ、その………、世の中にはほんとうに、いろいろな方がおられますねえ。

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史伝とWikiの桐野利秋

2007年02月02日 | 桐野利秋
『史伝 桐野利秋』

学習研究社

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もうずいぶん以前のことです。
桐野利秋について調べていました。同じ頃、知り合った女性は、入江九一について調べていました。
これが悔しいことに、長州はいろいろと資料が見つかりますのに、薩摩はなかなか苦戦です。
インターネットのなかった時代です。入江ファンの女性が、自分が調べたことをまとめ、それを無料で配りつつ、情報提供を求めておられるのを見て、私もこれをまねするしかない、と、それまでに見つかった書物を列挙したコピー冊子を作りまして、配って歩いたんです。期待を込めて、鹿児島県立図書館にも送ってみました。奥付には、住所と電話番号を載せて。
反響はなにもありませんでした。
そうこうするうちに仕事が忙しくなり、別な方面に関心が強くなったりもしまして、幕末維新から遠ざかっておりました。
数年前のことです。突然、まったく存じ上げない女性から、お電話をいただきました。
鹿児島県立図書館で、私の冊子を見られたというのです。感激しました。
聞けば、その女性は私よりずっと先輩で、桐野のファンであったために大学も史学科を選び、卒論も桐野がらみ。結婚して、お子さんも大きくなられ、再び桐野と向かい合いたいと、鹿児島を訪れ、私の冊子を目にしたとおっしゃるのです。
お電話で、いろいろと昔調べられたことや、最近の出版物などをうかがいました。
それで初めて、私は、この『史伝 桐野利秋』が出ていることも、知ったような次第です。
著者の栗原智久氏は、江戸東京博物館の司書でおられるとか。文庫本なのですが、これがなかなかのすぐれものでした。
おもしろおかしく語られてきた虚像ではなく、実像を、というその執筆姿勢が、そもそもこれまでの桐野に関する著作には、なかったものなんです。
ともかく、もう私の調べることは、ほとんどないかな、という気がいたします。
とはいえ、桐野利秋とアラビア馬に書きました件などは、ずっとひっかかっておりまして、こいう記事、古書について、お心あたりの節は、どうぞ、ご教授ください。



上は、昔、桐野について調べていたころ、ご近所に、西郷隆盛に関する本を集めていらっしゃるお年寄りがいまして、本をお借りしたりしていたんですが、長年の西南戦争錦絵コレクションを手放すといわれましたので、安く譲り受けた月岡芳年画のものです。なかなかに美しい桐野でしょう? 3枚続きの1枚目で、中央にはやはり西郷どんがおられます。

ごく最近のことなんですが、Wikiの桐野のページを見て驚きました。詳細で、正確で、どなたが書いているの??? と不思議だったんですが、リンクをたどって謎がとけました。西郷軍側の隊長・池上四郎のご子孫が、中国古代史で大学の先生になっておられて、西南戦争関係の記事を全部書いておられたのです。
感激のあまり、私、ついに決心をしまして、少々書き加えさせていただきました上に、この錦絵もあげておきました。
もう、ほんとうに、あの苦労しました昔からは考えられない現況です。
研究は専門家にお任せして、私はやはり妄想にひたって物語をつづればよろしいようなものなのですが。


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続・中村半次郎人斬り伝説

2006年01月31日 | 桐野利秋
いったい、いつごろから、中村半次郎の前に「人斬り」とつくようになったのか、といえば、実のところさっぱりわかっておりません。
ともかく、です。私が知る限り、桐野利秋の最初の伝記は、明治11年、つまりは、西南戦争直後に出版された、金田耕平著『近世英傑略伝』という全2巻の伝記集です。
一巻に、まだ生存中の三条実美、岩倉具視、大久保利通、森有礼、福沢諭吉、佐藤尚中、板垣退助の七人が収められ、そして二巻で、死去したばかりの三人、西郷隆盛、木戸孝允、桐野利秋が取り上げられているわけです。

ごく短いのですが、偉人伝といった趣で、内容はわりに正確です。
しかし、西南戦争当時の新聞紙面には、デマや中傷じみたものも散見されまして、当時、新聞条例によって、反政府的な内容は取り締まられていましたから、御用新聞ゆえなのか、と受け取れます。
鹿児島県資料に、『西南の役懲役人質問』というのがありまして、降伏して服役した参加者の取り調べ質問なんですが、実にくだらない質問が多くありまして、「桐野は酒を飲みたる時は泣く癖あると云うは実なりや」とか、「桐野の妾降参したる説あり、実なりや」とか、懲役人はみな、あきれて否定しているんですが、全部、戦争中の新聞に書かれていたことなんですね。

しかし、文字では悪くかくしかなくとも、当時の錦絵は、庶民の気持ちを代弁して、大方、政府軍よりも、反乱軍(西郷軍)の方を、美しく、りっぱに描いていたりするんです。そうでなければ、売れなかったんですね。
月岡芳年描く桐野の錦絵を持っておりますが、美しゅうございます。
そして、西南戦争が終結したとき、新聞も庶民が西郷軍に抱いた思いを、小さな記事で伝えています。
夜空に赤く輝く火星(軍神マルス)を、人々は西郷星と呼んでふり仰いだのですが、その火星に衛星が発見されました。
「至って小さき星ゆえ望遠鏡でなければ見られませんが、もしアリアリと見へたなら、多分桐野星とでも申して立ち騒ぎましたろう」と、郵便報知は、書いています。

さて、「人斬り」の方なんですが、戦前の資料にもフィクションにも、そういった表現は出てきません。
実際、桐野が斬ったとはっきりわかっているのは、自ら日記に記している赤松小三郎のみで、それを戦前に語ったのは、有馬藤太だけでしょう。
維新前の中村半次郎時代については、あまりにも確実な資料が少なく、逸話や物語のみが一人歩きをした、ということのようです。
西南戦争についても、「桐野は望んでいなかった」とする証言は多いのですが、大久保利通が「桐野が起こした」と信じ込んで、伊藤博文への書簡に書いたためでしょうか、戦後になって、そういう受け止め方が主流になったのではないでしょうか。

どうも、戦後のある時期から、太平洋戦争と西南戦争を重ねて見る風潮が生まれ、帝国陸軍の暴走と西郷軍がダブルイメージとなったように感じるのです。そしてその時期は、「剣豪」がマイナスイメージとなった時期に、重なるのではないでしょうか。
おそらく、昭和48年に発行された池波正太郎氏の『人斬り半次郎』 が、中村半次郎人斬り伝説を決定づけたのでしょうけれども、この小説は、作者の半次郎にそそがれる視線はあたたかいもので、また、「剣豪」が嫌われる時期でも、なかったのではないか、と思われるのです。

(えーと、掲示板の方でご指摘がありまして、「池波氏の『人斬り半次郎』は昭和44年2月、東京・文京区の東方社から既に出版されている」とのことです。謹んで、ご報告を)

決定的だったのは、昭和47年に毎日新聞に連載が始まり、昭和51年に単行本として刊行された、司馬遼太郎氏の『翔ぶが如く』だったでしょう。
ここに描かれた桐野が……、なんといえばいいのでしょうか、ある本で、丸谷才一氏が、以下のように述べておられました。
「司馬さんのなかには桐野的人物に対する分裂した好悪の念があるんだね。かなり好きなところもある。でもね、おれが好きになる以上、もうちょっと利口であってほしかったていう恨みもかなりある」
実をいえば私は、『翔ぶが如く』をきっかけに、桐野のファンになったのです。
魅力的に描かれていないわけでは、ないのです。魅力はあります。しかし、『人斬り半次郎』の桐野のような、明るさがありません。暗いんです。
だいたいまあ、『翔ぶが如く』自体がじっとりと暗くて、それは、合理性の尊重をひとつの尺度にして、明快に幕末維新の人物像を描き分けてきた司馬遼太郎氏が、西郷隆盛という巨大な不合理を、扱いかねていた暗さ、なのではないでしょうか。
司馬遼太郎氏が桐野を描いたのは、『翔ぶが如く』が最初ではなく、昭和39年に刊行されました『新選組血風録』にも、脇役としてなのですが、ちらほらと出てきますし、昭和40年刊行の『十一番目の志士 』にも、わずかながら登場します。
そして、一番切れ者風に描かれていますのは、『新選組血風録』なのです。
『新選組血風録』は、土方歳三を主人公にした『燃えよ剣』と同時期に書かれたものですし、桐野と土方は、敵陣営にいる似たタイプ、という感じがあって、あるいは、素材としての中村半次郎は、『燃えよ剣』の土方歳三のように描かれる可能性もなくはなかったのだと、思えます。
ちがいを言えば、徹底して政治にかかわらなかった土方にくらべ、桐野は政治的な動きを見せますから、そこらへんが、司馬さんの好みにあわなかったのでしょう。

桐野が小説に描かれるとき、司馬さんに限らず、どうも短編の脇役の方が、好ましく描かれているような気がするのです。
私が好きなのは、船山馨氏の『薄野心中 新選組最後の人』(『新選組傑作コレクション〈烈士の巻〉』収録)です。
主人公は、新選組の斉藤一で、舞台は維新後の北海道です。
明治4年、斉藤一が北海道で土木人足をしていて、陸軍少将・桐野利秋が北海道視察に訪れるのですが、驕る勝者の中で、桐野一人、さわやかに描かれていたりしまして、ちらっとしか出てこないのですが、ラストシーンが感動的なんです。

結論を言いますと、中村半次郎人斬り伝説は、後世の講談や小説が作り上げたもの、としか思われません。

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