郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

中村半次郎人斬り伝説とホリエモン

2006年01月30日 | 桐野利秋
久しぶりにニューズウィークを買って読んでいて、あきれました。
なににあきれたって、ホリエモンの描きぶりに、です。
私はなにしろ、「男は容姿」を信条としておりますので、以前からホリエモンは嫌いです。
昨今、ニュースを見ていたらかならずあの顔を拝まされるのには、うんざりしていました。
とはいえ、別に極悪人だと思っているわけではなく、やたらに持ち上げておいて、叩くとなったらこれまたいっせいに叩きまくるマスコミに、うんざりしていただけです。持ち上げるにしろ、叩くにしろ、あの顔は拝まされるわけですから。

で、ニューズウィークの記事です。
記事の著名は東京支局長クリスチャン・カリル氏と平田紀之氏。
物語仕立てで、冒頭に、ドラマティックに六本木ヒルズにある事務所の手入れを描いたあげく、「フジテレビに敵対的買収を仕掛け、日本の企業文化を激変させた男に、いったいなにが起きたのか」と、問いかけてはじまります。
芸が細かいですねえ。「企業文化」ときましたか。
別にホリエモンが「日本企業」を激変させたわけじゃないんですけどね、「企業文化」として置けば、いったい企業文化がなになのか、指す内容が曖昧ですから、ラフな格好でテレビに出まくった程度のことを、「日本企業のビジネススタイルを根本から変えるという野望」なんぞという、美辞麗句で飾れるわけですね。
で、あげくの果てに、フジテレビとの攻防戦を「買収には失敗したが、もっと大きな戦果を上げた。リストラを進めて体力を強化し、株主価値を上げなければ買収される可能性があることを、日本企業に知らしめたのだ」と評価するとなると、物語仕立ての筋書きが露わになって、読む気が失せてしまいます。
公平を装いながら、フジテレビは悪役、ホリエモンは改革の旗手で善玉、という図式は、堅持しているわけなんですよね。
なるほど、検察の真の狙いが、フジテレビ買収劇に動いた外資系金融機関への牽制にあったことは、事実でしょう。しかし、それが言いたかったのなら、もっと他に書くべきことがあるでしょう。ホリエモン善玉物語が、そのまま外資系金融機関善玉につながるような印象操作をする前に、です。
ともかく、テレビのワイドショーにしろ、このニューズウィークにしろ、いいかげん、陳腐な勧善懲悪物語仕立ては、やめていただきたいものだと思うのです。

もっとも、これがエンターティメント、大衆的なフィクションとなりますと、仕方のない面があることは確かです。
勧善懲悪とまでいかなくても、人物をある程度類型的に描きわけ、はっきりとした対立の図式を描いて見せなければ、お話がおもしろくならないですし、第一、わかり辛いでしょう。
で、ここでようやっと話が、桐野につながります。

戦後もある時期まで、時代小説における剣豪、つまりすぐれた剣の使い手であることは、ヒーローの条件であり、プラスのイメージが強かったでしょう。ある時期って、おそらく……、高度成長が終わるころまで、なんじゃないかと思うんですけど。
これは、架空のヒーローではなく、幕末の志士たちについてもいえることで、剣にすぐれていた、というのは、賞賛に価することだったんですね。
ところがある時期から、剣の使い手であることは、あまりいいイメージにつながらなくなったような気がするのです。
いえ、それはそれで、人気の種でないこともないのですが、「腕はたったがけっしてむやみに人は斬らなかった」とか、言い訳じみたセリフがついてみたり、するようになったわけなんですよね。

桐野につなぐ前に、ちょっと土居通夫の話を。
土居通夫は、宇和島藩出身の志士で、後に関西で実業家になり、通天閣は土居通夫の「通」をとって名付けられた、という通説ができていたほど、大阪経済の発展に尽力した人です。
司馬遼太郎氏が、『花屋町の襲撃』(『幕末』収録)という短編で、この人をモデルにして「後家鞘の彦六」という剣豪を描いているのですが、花屋町の襲撃は、陸奥宗光たちが、龍馬暗殺の仇討ちに、新選組に守られた紀州の三浦休太郎を襲った実際の事件ですし、最後に土居通夫の名を出して、実録風に書いてあります。
以前に、知り合いから、土居通夫のことを旅行案内本のコラムに書くというので、相談を受けたことがありました。『花屋町の襲撃』に書いてあることは事実か? と言うのですね。
いや、小説ですしね。虚実とりまぜで、おまけに私が知っている範囲では、花屋町の襲撃に土居通夫が加わっていた、ということ自体、司馬さんのフィクションであるらしかったんです。
それで、同じ司馬遼太郎氏の随筆『剣豪商人』(『歴史の世界から』収録)を、紹介しました。
ところが、ここに書いてあることは事実か?、とたたみかけられますと、これもちょっと首をかしげざるをえません。一度、調べたときに、剣豪だと言われていた事実があり、新選組と斬り合いをした、というような話は読んだんですけど、それもどこまで事実やら、という感じでしたし、「剣の腕がすぐれているので、土方歳三が新選組に入らないかと誘った」というあたりなど、後に実業家になってからの伝説くさいんですよね。
で、結局、「短いコラムだから、司馬遼太郎氏はこう言っている、と書けばいいですかね?」と聞かれ、「それならまちがいないと思います」と答えておきました。
が、それでも問題は起こったんです。
北海道旅行の最中に携帯が鳴り、なにかと思えば、「読者の方から電話があって、土居通夫が剣豪だったなどと、司馬遼太郎がそんな嘘を書くわけがない、と言われて困っているんです」と。
これには、あきれました。出典を告げてことなきを得たのですが、なにやら、剣豪と書かれることが、悪いことであるかのような抗議だったらしいのです。
『剣豪商人』の初出は、昭和36年の『歴史読本』です。
つくづく、時代の変化だよなあ、と、思いました。
土居通夫が剣の達人であったことは、事実だったようなのです。
新選組と斬り合ったことも、なかったとはいえません。
戦前には、それが誇張されて伝説となるほどにプラスイメージだったのでしょうし、戦後も昭和30年代には、まだ、そういう風潮が濃厚にあったのでしょう。
ところが昨今では、「人斬り」どころか、「剣豪」でさえ、マイナスイメージであるようなのです。

で、やっと桐野です。といいますか、「人斬り」といわれる中村半次郎像の変遷について語りたかったのですが、話がそれて、前触れだけで終わってしまいました。
次回に続きます。

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桐野利秋は俊才だった
続・中村半次郎人斬り伝説


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桐野利秋は俊才だった

2006年01月12日 | 桐野利秋
と言い残しておられるのは、勝海舟です。

昔作ったチラシを見つけて、「わたしって、いじらし~!」と勝手に思いましたのは、「桐野はバカではありません!」と、声を大にして述べていたからです。
以下、チラシに抜き書きしたものです。

勝海舟(『氷川清話』より)
(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなか俊才であった。

大隈重信(『早稲田清話』より)
西南の役に大西郷に次いでの薩摩の驍将桐野利秋、彼はすこぶる才幹の男であったが、これがやはり派手であった。身体も大きくて立派なら容貌態度ともに優れた男であったが、着物をびざまに着るようなまねはせず、それも汚れ目の見えぬきれいな物づくめであった。

市来四郎(『丁丑擾乱記』より)
桐野は廉潔剛胆百折不撓の人というべし。最も慈悲心あり。文識はなはだ乏し。自ら文盲を唱う。しかりといえども実務上すこぶる思慮深遠、有識者に勝れり。

勝海舟と大隈重信については、あまり説明する必要はないと思うのですが、ただ、明治6年政変においては、大隈は大久保利通の側について……、といいますか、大久保に使われますので、桐野とは敵対する立場にいました。
大隈は、西郷嫌いです。もっとも、大久保を好いていたかというと、『早稲田清話』の放言を見ますと、なにやら含むところがあったのでは、という気がします。
「大久保は頭のてっぺんに毛がなく、それをかくすために毎朝たっぷりと時間をかけた」だとか、戯画にしていて、これは顎で使われた恨みなんだろうか、とも思うんですが、そういえば、顎で使われたあげくに、同郷の江藤新平がかなり無惨な形で殺されていますよねえ。
勝海舟の方は、いうまでもなく西郷好きですけれどもね。

市来四郎は薩摩藩士だった人ですが、反西郷派です。反射炉の構築や薩摩切子(カットグラス)の開発を手がけた開明派で、維新後は鹿児島で事業を興していて、西南戦争には参加していません。その後、島津家の歴史編纂を手がけ、史談会発足の中心となりました。
西郷嫌いの市来四郎の桐野評は、「風雅の道を知る男」などと、絶賛に近いのです。
さらに市来四郎は、桐野は民権論者であった、と言います。

桐野は耕運を好み、自ら開拓に力を尽し、近頃しきりに民権を主張し、壮年輩を説くに民権論を以てせり。

世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり。

民権論者で、西南戦争に参加した他県人として、増田宋太郎がいます。彼は、福沢諭吉の従兄弟なんですが、桐野を訪ね、桐野の影響で民権論者となり、西南戦争に参加した、という話もあるんですね。
福沢諭吉が、「言論が閉ざされたときには武力で抗議するしかない」と、西南戦争を擁護しているのは、そういった事情もあったのではないか、と思ったりします。

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桐野利秋と高杉晋作
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桐野利秋と高杉晋作

2006年01月08日 | 桐野利秋
これも、昔資料をさがしていて、さっぱり見つからなかった事柄です。
出てきたチラシの中から、要点をまとめてみます。

桐野利秋、幕末の名は中村半次郎ですが、彼が、薩摩と長州の中が悪いころから、長州よりの過激尊攘派であったことは、西郷隆盛の書簡に、「中村半次郎と申す者、追々暴客の中間にも入込、長州屋敷内にも心置き無く召入り候て」と、あることから推測されます。
しかし、慶応3年、幕末も押し詰まった『京在日記』の時期まで、他人の書簡や日記に、断片的に姿を現すだけで、実像がつかみ辛いのです。

維新以降の話なのですが、桐野は、通称を、「半次郎」から「新作」に改めます。
これは、高杉晋作に心酔していたからだ、という説がありまして、傍証をさがしていたのですが、評論新聞の記事が、それにあたると思えたのです。
『評論新聞』は、桐野利秋の盟友・海老原穆(えびはらあつし)が出していた反政府民権派の新聞で、『西南記伝』によりますと、海老原は桐野の死後、その遺影を神牌として毎朝拝んでいたほどでした。
その海老原さんが出していた評論新聞の明治8年11月の紙面に、「桐野新作君は真正の憂国家にして民権連の大将軍」とあり、翌12月に「元毛利家の大元帥・高杉新作東行公は生きていた」と、あるんですね。
どちらも新作です。
高杉さんが生きていた、という奇妙な記事は、高知県のある人物が高杉に神戸で会った、という話で、高杉は「死んだふりをして実は上海に行っていた」と説明し、高知県人が「御留守中、維新以来天下方さに駿々として中郷の勢あり」というと、「高杉、大に笑いていわく、百万の蒼生、いまだ春を知らず。ともにめでたく春を見る日もまたありましょう」と、姿を消すのです。

評論新聞がこれだけ、高杉を持ち上げていたということは、桐野が高杉に心酔していた、という話は本当ではなかったか、と思うのですね。
いったい、桐野と高杉の接点は、どこにあったのか。
長州よりの過激尊攘派であった、とはいえ、薩長同盟以前の、桐野と長州人のつながりを示す資料は、出ていません。

元治元年4月16日、土佐の山本頼蔵の日記に、「当日、石清(中岡慎太郎の変名、石川清之助の略)、薩の肝付十郎、中村半次郎と逢て問答のよし。この両人、ずいぶん正義の趣なり」とあるんですが、この直前、中岡慎太郎は、高杉晋作とともに、島津久光暗殺を企てています。
ここらあたりが、一番、可能性があるかな、という感じなんです。
しかし、全集に残されている中岡慎太郎の書簡や日記では、慶応二年以降にしか、桐野の名は出てこないんですね。
後は、慶応元年3月3日、土佐脱藩の土方久元の日記に、「中村半次郎、訪。この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」と見えます。

これも、東行庵の一坂太郎氏にお訊ねして、なお資料が出なかったことなので、ほとんどあきらめてはいるのですが、もし、なにかお心当たりのことがございましたら、どうか、ご教授のほどを。

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桐野利秋とアラビア馬
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志士たちへ花束

2005年11月28日 | 桐野利秋
昨日の続きです。
お墓参りといえば、桐野利秋のお墓には、もちろんお参りしました。鹿児島の南洲墓地です。
ここは、話に聞いていた通り、すばらしいところでした。小高い丘で、錦江湾と噴煙をあげる桜島が見渡せるのです。

 我が胸の燃ゆる想いに比ぶれば煙は薄し桜島山

と、思わず平野国臣になりました。いえ、晴れ晴れとしていて、それでいて情趣があって、かかえていった百合の花束が、ぴったりと似合いました。入り口近くに、ちゃんと花屋さんもあるんです。
それに、さすがに桐野です。熱心なファンがいるようで、それもおそらく女性なんでしょう、私の前にすでに、きれいな蘭の花束が手向けられていました。さすがは、「香水紳士」といわれたお方ですね。
事前に、「南洲墓地は明るくて美しい」と、幕末維新好きの知り合いの方から聞いていたのですが、その方がおっしゃるには、「熊本の神風連の墓地は暗くて幽鬼がただよっているみたい」というお話でした。

それにしても、史跡として知られているような墓地はいいのですが、幕末維新好きは、あまり知られていない人物の墓をさがして、うろうろしてしまったり、するものです。
かくいう私も、桐野と仲がよかったという人物の墓を求めて、京都の相国寺や東福寺をうろうろしました。相国寺の方のお墓は見つかりましたが、東福寺の方は、結局、わからず、だったと記憶しています。
知り合いにつき合っての墓さがし、というのもやりました。よく覚えてないのですが、たしか、松陰の肖像画を描いた松浦亀太郎のお墓だったと思うんです。この人、性急にも文久2年に京都で切腹して果てていまして、京都にお墓があるのですが、いやはや、さがしまわりました。ついにさがしあてたときの喜びだけは、いまだに、よく覚えているんです。
しかし、ここまではまだ、京都の町中でしたからよかったんです。池田屋事件で切腹したといわれる海援隊の望月亀弥太。彼の高知のお墓をさがしたときは、山の中で迷うかと思いました。高知市内ではあったんですが、野草の生い茂った山中です。
ようやっと見つけて、それから先がまた、なにしろ草に埋もれていますので、知り合いはまず草刈りから始めまして、私はもう疲れ果て、ぼうっとそれを見ていたように覚えています。

しかし、松浦亀太郎も望月亀弥太も20代ですし、戊辰戦争で死んだ桐野の仲良しさんたちも、大方20代、少し年をくっていても30代の前半です。いえ、それどころか、戊辰戦争や西南戦争では、10代の戦死者も多いですしね。みんな死に急いだ時代だったんだなあ、と。

墓参り好きの癖を発揮して、インゲルムンステル城のモンブラン伯のお墓にも、ぜひ参ってみたいものですね。お城の礼拝堂ですから、捧げる花束はやはり薔薇でしょうか。
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桐野利秋とアラビア馬

2005年11月27日 | 桐野利秋
私の幕末好きは、桐野利秋と土方歳三にはじまりました。やはり、男は容姿です。
土方歳三には昔からファンが多く、詳細に調べつくされていますので、他人様が調べたものを読ませていただいただけなのですが、桐野利秋については、当時はろくにまとまった研究書がなかったものですから、今回のモンブラン伯以上に、熱心に調べてまわりました。
そのころ仲間が欲しくて、まだネットはなかったものですから、歴史雑誌などで、素人の幕末愛好会をさがしたんですが、なぜかこれが、新撰組と龍馬と長州しかないんですね。なぜに薩摩はないのか、と思いつつ、龍馬会じゃ仕方がないですし、新撰組は熱狂的すぎて怖いですし、こつこつ調べもの好きがいるのは長州系だけなので、長州好き幕末ファンの知り合いが、けっこうできました。
今はどうなのか知りませんが、新撰組好きと長州好きには女性が多く、なぜか女性ファンはお墓参りが好きです。お墓参りだけならばまだわかるのですが、なぜか彼女たちは、寄せ書きノートを作るのが好きだったんです。お墓にそのままノートを置いておくと、雨に濡れるので、クッキーの空き缶や大きめのタッパーなどに入れて置くわけなんです。
知り合いから聞いた話なんですが、土方歳三のお墓の前なぞ、そのノート置き場ぶんどり合戦で、火花が散る状態だったのだとか。

えーと、話がそれてしまいました。桐野利秋とアラビア馬です。
大正十年発行、有馬藤太の『維新史の片鱗』、流山で新撰組の近藤勇捕縛した経緯が書かれていることで有名な本なのですが、この後書きに、「立派な功績が他の人の事績になっていたり」する例として、以下の一行があるんです。

「桐野とアラビア馬」が「大西郷の妾」と化し(大正八年十一月発行ポケット)


アラビア馬って、おそらく、ナポレオン三世が将軍に贈ったアラビア馬です。幕末も押し詰まったころ、蚕種のお返しとして、馬匹改良のアラブ26頭がフランスから来たのですが、なにしろ格好の良いアラブですから、幕臣が乗馬用にしちゃったりしまして、そこへ維新の騒動で、その多くが行方不明になったんですね。
で、もしかすると桐野は、ナポレオン三世のアラビア馬にかかわっていたのか、と思うのですが、「桐野利秋とアラビア馬」という記事、それに関した古書をご存じでしたら、どうぞ、ご教授のほどを。

今回の幕末物語に桐野が関係するのか、といえば、桐野利秋と土方歳三は、もちろん登場します。登場させなければ、書く楽しみがなくなるではありませんか。
コメント (7)
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