えーと、モンブラン伯爵Wiki記事誕生記念プレゼント企画!で予告しましたように、薩摩ボタンはだれが考えたのか???の続きです。
この記事、実は旅行以前に一部書きかけていまして、以下、町田清藏くんとパリス中尉の続きである部分と天璋院関係は、すでに書いてあったものです。
で、本題には関係ありませんが、今回の旅行で一泊しました指宿市の今和泉は、篤姫さんの出身地だというので、ふれあいプラザなのはな館(菜の花くらい漢字使えよ!と思うんですが)に、ドラマで使った衣装が飾ってありました。写真を撮りましたので、ついでに載せます。
ところで、最近知ったんですけど、3年も前に書いた慶喜公と天璋院vol1とvol2が、他に転載されていまして(転載もと明記、リンクつきですから、いいんですけど)、ちょっとびっくりです。ドラマ効果、なんでしょうねえ。
ただ、天璋院篤姫の実像にも書きましたが、ろくに資料も読まないで、勢いで書いてしまいましたので、細かいところでは「訂正すべきかなあ」というような点もあり、かといって、ああいうふうに流して読みやすく書きますと直すのもまた微妙な話で、めんどうです。まあ、現実になにがあったか、よりも、それぞれの心情の推理が話の中心ですから、悪しからず。
で、本題に入りまして、薩摩ボタンはだれが考えたのか???に書きました以下の部分。
町田兄弟の末弟、町田清蔵くんについては、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1、vol2で、後年の回顧談を詳しく紹介しております。
ただ、この回顧談、はるか後年のものの上に、町田清蔵くんとパリス中尉でも書きましたが、帰国後のことはつけ足しであったらしく、年月日をそのまま受け取りますと、慶応2年に帰国して、戊辰戦争がはじまるまで、一回も薩摩に帰らないで長崎で過ごした、という、なんとなく変なことになってくるのです。
で、私、先に書きました巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2の最後では、勘違いしてしまい、維新前に薩摩に帰ったことにしてしまっております。
えーと、なんで勘違いしたのか、忘れてしまっていたのですが、いつものfhさまが、思い出させてくださいました。(とりとめもなく。)
町田清藏くんとパリス中尉に引用しております、清藏くんの回顧録からのを、どう解釈するか、です。
しかるに途中、長崎(ママ)征伐のため筑前に出兵の帰藩の途にて、私が洋服にて無刀であり、其の時までは攘夷論者のおる時ですから、其の武士が抜刀して私を切らむ姿勢で向ひましたから、私は残念で泣きながら腰の六連発のピストルを差し向け、切らは切れわれはピストルでいると云ふかまえへにて、「自分は大守様の命により先年英国に留学し、今帰藩の途中、清水兼二郎、本名町田清次郎という、大目付町田民部(久成にいさんです)が実弟なり。何故あって我を切らんとせらるるや、御名前をうかがひ大守様へ言上する考」と言うに、向こうの勢一変し、無言にて一散に走りましたから、私は実に残念で跡を追ひましたが、追いつかず、伊集院というところにきますと、私の兄の用達を勤むる藩士で、大脇正之助という者と出会いまして、右の始末を語り「ぜひ右の武士の名前を調べてくれ」と申しますと、「それはおだやかに見のがした方がよろし」と言うて、それより跡先に大脇と岩崎との間にはさまれ鹿児島城下に着し、一家親族の見舞やら親族に呼はるやら五六日は席の暖まる間もなき事にて、それから親が志布志というところの地頭所に打ち立ちましたが、このときは慶応四年にて奥州征伐戦中にてありました。
そうなんです。長崎征伐なんて言葉は聞いたことがありませんし、編者が(ママ)としているってことは、これは第2次長州征伐なんだろう、と、最初は思ったんですね。ところが、よくよく読んでみましたら、そのまま話が「このときは慶応四年にて奥州征伐戦中」に直結してしまっているものですから、だったらこれは「長崎征伐」、つまりは戊辰戦争でいいんだろうか、と思い直した次第なんです。
しかし、なにしろこれは講演録ですから、話をはしょったり、前後させたりしていたはずで、実は長州征伐、という方が、つながりはよさげです。
講演の速記録を、まともな文章にする仕事をしたことがありますが、話が時間的に前後したり、横道にそれて時間軸が前にかえったりは、よくあることでして、話をばらばらにして組み立て直さなければ、筋が通った文章にはならないのが普通なんです。
で、ここからが、本日書きます部分です。
ともかく、パリ万博以前、慶応2年に町田清蔵くんはパリのモンブランのもとから帰国しているわけでして、しかも北賴家と養子縁組みの約束ができていたわけです。
それで私、今回の薩摩行で、「北郷久信報功事歴並歴代系譜」という本のコピーを、鹿児島県立図書館に頼んできたのですが、これはまだ届いていません。
しかし、旅行前に、薩摩川内市川内歴史資料館に郵便小為替を送って頼んでおりました「市政60周年記念特別展 用と美 平佐焼の世界展」の図録が届いたんです。
これがすぐれものでして、ちゃんとまとめて、平佐焼に関する歴史史料を転載してくれてます。
その中に、「北郷久信報功事歴並歴代系譜」の一部も転載されいるのですが。
慶応元年乙丑藩において開成所を建設し英学を講習せしめることに尽力し、その教師として安保清康(男爵林謙三)、嵯峨根良吉、白川謙次朗等の人々を聘せり。久信これらの人々を自邸に客たらしめ人材を選び英学を修めしむ。また皿山陶器製造の業を拡張し、大花瓶の類を製出せしめ長崎へ輸出し、外国貿易の途を開きたり。
えーと、です。つまり、北郷久信は、薩摩藩が開成所で英学を教えることに尽力し、安保清康、嵯峨根良吉、白川謙次朗などを教師として招いた。またこれらの人々を自宅に招き、藩士(あるいは川内領の藩士かも)の中から人材を選んで学ばせた。また、自領の陶器製造業を拡張し、大花瓶の類を製造させて長崎へ出し、海外に輸出するみちを開いた、というんです。
自宅というのが鹿児島の自宅なのか、あるいは川内の自宅なのかわからないのですが、いずれにせよ、白川謙次朗って、モンブランがパリへ連れて行っていた斎藤健次郎、ジェラールド・ケンとしか、考えられません。
ケンは、モンブランが白山伯と名乗ったからなのか、白川と名乗るようになっていたのです。
ケンが開成所にいた時期として考えられるのは、おそらく、なんですが、慶応2年(1855年)です。モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2を見ていただければ、だいたいの流れがわかると思うのですが、薩摩藩密航留学生とともに、薩摩使節のような形でイギリス、ベルギー、フランスを訪れていました五代パパ、新納とうさん、そして通訳の堀は、慶応元年12月26日(1866年2月2日)に、帰国の途につきます。どうもこのとき、ケンが薩摩へ伴われていったようなのです。おそらくは、パリ万博の準備のためだったでしょうし、万博に出発するまで、開成所で教授を務めたとしてもおかしくありません。
そのケンが、北賴久信と知り合っていた、ということは、モンブランを平佐窯へ伴ったのは、清蔵くんではなく、あるいはケンであった可能性もあります。
そうなんです。ほぼ確実に、モンブランは平佐窯を訪れていました。
前回ご紹介しました世界に翔けた幕末明治の薩摩(SATSUMA)焼―薩摩焼発祥400年記念出版が、「そのような平佐焼の窯地に、慶応2年(1866)フランスの貿易商コント・デ・モンブランが来航した」、つまりモンブランが平佐窯を訪れたのは慶応2年と誤記していたものですから、不確かな伝承かと思ったのですが、「平佐焼の世界展」図録史料集に、ちゃんと史料が転載されていまして、慶応3年になっているんです。モンブランと平佐焼に関する記述がある、いちばん古い史料は、大正15年、公爵島津家臨時編輯所発行、坂田長愛編『薩摩陶磁器傳統誌』です。
当時は多く外国向の製品をなしたりしが、かの慶応三年の初に仏国にて開会せられたる万国博覧会にて、薩摩の出品陳列に尽力し、後商会設立のために薩摩に来り、維新の際外国交際に関する種々の助言をも呈したる仏国の貴族コント、デ、モンブランも当所(平佐窯)に来りて、製品の指揮をなせしことあり。今縁端に菊花を巡らし中に玉冠を戴ける獅子の旗を持ちて対立したる紋章を描ける磁器のなお残存せるは、この時モンブランの指揮によりて製造せしものにて、その製造したる器物は三、四年分を集めて、これを長崎に搬出し、外国に輸出したりという。
まわりを菊が囲んでいて、向獅子の紋章(サントリーのマークみたいなものです)が入った平佐焼の磁器は、モンブランが指導し、この本が出た大正末年当時、まだ残っていた、というんですね。
ただ、薩摩ボタンはどんなものでしょうか。
実はですね、薩摩伝承館が、薩摩ボタンを収蔵しているのです。私が見たのは、一組だけだったのですが、図録にはもっと載っていました。
この図録を、実は私買い損ねまして、ただいま送金して注文中です。
なんという馬鹿でしょう、私。沈壽官氏のティーカップなど、素敵なミュージアムグッズに見とれていまして、目立たないところにあった図録に、気づかないでいたんです。このティーカップが、ですね、普通のものより大降りで、受け皿がケーキ皿にもなるという使い勝手のよさそうなものだったんですが、なにしろ一客15000円。せめて三客は欲しいですし、ちょっと手が出ないなあ、と思いつつ、未練がましく眺めていたりしまして。
で、その日、旅行二日目、知覧観光をして、鹿児島まで移動しまして、ホテルにて夜、初めて大先輩のお友達のNezuさまにお目にかかったわけなのですが、大先輩とNezuさまは、その日の飛行機で鹿児島に来て、それから指宿まで往復して、私より3時間くらい後に、伝承館を見学されていました。
初対面の挨拶がすむや否や、Nezuさまに、「図録買われました?」と聞かれて、「えっ!!! 図録……、あったんですよねえ」と、呆然としました私。さっそくNezuさまに見せていただいたのですが、薩摩ボタンが6組くらい、ありました。
ともかく、です。いま、手元にないものですから、正確ではないのですが、私が「古そうなものは絵付けが丁寧で初期SATUMAの面影がある」と感じた、その古そうなボタンは、伝承館図録のキャプションによりますと、みんな京薩摩なんです。そして、「ちょっと新しいかな」という感じのものは、神戸薩摩。
うーん。ということは、幕末に薩摩で、薩摩ボタンは焼かれていないのでしょうか。
薩摩ボタンが平佐窯で幕末から焼かれた、という可能性を考えますと、あまり薩摩焼らしくない、新しく見えるものに、わずかながら、その可能性があるんじゃないだろうか、と考えるようになりました。
実は、三彩ではなく、白薩摩に似た感じの輸出品の平佐焼は、普通にイメージする白薩摩よりも、有田焼に近い磁器なんです。つまり、白薩摩の地は卵色、というのですか、薄くクリームがかっていて、貫入が入っているのですが、平佐焼は真っ白なんです。しかし、京薩摩にも真っ白なものはあるようですし、卵色の貫入入り薩摩ボタンは、むしろSATUMAの名が欧州にひびきわたったウィーン万博以降の傾向、と考えてもいいんじゃないんでしょうか。
もしも、平佐窯薩摩ボタンがあるとするなら、真っ白に、モンブランの指導でモダンな絵が描かれたものだったりして、などと、妄想しています。
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この記事、実は旅行以前に一部書きかけていまして、以下、町田清藏くんとパリス中尉の続きである部分と天璋院関係は、すでに書いてあったものです。
で、本題には関係ありませんが、今回の旅行で一泊しました指宿市の今和泉は、篤姫さんの出身地だというので、ふれあいプラザなのはな館(菜の花くらい漢字使えよ!と思うんですが)に、ドラマで使った衣装が飾ってありました。写真を撮りましたので、ついでに載せます。
ところで、最近知ったんですけど、3年も前に書いた慶喜公と天璋院vol1とvol2が、他に転載されていまして(転載もと明記、リンクつきですから、いいんですけど)、ちょっとびっくりです。ドラマ効果、なんでしょうねえ。
ただ、天璋院篤姫の実像にも書きましたが、ろくに資料も読まないで、勢いで書いてしまいましたので、細かいところでは「訂正すべきかなあ」というような点もあり、かといって、ああいうふうに流して読みやすく書きますと直すのもまた微妙な話で、めんどうです。まあ、現実になにがあったか、よりも、それぞれの心情の推理が話の中心ですから、悪しからず。
で、本題に入りまして、薩摩ボタンはだれが考えたのか???に書きました以下の部分。
町田兄弟の末弟、町田清蔵くんについては、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1、vol2で、後年の回顧談を詳しく紹介しております。
ただ、この回顧談、はるか後年のものの上に、町田清蔵くんとパリス中尉でも書きましたが、帰国後のことはつけ足しであったらしく、年月日をそのまま受け取りますと、慶応2年に帰国して、戊辰戦争がはじまるまで、一回も薩摩に帰らないで長崎で過ごした、という、なんとなく変なことになってくるのです。
で、私、先に書きました巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2の最後では、勘違いしてしまい、維新前に薩摩に帰ったことにしてしまっております。
えーと、なんで勘違いしたのか、忘れてしまっていたのですが、いつものfhさまが、思い出させてくださいました。(とりとめもなく。)
町田清藏くんとパリス中尉に引用しております、清藏くんの回顧録からのを、どう解釈するか、です。
しかるに途中、長崎(ママ)征伐のため筑前に出兵の帰藩の途にて、私が洋服にて無刀であり、其の時までは攘夷論者のおる時ですから、其の武士が抜刀して私を切らむ姿勢で向ひましたから、私は残念で泣きながら腰の六連発のピストルを差し向け、切らは切れわれはピストルでいると云ふかまえへにて、「自分は大守様の命により先年英国に留学し、今帰藩の途中、清水兼二郎、本名町田清次郎という、大目付町田民部(久成にいさんです)が実弟なり。何故あって我を切らんとせらるるや、御名前をうかがひ大守様へ言上する考」と言うに、向こうの勢一変し、無言にて一散に走りましたから、私は実に残念で跡を追ひましたが、追いつかず、伊集院というところにきますと、私の兄の用達を勤むる藩士で、大脇正之助という者と出会いまして、右の始末を語り「ぜひ右の武士の名前を調べてくれ」と申しますと、「それはおだやかに見のがした方がよろし」と言うて、それより跡先に大脇と岩崎との間にはさまれ鹿児島城下に着し、一家親族の見舞やら親族に呼はるやら五六日は席の暖まる間もなき事にて、それから親が志布志というところの地頭所に打ち立ちましたが、このときは慶応四年にて奥州征伐戦中にてありました。
そうなんです。長崎征伐なんて言葉は聞いたことがありませんし、編者が(ママ)としているってことは、これは第2次長州征伐なんだろう、と、最初は思ったんですね。ところが、よくよく読んでみましたら、そのまま話が「このときは慶応四年にて奥州征伐戦中」に直結してしまっているものですから、だったらこれは「長崎征伐」、つまりは戊辰戦争でいいんだろうか、と思い直した次第なんです。
しかし、なにしろこれは講演録ですから、話をはしょったり、前後させたりしていたはずで、実は長州征伐、という方が、つながりはよさげです。
講演の速記録を、まともな文章にする仕事をしたことがありますが、話が時間的に前後したり、横道にそれて時間軸が前にかえったりは、よくあることでして、話をばらばらにして組み立て直さなければ、筋が通った文章にはならないのが普通なんです。
で、ここからが、本日書きます部分です。
ともかく、パリ万博以前、慶応2年に町田清蔵くんはパリのモンブランのもとから帰国しているわけでして、しかも北賴家と養子縁組みの約束ができていたわけです。
それで私、今回の薩摩行で、「北郷久信報功事歴並歴代系譜」という本のコピーを、鹿児島県立図書館に頼んできたのですが、これはまだ届いていません。
しかし、旅行前に、薩摩川内市川内歴史資料館に郵便小為替を送って頼んでおりました「市政60周年記念特別展 用と美 平佐焼の世界展」の図録が届いたんです。
これがすぐれものでして、ちゃんとまとめて、平佐焼に関する歴史史料を転載してくれてます。
その中に、「北郷久信報功事歴並歴代系譜」の一部も転載されいるのですが。
慶応元年乙丑藩において開成所を建設し英学を講習せしめることに尽力し、その教師として安保清康(男爵林謙三)、嵯峨根良吉、白川謙次朗等の人々を聘せり。久信これらの人々を自邸に客たらしめ人材を選び英学を修めしむ。また皿山陶器製造の業を拡張し、大花瓶の類を製出せしめ長崎へ輸出し、外国貿易の途を開きたり。
えーと、です。つまり、北郷久信は、薩摩藩が開成所で英学を教えることに尽力し、安保清康、嵯峨根良吉、白川謙次朗などを教師として招いた。またこれらの人々を自宅に招き、藩士(あるいは川内領の藩士かも)の中から人材を選んで学ばせた。また、自領の陶器製造業を拡張し、大花瓶の類を製造させて長崎へ出し、海外に輸出するみちを開いた、というんです。
自宅というのが鹿児島の自宅なのか、あるいは川内の自宅なのかわからないのですが、いずれにせよ、白川謙次朗って、モンブランがパリへ連れて行っていた斎藤健次郎、ジェラールド・ケンとしか、考えられません。
ケンは、モンブランが白山伯と名乗ったからなのか、白川と名乗るようになっていたのです。
ケンが開成所にいた時期として考えられるのは、おそらく、なんですが、慶応2年(1855年)です。モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2を見ていただければ、だいたいの流れがわかると思うのですが、薩摩藩密航留学生とともに、薩摩使節のような形でイギリス、ベルギー、フランスを訪れていました五代パパ、新納とうさん、そして通訳の堀は、慶応元年12月26日(1866年2月2日)に、帰国の途につきます。どうもこのとき、ケンが薩摩へ伴われていったようなのです。おそらくは、パリ万博の準備のためだったでしょうし、万博に出発するまで、開成所で教授を務めたとしてもおかしくありません。
そのケンが、北賴久信と知り合っていた、ということは、モンブランを平佐窯へ伴ったのは、清蔵くんではなく、あるいはケンであった可能性もあります。
そうなんです。ほぼ確実に、モンブランは平佐窯を訪れていました。
前回ご紹介しました世界に翔けた幕末明治の薩摩(SATSUMA)焼―薩摩焼発祥400年記念出版が、「そのような平佐焼の窯地に、慶応2年(1866)フランスの貿易商コント・デ・モンブランが来航した」、つまりモンブランが平佐窯を訪れたのは慶応2年と誤記していたものですから、不確かな伝承かと思ったのですが、「平佐焼の世界展」図録史料集に、ちゃんと史料が転載されていまして、慶応3年になっているんです。モンブランと平佐焼に関する記述がある、いちばん古い史料は、大正15年、公爵島津家臨時編輯所発行、坂田長愛編『薩摩陶磁器傳統誌』です。
当時は多く外国向の製品をなしたりしが、かの慶応三年の初に仏国にて開会せられたる万国博覧会にて、薩摩の出品陳列に尽力し、後商会設立のために薩摩に来り、維新の際外国交際に関する種々の助言をも呈したる仏国の貴族コント、デ、モンブランも当所(平佐窯)に来りて、製品の指揮をなせしことあり。今縁端に菊花を巡らし中に玉冠を戴ける獅子の旗を持ちて対立したる紋章を描ける磁器のなお残存せるは、この時モンブランの指揮によりて製造せしものにて、その製造したる器物は三、四年分を集めて、これを長崎に搬出し、外国に輸出したりという。
まわりを菊が囲んでいて、向獅子の紋章(サントリーのマークみたいなものです)が入った平佐焼の磁器は、モンブランが指導し、この本が出た大正末年当時、まだ残っていた、というんですね。
ただ、薩摩ボタンはどんなものでしょうか。
実はですね、薩摩伝承館が、薩摩ボタンを収蔵しているのです。私が見たのは、一組だけだったのですが、図録にはもっと載っていました。
この図録を、実は私買い損ねまして、ただいま送金して注文中です。
なんという馬鹿でしょう、私。沈壽官氏のティーカップなど、素敵なミュージアムグッズに見とれていまして、目立たないところにあった図録に、気づかないでいたんです。このティーカップが、ですね、普通のものより大降りで、受け皿がケーキ皿にもなるという使い勝手のよさそうなものだったんですが、なにしろ一客15000円。せめて三客は欲しいですし、ちょっと手が出ないなあ、と思いつつ、未練がましく眺めていたりしまして。
で、その日、旅行二日目、知覧観光をして、鹿児島まで移動しまして、ホテルにて夜、初めて大先輩のお友達のNezuさまにお目にかかったわけなのですが、大先輩とNezuさまは、その日の飛行機で鹿児島に来て、それから指宿まで往復して、私より3時間くらい後に、伝承館を見学されていました。
初対面の挨拶がすむや否や、Nezuさまに、「図録買われました?」と聞かれて、「えっ!!! 図録……、あったんですよねえ」と、呆然としました私。さっそくNezuさまに見せていただいたのですが、薩摩ボタンが6組くらい、ありました。
ともかく、です。いま、手元にないものですから、正確ではないのですが、私が「古そうなものは絵付けが丁寧で初期SATUMAの面影がある」と感じた、その古そうなボタンは、伝承館図録のキャプションによりますと、みんな京薩摩なんです。そして、「ちょっと新しいかな」という感じのものは、神戸薩摩。
うーん。ということは、幕末に薩摩で、薩摩ボタンは焼かれていないのでしょうか。
薩摩ボタンが平佐窯で幕末から焼かれた、という可能性を考えますと、あまり薩摩焼らしくない、新しく見えるものに、わずかながら、その可能性があるんじゃないだろうか、と考えるようになりました。
実は、三彩ではなく、白薩摩に似た感じの輸出品の平佐焼は、普通にイメージする白薩摩よりも、有田焼に近い磁器なんです。つまり、白薩摩の地は卵色、というのですか、薄くクリームがかっていて、貫入が入っているのですが、平佐焼は真っ白なんです。しかし、京薩摩にも真っ白なものはあるようですし、卵色の貫入入り薩摩ボタンは、むしろSATUMAの名が欧州にひびきわたったウィーン万博以降の傾向、と考えてもいいんじゃないんでしょうか。
もしも、平佐窯薩摩ボタンがあるとするなら、真っ白に、モンブランの指導でモダンな絵が描かれたものだったりして、などと、妄想しています。
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