桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5の続編、といいますか、発展といいますか。
実をいいますと、高杉の従兄弟、南貞助のことが書きたくなりまして、書こうとしたのですけれども、慶応2年の高杉の洋行騒ぎについてちょっと補足をしたくなり、中原邦平著「井上伯伝」を読んでいますうちに、これって、モンブランがらみともいえるのかと。
といいますか、えー、同じ時代の話なんですから、あたりまえといえばあたりまえなのですが、なにもかもが、驚くほどにリンクします。
慶応2年(1866年)の一月、木戸孝允が上京し、西郷隆盛、小松帯刀と会談し、坂本龍馬が同席して、いわゆる薩長同盟の成立があります。それとほぼ同時期に、薩長同盟にからみますユニオン号のもつれで、薩長間の板挟みとなり、長崎におきまして近藤長次郎が自刃します。
伏見の寺田屋で、龍馬が奉行所の捕り物にあって負傷し、京都の薩摩藩邸に移りましたところ、陸奥宗光が小松帯刀のもとへ、長次郎自刃の知らせを届けました。
しかしユニオン号事件は、まったくもって解決しておりません。
当然のことなのですが、木戸は薩長連合の話し合いの中で、西郷・小松に、ユニオン号のことも頼んでおります。
それに答えまして、小松が、村田新八と川村純義を山口へ派遣しました。二人は、小松の書簡と龍馬の書簡(同行したかったが負傷して今は無理だという断り文)をたずさえていました。
小松、龍馬の日付の手紙が2月6日でして、とすれば、陸奥宗光が小松の元へ長次郎自刃の知らせをもたらします以前の話で、村田と川村は、それを知らないうちに京都を発っています。
小松帯刀が、村田・川村を通じまして木戸に伝えましたのは、だいたい、こういうことでした。
「ユニオン号の所有権が長州にあると認めたいのは山々ですが、薩摩藩士や乗り組みの海援隊士には、それに反対する者が多いため、とりあえずユニオン号を鹿児島へ帰してもらえないだろうか。藩主に見せて、相談の上、返答したいと思う」
西郷の意を受け、ちょうど長州にいました黒田清隆は、長州の薩摩連絡係・品川弥二郎に、「蒸気船の名義貸しは、近藤長次郎が公(長州藩主)に拝謁したときに頼まれて始まったことで、話がかなりこじれてしまったようなので、もう一度、公にご直筆の依頼書をお願いして、特使を鹿児島に派遣してもらうことはできないだろうか?」というようなことを言ったと、2月26日付け、弥二の木戸宛書簡に見えます。
結局、藩主・毛利敬親は村田・川村に会ってねぎらい、いったん船を鹿児島へ帰すことを承知し、また特使派遣も決まりました。
この特使に、高杉晋作と伊藤俊輔(博文)が志願します。
といいますのも、ちょうどこのころ、イギリス公使パークスが鹿児島入りするという噂があり、二人は薩英会談に同席したいと、鹿児島行きを熱望していたんです。
そして、そこへ現れましたのが、薩摩藩士・木藤市助です。
高杉晋作の手紙 (講談社学術文庫) | |
一坂 太郎 | |
講談社 |
上の本に、3月7日付け、高杉晋作の白石正一郎(下関の商人)宛て書簡が載っています。
このとき、晋作さんは大変でした。
晋作さんがおうのさんと同棲している噂でも聞いたのでしょうか、晋作さんのおかあさんが、嫁の雅さん(晋作の妻)と幼い孫(晋作の子)の東一さんを引き連れ、萩から下関へ出向いてきていたんです。
晋作さんは三人を、奇兵隊のスポンサーだった白石正一郎さん宅に預かってもらっていました。その正一郎さんも、援助疲弊で左前状態。晋作さんは、なんとかしてあげようと奔走中だったりします。
晋作さんの言うことには。
「昨日は薩摩の木藤市助を妓楼に案内して盛り上がって、そのままいろいろ話し込んで今夜もここに居座ります。明日はかならず帰りますので、母親ほかへの取りなしをどうぞよろく」
まあ、だいたいそういうことなのですが、木藤さんとは意気投合しましたようで、一坂太郎氏によりますと、漢詩も贈っています。
以下、読み下しは一坂太郎氏です。
贈薩人木藤市助時幕府欲有事宰府、薩藩防之
薩軍振起して龍鱗を護る
天拝峰頭俗塵を拂う
君更快然たらん吾亦快なり
神州の形勢今より新たなり
幕府が太宰府で事を起こそうとし、薩摩が之を防いだ時、薩摩の木藤市助に贈る。
薩摩軍ががんばって五卿を守った。
天に拝む峰の俗塵が、これで払われた。
君も愉快だろうが、ぼくも愉快だ。
神州日本は、新しい時代を迎えた。
太宰府に五卿がいます。
そのこと自体、西郷隆盛がはからったことですし、警護の中心に薩摩藩がいまして、粗略に扱われないように注意を払っています。幕府は五卿を京都に帰して罪を問おうとしたようでして、細かなことは私は調べてないんですけれども、小競り合いがあったようです。
五卿の扱いが、長州の薩摩藩に対する信頼を呼び起こし、薩長の連帯によって新しい時代が来ると、晋作さんは歌っています。
近藤長次郎に贈った漢詩ほど、個人的に親しげな感じはしないんですけれど、気分よく歌い上げた感じですよね。
さらに一坂太郎氏によりますと、晋作さんは文久2年(1862年)、上海で、欧米の有名人のブロマイドを張り込みました手帳サイズのアルバムを買い、その一部を抜いて、友人、知人の写真を貼っているそうなのですが、薩摩藩士の写真は4枚。高見弥一を含みます三人の集合写真が一枚、残りは一人の写真で、五代友厚、野村宗七、そして木藤市助です。
このときなぜ、木藤市助が下関にいたのか、ちょっとわからないのですが、間もなく(慶応2年7月3日・1866年8月12日)彼は、薩摩藩の第二次留学生となって横浜からアメリカへ渡り、およそ一年後の慶応3年(1867年)6月、マサチューセッツ州モンソンの近郊で、首をつって果てます。
理由は、はっきりとはわかりません。
せっかく選ばれて留学しながら、しかし、どうしようもない思いを抱えてしまった、ということなのでしょう。
その二ヶ月前には、漢詩を贈った晋作さんの方も、結核でこの世を去っています。
話をもどしまして、高杉と伊藤は、小松・西郷が西下する船に便乗しようと待っていましたが、来ませんので、グラバーが横浜へ行く途中で下関へ寄りましたのを捕まえ、長崎に帰るときには乗せてくれるように頼みます。
このとき、すでに高杉は、鹿児島へ行ってユニオン号事件を解決し、薩英会談に同席した後に、その足で洋行するつもりでした。
木藤市助はすでに洋行が決まっていたでしょうし、彼から聞いた話に、いてもたってもいられなくなったのではなかったでしょうか。
どんな話って、えーと。五代と新納が欧州で見聞しました幕仏関係です。
「井上伯伝」に、突然、ここでモンブランの名前が出てまいりまして、びっくりしたのですが、よく読んでみますと、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3に書いております、『続・再夢記事』慶応2年7月18日付け越前藩士の報告書と同じ内容なんです。
「フランスも四,五百年前までは、大小名が各地に割拠し、その小国ごとに法律があったが、日本の今の状態はそれと同じであるので、現在のフランスのように中央集権化する必要がある。大名の権力をけずるためには、軍事力が必要だろう。それがないのであれば、日本はフランスに依頼して借りるべきだ」とモンブランが幕府に吹き込んだのだと、越前藩士の耳に入れましたのは、まちがいなく五代ですし、まあ、これに近い幕府とフランスの協力話を、木藤が高杉に語っていても、おかしくはないわけでは、あります。
モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2に、「五代、新納、堀の三人は、パリの地理学会が終わるといったんロンドンへ帰り、再びパリに滞在してモンブランと契約を交わし、慶応元年12月26日(1866年2月2日)、帰国の途に就きます」と書いたのですが、いったいいつ、日本へ帰り着いたのか、ちょっとわかりません。
しかし二人は、欧州での出来事を、書簡でいろいろと国元へは知らせているわけですし、第二次の留学予定者でしたら、かなりのことを知っていて、おかしくないと思うのですよね。
そして、高杉は文久2年の上海行きで、五代友厚とすでに知り合っていますから、「五代さんはこう言ってきている」と、木藤が高杉に語った可能性は、かなり高いでしょう。
それにいたしましても、五代!!!
ものすごい反幕プロパガンダです。
高杉と伊藤は、3月21日にグラバーの船で下関を離れ、長崎へ向かいます。当日の夜半には長崎に着きましたが、すでに小松と西郷は、鹿児島に帰っていませんでした。
長崎の薩摩藩邸で留守番をしておりました市来六左衛門は、高杉たちに、「鹿児島では、いまだに薩長の連携を知らない人間も多いので、親書はかならずお届けしますが、入国は遠慮願います」と言ったというのですが、これってどーなんでしょ。
長州藩主の特使が薩摩に入国できないって、ねえ。
薩摩藩主父子の返書があった6月まで、薩長同盟が成立していたとはいいがたいのではないか、と、私が考えるゆえんです。久光が認めてなかったのではないか、という話なんですけれども。
3月28日付けの高杉の木戸・井上宛書簡では、「薩ニハ家老新納刑部五代才助先日英ヨリ帰着、日々外国之事ニ手ヲ附候様子ニ御座候、既ニ昨夜モ米利幹ニ五人書生ヲ遣セシ也」とあり、五代と新納が薩摩へ帰っていたこと、薩摩の第二次留学生がアメリカへ旅立ったことが、わかります。
結局、高杉晋作は、幕府との開戦が近づいたことから洋行をあきらめました。
モンブランが日本へ入国しましたのは、翌慶応3年の秋で、晋作さんはすでにこの世の人ではありませんでしたけれども、晋作さんの義弟にして従兄弟、南貞助は、当然、モンブランとも面識があったものと思われます。
次回はちょっと、素っ頓狂なところばかりが似ました、晋作さんのかわいい従兄弟の楽しい話を、してみたいと思います。
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