伝説の金日成将軍と故国山川 vol8の続きです。
このシリーズを書き継ぐつもりはなかったのですが、書いているうちは、その内容にそった読書にはげむものですから、尾をひくことになるようです。
まず、金日成偽物説について、つけ加えたいことが出てまいりました。
延々とこれまで書いてきましたように、北朝鮮の金日成、本名・金成柱が、東北抗日聯軍の第一路軍第二軍の第六師長でありましたことにはまちがいがなく、満州で抗日パルチザン活動をしてましたことは事実ですし、普天堡襲撃の現場指揮も、おそらく本人です。
ただ、これもさんざん書いてきたことなのですけれども、伝説の金日成将軍は、金成柱よりはるかに年上で、金日成の父親の年代に近いんです。金日成が平壌に姿を現しましたとき、騒がれましたのは、金日成将軍にしては、若すぎる!!!ということだったんです。
しかし、ですね。伝説はあくまで伝説ですから、金日成将軍伝説が、当時から流布していましたことについては、伝説の金日成将軍と故国山川 vol5で引用しております、金日成のロシア語の通訳を務めていました高麗人・兪成哲(ユ・ソンチョル)氏の証言以外、といいますならば、「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」の李命英氏が、韓国内の年配の人に聞いてまわった証言、くらいのものしかありませんで、どちらも文書じゃありませんから、伝説があったこと自体を否定します研究者も、韓国、日本ともにいたりするわけです。
しかし、ですね。伝説がなかったならば、若すぎる!!!なんぞという観衆の反応は出てこないわけでして、また伝説があったのでしたら、そのモデルもあっただろうと私は思いますし、金光瑞はモデルの一人だっただろうとも、思っております。
えーと。
実は、ですね。私が朝鮮半島に興味を持ちました一番最初のきっかけ、といいますのは、中学生のときに読みました、パール・バックの「生きる葦」という小説だったんです。
これ、明治から日本の敗戦まで、物語の冒頭では閔妃に仕えていました両斑一族の、三代にわたる物語でして、歴史的な事実関係をいいますならば、相当にいいかげんなものです。
ただ、ですね。私がこれを読みました当時は、ソ連もまだ崩壊しておりませんでしたし、日本は左巻き全盛期でして、朝鮮戦争もベトナム戦争も、悪かったのはみーんなアメリカで、北ベトナムも北朝鮮も、民族自決の精神でアメリカに抵抗しただけでー、みたいなおとぎ話がまじめに語られておりました。
ところが、ですね。さすがはパール・バック、宣教師の娘です。信仰の自由を最大限度に重んじますので、宗教を否定します共産主義は許容していませんし、「アメリカは無知で、当初、朝鮮半島に対する対処を誤ったけれども、韓国の自由のためにアメリカ兵は命をかけて、ともに戦った」というようなことが述べられていまして、「アメリカ側から見るならば、そういう視点もあったのか!!!」と、とても新鮮でした。
パール・バックの父親は、長老教会の宣教師でして、中国が主な伝導の舞台でしたが、確か、朝鮮にも伝導していますし、中国、朝鮮のアメリカの宣教師たちは、民族派の独立運動には同情的でして、大日本帝国に批判的です。したがいまして、「生きる葦」もいわば抗日独立運動の物語です。
私、よくは覚えていないのですが、第二世代に「生きる葦」と呼ばれる伝説の独立運動家がいて、第三世代には、共産主義者もいます。まあ、つまり、第二世代の「生きる葦」が伝説の金日成将軍で、第三世代に金成柱がいる、ということになるようなわけなんです。
しかも確か、「生きる葦」の名は、独立運動家に次々と受け継がれていく、というような話でして、私、小説の題材になるくらい、伝説は有名だったのだと、ずっと思っておりました。
ドキュメント 金日成の真実―英雄伝説「1912年~1945年」を踏査する | |
恵谷 治 | |
毎日新聞 |
上の本を読んでびっくりしたことがありました。
日本の敗戦時、ソ連にいてソ連軍大尉となっておりました金日成は、ウラジオストクから軍艦に乗り、1945年9月19日、ソ連占領下の故国の元山に上陸します。汽車に乗って、平壌到着は9月22日。帰国は、ひっそりとしたものでした。
そして10月14日、平壌で「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」が催されまして、これが、金成柱こと金日成のお披露目大集会となったわけなのですけれども、金成柱は金日成将軍と名乗って「朝鮮独立万歳! ソ連軍隊とスターリン元帥万歳!」と演説し、群衆から、「にせ者だ」「ありゃ子どもじゃないか。なにが金日成将軍なもんか」といわれました。
恵谷治氏は、このとき金成柱の後ろ盾になっておりましたソ連軍のメクレル中佐に、インタビューをしております。
兪成哲(ユ・ソンチョル)氏の証言では、「この大会の後、ソ連軍の調査によれば、偽物だ!という反応があまりに多く、ソ連軍はイメージアップのために、金日成を父親の実家があった万景台に連れていき、親族との再会を演出して、本物であることを強調した」ということなのですが、これを裏付けるように、メクレル中佐は金日成の万景台訪問写真を持っていまして、その写真の裏には、「李スィパンの偽金日成宣言に反駁するために」と書かれていたのだそうなんです。
恵谷治氏は「当時李スィパンという人物が、金日成偽物説を主張していたようだが、残念ながら、その経緯をメクレルは記憶していなかった」と、しておられます。
いや、そのー、「李スィパンって、李承晩(イ・スンマン)以外にいないでしょう!!!」と私は思います。
増補 朝鮮現代史の岐路―なぜ朝鮮半島は分断されたのか (平凡社選書) | |
李 景珉 | |
平凡社 |
上の本の脚注によりますと、1945年10月15日に「平壌民報」が創刊され、どうもそれで、韓載徳が大会の様子を報じた、といいますか、金日成将軍の帰国を宣伝した、ようなのですね。えーと。1947年に平壌で民主朝鮮社から出版されました「金日成将軍凱旋記」に、その文面は収録されているそうなのですけれども。ふう。国会図書館にありますかねえ。
ともかく、ソ連軍によって、10月14日直後、金日成将軍の凱旋は、宣伝されていたわけなのです。
一方、米軍が駐留します首都ソウルでは、10月16日に、33年におよびます亡命生活に終止符を打ち、70歳の老独立運動家・李承晩が、帰国します。
李承晩は帰国直後に、ソ連軍が金日成将軍と名乗る若造を、独立した祖国の指導者に押し立てようとしていることを知らされたことになります。
10月17日、李承晩はソウル中央放送(ラジオ)で、朝鮮独立へ向けての団結を訴え、米軍への信頼を表明した、といいます。
ここで、李承晩がソ連軍と、ソ連軍が後ろ盾となりました「金日成将軍」とやらを、牽制しますのは、まあ、当然のことかと、私は思います。
で、検索をかけていまして、こんなものを見つけました。
聯合ニュース 米国は「金日成」を偽者と判断、1948年資料です。
2009年8月13日(木)11:20
【ワシントン12日聯合ニュース】第二次世界大戦後、日本植民地支配から解放された韓国を信託統治していた米国軍政は、北朝鮮の故金日成(キム・イルソン)主席を早くから「偽の金日成」と判断していたことが明らかになった。金日成の本名は金成柱(キム・ソンジュ)で、金成柱が日本植民地時代に満州での抗日武装闘争で名声を得た「金日成」のように振舞っていたとするもの。
聯合ニュースが12日、米メリーランド州の米国国立公文書記録管理院(NARA)で発見した資料から確認された。これまで韓国では、「偽金日成」問題が1950年の朝鮮戦争後に右翼により広まったという主張が繰り返されてきた。
「北朝鮮の韓国人たち」と題するこの資料は、米国が大韓民国政府樹立直前の1948年8月1日に作成したとされ、当時は極秘資料に分類されていた。資料は、金成柱は1924年に父親について中国に行ったが、この父親が、抗日闘士として名を上げた本物の金日成の兄弟だったと記す。金成柱が叔父(伯父)の名をかたったと指摘したことになる。金成柱は1929~1930年、満州と朝鮮の国境で活動していた本物の金日成の遊撃部隊に合流し、金日成が死亡(当時55~60歳)すると、命令によるものか自発的なものかは不明だが、「有名な戦士(金日成を指す)」として振舞ったという。金成柱という人物については、明晰(めいせき)で落ち着きがあり、物事の核心をすぐに把握し業務を掌握するものと知られていたと記されている。
資料はまた、別の説として、金成柱は訓練のためシベリアに渡った韓国人の一人で、1943年にはソ連により欧州に行ったこともあるとの話も紹介した。第二次世界大戦後に戻った金成柱は、北朝鮮の共産政権の指導者と満州の朝鮮義勇軍の指導者になったという。
米国はこの資料に先立ち1947年9月1日付で作成した「有力な韓国政治指導者の略歴」という別の資料でも、金日成の本名は金成柱だと記述している。ただ、ここでは金日成を満州国境地帯にいた遊撃隊指導者だと書いていた。
つまるところ、米軍も、李承晩の偽金日成宣言に注目したようなのですね。
それで、米軍が「本物の金日成」について、調べました情報から逆算しますと、やはり、「本物にしては若すぎる!」ということが、最大のポイントだったのだと思われます。それともう一つ、李承晩の主張としましては、「本物の金日成は民族派の独立運動家で、共産主義者ではない!」ということだったのでしょう。
金成柱(金日成)の父親、金亨稷(キム・ヒョングォン)は、18歳の若さで長男の成柱を儲けていまして、1888年生まれの金光瑞よりも、実は6つも若いんです。叔父の金亨権は1905年生まれで、金成柱よりも7つ年上なだけなのですが、まあ、そんな細かなことは、米軍にはわかっていなかったと思われます。
で、叔父の金亨権は、満州にありました抗日独立武装団体・朝鮮革命軍のうち、李鐘洛が率いていた左派に、成柱とともに所属していたと思われるのですが、1930年(昭和5年)に逮捕され(奉天軍閥に、ですかね)、朝鮮総督府に引き渡されて、京城(ソウル)の刑務所で服役し、1936年に獄中で病死した、といわれています。
米軍では、成柱の抗日団体加盟を1929~1930年とし、そして叔父の金亨権が1930年逮捕、と伝えられているのですけれども、これが、微妙なんですね。
1931年に柳条湖事件が起こり、満州事変がはじまりますまで、抗日闘争はほとんどない、といっていい状態でして、では、民族派の朝鮮独立武装団体が満州でなにをしていたかといいますと、なにしろ満州は軍閥支配でしたし、満州鉄道ぞいに日本軍が警備しています以外は、馬賊が闊歩します無法状態。
朝鮮革命軍のような抗日独立運動団体といえども、朝鮮族の自警団として、警察と民事裁判所の役割を果たし、寄付金と言いますか税金といいますか、を集めて、場合によりましては、学校を作ったりもしていました。
したがいまして、満州事変までは、抗日運動は休止状態で、むしろ、乱立します団体同士の縄張り争いの方に忙しかったわけなのです。
金亨権の逮捕も、抗日運動ではなく、縄張り争いにからんだもの、と見た方がよさげに思います。
そして、李鐘洛は左派ではありましたけれども、呉成崙の勧誘にもかかわらず中国共産党に入党してはいませんで、共産主義者とは言えませんでしたから、金亨権は民族派として獄死した、ということが可能です。実は、単に盗みで服役しただけなのかもしれないにしても、です。
李承晩とともに、米軍をとりまいておりました朝鮮の古参独立運動家たちにとりましては、ソ連傘下の共産主義者が、なにはともわれ忌むべき存在だったことは、容易に推測できます。
といいますのも、wiki-金光瑞に書いておりますが、李承晩が初代大統領を務めました上海臨時政府は、その後分裂して、高麗共産党といわれた運動家たちが朝鮮共和国を名乗って、一時はソ連を頼り、ウラジオストクへ移るんですが、結局、ソ連はこれを追い出すんですね。
この朝鮮共和国の閣僚には、ですね、wiki-金光瑞に書いておりますように、金光瑞とともに日本陸軍を脱走して、新興武官学校の教師をしていました池青天がいます。
で、池は、金光瑞と袂をわかち、ソ連を見限って満州へ帰るんですが、正義府という抗日独立運動団体の幹部になっていまして、金成柱の父親・亨稷は、この正義府の支持者、あるいはメンバーであったようなのです。息子の成柱は一時、この正義府が運営する軍事学校の華成義塾で学んでいました。
金亨稷は満州で漢方薬店、漢方医をやっていまして、かなり裕福でした。
といいますことは、朝鮮人参だとか阿片だとか(当時の軍閥満州で阿片取り引きに違法性はありません)、少量で高価で、匪賊、馬賊が取り引きにからむ可能性の高いものを扱っていたと思われ、武力団体の保護が必要ですから、必ずしも独立運動に熱心だったというわけでもなさそうなのですが、それにいたしましても一応、抗日独立運動支持者であった、とは言えると思います。
亨稷は若くして病死し、おそらく寄付を拒んで、ということだと思われますが、共産主義者に殺された、という説もあるようです。
ともかく、亨稷が若死にして後の話になるんですが、満州の朝鮮独立運動団体は、分裂、再編されまして、正義府も左右に分かれます。
紆余曲折の末、右派だった池青天は韓国独立党の幹部となり、成柱と叔父の亨権は、どうやら、左派が結成しました朝鮮革命軍の中のさらに左派だった李鐘洛の一党に、参加することになったようなのですね。
そんなわけでして、叔父といいますよりは父親が、正義府の支持者であったことは、米軍支配下の韓国でも、知る人はけっこういたはずです。
光復軍総司令官になっておりました池青天も、1946年には、韓国に帰国いたしましたし。
そして、もちろん李承晩は、最初からシベリアの高麗共産党とは対立する立場でしたが、それさえ助けようとはしませんでしたソ連を、信用する気になれなかったでしょう。
高麗人の粛正や根こそぎ強制移住については、知らなかったにしても、です。
なにしろ、伝説のキム・イルソン将軍に比べて金成柱は、「若すぎるから偽だ!」というわけなのですけれども、じゃあ本物はだれ? ということになりますと、伝説ですからねえ。モデルはありましても、それが本物とは言いづらいわけでして、各方面から仕入れました情報を、合理的に整理しようとしまして、米軍の「金成柱の叔父が本物」といいいます、相当に珍妙な説ができあがったわけなのでしょう。
とはいえ、日本の敗戦からわずか2ヶ月、金日成北朝鮮登場直後に真贋論争ははじまり、ソ連の金日成将軍偶像宣伝もまたはじまっていた、ということが、よくわかります。
仕事の方が、ようやく色校が終わったそうでして、これで百パーセント終了です。
そろそろ、幕末に帰るべき、と思いつつ、あと一回だけ、呉成崙について、追加で書きたいことがあります。
私、かなり、彼に魅せられておりまして。
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