またまた、ご無沙汰いたしました。
呉成崙について書いていますうちに、資料読みがハルピン学院から日露関係、極東ロシアの歴史へとひろがってしまい、そこに母の眼病の世話が重なったりなんぞしまして、またまた私、脱線してしまったんですね。
尼港事件です。えーと。
とりあえずwiki-尼港事件をご覧になってみてください。いえね、手伝ってくださる方々がいて、今の形になったのではあるんですけれども、この夏はこれで気力を使い果たしました。
いちいち出典を明記した味気ない事実関係の精査を文章にしますよりは、たっぷりと推測、憶測をまじえてはじける方が好きな私。なにを好きこのんでこんな労苦に従ったかって……、怒り!!!です。
原暉之という学者さんがいます。一応、ロシア極東史の専門家、ということになっているんですけれども。
私、確か金光瑞のことを書き始めたころだったと思うんですけれど(あるいはもっと前だったかもしれません)、シベリア出兵についてまとまった本が読みたくて、この方の「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922」を古書で買って読みました。
シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922 | |
クリエーター情報なし | |
筑摩書房 |
現在、ものすごい値段になっておりますが、当時は3000円くらいだったように記憶しています。実はciniiで全文DLできるのですが、なにをとち狂ったのか、八千数百円という値段がついております。「今となっては内容が恥ずかしくて、あんまり読んでもらいたくないということかしら?」と勘ぐりたくなってしまうほどです。
細谷千博氏の「シベリア出兵の序曲」と「日本とコルチャク政権承認問題 原敬内閣におけるシベリア出兵政策の再形成」は一橋大学機関リポジトリで無料で読めまして、古い論文ですが、私にはこちらの方が、はるかにまっとうに思えます。
ともかく、です。「これって、参考になる部分があまりないよねえ」と溜息をつき、特に尼港事件の部分など、「いや私、小説が読みたいわけでなし、あなたの頭の中の物語はどうでもいいから。根拠薄弱な憶測が多すぎるよ。事実関係はどうなの???」と、あきれた気分でした。著者の思想にそいましてあらかじめストーリーができあがっている趣でして、「正義のボルシェヴィキ革命とそれを邪魔する悪者日本軍物語」とでもいうような印象を受けました。
もうちょっとこう、バイアスのかかっていない文献はないものかと、ネットで検索をかけましたところ、事件当時に白系ロシア人ジャーナリストが確かな資料を入手し、4年後の1924年、ベルリンで出版しました「ニコラエフスクの破壊」(ロシア語)が、2001年に和訳されていることを知りました。ところがこれが、どうも少部数の自費出版のようでして、全国で、所蔵している公立図書館も少数なんですね。
仕方なく、東京へ行きましたときに国会図書館で斜め読みし、「これは手に入れねばっ!!!」と決心したのですが、当時は古書が見つかりませんでした。中村さまのご助力もあり、半分はコピーしたのですけれども、その内容があまりに、原氏の「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922」とちがいすぎまして、双方を精読した上で、もっと文献を集めなければならない、と悟り、目眩がして放り出していたんです。
ところが今回、呉成崙からまた関心がぶり返し、コピーを読み返していますうちに、古書が出ているのを見つけて買いました。
精読しました結果が、原暉之の頭の中って、いったいどうなっているのっっっ!!!!!と、怒髪天を衝く状態、です。
といいますのも、wikiに書いておりますが、原暉之氏は『「尼港事件」の諸問題』といいます短い論文で、ロシア語版「ニコラエフスクの破壊」を貴重な文献だと絶賛し、実際、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922」でも、参考文献として使っているんです。もちろん、参考文献にしたからと言いましても、なにからなにまでその本を信用する必要はないんですけれども、「ニコラエフスクの破壊」には、事件中に組織されましたニコラエフスク市の調査委員会が、複数のパルチザンも含みます生存者から聞き取った証言集が付属しています。当然のことなのですが、ソ連時代、事件からかなりの期間が経って、ソ連政府の意向のもと、元パルチザンが残しました回想録とくらべましたら、はるかに、この証言集の方が信用できます。
実は事件の後、ロシア・ソヴィエト政府と日本政府の間で、尼港事件の賠償問題が持ち上がっていまして、ソヴィエト政府にとりましては、当然のことながら賠償などごめんこうむりたいわけですし、非を認める気はまるでなかったんです。
したがいまして、事件を引き起こしましたトップの赤軍司令官ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィンと参謀長ニーナ・レベデワ・キャシコ他、数人は人民裁判にかけられて処刑されていますが、事件の最中にトリャピーツィンとニーナが連名で各地に打電しました「悪いのは日本軍、自分たちはこんなにも正しい!!!」というだけの長文言い訳宣伝電報の内容が、そのままソ連政府の公式見解とでもいったものになってしまっちゃったんですね。以降長らく言論統制していた国ですから、ソ連政府の見解はそのままソ連の歴史学者の見解でもあり、元パルチザンの回想録ももちろん、ソ連の公式見解に従ったものでしかありません。
ところが原暉之氏は、なにをどう夢想なさったものなのか、ソ連政府の公式見解、つまりは、事件主犯の言い訳が、日本人の記録よりも白系ロシア人が命がけで残した記録よりも、尊く、輝いて見えたらしいんです。
私、子供の頃から祖父母・両親に「共産主義を礼賛する左巻き学者は、中共、ソ連など共産圏の国には言論の自由がないという現実を見ず、ダブルスタンダードで日本政府やアメリカ政府のみを批判するので、信用がならない」と言い聞かされ、乙女の頃には祖父母両親の見解に多少の反発も感じておりましたが、今思えばつくづく、戦争を経験した世代の現実感覚は、確かでした。
原暉之氏の見解のなにが変って、白系ロシア人の証言をすべて無視し、そりゃあものすごい拷問の果てに殺されたりするわけですから、日本の史料の中に自決した日本人もいたらしいと推測できる材料もありますのを拡大解釈し、悪いのはみんな日本軍で、一般居留民はほとんどが日本軍のまきぞえ集団自殺!!!といいますような、ものすごい憶測を、まことしやかになさっておられます。心底、あきれました。ボルシェヴィキ革命の栄光!!!のためならば、日本人の命もロシア人の命もどーでもいい、というのでしょうか。思想で事実をゆがめて見てしまう殿方って、多いですよねえ。怖い話です。
それでも、原暉之氏は北海道大学名誉教授ですし、白系ロシア人の証言って信用できるの? という原暉之信者さんもけっこうおられるわけらしいのですが、とりあえず、現在のまっとうな日本人研究者の認識では、少なくとも集団自殺かもしれない説は、顧みられておりません。以下、井竿富雄氏の『尼港事件と日本社会、一九二〇年』より、引用です。
ロシアの町ニコラエフスク(当時の日本人は「尼港」と言った)において、パルチザン部隊と日本軍の武力衝突が発生し、日本軍は武装解除されて殺害された。同時にこの街にいた在留邦人が捕らえられて殺害された。同地駐在の日本領事石田虎松らも死亡した。その上パルチザン部隊は町に火を放って撤退したため、すべては灰燼に帰した。生命が助かっても、財産を失った者もいたのである。同地にいた中国軍の軍艦が助けを求める在留邦人を撃つという事件も同時に発生した。軍人が武装解除されて殺害、民間人のみならず国際法上保護されているはずの外交官まで殺害されるという、これまでに日本が経験したことのない大惨事であった。この事件で邦人殺害を指揮したパルチザン部隊のリーダーたちはのちにボリシェヴィキ政権によって処刑された。機密文書である参謀本部の『西白利出兵史』ですら「千秋ノ一大痛恨事録シテ此ニ至リ悲憤ノ涙睫ニ交リ覚エス筆ヲ擲ツ」と感情的な一節を書き記している。
えーと。事実関係の表現には、わずかながら正確さを欠く部分があると私は思いますが(例えば「パルチザン部隊のリーダーたちはのちにボリシェヴィキ政権によって処刑された」という部分、パルチザン部隊のリーダーたちはボリシェヴィキ政権そのものだったのですし、処刑した側のみがボリシェヴィキ政権と受け取れるような表現はどうなのでしょうか。ボリシェヴィキ政権の内部分裂で処刑された、という方が、より事実に近いと私は思います)、しかし、井竿富雄氏が「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922」の描写します「尼港事件集団自殺かもしれない説」に関しましては、いっさい考慮されていないことはあきらかです。
事件直後、極東共和国政権下の1920年8月16日、サハリン州議会が採択した「ボルシェヴィキに関する決議文」を以下に引用します。
サハリン州の住民71名から成るサハリン議会は、ロシア国家の全国民に対し、次の声明を発表する。
「1920年3月1日から6月2日にかけて、サハリン州は、ロシア社会主義連邦共和国の名の下に統治された。この間、ソビエト政府の代表者達は、全ての軍将校(偶然救助されたグリゴリエフ中佐を除いて)、ほとんどの知識階級、多くの労働者、そして農民、女性、子供、幼児を射殺し、刺し殺し、斬殺し、溺死させ、死ぬまで鞭打った。彼らは、日本領事や派遣軍兵士も含め、日本人居留民を抹殺し、また、日本人女性や子供たちを、野蛮人にしかできないような暴虐非道のもとにさらした。ニコラエフスクの町の全てを焼き尽くし、石造建築物を爆破した。無傷で残ったのは、町の外縁部に位置する、ごくわずかな小家屋だけであった。港の建物、埠頭、付属施設は焼き落とされた。カッター船、小型舟艇は、全て爆破され沈められた。町を覆う炎から逃げ場を求めて来た人たちで溢れかえっていた桟橋を、爆破した。彼らは、アムール河河口および河岸沿いに設けられていた、装備の充実した漁場施設の多数を、燃やして消滅させた。いくつかの農村を焼き払い、設備の整った金鉱事業所の多くを完全に破壊し尽くした。逮捕した女性や少女たちを陵辱した。宗教の如何を問わず、宗教的事物を冒涜した。
ニコラエフスクの殺戮を生き延びたものの、タイガに逃げ込むことができなかった、女性や子供、わずかな男性を含む、5,000人近い人々が、ケルビもしくはアムグンに強制連行された。その途中、孤児院から連れてこられた子供たちは、バルジ船からアムール河に投げ込まれた。ケルビもしくはアムグンに連行された者の一部は、殺された。クラスニイ・クリチ紙に掲載された、ケルビに置かれたサハリン・ソビエト政府の公式発表によると、州の人口の半数がソビエト政府により抹殺された、という。ソビエト政府の同調者や構成員によって実行されていた、強制、殺人、陵辱などの行為は、日本軍のニコラエフスク地区到着によって終焉した。
州は文字通り荒廃した。食料もなく、衣服もなく、靴さえもない。
ロシア国民よ、ボルシェヴィズム思想の本性と、彼らを正気に立ち返らせる方法を明らかにすべき時、そして、ロシアという君主国の再建を始めるべき時ではないだろうか?」
本声明は、満場一致で可決された。
結局、この声明文は歴史の闇に埋もれ、極東はソビエト・ロシアに呑み込まれてしまいまして、虐殺の波にくり返し洗われましたソ連時代が、70年もの長い年月続きます。ソ連崩壊からしばらくして、だったと思うのですが、樺太南部を訪れた日本の取材陣が、戦前の日本の缶詰工場の設備がそのまま使われておりますことを、驚いてレポートしていました。宇宙開発や軍備に関しては、ソ連は日本を凌駕していたわけでして、戦前の日本の缶詰工場!!!は、学校教育などで、ロシア革命の栄光!!!を教え込まれておりました当時の私にとりましては、驚きのソ連の現実でした。
声明文を収録しました「ノコラエフスクの破壊」は、1924年にベルリンで出版されて以来、尼港事件について書かれた西側世界のロシア語文献、といいます特殊な位置にありまして、例えば原暉之氏のように、ロシア語を知る西側世界のロシア近代史研究家、といった特殊な人々しか知らないものでした。
それが、英語に訳されましたのは、ソ連崩壊の後、1993年(平成5年)のことです。
訳したのは、ニコラエフスクを故郷としますユダヤ系のアメリカ人、エラ・リューリ・ウイスエル(Ella.Lury.Wiswell)。
エラの祖父モイセイ・リューリは、リトアニア生まれのユダヤ人で、1863年のポーランド蜂起に参加し、25年間のサハリン徒刑になったと言います。
幕末、押し詰まった時期にサハリンに流されたわけですから、明治2年、「明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編上」で描いておりますころに、徒刑囚として樺太にいた可能性があるわけでして、しかもかなりなインテリのようですし、モンブラン伯爵とお話していたりすれば、おもしろいんですけどねえ。
wiki-ニコラエフスク・ナ・アムーレの方に書きましが、このときモンブラン伯爵が、ロシアにおける樺太開発の基地がニコラエフスクであることを、明治新政府に報告しています。
ニコラエフスクは、大河アムールの河口にあり、夏は船舶によって、冬は氷結した川面を橇によって、シベリア内陸部との交通が可能で、当初は、海軍基地として整備されたんですね。間宮海峡をはさんで、北樺太は目と鼻の先です。幕末には沿海州の州都でした。しかし明治10年ころ、ほとんど氷結することのないウラジオストクへ海軍施設が移り、 ニコラエフスクはさびれます。
明治20年(1887年)前後には、黒田清隆、アントン・チェーホフ(劇作家)が訪れて、人口2000人足らずの荒廃したニコラエフスクの様子を書き残しています。
チェーホフ全集〈12〉シベリアの旅 サハリン島 (ちくま文庫) | |
クリエーター情報なし | |
筑摩書房 |
エラの祖父モイセイがニコラエフスクへ移住したのは、この荒れていた時期ではないかと推測されますが、文化人類学者のブロニスワフ・ピウスツキと知り合いだったと言います。ブロニスワフの弟はポーランド共和国初代元首のユゼフ・ピウスツキでして、この兄弟、ロシア皇帝アレクサンドル3世暗殺計画にかかわって、ユゼフがイルクーツク周辺へ、ブロニスワフがサハリンへ、流刑になっているんですね。
このアレクサンドル3世暗殺未遂事件では、主犯格でレーニンの兄さんが死刑になっていて、このことが革命家レーニン誕生に大きく影響した、といわれていますが、ちょうど尼港事件が起こった1920年、ユゼフ・ピウスツキは、独立したポーランドのために、レーニンのソビエト・ロシアを相手取って、ポーランド・ソビエト戦争を戦い抜いて勝利するわけですから、めぐりあわせとは、不思議なものですね。
なお、ユゼフは日露戦争時に来日し、ポーランド独立のための協力を求めて活動した親日家ですし、ブロニスワフは樺太アイヌの女生と結ばれて、現在子孫の方が日本にいるそうです。
ともかく、です。モイセイは1860年生まれのアンナ・イリニシュナと結婚し、ニコラエフスクに落ち着いて、エラの父であるメイエルとその弟のアブラハムを儲けました。しかしモイセイは、ある時狩猟に出かけ、そのままいなくなったのだそうです。
ブロニスワフ・ピウスツキがメイエルの家庭教師をしていた、とも、エラは伝え聞いているようです。
ニコライエフスクで、漁業を事業として成り立たせましたのは、日本人です。鮭漁中心ですし、交通手段も保存方法も、現在のように発達していません。輸出先の中心は、日本でした。当初、ロシア側は日本人を歓迎し、多くの日本人漁業関係者が移り住みましたけれども、1901年(明治34年)、おそらく、日露の政情悪化を反映して、ではないかと思うのですが、日本人はしめだされ、撤退します。この翌年、メイエルとアブラハムのリューリ兄弟は、商社を設立して、漁業経営に乗り出します。
ニコラエフスクには島田元太郎という日本人がいまして、彼はロシア正教に改宗し、ロシア人社会に溶け込んでいました。これもおそらく、なのですけれども、リューリ兄弟が漁業経営をするにあたりましては、島田元太郎との強い連携があったと推測されます。
1904年(明治37年)の日露戦争は、一時、リューリ兄弟商会を苦境に陥らせます。しかし、それも逆手にとって、ヨーロッパ・アメリカで船と商品を仕入れ、日本海軍の封鎖突破を試み、成功して、大きな富を得ます。そして終戦後、日露関係は好転し、リューリ兄弟商会の事業も発展して、首都ペテルブルクでも事業を展開するようになりました。あるいは、ユダヤ系商人の強みといいますのは、偏見無く、世界各国の人々と商関係を築くことができたところに、あったのかもしれません。
白系ロシア人と日本文化 | |
クリエーター情報なし | |
成文社 |
リューリ一族の話につきましては、「ニコラエフスクの破壊」に加えまして、上の「白系ロシア人と日本文化」の中の「漁業家リューリ一族」を参照しております。
リューリ一族は、ロシア10月革命の嵐に襲われ、尼港事件の悲劇を体験し、結局、故郷ニコラエフスクを追われることとなるのですが、長くなりましたので、次回に続きます。
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