ご無沙汰しております。
私が現在なにをしているかって……、本とコピー書類の片付けを延々と、です。
この家を建てて以来、長年、ごちゃごちゃのぐちゃぐちゃの蔵書の上に、さらに本を買って積み重ねる感じでやってきまして、ついに限界が来ました。今年の6月くらいから片付けをはじめましたが、いまだ、とりあえずの処置としてダンボールにおさめました本と書類が20箱以上。本棚を片付け、買い足しもし、少しづつ入れていってはいるのですが、いまだめどがつきません。
どうなりますことやら、なんですが、そんな中でも、書きかけた記事は何本かあります。
書かないで置いておくと、なにを書きたかったのかさえ忘れてしまうのが常でして、まあ、別に忘れてもいいか、という題材も多いのですが、これだけはちょっと、桐野に関係してくることですので、書きつつ、考えておかねば、と。
一応、民富まずんば仁愛また何くにありやと一夕夢迷、東海の雲の続き、ということになるでしょうか。
えーと、実は、ですね。私、自分が書きましたこのブログを、けっこう読み返しております。
今のところ、自分で読みまして一番おもしろいのは、尼港事件とロシア革命シリーズです。ブログの楽しさは、動画にリンクが張れたりするところですが、ロシア革命はけっこう映像化されていますし、日本史と世界史の接点の最前線で起こった悲劇であるにもかかわらず、これまで日本では、ほとんど語られてこなかった事件です。
読み返しつつ、第一次世界大戦前後の時代を、またいろいろと考えてしまいました。
第一次世界大戦が始まりましたのは、1914年(大正3年)です。
19世紀末からこのときまで、欧州ではベル・エポックとよばれます華やかな消費文化の時代でした。交通、産業の近代化が進み、好景気にわき、中産階級の層が厚くなりまして、文化も大きな変化をとげていたんです。
上の雑誌の表紙のファッションは、大戦直前のものですが、東洋風のゆったりとした直線的なシルエットで、コルセットを必要としません。
コルセットって、きゅうきゅうに体をしめつけ、ウェストを細く見せる下着ですが、19世紀半ば、ちょうど幕末から明治にかけてのころには、ものすごく細いウェストが好まれ、しめつけすぎて気絶することもざら、という代物でした。
明治、上流婦人が洋装を取り入れました鹿鳴館時代もコルセットが必需品でして、来日していましたドイツ人医師・ベルツ博士などは、「コルセットは女性の健康に害を与える。ばかげた洋装を日本女性が取り入れる必要はない」と、言っていたほどです。また西太后は、西洋帰りの外交官の娘がコルセットをしているのを見て、「それは、漢族の纏足に匹敵する拷問ですね」と言ったそうです。
つまるところ、当時の女性の洋装は活動的なものではなく、上流婦人のドレスなどは、他人の手を借りなければ着付けも難しく、鹿鳴館が一時のあだ花で終わりましたのは、あまりにも当然の結果でした。
ところがこの第一次世界大戦の直前、まだごく一部の、パリでも最先端ののファッションに限って、でしたけれども、劇的に変わろうとしていました。
20世紀初頭からパリで活躍しました新進デザイナー、ポール・ポワレが、コルセット追放を宣言したんです。
『シャネル&ストラヴィンスキー』2010年1月16日公開 予告編
この映画は、予告編にも出てきますように、1913年(大正2年)、大戦の前年にパリのシャンゼリゼ劇場で初演されましたバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の「春の祭典」で幕開けます。残念ながら、予告編には出てこないのですが、観劇するシャネルは、コルセットをつけないで夜のドレスを着ます。
とはいいますものの、パリにおいても、大戦以前には、シャネルのような最先端のファッションリーダーは別としまして、通常はコルセットをつけていました。
1912年(明治45年/大正元年)、与謝野晶子が夫を追って渡欧しているのですが、青空文庫の図書カード:No.4290「巴里にて」は、そのときの晶子のエッセイで、以下のような記述があります。
日本服を着て巴里の街を歩くと何處へ行つても見世物の樣に人の目が自分に集る。日本服を少しく變へて作つたロオヴは、グラン・ブルヴアルの「サダヤツコ」と云ふ名の店や、巴里の三越と云つてよい大きなマガザンのルウヴルの三階などに陳(なら)べられて居るので、然(さ)まで珍しくも無いであらうが、白足袋を穿(は)いて草履(ざうり)で歩く足附が野蠻に見えるらしい。自分は芝居へ行くか、特別な人を訪問する時かの外は成るべく洋服を着るやうにして居る。併し未だコルセに慣れないので、洋服を着る事が一つの苦痛である。
そして大戦後、この映画におきまして、ロシア革命を逃れてパリに亡命して来ました作曲家のストラビンスキーとシャネルは再会し、愛し合うわけなのですが、ここにいたって彼女の服装は、現代のシャネルのものとほとんど変わらなくなっているんです。
第一次大戦は国家総力戦となり、工場生産に、看護に、多数の女性が駆り出されます。ずるずる、ぴらぴらのドレスは、こういった労働には向かず、戦場での看護服を筆頭としまして簡略で活動的なものとなり、それに引きずられますように、女性の通常の服装も大きな変化を見せ、戦後には、現代と同じように活発な活動に適したものとなりました。
世界への近代西洋服の伝搬は、軍服に始まりました。
おおよそ、世界のどこの国でも(欧州においても民族衣装はありましたから、それが消滅していく過程が存在します)、軍隊が西洋近代式になるとともに西洋式軍服が取り入れられ、同時に、少しずつですが、男性の洋装が見られるようになります。
しかし、女性の民族衣装は、現代でも普段着として着用している国がけっこうありますし、通常、洋装の移入には多大な抵抗が見られます。
非活動的で、拷問具のようなコルセットつき女性の洋装を移入しようとしました日本の鹿鳴館時代は、異様なまでの西洋かぶれだったと同時に、上流階級に限られた話で、一般庶民には関係のないあだ花でしたが、大戦後は状況がちがってきました。
大戦により、欧州の生産は滞り、日本は空前の輸出増大で好景気に沸き、そして、戦場となりました欧州で女性の洋服は劇的な変化を見せ、活動的で、庶民でも気軽に着ることができるものとなっていたのです。
映画「華の乱」予告編 Auf dem Wasser zu singen
「華の乱」は、吉永小百合演じる与謝野晶子を主役としまして、明治末から大正いっぱい、当時の日本の文化人たちが複雑にからみあいますフィクションです。まったくの作り話なんですが、そこそこちゃんと風俗は描いてくれているような気がしていました。
しかし、あらためて見直してみますと、どうなんでしょうか。
予告編にも出てまいります、帝国劇場での松井須磨子の「復活」(トルストイ原作)公演は、1914年(大正3年)3月ですから、まさに大戦直前です。しかし、その場面に出てきます女性の洋装は、なにやら昭和初期っぽくて、現代的にすぎるんですよねえ。
「春の雪」予告編
著作権の関係だとかで、音のない、変な予告編ですが、映画「春の雪」にも帝国劇場での観劇の場面が出てきます。三島由紀夫の原作の設定で、1912年(大正元年)の12月はじめころ。こちらの洋装の方が、それっぽい感じです。
女性の洋装の話から入りましたが、第一次世界大戦は世界を一変させた出来事でして、しかし開戦の直前、変化の兆候は、最先端の文物に現れていました。
1912年(大正元年)、ベルエポック・バブルの象徴のような豪華客船・タイタニック号が沈み、そしてこの年、日本では明治大帝が崩御され、明治という時代は終わりを告げました。
三島由紀夫の「春の雪」につきましては、だいぶん以前、『春の雪』の歴史意識で、映画の感想を書きました。
物語の幕開けは、1912年(大正元年)10月。大帝崩御がこの年の7月30日ですから、それからわずか2ヶ月あまり。
この前年の明治44年、帝国劇場がオープンしまして、日本では「今日は帝劇、明日は三越」というバブル時代が、幕開けようとしていました。
18歳の主人公・清顕は、松枝侯爵家の一人息子で、学習院に通っています。以下、引用です。
学習院が院長乃木将軍のあのような殉死を、もっとも崇高な事件として学生の頭に植えつけ、将軍がもし病に死んでいたら、それほど誇張した形であらわれなかったらう教育の伝承を、ますます強く押しつけてきたことから、武張ったことのきらひな清顕は、学校に漲っている素朴で剛健な気風のゆえに学校を嫌った。
三島由紀夫は、このことで清顕は学習院の学友たちから孤立しているような書き方をしているのですが、ちょうどこの2年前、有島武郎や武者小路実篤、志賀直哉など華族や高級官吏、実業家2代目の学習院卒業者を中心として、文芸誌「白樺」が創刊され、白樺派と呼ばれました彼らは、乃木の殉死を冷ややかに見ていました。
清顕の祖父は薩摩藩士で、渋谷に屋敷があった侯爵というのですから、モデルは西郷従道でしょうか。
有島武郎の父も薩摩藩士ですが、こちらは華族ではなく、高級官吏。
また白樺派よりも少々下の世代ですが、耽美派の歌人・吉井勇の祖父も、従道と同じく薩摩の下級藩士で、伯爵となった吉井友実。勇は学習院ではありませんでしたが、相当に軟弱な印象です。
この本、デジタル化されているのですが、なかなかにおもしろい本でした。著者の長山靖生氏は歯医者さんだそうなんですけれども。
ともかく。この本によりますと、白樺派の乃木大将の死に対する冷淡な視線は、彼らが上流階級の子弟で、皇室の存在が近しいからこそ生まれたものなのだそうです。
長山氏は、白樺派の面々に批判的で、いわく、彼らは上流家庭に生まれながら、跡を継げない次男以下が多く、自負心とともにコンプレックスを持ち、親の経済力に甘えて、働かず、自立しようとしないくせに反抗的、なのだそうです。要するに、いつまでも大人にならず、子供でいたがる新しい世代で、しかし、彼らこそが、大正という時代を担った青年の典型、だというんですね。
確かに、うなずける分析ではありまして、リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校のコメント欄で触れておりますが、貴族やアッパーミドルの子弟こそが、率先して戦場の最前線に立つ、といいますイギリスの徹底したノーブレス・オブリージュの精神は、結局、日本には根付かなかった、ということかもしれません。
しかし、これも長山氏のおっしゃる通り、大正バブル期は大衆社会の訪れ、でもありまして、現代のとば口です。
そのとば口で、明治大帝に乃木将軍が殉死しましたことは、一見、非常に古風なことに見え、「春の雪」の清顕が白樺派と同じように冷淡だったことの方に、私は共感していましたし、また別な理由で、私はこれまで乃木将軍が大嫌い でした。
長くなりましたので、なぜ嫌いだったかの説明は次回にまわしますが、私は今回、この「大帝没後―大正という時代を考える―」を読んで、目から鱗状態になり、さらに探索を重ねまして、乃木将軍を大きく見直すこととなったのです。
次回へ、続きます。
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私が現在なにをしているかって……、本とコピー書類の片付けを延々と、です。
この家を建てて以来、長年、ごちゃごちゃのぐちゃぐちゃの蔵書の上に、さらに本を買って積み重ねる感じでやってきまして、ついに限界が来ました。今年の6月くらいから片付けをはじめましたが、いまだ、とりあえずの処置としてダンボールにおさめました本と書類が20箱以上。本棚を片付け、買い足しもし、少しづつ入れていってはいるのですが、いまだめどがつきません。
どうなりますことやら、なんですが、そんな中でも、書きかけた記事は何本かあります。
書かないで置いておくと、なにを書きたかったのかさえ忘れてしまうのが常でして、まあ、別に忘れてもいいか、という題材も多いのですが、これだけはちょっと、桐野に関係してくることですので、書きつつ、考えておかねば、と。
一応、民富まずんば仁愛また何くにありやと一夕夢迷、東海の雲の続き、ということになるでしょうか。
えーと、実は、ですね。私、自分が書きましたこのブログを、けっこう読み返しております。
今のところ、自分で読みまして一番おもしろいのは、尼港事件とロシア革命シリーズです。ブログの楽しさは、動画にリンクが張れたりするところですが、ロシア革命はけっこう映像化されていますし、日本史と世界史の接点の最前線で起こった悲劇であるにもかかわらず、これまで日本では、ほとんど語られてこなかった事件です。
読み返しつつ、第一次世界大戦前後の時代を、またいろいろと考えてしまいました。
Parisian Costume Plates in Full Color 1912-1914 | |
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Dover Pubns |
第一次世界大戦が始まりましたのは、1914年(大正3年)です。
19世紀末からこのときまで、欧州ではベル・エポックとよばれます華やかな消費文化の時代でした。交通、産業の近代化が進み、好景気にわき、中産階級の層が厚くなりまして、文化も大きな変化をとげていたんです。
上の雑誌の表紙のファッションは、大戦直前のものですが、東洋風のゆったりとした直線的なシルエットで、コルセットを必要としません。
コルセットって、きゅうきゅうに体をしめつけ、ウェストを細く見せる下着ですが、19世紀半ば、ちょうど幕末から明治にかけてのころには、ものすごく細いウェストが好まれ、しめつけすぎて気絶することもざら、という代物でした。
明治、上流婦人が洋装を取り入れました鹿鳴館時代もコルセットが必需品でして、来日していましたドイツ人医師・ベルツ博士などは、「コルセットは女性の健康に害を与える。ばかげた洋装を日本女性が取り入れる必要はない」と、言っていたほどです。また西太后は、西洋帰りの外交官の娘がコルセットをしているのを見て、「それは、漢族の纏足に匹敵する拷問ですね」と言ったそうです。
つまるところ、当時の女性の洋装は活動的なものではなく、上流婦人のドレスなどは、他人の手を借りなければ着付けも難しく、鹿鳴館が一時のあだ花で終わりましたのは、あまりにも当然の結果でした。
ところがこの第一次世界大戦の直前、まだごく一部の、パリでも最先端ののファッションに限って、でしたけれども、劇的に変わろうとしていました。
20世紀初頭からパリで活躍しました新進デザイナー、ポール・ポワレが、コルセット追放を宣言したんです。
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『シャネル&ストラヴィンスキー』2010年1月16日公開 予告編
この映画は、予告編にも出てきますように、1913年(大正2年)、大戦の前年にパリのシャンゼリゼ劇場で初演されましたバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の「春の祭典」で幕開けます。残念ながら、予告編には出てこないのですが、観劇するシャネルは、コルセットをつけないで夜のドレスを着ます。
とはいいますものの、パリにおいても、大戦以前には、シャネルのような最先端のファッションリーダーは別としまして、通常はコルセットをつけていました。
1912年(明治45年/大正元年)、与謝野晶子が夫を追って渡欧しているのですが、青空文庫の図書カード:No.4290「巴里にて」は、そのときの晶子のエッセイで、以下のような記述があります。
日本服を着て巴里の街を歩くと何處へ行つても見世物の樣に人の目が自分に集る。日本服を少しく變へて作つたロオヴは、グラン・ブルヴアルの「サダヤツコ」と云ふ名の店や、巴里の三越と云つてよい大きなマガザンのルウヴルの三階などに陳(なら)べられて居るので、然(さ)まで珍しくも無いであらうが、白足袋を穿(は)いて草履(ざうり)で歩く足附が野蠻に見えるらしい。自分は芝居へ行くか、特別な人を訪問する時かの外は成るべく洋服を着るやうにして居る。併し未だコルセに慣れないので、洋服を着る事が一つの苦痛である。
そして大戦後、この映画におきまして、ロシア革命を逃れてパリに亡命して来ました作曲家のストラビンスキーとシャネルは再会し、愛し合うわけなのですが、ここにいたって彼女の服装は、現代のシャネルのものとほとんど変わらなくなっているんです。
第一次大戦は国家総力戦となり、工場生産に、看護に、多数の女性が駆り出されます。ずるずる、ぴらぴらのドレスは、こういった労働には向かず、戦場での看護服を筆頭としまして簡略で活動的なものとなり、それに引きずられますように、女性の通常の服装も大きな変化を見せ、戦後には、現代と同じように活発な活動に適したものとなりました。
世界への近代西洋服の伝搬は、軍服に始まりました。
おおよそ、世界のどこの国でも(欧州においても民族衣装はありましたから、それが消滅していく過程が存在します)、軍隊が西洋近代式になるとともに西洋式軍服が取り入れられ、同時に、少しずつですが、男性の洋装が見られるようになります。
しかし、女性の民族衣装は、現代でも普段着として着用している国がけっこうありますし、通常、洋装の移入には多大な抵抗が見られます。
非活動的で、拷問具のようなコルセットつき女性の洋装を移入しようとしました日本の鹿鳴館時代は、異様なまでの西洋かぶれだったと同時に、上流階級に限られた話で、一般庶民には関係のないあだ花でしたが、大戦後は状況がちがってきました。
大戦により、欧州の生産は滞り、日本は空前の輸出増大で好景気に沸き、そして、戦場となりました欧州で女性の洋服は劇的な変化を見せ、活動的で、庶民でも気軽に着ることができるものとなっていたのです。
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映画「華の乱」予告編 Auf dem Wasser zu singen
「華の乱」は、吉永小百合演じる与謝野晶子を主役としまして、明治末から大正いっぱい、当時の日本の文化人たちが複雑にからみあいますフィクションです。まったくの作り話なんですが、そこそこちゃんと風俗は描いてくれているような気がしていました。
しかし、あらためて見直してみますと、どうなんでしょうか。
予告編にも出てまいります、帝国劇場での松井須磨子の「復活」(トルストイ原作)公演は、1914年(大正3年)3月ですから、まさに大戦直前です。しかし、その場面に出てきます女性の洋装は、なにやら昭和初期っぽくて、現代的にすぎるんですよねえ。
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東宝 |
「春の雪」予告編
著作権の関係だとかで、音のない、変な予告編ですが、映画「春の雪」にも帝国劇場での観劇の場面が出てきます。三島由紀夫の原作の設定で、1912年(大正元年)の12月はじめころ。こちらの洋装の方が、それっぽい感じです。
女性の洋装の話から入りましたが、第一次世界大戦は世界を一変させた出来事でして、しかし開戦の直前、変化の兆候は、最先端の文物に現れていました。
1912年(大正元年)、ベルエポック・バブルの象徴のような豪華客船・タイタニック号が沈み、そしてこの年、日本では明治大帝が崩御され、明治という時代は終わりを告げました。
春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫) | |
三島 由紀夫 | |
新潮社 |
三島由紀夫の「春の雪」につきましては、だいぶん以前、『春の雪』の歴史意識で、映画の感想を書きました。
物語の幕開けは、1912年(大正元年)10月。大帝崩御がこの年の7月30日ですから、それからわずか2ヶ月あまり。
この前年の明治44年、帝国劇場がオープンしまして、日本では「今日は帝劇、明日は三越」というバブル時代が、幕開けようとしていました。
18歳の主人公・清顕は、松枝侯爵家の一人息子で、学習院に通っています。以下、引用です。
学習院が院長乃木将軍のあのような殉死を、もっとも崇高な事件として学生の頭に植えつけ、将軍がもし病に死んでいたら、それほど誇張した形であらわれなかったらう教育の伝承を、ますます強く押しつけてきたことから、武張ったことのきらひな清顕は、学校に漲っている素朴で剛健な気風のゆえに学校を嫌った。
三島由紀夫は、このことで清顕は学習院の学友たちから孤立しているような書き方をしているのですが、ちょうどこの2年前、有島武郎や武者小路実篤、志賀直哉など華族や高級官吏、実業家2代目の学習院卒業者を中心として、文芸誌「白樺」が創刊され、白樺派と呼ばれました彼らは、乃木の殉死を冷ややかに見ていました。
清顕の祖父は薩摩藩士で、渋谷に屋敷があった侯爵というのですから、モデルは西郷従道でしょうか。
有島武郎の父も薩摩藩士ですが、こちらは華族ではなく、高級官吏。
また白樺派よりも少々下の世代ですが、耽美派の歌人・吉井勇の祖父も、従道と同じく薩摩の下級藩士で、伯爵となった吉井友実。勇は学習院ではありませんでしたが、相当に軟弱な印象です。
大帝没後―大正という時代を考える―(新潮新書) | |
長山 靖生 | |
新潮社 |
この本、デジタル化されているのですが、なかなかにおもしろい本でした。著者の長山靖生氏は歯医者さんだそうなんですけれども。
ともかく。この本によりますと、白樺派の乃木大将の死に対する冷淡な視線は、彼らが上流階級の子弟で、皇室の存在が近しいからこそ生まれたものなのだそうです。
長山氏は、白樺派の面々に批判的で、いわく、彼らは上流家庭に生まれながら、跡を継げない次男以下が多く、自負心とともにコンプレックスを持ち、親の経済力に甘えて、働かず、自立しようとしないくせに反抗的、なのだそうです。要するに、いつまでも大人にならず、子供でいたがる新しい世代で、しかし、彼らこそが、大正という時代を担った青年の典型、だというんですね。
確かに、うなずける分析ではありまして、リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校のコメント欄で触れておりますが、貴族やアッパーミドルの子弟こそが、率先して戦場の最前線に立つ、といいますイギリスの徹底したノーブレス・オブリージュの精神は、結局、日本には根付かなかった、ということかもしれません。
しかし、これも長山氏のおっしゃる通り、大正バブル期は大衆社会の訪れ、でもありまして、現代のとば口です。
そのとば口で、明治大帝に乃木将軍が殉死しましたことは、一見、非常に古風なことに見え、「春の雪」の清顕が白樺派と同じように冷淡だったことの方に、私は共感していましたし、また別な理由で、私はこれまで乃木将軍が大嫌い でした。
長くなりましたので、なぜ嫌いだったかの説明は次回にまわしますが、私は今回、この「大帝没後―大正という時代を考える―」を読んで、目から鱗状態になり、さらに探索を重ねまして、乃木将軍を大きく見直すこととなったのです。
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