長崎、近藤長次郎紀行 後編の続きでしょうか。
11月3日(日曜日)、長崎は朝から雨だったんですが、午前中はシーボルト記念館を訪れていました。
実は、以前に長崎へ行きましたときにも訪れたんですが、母がいっしょだったために、よく見ることができませんでした。今回、中村さまがごいっしょで、堪能させていただきました。
そのシーボルト記念館にもポスターが貼ってあったのですが、現在(2013年10月9日~12月1日)、愛媛県西予市の愛媛県歴史文化博物館で「三瀬諸淵 -シーボルト最後の門人-」特別展示を見ることができます。
三瀬諸淵(諸淵は雅号で、本名は周三です)については、ごく簡単に、ですが、幾度か取り上げたことがあります。
幕末残照・長州紀行より
大村益次郎は、適塾で福沢諭吉と肩を並べて学びました蘭学者で、長州を勝利に導いた陸軍の改革者、日本陸軍の創始者的存在です。靖国神社に巨大な像があります。
最初は生まれ育った鋳銭司の村医者だったんですが、伊予宇和島藩の蘭癖大名・伊達宗城に取り立てられましたことが出世のとっかかりでしたし、宇和島ではシーボルトの娘・イネに蘭学を教え、縁あって、その最後を看取ったのは、イネとその娘婿で伊予大洲藩出身の三瀬周三でしたから、愛媛県にゆかりの人物です。
『八重の桜』第19回と王政復古 前編より
常の最初の子をとりあげたのはイネではなかったか、という話は、広瀬常と森有礼 美女ありき15に書きましたように、常が父親とともに元大洲藩上屋敷の門長屋に住んでいたことは確かで、どうやら常の父親は、武田斐三郎の紹介で、元大洲藩主・加藤家の財産管理の手伝いをしていたわけですから、可能性が大きくなります。
なぜならば、イネの娘・タダの夫だった三瀬周三は、大洲藩領の出身で、武田斐三郎と三瀬周三は、大洲の国学者・常磐井厳戈の同門だったりするからです。
普仏戦争と前田正名 Vol9より
といいますのも、おイネさんが女医さんになるための最初のめんどうを見ましたのが、シーボルトの弟子で、伊予宇和島藩領で開業していました蘭方医・二宮敬作でした。四賢侯の一人で、長面侯といわれました宇和島藩主・伊達宗城は蘭学好きで、おイネさんを奥の女医さんとして迎え、おイネさんの娘・タダを、奥女中として処遇したりもしています。
そして、二宮敬作の甥で、大洲藩に生まれました三瀬周三(諸淵)は、再来日しましたシーボルトに師事し、やがてタダと結婚します。
そんなわけで、愛媛県限定のローカルな仕事をしておりました私は、おイネさんについて、書くことが多かったんです。
つまるところ、ごく簡単にまとめますと、「三瀬周三はシーボルトの弟子・二宮敬作の甥で、シーボルトの娘・楠本イネの娘婿で、シーボルトの最後の弟子と成り、大村益次郎の最後に立ち会った人」です。
前回もご紹介しましたが、吉村昭氏の「ふぉん・しいほるとの娘」は、かなり史料に忠実でして、イネとその周辺の人物について詳しく書かれていますので、お勧めです。デジタルもありますので、iPad Airでぜひ。
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シーボルトの来日は文政6(1823年)。明治維新の45年前です。
いつからを幕末と呼ぶべきかにつきましては、さまざまな意見があるのですが、私は、文化3年(1806年)文化露寇の衝撃から、という見解をとっていまして、そう考えると、ロシアとのつながりも持ちますシーボルトは、けっこうなキーパーソンです。そして、普仏戦争と前田正名シリーズでその片鱗に触れておりますが、日本史と世界史の接点を意識しますと、シーボルトを追って幕末を語ることは、非常に興味深く、なおかつ楽しいことなんです~♪
また、「ふぉん・しいほるとの娘」が詳しいのですが、前回にもご紹介しました長崎のおもしろい歴史というサイトさんに、シーボルトの孫 ”山脇たか” が語った 祖母タキの事 母いねの事 わたしの事といいますイネの娘で見瀬周三の妻でしたタカさんの回顧談がありまして、基本、「ふぉん・しいほるとの娘」もこの回顧談に基づいて書かれているのですが、シーボルトが離日しましたとき、わずか3歳で、産科医として明治天皇の御子を取り上げるまでになりましたイネさんの生涯は、劇的です。
まあ、あれです。現在の大河ドラマ……、キリスト教に対します考察もまったくなしで、なんでキリスト教にかかわっているのか、あの不便な洋装を喜んでいるらしいことに同じく、コスプレ気分としか思えません八重さんドラマよりははるかに、幕末を語るにふさわしいドラマの人材になりうると思うんですけどねえ。
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かつての大河ドラマ「花神」では、浅丘ルリ子がおイネさんを演じたそうですが、私、まったく見ておりません。つい最近、時代劇チャンネルで一回分だけ放送され、原作は「花神」だけではなく、同じく司馬作品で長州を舞台にしました「世に棲む日日」と「十一番目の志士」もミックスしたドラマだそうでして、そこそこおもしろそうに思ったのですが、あの時代の大河は、ほとんど録画が残っていないんだそうです。
それにいたしましても、「花神」は1977年の大河ドラマで、すでに36年も前です。もう一回、少女時代からおイネさんを、と思うのですが、なんと、再来年の大河は松蔭の妹!という情報もありまして、えー、松蔭の妹って、叔父の玉木文之進(明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol2に出てきます乃木希典の実弟・玉木正誼の義父です。教え子だった玉木正誼、吉田小太郎など、多くの若い英才が萩の乱に参加した責任をとって割腹しました)を介錯した気丈な妹、なんですかね??? まあ、それはそれで、どう描くのか楽しみではありますが、現在のNHKがやることだけに、多大な危惧もあります。
えーと。話がそれましたが、シーボルトとイネ、そしてその周辺の人々は、幕末の政治劇の中枢近くにいて、あまり知られていないことなのですが、海援隊の長岡健吉も、長崎で二宮敬作に学び、再来日しましたシーボルトに師事したといわれますので、三瀬周三と相弟子です。
そのことにつきましては、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に、以下のように書いております。
小龍は学者ではないのですが、蘭学を学んでいましたし、「漂巽紀畧」を記したくらいで学識もありますし、ずっと近所の少年に学問を教えていたようなのですが、その才能で小龍をうならせておりましたのが、同じ浦戸町内の医者の息子、長岡謙吉です。
浦戸といいましても、この当時の浦戸とは、現在のはりまや町のことでして、小龍の家は、はりまや橋観光バスターミナルの裏手、高知市消防団南街分団の向かい側あたりにあったそうです。
長岡謙吉って、長崎で再来日したシーボルトに師事し、息子のアレクサンダーくんが少年だったころから、知り合いだったんですねえ。
長岡謙吉は後に海援隊に入りまして、大政奉還の建白書の草案を起草したのではないかと言われております。これに手を入れましたのが欧州帰りの中井弘(桜洲)で、中井桜洲と桐野利秋に書いておりますように、中井は桐野と仲がよさげで、時期はちょっとちがうんですけれども、桐野と海援隊のつながりにリンクしている話のようにも思われます。
長岡謙吉は、龍馬よりは二つ、近藤長次よりは四つ年上です。
小龍に学問を教わっておりましたのは十二、三歳のころで、その後大阪、江戸で、医者になる勉強をしました。
大地震のころ、謙吉は高知に帰ってきていて、謙吉の親戚だった坂本龍馬も、そうでした。
長岡健吉は、龍馬の継母の親戚で、龍馬と幼なじみでした。河田小龍の塾では、近藤昶次郎の先輩になりますし、昶次郎亡き後、小龍が龍馬のもとに送り込んだ参謀だった、という解釈も成り立つでしょう。
最近、仕方なく大河ドラマ「龍馬伝」の再放送を見ているんですけれども、長岡謙吉はまったく出てこないんだそうですよねえ。要するに、大嘘ドラマにもったいのつけすぎ、でして、なにしろ、近藤昶次郎がどう描かれているかを確かめるためにのみ見ていますので、スーパーミックス超人「龍馬伝」のときのように突き放した気分にもなれず、「なんで、こんなつまらない大嘘ドラマを作るのかしら」とため息です。いや、大嘘はいいんですよ、おもしろければ、ね。
で、話がそれまくっておりますが、長崎へ行く以前から、「歴博で三瀬周三展! 見たいっ!!!」と思ってはいたのですが、なぜか知りませんが愛媛県は、県庁所在地の松山市からははるかに遠い西予市卯之町に歴史文化博物館を作っておりまして、HPには「高速で松山から50分」 なんぞと書いておりますが、それはインターに入って後のこと。こんな田舎の高速は、決して渋滞したりはいたしませんから、乗ってしまえばすいすい行くのですが、松山はいわゆる中核都市。高速に乗るまでに時間がかかるんですよねえ。おまけに私は、自動車の運転をしません。
えー、行くとすれば高速バスですが、数少ない特急で片道1時間半、往復3時間。母の昼食を用意し、帰って夕食を作ることを考えますと、けっこうわずらわしい距離です。
「図録を通販で買えばいいか」とあきらめかかっておりましたところへ、突然、古くからのお知り合いのひとみ嬢から、「卯之町へ行きませんか」とのお誘いがありました。いえ、別に、「歴博で三瀬周三展を見ませんか?」というお誘いだったわけではないのですが。
ひとみ嬢は、かつて私が一時、ラジオ局でアルバイトをしておりましたときに知り合いました才媛ですが、偶然にも、早くに亡くなられた彼女のお父上は、私の父が若い頃に赴任しておりました高校で事務職についておられました。彼女の母上の葬儀の席で、彼女のお父上と非常に親しく、うちの父も知っていたとおっしゃいます、卯之町在住の先生ご夫妻と知り合い、父の思い出を聞かせていただいたりしたような次第です。
ひとみ嬢とそのお友達、私、妹が、以前にも卯之町へ遊びにうかがったことがございましたが、今回、その 先生の教え子で、うちの父も知っている、という方が卯之町へ見えられるので、またいっしょにお食事はいかがでしょうか? ということだったんです。
そこは、それ。図々しい私です。これこそ、神のお導きよっ!!! 天にましますわれらが父よ、願わくば御名の尊まれんことを!って、私、キリスト教徒ではございませんが、思春期にお経に親しまず、主の祈りの方に親しんでいたものですから、つい、とっさに口をつきますのは、これです。
まあ、ともかく。図々しくも、「喜んでうかがいますが、歴博で三瀬周三展を見る時間をください!」とさけび、先生ご夫妻とひとみ嬢の多大なご配慮により、天にものぼる気持ちで、出かける運びとなりました。
前にも書きましたが、卯之町はシーボルトの弟子でした二宮敬作が開業していました街で、敬作がイネをひきとっていた時期もあり、イネが暮らした街でもあります。私は、幾度か、仕事の取材で訪れ、郷土史家の先生からお話をうかがったこともあるのですが、仕事ぬきで史跡を訪れるのは、今回が始めてです。
藩政時代には、宇和島藩領でした。物資の集積地として、宇和島城下に次ぐ人口を誇ったといいます。
しかし、街歩きは後にまわしまして、まずは丘の上の歴博へ。
せっかくですから、常設展も見ました。
実は、開館当初の話を関係した方からお聞きしたことがありまして、江戸東京博物館を大いに参考にしたのだそうです。
つまるところが、レプリカばかりでして、小学生の見学にはいいのかもしれませんが、やっとのことで文書館が出来るのかと喜んでおりました当時の私にとりましては、がっかりする代物でした。
展示はもちろん、古代からありますが、一番のお気に入りは、昭和30年ころの松山の町並み、です。
一転、「三瀬諸淵 -シーボルト最後の門人-」展の方は、数々の本物が並んでおりまして、圧巻でした。
ひとみ嬢と妹に、もっとも受けましたのが、シーボルト宛オランダ語の三瀬周三書簡(日本語訳の解説がそえられていました)。要するに、「やる気がなくて、出来が悪いアレクサンダーくん(シーボルトの長男)に、日本語を教えることに、私は疲れ切りました。これでは、私の勉強に支障が出ます」 といいますような、「周三くん、ずいぶんはっきりものを言うよねえ!」という内容のものでした。残念ながら、下の図録には収録されていなかったのですけれども。
とはいいますものの、この図録、すぐれものです。写真のほか、関係資料集も在り、周三の書簡から、イネの娘で周三の妻となっていました美人の高さんが、後年、郷土史家の質問に答えてしたためました回想書簡まで、活字にしてくれているんです。
シーボルト記念館館長・織田毅氏の「二宮敬作の一側面」といいます短い論文もあり、晧臺寺で見てきました墓碑の銘文を載せてくださっています。私、うっかり、銘文の写真を撮っていなかったのですが、はっきりと、イネさんがこの碑を建てた旨、書いているみたいです。
そしてもう一つ、岩崎弥太郎の安政7年の日記によりますと、長崎において、弥太郎は二宮敬作をたびたび訪ねているんだそうでして、二宮親子と弥太郎と長岡謙吉と、親しく箸拳(と思います)をしたんだとか。実は、ごく最近、弥太郎の日記は買いましたので、読んでみるつもりでおります。
丘の上の歴博から、卯之町の中心街・中町(なかんちょう)へは、徒歩でしかたどれない近道があります。
強風の中、紅葉の山道を下りますと、二宮敬作翁碑と、敬作をしのぶ薬草園が。実際に、卯之町で開業しておりました幕末、敬作は薬草園を作っていたそうでして、それを復元したものです。
薬草園から中町はほど近く、その入り口に先哲記念館があります。
ちょうど、「イネと弟ハインリッヒ展」をやっていまして、入ったのですが、ハインリッヒはシーボルトの次男です。明治になってから来日し、オーストリア=ハンガリー帝国在日大使館に奉職して、日本女性と結婚していて、日本にご子孫がおられます。なんという幸運でしょう! そのご子孫・関口忠志が出されております小冊子を希望者にくださるといいますので、さっそく、事務所へいただきに参りました。
まだとばし読みしかしていないんですけれども、これがまた、すぐれもの。
実は、ですね。私、普仏戦争と前田正名 Vol9におきまして、以下のように書いております。
「仏英行」7月20日条に、柴田は、モンブランの従者・斎藤健次郎(ジェラールド・ケン)がもってきた新聞を見ての感想としまして、「アールコック(初代駐日イギリス公使オールコック)、シーボルト、出水泉蔵(薩摩の密航使節団の一員としてイギリス滞在中の寺島宗則)、ロニ(レオン・ド・ロニー)等一穴狐となるの勢あり」と、すべてモンブランの仲間で、同じ穴の狢となってなにかを企んでいる、というような、ものすごい感想……といいますか、ある程度、正鵠を射ていますような、そんな見方を柴田は書き付けていまして、モンブランもぼろくそにけなしていますが、シーボルトに対しても、まったくもっていい感情は抱いていません。
要するに、モンブラン伯爵とシーボルトとの間には、連絡があったのではないのか、というような感触を持っていたのですが、シーボルト記念館の展示に、ミュンヘン国立民族学博物館所蔵の伝・鳴滝塾模型の解説パネルがありまして、そこに「(ミュンヘン国立博物館のシーボルトコレクション)所蔵品目録の記述は、シーボルトの長男アレクサンダーとサイトウ・ケンシロウによってまとめられた」というようなことが、書いてあるんですね。
「サイトウ・ケンシロウって、斎藤健次郎(ジェラールド・ケン)よねっ!!!」と目を見張ったんですが、いただいた関口忠志の小冊子には、池田遣仏使節団とシーボルトが関係していたことが、「沓澤論文」を参考に述べられていたんです。
さっそくCiniiでさがして見ましたら、ありましたっ! 沓沢宣賢氏著「一八六三年ヨーロッパ帰国後のシーボルトの外交的活動について」で、無料で公開されていますし、沓沢氏の論文はもう一つ、「シーボルト第二次来日時の外交的活動について」も読むことが出来まして、ほんとうに大収穫ですっ!!!
要するに、池田遣仏使節団、つまりは横浜鎖港談判使節団にモンブラン伯爵が接触していたことは確かでして、それにシーボルトも深くからんでいた、ということになるんです! モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編に書き、wikiーシャルル・ド・モンブランにも追記しておりますが、モンブラン伯爵の父親は、ベルギー領となりましたインゲルムンステル男爵領を、ドイツ系で、ハプスブルグ帝国の名家・プロート家から受け継いでいまして、祖父がハプスブルグ帝国からフォンの尊称を得ていたシーボルトとは、おたがいに日本マニアでもありますし、十分に接点がありえたのでしょう。
天使のようなみなさんのおかげで実現しました、大収穫の卯之町紀行ですが、長くなりましたので、次回に続きます。
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