郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

伝説の金日成将軍 番外編 コピペ横行

2014年03月28日 | 伝説の金日成将軍


  伝説の金日成将軍シリーズの番外編です。
 
 最近、世間を騒がせました佐村河内守氏のゴーストライター問題と、小保方晴子氏のコピー&ペースト問題。今回取り上げたいのは、コピペの方です。

 小保方氏は、博士論文におきまして、冒頭の20ページほどを、ほとんどそのまま、アメリカ国立衛生研究所のサイトからコピー&ペーストしていた、ということが、今回の騒動で明かされています。
 いわば一般論を述べる部分ですから、参照した上で、自分の言葉に直して語れば問題ないですし、一部分ならば、出典を明記して引用することもできます。
 しかし、いくら本論部分ではないとはいえ、博士論文で、出典もなく延々コピペって、常軌を逸しているでしょう。

 これに対して小保方氏は、「悪いことだと知らなかった」と言っているとも伝えられ、唖然とします。
 紙にかかれた論文ではなく、署名のないネットの文章、ということで、常識が飛んでいってしまうのでしょうか。
 
 実は、ですね。最近、ギョッとするようなwikiのコピペにめぐりあったんです。

歴史通 2014年 03月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
ワック



 上の雑誌、半島特集の萩原遼氏と黒田勝弘氏の記事が読みたくて買ったのですが、連載らしい宮脇淳子氏の東洋史エッセイも、半島のお話でした。
 「金日成は何人もいた」という題で、文章量は見開き2ページ。
 内容は、ちょうどこの伝説の金日成将軍シリーズに重なるものですが、短いですし、結論部分で少々首をかしげたくなる話が出てくることは、後述します。

 宮脇淳子氏は、東洋史家とはいえ、モンゴル史がご専門ですし、北朝鮮の現代史にあまりお詳しくなくても仕方がないですし、Wikiの文章をそのままもってこられるにしても、「一般的によくいわれていることは、例えばwikiでは」と前置きした上で引用なさるのであれば、なんの不都合もありません。
 ところが、まったくwikiへの言及はなく、にもかかわらずWiki-金日成の文章とそっくりな部分がありまして、息をのみました。

 なんで私にそれがわかったかと言いますと、コピペされていたのは、私が書き換えた部分だったからです。
 私が書いた、というのではありません。書き換えたのです。

 wikiペディアの項目は、だれでも編集することができますが、いくら好きに書いてもほとんど誰からもなにも文句が出ない項目と、ちょっと書き直しただけで即ひっくりかえされたり、抗議されたりする項目があります。
 Wiki-金日成は、もちろん後者、多数の執筆者が関心を持ち、下手なことをすると騒動が起こる項目です。
 できれば触りたくなかったのですが、金日成伝説のモデル金ギョン天(金光瑞)を2009年に立ち上げました時、整合性をとりたくなりまして、おそるおそる手を入れました。
 下手をするともめる項目ですから、徹底的に原典を明記し、脚注を多用し、後述しますが、直さなくてもなんとかなる語句は、文章として多少不自然でもそのまま残し、書き換えたんです。

 おかげで、本文は文句をつけられることもなく、幾度も書き換えたのですが、一昨年(2012年)に金日成の上官でした呉成崙の項目を立ち上げまして、そのときやはり整合性をとりたくなり、本文だけではなく、冒頭の定義文にも手を出しましたところが、もめにもめまして、その記録はノートの最後「17 金日成のパルチザン活動について」に残っております。

 まあ、ともかく、私一人で書いた文章ではないですし、wikiに書いた時点で、著作権は放棄しております。
 しかし、だからといって、商業誌の連載エッセイに出典明記もないコピペは、いかがなものでしょうか。
 あまりにも露骨なコピペですので、あるいは、だれか学生アルバイトにでもやらせた結果なのか、とも思うのですが、あんまりうろんなことをなさると、宮脇氏がおっしゃるところの「北朝鮮寄りの研究者たち」、おそらく和田春樹東大名誉教授とか水野直樹京大教授とかではないかと思うのですが、彼らの言説への批判として、まったく説得力がなくなってしまうんですよね。

モンゴルの歴史―遊牧民の誕生からモンゴル国まで (刀水歴史全書)
宮脇 淳子
刀水書房


 宮脇氏の代表作はこちらでしょうか。専門では、りっぱなご研究をなさっているのですから、マルクス史観の中国、北朝鮮史を正面から批判していただくためにも、揚げ足をとられるような著述はひかえていただきたいと、あえて引用比較させていただきます。

歴史通 2014年 3月号 宮脇淳子著 東洋史エッセイ「金日成は何人もいた」
 確かな史実として金日成の名前が残るのは、1937年6月4日、満州の東北抗日聯軍の一部隊が、朝鮮の咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件である。
 国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったので、大きく報道されたことと、日本の官憲が討伐のために、現場指揮官の一人だった金日成を初めとする面々に多額の懸賞金をかけたので、その名が知られるようになった。
 日本軍は、このあと東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦をおこない、朝鮮の咸興(かんこう)の師団に属する恵山(けいざん)鎮守備隊を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。このように困難な状況下で、金日成は満州での襲撃、略奪、拉致を成功させ、1940年3月には、満州の警察部隊の前田隊を事実上全滅させた、と北朝鮮寄りの研究者たちは書くが、それはあくまで、この金日成と、のちの主席が同一人物だという前提での話である。
 この抗日パルチザンの金日成の部下は、中国人苦力(クーリー)と朝鮮人農民と、人質を兵士に仕立て上げた朝鮮人の若者で、全滅した満州の前田隊の隊員もほとんどが朝鮮人だった。
 満州の東北抗日聯軍は、日本側の帰順工作や討伐作戦により壊滅状態に陥り、1940年の秋、金日成は党の上層部の許可を得ぬまま、上司を置き去りにし、十数の部下とともにソ連邦領沿海州に逃れた。
 


Wiki-金日成
抗日パルチザン活動
1937年6月4日、金日成部隊である東北抗日聯軍(連軍)第一路軍第二軍第六師が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、金日成は名を知られるようになった。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと[9]、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にしたともいわれるが、賞金額は第一路軍首脳部の魏拯民、呉成崙には三千円、襲撃実績があった現場指揮官の金日成、崔賢に一万円[10]で、金日成が一人突出していたわけではない。
 また、この普天堡襲撃は、在満韓人祖国光復会甲山支部(のちの朝鮮労働党甲山派)の手引きによって成功したもので、祖国光復会を中心になって組織したのは呉成崙だった。しかし北朝鮮の金日成伝では、「祖国光復会は金日成将軍が発意して宣言と綱領を発表し、会長を務めていた」と、呉の業績をそのまま金日成のものにしてしまっている[11]。
 その後、日本軍は東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦を開始した。咸興(かんこう、ハムフン)の第19師団第74連隊に属する恵山(けいざん、ヘサン)鎮守備隊(隊長は栗田大尉だったが、後に金仁旭少佐に替わる)を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。このように困難な状況のなかで、なお金日成部隊は満州での襲撃、略奪、拉致を成功させ[12][13]、1940年3月には、満州の警察部隊・前田隊を事実上「全滅」させている[14][15]。
 このとき金日成部隊は200余名のうち31名の戦死者を出している。
ソ連への退却
しかし、日本側の巧みな帰順工作や討伐作戦により、東北抗日聯軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥り、小部隊に分散しての隠密行動を余儀なくされるようになった。1940年の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で、生き残っていた直接の上司・魏拯民を置きざりにし、十数名ほどのわずかな部下とともにソビエト連邦領沿海州へと逃れた[16]。
 

Wiki-金日成脚注
13.^ 徐大粛『金日成』林茂訳、御茶の水書房、1992年、47-53頁。金日成部隊の兵力補充は、中国人苦力および朝鮮人農民を徴用し、村や町を襲撃するたびに人質にとった若者に訓練を施しては兵士に仕立てた。また食料の調達でもっとも一般的なのは、人質をとって富裕な朝鮮人に金を強要する方法だった。求めに応じない場合には、人質の耳を切り落とすと脅し、それでも応じない場合には首をはねるといって人々を恐怖に陥れた。
15.^ 和田春樹『北朝鮮 遊撃隊国家の現在』岩波書店、1998年、41頁。前田隊の隊員もほとんどが朝鮮人であり、死亡者も多くがそうだった。


 まず、「国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だった」という文章なのですが、これは確か、私が書き直す前に書かれていたものを、そのまま生かしたんだったと思います。「稀有だった」って、あるいは、もしかしましたら、他に表現を思いつかず、思いつかないままに私が使ったのかもしれませんが、最近あまり使わない言葉ですし、なんとか別の言葉をと思案した記憶が、鮮明に残っています。
 次に、「このように困難な状況のなかで、なお金日成部隊は満州での襲撃、略奪、拉致を成功させ」の部分なんですが、私が書き直す前の文章は、あきらかに北朝鮮よりのもので、よくは覚えておりませんが(wikiの履歴をたどればわかるのですが、面倒でして)、「このように困難な状況下で、なお金日成は日本軍に勝利した」みたいなことが書いてあったんですね。だいたい金日成は、日本軍そのものとはまったく戦ってはおりませんで、「このように困難な状況のなかで」という金日成によりそいました言葉は残したままで(金日成の項目ですのでそれもいいかと)、「襲撃、略奪、拉致を成功させ」と、脚注にもありますように、佐々木春隆氏と徐大粛氏の著作を原典として、書き換えたんです。
 佐々木春隆氏は戦前の陸士を卒業され、防衛大学の教授だった方ですし、徐大粛(ソ・デエスク)氏は、コロンビア大学政治学博士で、ハワイ大学朝鮮研究センター所長を努めた方で、お二方とも、まったくもって「北朝鮮寄りの研究者たち」ではありません。
 私は、北朝鮮寄りの和田春樹東大名誉教授や水野直樹京大教授のご著書も、確かな事実関係を記述している部分は、存分に活用させていただいておりますが、正反対の立場の著作ともつきあわせて、ちゃんと検証して書き直したつもりです。

 こうしてwikiをほとんど引き写されたあげくに、宮脇淳子氏は、「というのが、(金日成の)公式の経歴である」とされているのですが、無茶苦茶でしょう。北朝鮮寄りの和田春樹東大名誉教授や水野直樹京大教授にしましても、北朝鮮の公式発表をそのまま書かれているわけではなく、主に中国共産党系の史料を活用なさって、事実を究明しようとされていますし、それをまた私は、佐々木春隆氏や徐大粛氏の著作とも照らし合わせてwikiを書き換えましたし、wikiの記述は、けっして金日成の「公式の経歴」ではありません。

 あげく、「しかし、実際に抗日パルチザンだった朝鮮人たちは、戦後、今の金日成は別人だと証言した」とおっしゃるんですが、いったいなにを根拠にしておられるのでしょうか。
 
 東北抗日聯軍は、wikiにも書きましたし、この 伝説の金日成将軍シリーズでも書いておりますが、中国共産党の組織なんです。これに属した朝鮮人パルチザンで、金日成別人説を唱えた者はだれ一人としておりませんし、同じ部隊にいた中国人パルチザンもそうです。
 唯一、ですね、伝説の金日成将軍と故国山川 vol6に書いております朝鮮半島内・咸鏡南道(現在は両江道)甲山郡を中心に活動していた朴金、朴達などの共産主義団体(のちの朝鮮労働党甲山派が、別人説を唱えていたと伝わるんですが、彼らは満州の金日成と同じ部隊にいたわけではなく、朝鮮国内にいて、吳成崙にオルグされただけでして、金日成を直接知っていたわけではないんですね。
 憶測になりますが、私はこのシリーズで書きましたように「金成柱が実戦部隊の指揮をしていたことは確かで、それを吳成崙が金日成将軍として演出した」と考えていますし、ほぼ、それでまちがっていないでしょう。

 宮脇淳子氏の結論、「金日成という名前は抗日英雄というアイコン(記号)にすぎない」に異を唱えるわけではありません。むしろ、それに同感だからこそ、事実関係は正確に著述なさるべきではないのか、と思うんですね。
 だいたい和田春樹東大名誉教授や水野直樹京大教授には、肩書きで負けておられるのですから(笑)、短いエッセイでも、つっこみどころのないように要心していただければと。
 wikiのコピペは、わかってしまう確立が高いものです。くれぐれもお気をつけあそばせね、みなさま。
 
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コメント (1)
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