明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol3の続きです。
前回に引き続き、大庭柯公につきましては、久米茂氏著『消えた新聞記者』(雪書房)を、乃木希典につきましては大濱徹也氏の『乃木希典』を、主に参考にさせていただきます。
乃木希典 (講談社学術文庫) | |
大濱 徹也 | |
講談社 |
内田魯庵著「二葉亭四迷の一生」(青空文庫)で見ますと、ハルピンの二葉亭四迷は、日本人を警戒する状況の中で長くはとどまれなかったようなのですが、しかし「哈爾賓(ハルビン)を中心として北満一帯東蒙古に到るの商工業、物産、貨物の集散、交通輸送の状況等を細つぶさに調査し」とありまして、日露戦争になった場合を想定すれば、ロシアの極東への鉄道輸送、集荷力を、日本は知っておく必要がありますから、おそらく、これこそが目的で、柯公とともに活動したものと思われます。
大陸での戦争におきまして、当時、鉄道輸送は決定的な役割を果たしていました。
最初に、鉄道によります効率的な兵站で、画期的な成果を挙げましたのは、1866年(慶応3年)、普墺戦争におきますプロイセン参謀本部です。
普仏戦争と前田正名 Vol5に書いておりますように、4年後の1870年(明治3年)にはじまりました普仏戦争におきまして、プロイセンのフランスに対する勝利は、兵員、物資の鉄道輸送の差で決した、と言っても過言ではありません。
イギリスVSフランス 薩長兵制論争、イギリスVSフランス 薩長兵制論争2を見ていただければと思うのですが、明治新政府の陸軍は、長閥主導でフランス兵制をとります。それがやがて、やはり長閥主導でドイツ兵制に転換していくにつきましては、普仏戦争にプロイセンが勝利し、ドイツ統一がなされたことが大きく影響しています。
乃木希典 (文春文庫) | |
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福田和也氏の『乃木希典』には、明治20年(1887年)から1年半にわたります、希典のドイツ留学に際して、最晩年のヘルムート・フォン・モルトケに面会したことが記されていまして、同時にプロイセン軍の参謀総長だったモルトケこそが、普仏戦争を勝利に導き、近代戦の代名詞になった人物だとして、以下のような実に的確な解説を加えてくれています。
モルトケのしたことを、素人講釈で乱暴にまとめれば、「計画」の一語になる。
戦場の主役を、運命の女神から、列車や輸送部隊のダイヤグラムに変えてしまうこと。
乃木希典が、帰国後にまとめた意見書は、なぜか「いかに軍紀を保つか」ということにつきているのですが、しかし本場ドイツで学んだわけなのですから、近代戦の基本が兵站であることは、熟知した上でのことだったでしょう。
えーと、だとすれば、二葉亭と柯公は、希典を通じて陸軍の委任を受けていた線も、ありですかね? どちらかといえば盛り上がり気分だけが先行しそうな彼らが、実際の役に立ったかどうかは別にしまして、普仏戦争直前のプロイセン軍も、多くの探索者、いいかえれば民間スパイを、進軍予定地のアルザス、ロレーヌ地方に放っていたのですし。
二葉亭は、ハルピンから北京へ行き、明治36年に帰国。翌明治37年(1904年)、日露戦争がはじまってまもなく、大阪朝日新聞社に入社します。新聞記者となりました二葉亭の活動は、魯庵によりますと、以下のようです。
折角苦辛惨澹して拵こしらえ上げた細密なる調査も、故池辺三山が二葉亭歿後に私に語った如く参謀本部向き外務省向きであって新聞紙向きではなかった。例えば当時『朝日新聞』に連掲された東露及び満洲輸送力の調査の如きは参謀本部の当局者をさえ驚嘆せしめたほどに周到細密を究めたが、読者には少しも受けないで誰も振向いても見なかった。
どうも、結局、役に立ったということ、だったようです。
柯公の方は、一年ほどで帰国し、日露開戦に伴って陸軍に出仕し、前線で通訳を務めます。
終戦後は、静岡のロシア人捕虜収容所で通訳を務め、当時の捕虜収容所はとても自由なものでしたので、ここで柯公は、多くのロシア人知己を得ます。
明治39年、捕虜収容所解散と共に、柯公はウラジオストクに渡ります。このとき柯公は、十数日間拘禁され、一説に、ロシア革命支持の文書を持っていたから、といわれているそうですが、1905年(明治38年)、第一次ロシア革命の直後です。
尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.2をご参照いただきたいのですが、第一次の時のロシア革命は、穏健な改革派の支持も得ていまして、柯公が最初のウラジオストク滞在で知り合ったニコライ・ペトローヴィチ・マトヴェーエフも、立憲民主党員として革命運動に加わっていましたし、捕虜収容所で知り合った人々にも革命支持派は多かったでしょうから、十分にありえることです。
しかし、帝政ロシアの日本人拘禁は、後年のボルシェヴィキ独裁政権の「そのまま投獄、惨殺され行方不明も珍しくない」といった無茶苦茶なものではなく、柯公はすぐに釈放されたものですから、「帝政ロシアがそうだったのだから、社会主義政権ならば絶対に大丈夫」と、思い込んで、足をすくわれる遠因になったのかもしれません。
ともかく。
帰国した柯公は、ここで、34歳にして大阪毎日新聞の記者となります。
日露戦争の結果、極東ロシアと日本の経済関係は濃密なものになりましたし、西欧列強の一員でありましたロシアにまがりなりにも勝ったということで、一般日本国民の視野が海外へとひろがり、外国語がわかり、国際感覚のある記者が、求められるようになってきていました。
二葉亭にくらべまして、柯公は新聞記者に向いていたようでして、特派員としてオーストラリアへ渡ったり、フィリピン、満州、韓国、シベリアへ赴いたほか、軍艦生駒に便乗して、南米、欧州、中東、中央アジアと、ほぼ世界一周。
明治44年(1911年)には東京日日新聞に転じますが、短期間で辞職。「外交時報」を主催し、国際情報誌「イースタン・レビュー」を発刊するなど、明治末年の柯公は、充実したジャーナリズム活動とともにありました。
そして、明治天皇が崩御し、乃木希典が自刃します。
その自刃の直後、しみじみと追悼文をつづっているのですが、それは、「(私は)将軍や夫人に特殊な知遇をかたじけなうしたものであります」という言葉からはじまっていました。
見てまいりましたように、少なくとも柯公は、26歳にして善通寺の第11師団でロシア語を教えたあたりから、日露戦争時の通訳まで、希典の世話になっていたと思われ、その従軍経験は、ジャーナリストとしての柯公をも生み出しもしたわけですから、その言葉には、真情がこもっています。
また久米茂氏は、柯公が希典だけではなく、静子夫人にも傾倒していたとして、以下のように記しています。
(柯公は)乃木を語ろうとして静子を語り、静子を語ろうとして乃木を語る……というぐあいに、柯公にとって乃木夫妻は精神のひとつの拠りどころであったようである。
なぜ、それほどまでに柯公は、乃木将軍を慕っていたのでしょうか?
久米茂氏が挙げておられるのは、もちろんまずは、幕末、柯公の父・伝七と希典が長府報国隊の同志で、第二次長州征伐の小倉口で戦った戦友であったこと。
もう一つは、日露戦争において、ともに肉親を失っていること、です。
希典が陸軍に奉職していました息子二人を失ったことは有名ですが、実は山縣の書生を努めて軍人となった柯公の長兄も、日露戦争で戦死したんです。
柯公は、陸軍長州閥の親玉・山縣有朋を心底嫌っていましたし、おそらくそれは、希典もそうです。
だからこそ柯公は、長兄の生き方に批判的でしたけれども、近代国家としての日本が、西洋列強と互角になるためにすべてをかけて戦った日露戦争に、指揮官として命をささげた長兄の存在は、柯公の中で、慕わしいものに変わっていたでしょう。
したがいまして、久米茂氏が挙げられた二つの理由は、もっともではあるのですけれども、これに関連して私は、柯公が「吉田松陰」で書いたことの方を重視したいと思います。
久米氏によれば、「(柯公の)松陰論はロシア革命直後に書いた。大正七年の四月である。ロシア革命の成功を喜び、革命に奮闘した人間を思いうかべて書いたことが、文中からわかる」ということでして、これは、主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』の最後に書いておりますが、田中彰氏が取り上げておられる大正7年(1918年) 大阪朝日新聞連載のものです。
吉田松陰―変転する人物像 (中公新書) | |
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中央公論新社 |
柯公の「吉田松陰」は、柯公全集の第五巻に収録されているそうなのですが、うちの方の図書館には、大学を含めてないですし、買うには高価ですし、ねえ。ふう。
久米茂氏の『消えた新聞記者』から孫引きさせていただきます。
久米氏によれば、柯公は、乃木将軍の自刃が、萩の乱に参加した人々の悲憤の死につながっていると見て、以下のように書いているのだそうです。
「松下村塾の門人中には、明治九年の前原の乱に組みし、戦死または自殺をしたものが多く、乃木大将の令弟もその一人としてこの乱に戦死し、松陰の叔父、玉木も割腹して果てられた。これより三十五年の後に、この玉木の家に久しく教養された大将が、その叔父の最期に似た、いさぎよい最期をとげられたことは、決して偶然ではない」
柯公は、父の伝七の、そして希典の、幕末の体験談に耳を傾け、身近に感じながら松陰を尊敬し、維新が革命であったことを信じていました。
1905年にきざしたロシア革命が、その初幕の大成した昨年(大正6年ー1917年)までには、十年の歳月を経ている。松陰が刑戮された安政6年から、明治の維新まではちょうど十年の日子がすぎている。したがって、世界主義の宣伝に浮き身をやつした佐久間象三はロシア革命の長老プレハーノフに比すべく、松陰はケレンスキー、高杉はレーニン、前原一誠はトロツキーともみることができる。前原は維新後まで生きのびたが、彼のような熱血児は、もはや平凡な明治廷臣の群には堪え得なかった。かの萩の乱は、じつは松下村塾に養われた慷慨鬱勃の気の、太平時における爆発ともみるべきである。
い、いや、これ、十月革命の後に書かれたものなのですから、ケレンスキーはすでに亡命していますし、もう少し情報が入っていてもよさそうに思うのですが、しかし。尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.5の最後に出て参りますが、ニコラエフスクのユダヤ人一家で、結局、日本に亡命しましたリューリ一家も、大正8年(1919年)まではウラジオストクにいたわけですから、あるいは柯公のボルシェヴィキ独裁政権への高評価も、致し方のないものだったのかもしれません。
ロシア革命から百年の月日が流れ、なにがどうなったのか、かなりの情報を持っております私としましては、「レーニンは、柯公さんの大嫌いな山縣有朋に大久保利通をプラスして、悪魔をかけあわせたような怪物でしたよ!」と、時をさかのぼって教えてあげたい気分です。
柯公は、山縣有朋だけではなく、金銭に汚い井上馨や、そして伊藤博文なども、大嫌いでした。
「かくいさぎよいものは、皆お先へと御免を蒙って、権勢に憧れ、名に囓り付き、財に執念し、色に耽溺するものだけが、松陰没後の六十年後にまで生き残って、至誠真勇の長州人を、才子肌の長州人に俗化し、更に陰険私心の長州人と下落させてしまった『長州人』は、じつに憎いかぎりだ。
一体、長州出身の政治家ほど、得手勝手な政治振りを続けたものはすくない。」
実は大正5年(1916年)、大正天皇即位にともない、ようやくのことで、前原一誠は従四位を追贈され復権を果たしました。ちなみに、これと同時に桐野利秋も正五位を追贈され、明治が終わって、ようやく、西郷隆盛一人ではなく、士族反乱にかかわった多くの人々の名誉が回復されたのですけれども、しかし。
柯公にとりまして、それは遅きに失したことであり、大正の御代になってなお、陸軍中枢に陣取ります長州閥は、心底がまんのならないものだったようです。
「当世の将軍連中ときたら、かの二宮尊徳をひんまげてかつぎまわっている怪しげな団体と手をむすび、全国の青年を掌中ににぎって何事かをたくらんでいる。かれらは、青年特有の活気をそぎ、その特権である自由を奪い、その溌剌の気、鋭俊の風を銷摩させようとしている。しかも彼等は軍閥の旨を奉じた軍人を先頭に、青年団の旗を押し立て、好んで乃木神社や松陰神社へまいる。ところが、貴族の子弟を罵倒し、叱咤したのが乃木将軍であり、個性の自由発育を、児童教養の神髄としたのが松陰である。」
その元凶は、なんといいましても、山縣有朋です。
「智謀の如くにして陰険、誠実の如くにして実は老巧、公平をよそおって実は朋党をつくり、謹厳の如くにして実は横着……屋上屋を架した会合をもったり、枢機秘密の奥の院やらを、小田原ういろうの産地からあやつっている老人ー山縣」
そしてもちろん、明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol2の最後に提示しておりますが、希典の乃木家絶家遺言を、山縣を中心とします陸軍長閥が握りつぶしたことについて、柯公は激怒しておりました。
「遺書を改除するような不心得な連中が大きな顔をして(乃木家の)親戚会議などに出しゃばるところをみると、この先何が始まるか分らぬ。大将や夫人がつねに家名を尊ばれたことを知っている私は、意志に反する乃木家継続などという小人共の小細工が一番気にかかる」
この問題につきましては、次回にこそ、そこまでたどり着くつもりでおりますが、あるいは柯公は、希典の国家への遺言をも長州閥は握りつぶした!ということも、知っていたかもしれません。
といいますのも、柯公は最後、読売新聞に入社して、特派員の形で極東共和国へ入るのですが、柯公がソビエト・ロシアで消息を断った翌年、大正11年の9月10日に、「国勢は軍隊にのみ頼って存立上の安心を得られるものではない。軍隊に頼ることは決して国家の発展を促すものではなくして、かえって阻害するのみか遂には存立をさへ危くするものである。軍隊の拡張は経費の膨張によって国民に苦痛を与へ、外には軍国的の誤解を招いてかえって危険が多い。日本の現状はこの弊を改めなければならぬ時機にある。軍備縮小による内容充実は青年団少年団等の国民的団結を益々訓練し平和的に備えておけば良い」 と、軍縮を訴えます希典の国家的遺言の片鱗を掲載しましたのは、読売新聞だったんです。
希典は、死の直前にも、陸軍長州閥の田中義一に軍縮を訴えていたのですし、こんなことを知っていたのは、同じ長府の出身で、希典と個人的にごく親しかった柯公しかいなかったのではないか、と私には思えるのです。
柯公は大正3年(1914年)、東京朝日新聞に乞われて特派員となり、ロシア・ペトログラードに赴いて、第一次世界大戦東部戦線への従軍取材を実現しているのですが、このときの記者団のうち、ロシア人5人、フランス人1人、アメリカ人1人が知日派だったといいます。そのアメリカ人記者は、日露戦争で旅順の取材をし、乃木将軍に傾倒して、後に『乃木大将と日本人』を記したスタンレー=ウォシュバンでして、これは柯公にとって、非常な喜びであったようです。
乃木大将と日本人 (講談社学術文庫 455) | |
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このときの柯公の記事は、前線の悲惨さをリアルに伝えていまして、後世に残ってしかるべき仕事だったと思うのですが、その第一次大戦が呼び起こしましたロシア革命は、結局、ボルシェヴィキ独裁という未曾有の怪物を生み出し、ちょうど尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.7で書きました異常事態の中へ、柯公は飛び込んで、消息を断ちます。
「西郷隆盛は実は生きていて、ロシアの軍艦で帰国する!」という明治日本人の夢に導かれ、ロシアに親しんだ柯公は、第二の明治維新をロシア革命に見てしまい、リアルな状況判断ができなかったのでしょう。あるいは、吉田松陰の革命家としてのオプティミズムを、柯公はだれよりも素直に、受け継いでいたのかもしれません。
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