郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

スイーツ大河『花燃ゆ』と妹背山婦女庭訓

2014年06月18日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 続 主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』の続きです。

 仕事の原稿を書き終えまして、珍しく必死になって、文さんの小説風伝記を、書こうとしています。
 ようやく序章を書き終えたところなのですが、基本的なところは山本栄一郎氏からご指導を受けつつ、なお、いろいろと調べなければ書けないことがありまして、あっちでつまずき、こっちでつまづき、予定通りに書き上がるのかどうか、不安になっています。

 いやしかし、このスイーツ大河、なかなかにおもしろくなるかも、と思い始めた今日この頃です。

萩ナビの特集花燃ゆ制作統括・土屋氏講演会のルポによりますと、「ホームドラマ、学園ドラマ、大奥、そしてラブストーリー」 と四つの要素があるので絶対におもしろくなる! ということだったんですね。
 ホームドラマっていいますのは、NHKがやることですから心配ではあるのですが、主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』で書きましたように、松陰の家族はすばらしいですから、わかります。
 そして学園ドラマも、松下村塾を題材にすれば、そういう意味でおもしろい要素があることは、理解できます。
 ラブストーリーについては、今回調べていて、これは一級のラブストーリーになる! と得心しました。
 しかし、最後までわからなかったのが、大奥!です。

 最初なんで大奥???、とただただ首をかしげていたのですが、大奥といっても本物の大奥ではなく、毛利家の奥!ということのようだったんですね。



 以前にもご紹介しました「男爵 楫取素彦の生涯」の中に、小山良昌氏の「敬親公の懐刀 男爵楫取素彦」という論文があります。敬親公とは、幕末混乱期にずっと長州藩主だった「そうせい侯」のことでして、明治2年に世子に家督を譲り、明治4年に死去していますから、「男爵」と題についてはいましても、これ、主に幕末の楫取素彦の話なんですね。
 で、小山良昌氏、駆け足で楫取の妻について語られる中で、「文が未亡人になってのち、主家毛利家の奥方安子様付の女中として奉公し、安子様の長子元昭公の誕生後はそのお守り役として勤めていた」とし、「明治16年(1883年)、文は一旦杉家に復籍し、改めて杉家の三女とし、名前も美和子と変えて楫取素彦に嫁いだのであった」 となさっています。
 ところが同じく「男爵 楫取素彦の生涯」収録の「書簡に見る明治後の楫取素彦」で、山本栄一郎氏は、「この女性の名は、元来文だったはずだ。だが、いつのころからか美和と改名している。楫取と再婚した折、改名したかのようにいう俗説もあるが、それ以前から美和だったことがわかる」 とされていまして、私、いったい楫取の杉民治宛書簡に最初に「美和」と出るのはいつなのか、山本氏にお聞きしましたところが、どうも明治5年のようだ(ようだ、といいますのは、その手紙の年代が推定だからです)と、いう話でした。

 明治5年ということですと、壬申戸籍において、名前を「美和」と届け出たのでは? と思われ、しっくりとくるのですが、しかし。
 「文」という名前を、叔父の玉木文之進からもらったことは、久坂との結婚に際して、兄の松陰から文に贈られた文章に出てまいりますので、確かなことです。
 その名を「美和」と改めたきっかけ、というものは、文さんの人生の中に、大きく印されているはずです。

 近代デジタルライブラリーに、福本義亮著吉田松陰の母があるのですが、これには、「一時は召されて藩公の幼君(後の毛利元昭公)の傳役となり名を美和と改めた」 と書いてあります。
 つまり、「美和」という名前は、御殿女中に上がったときの女中名だった、というんですね。

 で、文が、美和という名前で御殿女中に上がっていたのは確かなことだったのでしょうか。
 実は、山本栄一郎氏が史料を発見されました。
 山本氏のブログ美和(文)が毛利元徳夫人の女中だった確定史料をご覧ください。
 ただ、これは明治に入っての史料でして、いったいいつ文が御殿女中に上がり、その最初から「美和」の女中名だったのかどうか、につきましては、いままだ、山本氏が史料を探索中でおられます。
 
 しかし、それにいたしましても、なぜ美和なのか? そしてなぜ、その女中名を戸籍名としたのか?、という疑問がわきます。
 「ミワという名の有名なヒロインがいたよねえ。えーと。」と考え込みました私、はたと思いつきました!
 「そうよ! 杉酒屋の三輪(ミワ)よっ!!!」

 そうです。
 普仏戦争と前田正名 Vol9に書いているのですが、シーボルトも見た「盲の皇帝」、「妹背山婦女庭訓」のヒロインです。
 シーボルトが見たのは歌舞伎でしたが、もともとは人形浄瑠璃の演目でして、早稲田大学高等研究所のホームページ、神津武男氏の人形浄瑠璃文楽の総合的歴史研究に写真がありますが、浄瑠璃本が出され、日本全国に流布していたんです。
 
 浄瑠璃本につきましては、福本義亮著「松陰余話」に「便所の中での浄瑠璃本」という話がありまして、松陰は忠臣蔵の浄瑠璃本を用便のときに読み、妹千代への手紙にも「浄るりぼんなども心得ありてきき候らへば、ずいぶん役にたつものに候」 と書いているそうです。
 したがいまして、物見遊山もせず、ほとんど萩から出たことがなかっただろう若い頃の文さんにしましても、浄瑠璃本で「妹背山婦女庭訓」を知っていた可能性は高いんですね。

妹背山婦女庭訓 (橋本治・岡田嘉夫の歌舞伎絵巻 5)
クリエーター情報なし
ポプラ社


 上の本の表紙絵の左の町娘が、杉酒屋のお三輪ちゃんです。

文楽列車


 上が浄瑠璃人形のお三輪ちゃん。

 「妹背山婦女庭訓」のあらすじは、文化デジタルライブラリーで見ていただければ、と思うのですが、題材は一応、大化の改新です。しかし、実際の大化の改新(乙巳の変)では、後の天智天皇・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が自ら主導して、蘇我入鹿を斬り殺し、蘇我氏を滅ぼします。
 ところが「妹背山婦女庭訓」におきましては、天智天皇が盲目となり、忠臣・中臣鎌足は蘇我蝦夷に陥れられます。蝦夷の息子・入鹿は、実は妖怪でして、帝が留守の宮廷を襲って、帝位を簒奪します。
 帝と忠臣たちは山に逃げ込み(ここらあたり中世の南朝のようですが)、反攻の機会をうかがいます。

 で、話は四段目に飛びますが、三輪山のふもとの杉酒屋に、お三輪という娘がおります。
 奈良県桜井市三輪の大神(おおみわ)神社は、酒屋さんの神様でもあり、現在でも毎年11月に全国から蔵元や杜氏が集まって来まして、杉玉をいただいて帰ります。
 だから、杉酒屋のお三輪さん、といいますのは、三輪山伝説のパロディでして、神聖を帯びていてもいいはずなのですが、歌舞伎や文楽のお三輪さんは、きかん気の、江戸時代の庶民のお嬢さんです。

 お三輪さんは、隣に越してきていた園原求女に一目惚れして、言い交わします。
 ところが求女は、実は鎌足の息子の淡海(藤原不比等が淡海公と呼ばれますが、史実では、大化の改新のときにはまだ生まれていません)で、その素性を知らないままに、蘇我入鹿の妹・橘姫にも心引かれます。
 求女、実は淡海をはさんで、お三輪さんと橘姫の三角関係です。

 結論のみ言いますと、二股かけました淡海は、兄を裏切ることも厭わないという橘姫を選び、お三輪は二人の祝言の日、橘姫の館に行き着いて、身分違いの田舎娘だと、女官たちになぶられるんですね。
 しかし、なぶられたお三輪の憤怒と無念の思いが、妖怪入鹿を殺すために役立つこととなり……。

 えーと、ですね。
 文さんの長兄・杉民治は、慶応元年の3月27日、世子公の侍講を命じられておりまして、文さんの御殿女中勤めは、私は兄さんの紹介であったのではないか、と思っています。
 
 「婦女庭訓」という題名は、お三輪が恋敵の橘姫に投げつけた、「求女さまにはもう、私という定まった恋人がいるのよ。他人の男を盗ろうだなんて、しつけがなってない女ねえ。女庭訓(女性の道徳本)をよく読みなさいよっ!」というセリフからきていまして、文さんは、松陰の妹で、女子教育が行き届いていると評判の、杉家出身の娘さんで、しかもほとんど萩を出たことのない田舎娘、なんですよねえ。

 しかも、前回に書きましたが、 井筒月翁の「維新侠艶録」に、久坂玄瑞が京都の芸者お辰に贈ったという恋文が載っていまして、「その後もお前様の事のみおもいつづけ候。軒端の月に梅雨とすむ、寒き夕べは手枕に、ついねられねばたちばなの匂える妹の恋しけれ」なんぞと書いていたというのですね。

 
維新侠艶録 (中公文庫)
井筒 月翁
中央公論社


 これの元ネタが、小川煙村の「勤王芸者」であることは述べましたが、近デジにありました。

 近代デジタルライブラリー「勤王芸者」

 これ、確かに創作が多いのでしょうけれども、すべてがすべて、そうでもなさそうでして、あるいは、もしかしましたら、久坂の手紙は本物かもしれませんし、そうでなかったとしましても、宴席で久坂が歌い、京の芸者仲間で評判になった今様、だったかもしれません。だとすれば……。

 お三輪の恋敵は橘姫。たちばなの匂える妹、ですよね。

 それで、気の毒なことに、久坂の遺児が実子と認められ、京から連れてこられるのは、明治2年11月。美和(文)さんが山口で御殿女中をしている最中のことなんですよね。

 近代デジタルライブラリー「もりのしげり」(P523をご覧ください)


 私は美和という女中名が、杉酒屋のお三輪さんにちなんだ可能性はかなり高いとみまして、「大河のプロデューサー氏も、きっと妹背山婦女庭訓を思い浮かべて、大奥ドラマの要素もある、なんて言い出したのよっ!」と、山本氏や中村さまに、語ってみたのですが、口をそろえて、「妹背山婦女庭訓なんぞ知っている人はあまりいません!」と否定されてしまいましたわ(笑)

 しかし、杉酒屋のお三輪さんは、庶民でありながら、「恋に身分なんか関係ないわ!」とばかりに、一途なところがかわいいですし、どこかとても、近代的なヒロインなんですね。人形浄瑠璃に見入っていた江戸時代の庶民の娘さんたちは、かならず、お三輪さんの方に感情移入したはずでして、そこのところを勘案しますと、久坂の愛人だった芸者さんの身元は、いまひとつはっきりしませんし、芸者さんは芸者さんでも、お公家さんの落とし胤、みたいな設定にすれば、おもしろいかもしれません(笑)

 いずれにせよ、お文さんの女中名が美和になったのはいつからなのか、山本氏の調査を、楽しみにお待ちしたいと思います。
 
 
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コメント (10)
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