郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

スイーツ大河『花燃ゆ』とBABYMETAL

2014年09月27日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 スイーツ大河『花燃ゆ』と妹背山婦女庭訓の続きです。

 突然ですが、最近、はまってます。なににって、BABYMETALに。
 文さんの小説、思うように書けないで、行き詰まって、そんなときに、これ、DEATH !

BABYMETAL - メギツネ - MEGITSUNE (Full ver.)


 この出だし、子供のころになじんだ、お祭りの神輿のリズムなんですよねえ。
 メタルとアイドルの融合だそうなんですが、仕掛け人のインタビューを読んでみますと、やはりボーカルのSU-METALあってこその仕掛けなんですね。
 バンドも一流なんですが、決してそれに負けないSU-METALの声の魅力を、ほんとにもう、なんと語ればいいのか、DEATH !
 透明で、素直で、すっと胸に入って、しかし、それでいて、迫力があるんDEATH !

 海外のサイトでは、このかわいい顔で、Iron Maidenのおっさんボーカル、Bruce Dickinsonをぬいて、メタルボーカルno1(Top 10 Best Metal Vocalists)に挙げられていたりもします。

 「古(いにしえ)の乙女たちよ、かりそめの夢に踊る。幾千の時を超えて、いまを生きる~♪」 

 歌詞ももう、文さんにぴったりじゃないですか。SU-METALは、ちょうどこのメギツネのとき15歳。文さんが久坂玄瑞に嫁いだ年です。

 「あ~ 咲いて散るのが女の運命(さだめ)よ~」 

 もう、これ絶対、文さん小説のテーマソング!と思ったんですが。

BABYMETAL - 紅月 - AKATSUKI


 これがまた、すばらしいんです。
 引き込まれて聞いているうちに、泣けてくるとでもいうんでしょうか。

 過ぎてゆく時の中、瞳を閉じたまま。この手に流れる赤い糸、切れても感じている、絆を。
 静寂の中で、傷ついた刃。さし向かい、孤独も不安も。斬りつける、心まで。
 幾千もの夜を超えて、生き続ける愛があるから。この身体が滅びるまで、命が消えるまで、守りつづけてゆく。


 もう、文さんの久坂への愛、そのままじゃないですか!
 
 ついにアルバムを買いまして、これこそ文さんのテーマソング!とばかりに、幾度も幾度も、とりつかれたように聞いておりましたところが、防府の山本栄一郎氏から、電話がありました。
 「NHKが『花燃ゆ』の新しい配役を発表したのを知ってますか?」 
 「知りませーん」と私。いや、もう、はっきり言って大河ドラマはどーでもよくなっていまして。
 「大奥に本腰入れるつもりらしい配役ですよ。松坂慶子が毛利都美子だそうで。見てみてください」 
 「ひえーつ!!! 都美姫さまって、そうせい侯の奥方ですよね? 都美姫さまの母親は、本物の大奥から、将軍家の姫君の毛利家への嫁入りについてきて側室になった奥女中らしいんですよ。ものすごい目のつけどころだわ。見てみまーす!」

 私は、山本氏に、延々と、本物の江戸城大奥と毛利家奥のつながりを説明しようとしたんですが、「お手洗いに行きたくなったから」と逃げられてしまいまして、だれかに話したくてたまらず、こんなことをしている場合ではないにもかかわらず、ブログを書くことにした次第なんDEATH !

 NHKのホームページ(大河ドラマ「花燃ゆ」)を見てみましたところが、確かに毛利都美子は、長州藩主の正室 大奥の女帝とあって、ここまでですと、「おおっ! ちゃんと調べたのね」という感じですが、後は、なんとなくピンとこない紹介のされ方だったりします。

 とりあえず、文さんが幕末から、毛利家の奥女中となっていたことにつきましては、山本栄一郎氏が、山口県文書館収蔵の『女儀日記』で、「慶応元年9月15日、久坂美和の名で、世子の奥方・銀姫の御次女中に上がっている」旨を確かめられ、その他の史料も合わせて、京都龍馬会発行の『近時新聞 第19号』に詳しい論文を発表なさっていますので、ご覧になってみてください。

 まあともかく、文さんはけっこう長く、奥女中をやっていたことがはっきりしまして、私、文さんの小説を書くにあたり、毛利家の奥ってどんなところ?と、一応、いろいろと持っていた本を読み返し、また新たに関係書を読んだりしていました。

 えーと、まず。江戸時代、大名の正妻と世子(お世継ぎ)は、原則江戸住まいで、大名の奥方といいますのは、大方、大名の娘ですから、これも江戸住まいが多く、要するに、江戸藩邸から江戸藩邸へ嫁に行き、生涯、江戸にいる場合が多かったんですね。
 文さんが仕えました銀姫は、もともとは萩藩の支藩であります長府藩の姫君でして、江戸の長府藩邸から、江戸の萩藩邸へまずは養女に入りまして、これも支藩の徳山藩から、萩藩邸へ養子に入った世子・元徳と結婚します。銀姫も、通常ならば生涯、江戸の萩藩邸で暮らすはずだったのですが、ペリー来航、開国、そして幕藩体制がゆらぎ、文久2年の改革で、正室のお国入りが許されます。これは、各藩、江戸藩邸で費やす経費を節約し、武備充実にまわそう、という趣旨で行われた改革でしたから、攘夷を唱える長州藩の奥の夫人たちは、率先して萩入りし、銀姫も生まれてはじめて、長州の土を踏むこととなったわけです。

 で、未亡人となった文さんが、誰の紹介で銀姫のもとに上がったか、なんですが、私、前回、兄さんの民治では? と憶測してみました。
 取り消します。肝心なことを忘れていました。
 主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』で書いたのですが、松陰の叔父の玉木文之進(松陰の叔父ですから文さんの叔父でもあり、「文」という名はこの叔父さんからもらったと松陰が書いています)は、乃木希典の弟を養子に迎えています。
 これがなぜかと言いますと、実は萩藩の玉木家は、長府藩の乃木家の分家なんです。
 乃木家は、長府江戸藩邸詰めの藩医だったのですが、何代か前の当主の後妻が、江戸の萩藩邸で御殿女中に上がっていて、その勤務ぶりを認められ、息子の一人が「玉木」といいます母親の女中名で藩士に取り立てられ、本藩の玉木家が生まれます。そこへ、松陰の叔父が養子に行ったというわけだったのですが、一方で、幕末の江戸の乃木家の当主、秀次は、家業の医者がいやだというので、馬廻役に取り立ててもらい、長府江戸藩邸で、銀姫の守り役を務めていたんです。
 その後、江戸を引き上げて長府務めとなり、秀次の息子の希典と弟は、萩の玉木文之進の元で教育を受けます。
 つまり、ちょうど文さんが銀姫のそばに上がったとき、乃木家の兄弟は萩にいたわけでして、銀姫の守り役でした二人の実父、秀次が、親戚の未亡人を銀姫に推薦することに、なんの不思議もないわけです。ちなみに、乃木秀次夫人は、銀姫の母親(土浦藩の姫君)の嫁入りに江戸の土浦藩邸からついてきた御殿女中です。

 なお、山本栄一郎氏の論文によりますと、慶応元年9月15日時点で、銀姫さまは萩八丁邸においでで、文さんは、ずっと萩でお務めができると考えていた可能性もあるんですね。ところが2ヶ月後、世子と銀姫さまは山口へ移り、文さんもそれから山口の五十鈴御殿で務めることとなりました。

 さて、そこで、毛利家奥と本物の大奥のつながりです。
 氏家幹人氏の「江戸の女の底力」を読み返していて、仰天しました。

 
江戸の女の底力 大奥随筆
クリエーター情報なし
世界文化社


 これに、幕末でもっとも有名な大奥女中、通常、和宮の大叔母と言われます姉小路のことが出てきます。
 えーと、wiki-姉小路 (和宮の大叔母)が詳しいので、ご覧になってみてください。
 ともかく、大奥で絶大な権力を握り、水戸藩主とも直接書簡をかわしたといいます姉小路は、若い頃、絶倫将軍家斉の娘、和姫が、萩藩世子・毛利斉広に嫁ぐとき、大奥から、お付き上臈庭田として、萩藩江戸藩邸へ乗り込んでいるんですね。ところが和姫は、嫁いで一年にも満たずに死去し、大奥へ帰った庭田は、やがて将軍家慶付の上臈御年寄、姉小路となったわけなんです。

 
徳川政権下の大奥と奥女中
クリエーター情報なし
岩波書店


 上の畑尚子氏の著作が、奥女中とはなんぞや、といいます研究書でして、大いに参考にさせていただきながらお話を進めますと。
 通常、大奥女中の中で、姉小路のような上臈(高級女中)は、京都の公家の娘であるか、あるいは公家の養女になった娘でして、江戸に身元引受人が必要なんですね。で、お宿下がり、たまの休暇は、この身元引受人のところで過ごすわけで、大身の旗本などが引受人となる例が多いわけなんですが、なんと、この姉小路がお宿下がりするのは、長州支藩であります徳山藩江戸藩邸であった、というんです。
 なんで???と疑問符いっぱいになりました私、あっちゃこっちゃの系図を調べて、おおよそ、こういうことだったんでは? と推測する材料をひろい集めました。

 将軍家慶の正室は有栖川宮家の楽宮喬子女王で、姉小路はこの女王の嫁入りにしたがって、大奥へ入った、と言われています。
 喬子女王は側室の娘でしたが、義母、つまり有栖川宮家の正室は関白鷹司輔平の娘・鷹司福子です。そして福子の実母(関白の正室)は萩藩七代藩主・毛利重就の娘、毛利文子なんです。
 で、この北の政所文子さま、文化元年(1804年)まで生きていますから、孫に当たります楽宮喬子女王と将軍世子の婚約が整ったところまでは、生きておられたんですね。
 通常、公家や宮家に大名家の娘が嫁ぎましたとき、後々まで経済的なお手伝いをするわけですが、「江戸の女の底力」には、「実は姉小路はそれほど身分がよろしくなかった」という話も出てきまして、私は、毛利家出身の関白家北の政所の関係から、徳山藩ゆかりの公家侍の娘が橋本家の養女となり、大奥上臈となりまして、ゆかりの人物だったからこそ、将軍家の姫君・和姫さまが毛利家世子に嫁入ったときに付き添ったのでは? と推測しました。

 それで、ですね。
 和姫さまには庭田(姉小路)だけではなく、総勢47人の大奥女中が付き従いまして、江戸の萩藩邸新御殿に乗り込んだのですが、和姫さまの死去後、どうやら、世子・毛利斉広は、大奥女中の一人を側室にして、それで都美姫さまが生まれたのではないか、と思うんですね。といいますのも、都美姫さまの実母は、「幕府旗本本多淡路守の娘」と記録されているからなんですが。大奥女中の一人が側室となりますと、和姫さまについてきました奥女中の幾人かは、毛利家に残ることができますし。
 まあ、ともかく。

 毛利家の12代藩主は、そうせい侯、毛利敬親の実父・毛利斉元で、これは、一度臣下に下った人物を、和姫さまの夫、毛利斉広が成長するまでのピンチヒッターとして起用したわけだったんですね。
 天保7年(1836年)、毛利斉元が急死し、斉広が藩主になります。ところが斉広は、藩主になってわずか20日足らずで、死んでしまうんです。23歳の若さだったんですが。
 さあ、萩藩邸は大騒動です。
 私は、この騒動の後始末に、長州は大奥の実力者、姉小路の力を借りたのではないかと、思っています。
 といいますのも、斉広には実弟がいまして、そちらの方が血筋がいいですから、押す家臣もいたそうなのですが、急遽、斉広の一粒種だった都美姫さまの婿に、敬親を迎えて、藩主にすることになったんですね。
 これって、都美姫さまの実母が、大奥女中で、姉小路の同僚だった、と考えますと、非常にわかりやすい話なんです。

 したがいまして、都美姫さまが長州藩主の正室 大奥の女帝といいますのは、「よく調べてるかもね」なんですが、後がいけません。
 小田村志乃、つまり楫取素彦の養母にかたせ梨乃をあてるって、なんのつもりなんでしょう?????
 楫取が小田村家の養子になったのは十六歳の年でして、寿さん(文さんの姉)と結婚する前に養母は亡くなっていますし、夫を亡くした養母は、即、杉家の近くに引っ越してきていまして、なんらかの縁戚関係があったのではないかと、私は推測しています。
 養母を亡くした時点で、楫取は実家の父母も亡く、兄と弟以外に身内がみんな亡くなっていますので、寿さんと結婚させることによって、杉家の一員のように見守ってもらおう、というのが、養母の死ぬ前の願いだったのではないか、というのは、容易に読み取れることなんですね。
 また楫取は、松陰より先に江戸へ遊学に行っていますし、当時の長州藩は江戸遊学を奨励していますから、需家の当主となっておりました楫取にとりましては、江戸へ行けない方が問題です。そしてそもそも楫取は、村田清風、周布政之助と続く長州藩革新派の派閥には、兄の松島剛蔵とともに、松陰より先に参加しているんです。
 松陰は確かに、過激の先端に立ちましたが、革新派の中心にいたわけではありませんで、中心は周布政之助です。楫取や木戸など、松陰とあまり年がかわりません革新派は、松下村塾生とちがって、松陰の影響で自分の立ち位置を決めたわけではないんです。
 楫取をちゃんと描くつもりならば、オランダ海軍伝習を受け、長州海軍の中心となり、久坂とともに攘夷の急先鋒でもありました松島剛蔵をきっちり描く必要があるんですが、それをしないでおいて、悪役のつもりなのか、椋梨藤太の妻を出してくるとか、なんかまた、NHKのわけのわからない妄想炸裂になりそうで、気持ち悪くて、見たい、という気を無くしてしまいましたわ。

  まあ、それに関係なく、BABYMETALを聞きながら、私は文さん小説の執筆に励みます。
 
追記 ちょっとわかり辛いNHKへの文句になったかと思いまして、つけ加えますと。楫取素彦(小田村伊之助)は吉田松陰より2つ上でして、松陰は幼くして吉田家を継いだため、他所へ修業に出る前に明倫館の兵学師範になっていたのですが、それは、後見人がついてのことでした。嘉永元年(1848年)に後見がとれますが、海原徹氏の「吉田松陰」によれば、年が若く、本人がまだ勉学途上ですし、その授業に人気があったわけでは、ないんですね。木戸は授業を受けたことがあるらしいんですが、楫取は、松陰が一本立ちしましたときには、養父を亡くし、当主になっていますし、自身が明倫館の助購、講師見習いなどなどをやっていまして、年下の松陰の授業を受けた形跡はないんです。そして嘉永3年(1850年)、楫取は江戸大番勤務となり、村田清風の紹介書をもって、安積艮斎に学んでいます。で、養母の小田村志乃が、萩の杉家の近所の自宅で息を引き取りますのは、その2年後で、はっきりいいまして、このころの松陰は非常な俊才で、藩が期待する若手の人材ではありましても、けっして過激ではなく、小田村志乃が楫取と松陰のつきあいを心配した、なんぞということは、ありえません。むしろ、杉家とのつきあいの一環として、奨励していたと思われます。なんといいましても松陰は、杉家の秘蔵っ子でした。



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コメント (5)
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