珍大河『花燃ゆ35』と史実◆高杉晋作と長州海軍の続きです。
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」オリジナル・サウンドトラック Vol.2 | |
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今回から、シナリオが「天地人」の小松江里子氏です。
「天地人」は、子役の子が実に上手くって、最初は見ていたのですが、大人になったとたん、つまらなくなったので見ませんでした。
まあ、あれですね。シナリオライターがかわったからって、いまさらどうにもならなさげな気はしていました。
ありえへん急成長を遂げました興丸ちゃんに、いかに野菜を食べさすか? そうだっ! 家庭菜園だっ!
って、あーた、野菜食べなくてもあっという間に大きくなってるし、平成の成金社長宅のスーパー子守じゃないんだからっ!
それはまあ、いいとしまして。
いくら架空のお中臈美和さまが、モンスターに進化しているからって、高杉を看取ってこれからの日本の子供たちの教育を託されるっ!!!って、あーた、どういう誇大妄想!なんでしょう。
で、もちろん、どや顔のでしゃばりは、セットです。小田村改め楫取素彦さまも。
まず、順番がちがうんですね。たび重なる時系列無視!です。
史実としましては、高杉の死去は、慶応3年(1867年)4月13日深夜で、小田村が楫取になったのは、同年9月25日なんです。
したがいまして、すべてはこれも架空のこととなるのですが、よりにもよって高杉の死を、ですね。
まだ小田村のはずの楫取が、「高杉晋作、療養の甲斐もなく、下関で死去いたしました」とか、そうせい侯と世子に報告し、それまでなにも知らなかったかのように二人が驚く!って、いくらなんでもひどすぎる!でしょ。
だいたい、そもそも、殿様と世子は通常御殿が別ですし、山口でももちろんそうです。
このドラマでは、いつも殿様と世子が横並びで家臣に接しているのが、まず異様なんですが。
これはドラマの中でも言っていたと思うのですが、高杉は世子の小姓でしたし、文久3年には父親の高杉とは別に百六十石で召し出され、奥番頭格・若殿様御内用を命じられています。
青山忠正氏は、「高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7)」におきまして、「定広(世子)と晋作は、これも深い信頼関係で結ばれるようになる。主従というより、同志というほうがふさわしいのではないか、と思いたくなるくらいで、晋作の行動の背景には、つねに定広の存在があったと言っても過言ではない」とまで、言っておられます。
晋作さんは、慶応2年、幕長戦争の最中から体調不良を覚えるようになり、8月半ばには、馬関口海陸軍参謀の指揮権を前原一誠に譲り、戦線離脱します。
以降、下関で療養し、症状がしだいに悪化していくのですが、翌慶応3年の正月そうそう、長州政府は、晋作さんに新たに5人扶持と見舞い一時金20両を給し、同年2月15日には、世子から、「長州藩のこれからを、おまえにこそ頼みたいのだから、養生してどうか元気になってくれ」と異例の見舞い状を受け取っているんですね。
余命いくばくもないとわかった3月29日には、藩主そうせい侯が、高杉家の跡取りではなくなっていました晋作に、百石・大組で新たに谷家創立の栄誉を与えもしています。
そして、話は少しさかのぼります。桐野利秋と伊集院金次郎に書いておりますが、3月21日、高杉晋作の病状が悪化した、との知らせが大宰府に届き、木戸孝允とともに大宰府の五卿の元を訪れていました藩医・竹田祐伯が、呼び返されます。
大宰府から上京しようとしていました中岡慎太郎は、20日に下関で坂本龍馬に逢って、高杉の症状が悪化していると聞き、翌21日に見舞うのですが、悪化しすぎていて、会えませんでした。
つまり、三条侯の侍医を務めていた長州の名医が晋作の元に遣わされ、坂本・中岡の土佐勤王党員にも憂慮されていました幕長戦争の英雄の最後が、なんであんなさびしい様子に描かれなければならないんでしょうか。唖然呆然の果てに悪寒です。
さらにいえば、ですね。
慶応三年、大政奉還、討幕の密勅、王政復古のクーデターにいたる緊張感が、いまだ公式には朝敵の藩主・世子の奥御殿にさっぱりなく、野菜菜園騒動で終わって、奥女中の鞠さんが「美和さま、今知らせが入りました。京で戦がはじまるようです」と暢気にぬかすって、いくらなんでも間抜けすぎ!でしょう。密勅によって、ようやく、密かに、ではありますが朝敵ではなくなったわけでして、それもさっぱりわかっていない奥って、平成の成金一家がコスプレしているだけ!としか、思えません。
さて、本題です。
幕末の蒸気船物語 | |
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成山堂書店 |
「幕末の蒸気船物語」に、元綱数道氏は、幕府海軍の整備に関して、以下のように書いておられます。
「慶応年間には長州征伐の戦訓により再び運送船の拡充が計られ、次の蒸気船が購入された」
つまり、幕府海軍にとりまして、幕長戦争における最大の戦訓は、海上輸送力の不足だったようなんですね。
幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団 (中公新書) | |
野口 武彦 | |
中央公論新社 |
野口武彦氏の「幕府歩兵隊」にも、以下のようにあります。
(幕府)歩兵隊は、ひっぱり凧状態であった。一つの持ち場に貼り付けず、戦線の弱い箇所を手当するために次々と転戦を要求されたのである。その足になったのは、幕府海軍の蒸気艦であり、輸送船になったり、援護射撃をしたり、撤退する歩兵を収容したり、軍艦同士で砲撃戦をしたりとこれも大忙しであった。長州側の観察では、幕府軍艦は海戦を嫌って歩兵輸送に専念しているといっている。
幕府歩兵隊とは、ミニエー銃(主に1861年式オランダ製ミニエー銃)を装備した洋式軍でして、野口武彦氏によれば、その最初の出動は、水戸天狗党の乱なのだそうです。
私は、「忠義公史料」で、禁門の変で一橋慶喜が率いていました兵隊の服装が歩兵隊のものだった、という記事を読んだ記憶があるんですが、手元にありません。記憶が正しければ、薩摩藩の誰かからは「見かけ倒しで役に立たない」と酷評されておりました。
とはいいますものの、幕府の呼びかけにしたがって参戦しました諸藩の大多数は、黒船来航以来、軍制改革に取り組んでいなかったわけではないのですが、既得権益を持つ者の抵抗が強く、たいしたことはできていませんでした。
芸州口の越後高田藩(榊原)と彦根藩(井伊)、そして大島口のわが松山藩などがその代表ですが、平和呆けの儀仗団体に毛が生えただけの旧式軍でしかなく、それが、既得権益のない有志隊を核に成り立ち、ミニエー銃を持って洋式化されました長州諸隊に、かなうわけがありません。
松山藩の中の上の士族の家に生まれ、後に俳人になりました内藤鳴雪が、大正になってから自叙伝(青空文庫「鳴雪自叙伝」)を書いています。弘化4年(1847年)生まれですから、高杉晋作の従弟にして義弟、南貞助と同じ年で、第二次征長の年には19歳で、松山藩世子の小姓を勤め、後詰めとして、大島口対岸の三津浜におりました。
大島へ向かいました松山藩の軍勢は、大方が旧式で、一軍だけは新選隊という洋式銃隊がいたそうなんですが、結局、負けて帰ってきまして、鳴雪は、逆に長州兵が攻めてくるのではないか、「彼(長州)は熟練した多数兵、我(松山)は熟練せぬ少数兵であるから、とても防御は仕終おせない」、したがってそうなれば、世子と共に松山城の天守閣に籠もって自刃するしかない、と覚悟を決めたんだそうなのです。
まあ、そんなわけで、幕府歩兵隊はひっぱりだこだったんですが、野口武彦氏が「蒸気船を足に転戦」としておられますのは、大島口から備前口へ転戦しただけでして、小倉口、石州口でも、幕府歩兵隊の応援は望まれていましたのに、転戦、増援はできていませんでした。
幕長戦争 (日本歴史叢書) | |
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吉川弘文館 |
三宅紹宣氏の「幕長戦争」には、以下のようにあります。
(盟約を守って)薩摩の大軍が京都に駐屯したことは、幕府軍へ威圧を与え、幕府軍は芸州口戦争で敗北を続けているにもかかわらず、幕府軍本体が駐屯している大阪から援軍を出すことを困難にさせた。
しかし、京に駐屯していた薩摩軍は、たかだか七,八百でして、朝廷対策の牽制でしたら会津、桑名がいたのですし、幕府がそれほど多数の軍を大阪に残す必要はありませんでした。
要するに、幕府には、兵や物資を運ぶ汽船が足らなかったのではないでしょうか。
とりあえず、今回、石州口は置いておきます。
陸路から萩をつかれるルート、ということで、石州口の防備も重視した、ということなんでしょうけれども、隣藩・津和野が中立姿勢をとり、長州軍の通過を認めていたくらいですから、あるいはここは、攻め出していくほどのことは、なかったかもしれません。
大島口は放っておかれたと、「防長回天史」にも書かれているのですが、これは、周防大島周辺の制海権を幕府に握られるだろうとは、予想できましたので、放っておかざるをえなかった、ということです。今でこそ、周防大島は、柳井市との間に橋がかかっているのですが、当時は、船に乗らなければいけませんでした。
当初、大島口に配備されました幕府海軍の船は、富士山丸、翔鶴丸、大江丸、旭日丸、八雲丸です。
小倉口で使われましたのは、富士山丸、翔鶴丸、順動丸、後に回天丸、飛竜丸です。
このうち、大島口の八雲丸は、出雲松江藩の鉄製スクリュー式蒸気船を、幕府が乗員ごと借り上げた形でした。329トンと小型ながら、1862年(文久2年)イギリス製造、砲6門の新鋭軍艦です。
旭日丸は、1856年(安政3年)水戸藩が製造しました洋式帆船で、推定750トン。砲を積んでいましたが、主には運搬船として活用されていました。
翔鶴丸(原名ヤンツェー、350トン、外輪)、大江丸(原名ターキャン、609トン、スクリュー式)、順動丸(原名ジンキー、405トン、外輪)は、どれも英米が中国航路で使用していました武装商船で、鉄製蒸気船です。
小倉口の飛竜丸は、参戦していた小倉藩の船です。アメリカ製、木造スクリュー式蒸気船、トン数、砲数は不明ですが、小型の新造艦のようです。
同じく小倉口の回天丸は、木造外輪式蒸気コルベット、710トン。プロイセン製で、1855年(安政2年)進水と古かったのですが、イギリスで修理改装され、左右に40斤ライフル砲を5門ずつ、銅製のホイッスル砲を1門ずつ、前面に50斤ライフルカノン砲1門を備えていました。長崎奉行支配下の船で、乗り組みもほとんど長崎の地役人です。詳しくはwiki-回天丸をごらんください。ほとんど、私が書きました。
そして、富士山丸です。
これは、幕府がアメリカに発注していて、1864年(元治元年)に完成し、慶応2年(1866年)2月20日、つまりは、大島口開戦のほんの3ヶ月あまり前に、日本に届いたばかりでした。排水量1000トンの木造スクリュー式蒸気スループで、砲は12門。これまで、幕府が所有したことがない大きさの三本マストの最新鋭艦です。
対する長州の軍艦は、前回と重複するものもありますが、長州藩で建造しました洋式帆船、丙辰丸、庚申丸と、イギリスから購入しました小型帆船・癸亥丸(原名ランリック)ですが、庚申丸、癸亥丸は、アメリカの軍艦ワイオミングに撃沈・大破されたものを、引き上げ、修理したもののようです。
そして、蒸気船が2隻。乙丑丸と丙寅丸ですが、乙丑丸はユニオン号。海援隊と近藤長次郎がかかわり、薩長盟約のはざまでもめにもめました木造スクリュー式蒸気船で、300トンほど。もめごとの経緯は、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5あたりから、近藤長次郎シリーズで延々と追求しておりますが、私は、これを書いたころから、海援隊よりも、松島剛蔵に率いられていました長州海軍の方が、技量ははるかに上、と思っておりました。
どころか、前回検討しましたが、攘夷戦の経験を経まして、長州海軍の戦闘力は、この時点では日本一です。
丙寅丸は、鉄製スクリュー式蒸気船ですが、わずか80トン。高杉晋作が、幕府との開戦をひかえて、独断でグラバーから購入しました、ボート程度の砲艦です。
一見、幕府海軍と長州海軍の間には、大きな格差があるように見えるのですが、子細に検討してみれば、それほどでも、ないんですね。
まず、幕府は兵も荷物も長距離を海上輸送する必要がありますが、長州は地元で迎え撃つわけですから、それほどの運搬船は必要ありません。
艦船同士の戦いでしたら、知り尽くした長州近海、という条件のもと、相手が大きな蒸気船でも帆船で戦いうることは、オランダのメデューサ号との戦いで証明されています。
また、幕府の富士山丸がいかに最新艦であろうと、です。メデューサ号やワイオミング号よりは小さいわけですし、しかも、幕府海軍にとりましては初めての型の船でして、マストの扱いが、非常に難しかったんだそうなんですね。また製造元のアメリカ人が操作を伝授してくれたわけではなく、困惑しました幕府海軍は、どうやら、横浜にいましたフランスの軍艦、ラ・ゲリエールの士官に伝習を受けたそうなのですが、それもわずかな期間です。
つまるところ、いくら最新鋭の軍艦を持っていましても、的確な運用ができなければ宝の持ち腐れですし、実際、幕長戦争における富士山丸はそうなってしまった、ということができるでしょう。
もう、まったく、「花燃ゆ」とはちがった方向の話で、またまた長くなってしまったのですが、海軍から見た幕長戦争につきましてまとめて書かれた本がなく、考え考え、書いておりまして、またしても、続きます。
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