郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

楠本イネとイギリス医学

2016年04月26日 | シーボルトの娘

 新資料で変わる楠本イネ像の続きです。

 最近、「井上武子」の検索で、アクセスが急増していまして、どうも、NHKBSプレミアム「英雄たちの選択 明治トップレディーたちの華麗なる変身~条約改正に挑んだ女たち」に井上武子が登場したから、ではないか、と思うのですが、いや、鹿鳴館外交はものの見事な失敗でしたのに、よくやりますねえ、NHK。
 実のところ、武子さんに関しましては、ほとんど史料がないんです。
 数冊にわたります大層な井上馨の伝記「世外井上公伝」に、ですね。外交で活躍したはずの武子夫人が、ほとんど、まったく、登場しません。

 えー、これ、けっして普通じゃありません。
 薩摩川内出身の外交官・園田孝吉は、井上馨の世話で、外交官夫人として活躍できそうな二度目の妻・けいを娶るのですが、大正15年発行の「園田孝吉傳」は、けい夫人の記述に一章、かなりなページをさいています。
 詳しくは、広瀬常と森有礼 美女ありき4をご覧ください。

 まあ、それでなのか、どーなのか、井上武子のことをブログに書いている人もあまりいなくて、ものすごく古い記事なのですが、このブログがヒットしたようです。いまさらですが、ついでに読んでいただけないものかと、「生糸と舞踏会」 のカテゴリーを新設しました。いや、なにしろ、生糸とモンブラン伯爵とフランスと小栗上野介とバロン・キャットと井上馨の汚職は、ひとつながりで、私がこのブログで追求していますテーマです。

 それは、ともかく。
 今回は、おイネさんとイギリス医学のお話です。
 おイネさんは、父・シーボルトの弟子たちから医学を学び、再来日したシーボルトからも直接教わっていますから、ドイツ医学の人です。
 にもかかわらず、その晩年、楠本家の跡取りに決めました孫の周三を、慈恵医科大学に進学させようと、精力を傾けたようなのですね。

 えーと。
 慈恵医科大学の創立者は高木兼寛。
 薩摩藩郷士だった高木兼寛は、同藩の蘭方医・石神良策に師事し、石神とともに戊辰戦争に従軍。
 帰藩後、藩の開成所洋学局で学んでいました。

 石神良策は、戊辰戦争で、薩摩藩の要請を受けて派遣され、従軍していたイギリス公使館の医官・ウィリアム・ウィリスがに出会い、心酔します。
 このときの功績により、明治新政府は、ウィリスを東京医学校(後の東大医学部)教授として招くのですが、当時、西洋医学を学んだ大方の日本人医師は蘭方医で、イギリス医学になじみがありません。
 蘭方、といいましても、オランダ医学とは、イコールドイツ医学なわけでして、結局、ドイツから教授を招いた方がいい、という話になったんですね。
 ウィリスは、自発的に退職し、かねてからイギリス医学を取り入れようとしていた薩摩藩に招かれて、鹿児島医学校長となります。
 もちろん、石神はウィリスとともに鹿児島へ帰るのですが、まもなく石神は、中央の海軍病院に呼び返されます。

 薩摩閥が中心となりました海軍は、全面的にイギリス式を取り入れようとしていまして、病院だけドイツ式では、なにかと不自由だったんですね。
 陸海分離が議論されていた時期でして、同時に医学も分離し、ドイツ医学が東大、陸軍を席巻します中で、海軍だけはイギリス式にしようと石神は奮闘し、それを成し遂げます。
 そのころ、高木兼寛は、鹿児島医学校でウィリスに認められ、教授になっていたのですが、石神に呼ばれて中央の海軍病院に移り、イギリス留学を果たして、結果的に西南戦争の時期、日本にいませんでした。

 それで、以前にも書いたような気がするのですが、高木兼寛の最大の功績は、海軍における脚気の撲滅です。
 原因がわかっている現在、脚気は恐ろしい病気ではありませんが、当時は死者も多く、和宮さまもその夫の将軍家茂も、若くしての死因は脚気です。
 高木兼寛は、観察の結果、栄養の偏りによるものと見て、兵食を白米から麦飯に転換することで、劇的に海軍の脚気を減らします。
 ところが陸軍と東大医学部は、脚気細菌原因説をとって、日清、日露戦争で、膨大な脚気による戦病死者を出すんですね。
 
新装版 白い航跡(上) (講談社文庫)
吉村 昭
講談社


新装版 白い航跡(下) (講談社文庫)
吉村 昭
講談社


 高木兼寛の活躍につきましては、吉村氏の「白い航路」が詳しいのですが、なぜかこの本、石神良策のことはほとんど出てきませんし、なぜ日本がドイツ医学一辺倒になってしまったのか、という点も、詳しくは書かれていません。

胡蝶の夢(一)~(四) 合本版
司馬 遼太郎
新潮社


 司馬遼太郎氏の「胡蝶の夢」も、幕末から明治初期にかけての西洋医学導入の物語なのですが、石神良策については、あまり出てきません。
 石神は明治8年に病没しているのですが、実は、おイネさんと二人並んで映った写真があるんですね。おそらくは石神の晩年、海軍病院時代、と思われ、二人ともかなり年がいった感じです。
 その写真と石神良策の生涯について、太田妙子氏が論文を書いておられるのですが、発表の場が、「医譚」といいますあまり一般の目に触れない雑誌なんです。
 このたび、中村さまがそれを、国会図書館で見つけてくださったような次第で、私は、イネと石神の交友関係に目を開かれました。

 おイネさんの異母弟、アレクサンダー・フォン・シーボルトは、在日イギリス公使館に、通訳官として勤めていまして、ウィリアム・ウィリスとは、とても仲が良かったようなんです。なにしろウィリスは、イギリスへ渡ったアレクサンダーが訪ねていくから歓迎してやってくれと、兄嫁に手紙を書いているほどです。
 さらには、イネさんが宇和島で、パークスイギリス公使とともに来訪してきました弟のアレキサンダー、そしてウィリスと会っている記録もあります。
 当初私は、そこらあたりからのみ、おイネさんとイギリス医学の関係を考えていたのですが、なるほど石神良策の線もありか、とびっくりです。

 ところで、太田妙子氏によりますと、アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」下巻p223に、「石神はシーボルトの娘イネを娶った」という明らかなまちがいがある、とのことで見てみましたら、本当にそう書いてありました。
 サトウは、これ以前、長崎でおイネさんに会っていますし、アレクサンダーから、かなり立ち入った話を聞いていた可能性も高いんですね。
 私は、サトウが石神に会って、高子さんの父・石井宗賢と勘違いしたのではないか、と思います。

一外交官の見た明治維新〈下〉 (岩波文庫 青 425-2)
アーネスト サトウ
岩波書店



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コメント (2)
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