郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

慶喜公と天璋院vol2

2005年12月23日 | 幕末の大奥と薩摩
さて、将軍後見職を押しつけられた一橋慶喜公から、お話をはじめます。
才気にあふれているだけに、自分の置かれた立場は十分に見えていて、うんざりしたでしょう。
幕府からありがたがられるわけではありませんし、一橋家の当主である以上、幕府に敵対するわけにもいきません。となれば、なにをどうしようと、かならず朝幕両陣営から文句が出るでしょう。かといって、久光のように、自前の軍団を持っているわけではなく、どちらにも圧力のかけようがないのです。

これは、宮尾登美子氏もそのように描いておられたことなのですが、どうも、一橋慶喜というお方は、相手によって、がらりと態度を変えるようなところがおありだったのではないか、という気がするのです。
言い方をかえるならば、育ちがよすぎて正直すぎる、とでもいうのでしょうか。相手に対する感情が、無意識のうちに態度に出てしまう、ともいえるのですが。
久光がしたことを思えば、慶喜が最初から久光に好感が持てなかったことは、理解できます。しかし、したことだけではなく、久光が側室腹の薩摩育ちであったあたりに、消しようのない軽蔑を、慶喜は抱いていたのではないのでしょうか。
だいたい、父親の水戸烈公が、正室が有栖川宮家の王女であることを誇り、側室でさえも、京の公家出を、異常なほどに好んだお方です。天璋院が将軍家へ嫁ぐについても、分家の出であることを察知し、難色を示したともいわれます。
そして、烈公が、数多い息子の中でも、慶喜を特に将軍候補にと押したのも、慶喜が正室の子であり、有栖川宮家の血を引いているから、であったわけです。
慶喜が十一歳で一橋家へ入ったときのことです。初めて大奥を訪れ、奥女中たちに母親の名を問われ、「麿は有栖川の孫なるぞ」と呼ばわり、奥女中たちを平伏させた、という伝説があるのですが、やはり、それを誇るような気配はあって、そういう伝説も生まれたのではないのでしょうか。
もしも、この推測があたっているとしたならば、天璋院に対しても慶喜は、外様の分家の出の分際で将軍家の正室におさまっている、というような反感は持っていたでしょうし、まして、同じ島津家の久光のおかげで災難がふってわいたところなのですから、慇懃にふるまいながらも、どこか、侮蔑の色がにじみ、投げやりな応答になったはずです。
それを受けた天璋院が、この人はやはり将軍になれなかったことが不満なのか、だとすれば、後見職などといってもみても、本当に徳川家のために、そして家茂のために働いてくれるつもりはないだろう、と感じたとしても、無理はないでしょう。

久光東上の後、政局の舞台は、江戸から京都へ移ります。
安政の大獄以前、すでに流動化のきざしを見せていた朝廷は、久光の上京で力を得て活気づき、さらには藩をあげて尊攘志士化した長州の手入れで、すっかり下克上状態となり、これまでの機構は機能しなくなりました。
しかし、かといって、新しい機構が整ったわけではありませんので、そうなってくるとかえって、孝明天皇の真意はかき消されてしまいます。
テロの横行については、桜田門外の変の大きな後遺症だったでしょう。
安政の大獄では、大名から公家まで弾圧されましたから、本来、大老を暗殺するなどという秩序破壊の行為に、共感する立場にはないはずの賢侯や高位の公家までが、これを義挙、と見たのです。
大獄で隠居させられていた土佐の山内容堂などは、「亢龍元(くび)を失う桜花の門、敗鱗は散り、飛雪とともに翻れり」にはじまり、「汝、地獄に到り成仏するや否や、万傾の淡海、犬豚に付せん」という、すさまじい漢詩をつくっています。
「亢龍」とは井伊大老、「万傾の淡海」とは大老の彦根の領地です。
つまり、「首を失って負けたおまえが成仏できるものかな。おまえの領地は犬や豚にくれてやれ」というのですから、なんとも格調の高い罵詈雑言です。
しかしその容堂が、土佐の内政においては、公武合体派の吉田東洋を片腕としていて、土佐勤王党が東洋を暗殺するにおよんでは、暗殺者に激昂し、徹底した究明を命じました。
久光にいたっては……、私は、京のテロの最初の一石となった島田左近暗殺は、ひそかに久光が命じたものではなかったか、と思っています。
島田左近は、幕府よりの九条関白家の侍ですが、大獄の時には大老側にたって、京の公家や志士たちの動向をさぐり、報知していました。
近衛家はこのために当主が辞官、落飾に追い込まれ、恨みとともに怯えを持っていたようなのです。この時期、久光への書簡で、「京にいてくれなければ九条家の島田がなにをするかわからない」というようなことをこぼしているのです。
島田左近の暗殺犯としては、薩摩の田中新兵衛、志々目献吉、鵜木孫兵衛の名があげられていますが、志々目、鵜木は、探索方とでもいうのでしょうか、あきらかに薩摩藩庁に属していました。
つまるところ、桜田門外の後遺症で、テロは正義になり、公家は暗殺におびえて、尊攘派の志士の言うとおりに動くようになってしまったのですね。
孝明天皇の意志もなにも、あったものではありません。

京へ出た慶喜は、有栖川宮家の血を受けているだけに、公家に幻想は抱いていませんし、才覚のある人ですから、長州や志士たちがふりかざす天皇の意志など、真意ではなく、偽勅に近いものが数々発せられている、というからくりは、十分に見透かしていたでしょう。
尊攘派に牛耳られた朝廷からは、攘夷の総大将として期待をかけられますし、かといって慶喜のよって立つ地盤は幕府の下にあり、下手に動けば幕府主流派から疑われます。それよりなにより、慶喜はそもそも開国派です。
なんとも微妙なその立場からするならば、できるかぎりの事をしたとはいえるのですが、あげくの果てに、攘夷を宣言しておいて、将軍家茂を置きざりにして江戸へ帰り、将軍後見職を辞してしまった、というのは、どんなものなのでしょうか。
少なくとも、幕府の側からするならば、誠意ある態度とは見えませんし、ならば最初から将軍後見職を固辞してくれ、という話にもなってきます。

無法地帯となった京の状況を一転させたのは、またしても薩摩でした。
久光は、江戸から引き上げる途中、行列に割り込んできたイギリス人たちを斬らせて、薩英戦争を余儀なくされていました。そのために国元に帰っていたのですが、朝廷を牛耳る長州に、反感を募らせてもいました。
薩摩が、京都守護の任務についていた会津藩と手を結ぶにいたったのは、京に残っていた高崎正風の働きによります。彼は久光の側近でした。
薩摩は、中川宮を動かし、孝明天皇の真意をさぐり出して、クーデターの決意をかためたのです。しかし自藩兵は、薩英戦争のために、京へ多数を送ることはできません。しかし、孝明天皇の大和御幸が策されていて、京の状況にも猶予がありません。それで会津と組むことを決意したわけですから、久光の指示による藩の方針、以外のなにものでもなかったはずです。

薩摩が会津と組んで、京から尊攘派を一掃した八.一八クーデターの結果、再び、慶喜は京に帰り咲きます。幕府は、慶喜の行動に疑念を抱きながらも、朝廷との橋渡しを、慶喜に頼らざるをえなかったのです。
長州が追われ、尊攘激派の公家や志士たちがいなくなった朝廷では、新しい政治の形の模索が、はじまっていました。
参与会議です。参与に任命されたのは、賢候と呼ばれた大名たちで、もちろん、島津久光がその中心にいました。慶喜は、幕府を代表しての参加です。
慶喜が、久光を気に入らなかった気持ちは、わかります。
元々の反感に加えて、新たに、してやられた、という気分が加わったでしょう。
孝明天皇の真意を引き出し、会津と結んで朝廷クーデターを起こすことならば、中川宮を動かす機略を持ち、決断と度胸がありさえすれば、できたことなのです。
外様の田舎者とあなどっていた久光に、それをやられてしまい、参与会議の中心に座られてしまったのです。
横浜鎖港というばかげた提唱を幕府がして、その幕府の意向を背負うという窮地のなかで、慶喜は、あまりにも正直に、その気持ちを表明してしまいました。
久光と松平春嶽、伊達宗城とともに、中川宮邸で供応を受けたときのことです。慶喜は泥酔し、中川宮につめより、「薩摩の奸計は天下の知るところなのに、宮は騙されておられる」と放言し、久光、春嶽、宗城の三人に、「天下の大愚物、大奸物」と罵声をあびせ、さらに宮へ、「久光を信用するのは薩摩から金をもらっているからだろう。ならば、これからはこっちが面倒をみるからこっちのいいなりになればいい」とまで、言いつのったのです。

これは、慶喜にとって、取り返しのつかない失敗だったではなかったでしょうか。
久光は、基本的には、公武合体をよしとしていたのです。田舎者のくせにえらそうであろうが、考えなしの行動で波瀾をまきおこす無骨者であろうが、薩摩の事実上の支配者です。なんとしてでも、幕府側に取り込んでおくべき人物だったのです。
久光は、正室の子ではなく、江戸育ちではないことに、コンプレックスを持っていたでしょう。しかしそれと同時に、薩摩人としての誇りを、強く持っていた人です。
中川宮の面前で、春嶽や宗城もいる中、年下の慶喜に、ここまで罵られた屈辱と怒りは、生涯忘れられないほどのものとなったのではないでしょうか。
この事件は、決定的に、久光の気持ちを幕府から遠ざけました。西郷隆盛の京都返り咲きという薩摩の方向転換は、この直後です。

江戸の大奥にいる天璋院は、この事件を知らなかったでしょうか。
この時点では、江戸の薩摩屋敷との連絡もあったでしょうし、天璋院は近衛家の養女で、京の近衛家の当主・近衛忠房は、妻も母も島津家の養女です。ちょうど、将軍家茂が上京していたときですし、情報を集めようとすれば、噂がまいこんだ可能性は十分にあります。
知っていたのではないか、と思うのです。
自分の実家を罵られて、気分のいい人間は、あまりいないでしょう。
それ以上に、慶喜の行動は馬鹿げています。
天璋院にしてみれば、将軍家と家茂のためを思うならば、島津家を遠ざけるべきではない、と、暗澹とするしかなかったのではないでしょうか。

慶喜の側に立ってみるならば、久光を遠ざけたことは、一面、朝廷における慶喜の行動を軽快にしました。
なんといっても慶喜は、有栖川宮家の血を受けています。孝明天皇にしても、中川宮にしても、慶喜には身内の感覚で接し、信頼することができたはずです。
そして慶喜は、実に誠実に雄弁をふるって孝明天皇を説得し、きっちりと勅状を引き出して、京に一会桑政権を築き上げました。一会桑とは、一橋、会津、桑名です。外様を遠ざけ、がっちりと公武合体をめざしたわけです。
あまり知られていないことですが、長州攻めの幕府軍は官軍です。二度目の征長のときも、ちゃんと孝明天皇の勅命を得ているのです。
長州寄りの路線をとり、倒幕に傾きはじめた薩摩の大久保利通は、この勅命を「もし朝廷これを許し給い候らはば非議の勅命にて」と、西郷隆盛宛の書簡に書き残していますが、いくら非議の勅命でも、勅命は勅命で、しかも偽勅ではなく、慶喜が誠実に引き出したものだったのです。

第二次征長の幕軍苦戦の中、将軍家茂が大阪城で病に倒れ、死去します。当然、世継ぎ問題が起こってきますが、このとき天璋院は、家茂の遺志は田安亀之助(後の家達)にあったとして、慶喜の将軍就任に反対したといわれます。
しかし、亀之助はわずか四歳です。征長の最中であってみれば、幕閣としては、中継ぎであったにしても、慶喜を立てるしかなかったでしょう。
そして、慶喜の将軍就任は、暗黙のうちに、中継ぎと意識されていたのではないか、と思われます。慶喜の正妻は、大奥へ入ることなく、一橋屋敷に留まりました。

慶喜は、徳川家の宗主の座は受けるけれども、将軍職は受けない、と、しばらくの間、がんばり続けます。これは、幕閣の全面支持をとりつけるための闘争であると同時に、孝明天皇へのデモンストレーションでもあったでしょう。
しかし、慶喜が将軍となっそのわずか20日後、慶応2年(1866)12月25日、孝明天皇が崩御されます。
天然痘でした。12月11日に罹患され、回復のきざしを見せながら、突然、崩御されたのです。当時から、毒殺の噂がありました。
ついに将軍となった慶喜にしてみれば、思いもかけない出来事で、大きな打撃だったでしょう。
一方の薩長にとっては、あまりにも都合のいい崩御です。これで、「非議の勅命」を気に病むことはなくなるのですから。
私は、家茂が毒殺されたとは思いませんが、孝明天皇の毒殺は、考えられるのではないかと、つい、思ってしまいます。

話を先へ進めましょう。
大政奉還をして、慶喜はほんとうに、政権を手放す気でいたでしょうか。
ちがうと思います。政権の受け皿が出来上がっていたわけではないのです。
幕府は、諸藩を統べる中央政府でした。その役割を、突然朝廷が果たせるはずがありません。朝廷には、まったくといっていいほど、領国もなければ、経済的基盤もないのです。

この押し詰まった段階で、慶喜の誤算は、またしても、薩摩を甘く見すぎたことだったでしょう。
武力に訴えなければ、新しい政体の創出は不可能であると、薩摩の大久保と西郷は見切っていました。
薩摩藩は、けっして一枚岩ではなかったのです。久光の慶喜への反感を利用し、二人は徐々に、倒幕へと舵をとってきましたが、最後の止めが、倒幕の密勅でした。
これは、井上勲氏が『王政復古』で述べられていることですが、密勅とは、表沙汰にできないから密勅なのです。そんなものが、なぜ必要だったのでしょうか?
薩摩にとっては藩内向け……、久光を説得するため、でした。
もちろん、この密勅は、かぎりなく偽勅に近いのです。

そして、鳥羽伏見です。
慶喜は、最初から、戦いを避ける気でいたのでしょうか?
たしかに、好んで戦をする気はなかったでしょう。しかし、幕軍は「討薩の表」を持って京へ向かい、それを慶喜は、知らなかったわけではないようなのです。
ほんとうに、なにがなんでも戦いを避ける気でいたのならば、例え不可能でも、孝明天皇を説得したときの誠意をもって、幕軍の首脳部を、説得するべきだったでしょう。
薩摩への憎悪は、このときの慶喜の目を曇らせていたでしょうし、戦になるならなれ、負けることはない、くらいの気でいたと、私は思うのです。
そして、幕軍の敗退です。慶喜は、これに怖じ気づいて、軍艦に飛び乗り、江戸へ逃げ帰ったのでしょうか? いいえ、そうとも思えません。
薩長軍が押し立てた錦の御旗ゆえ、ではなかったのでしょうか。
朝敵になったことが、怖かったのです。
最初から最後まで、このお方は、理念に生きたのではなかったかと、私には思えます。あまりにも長い期間、一橋家の当主であるというだけで、最終的な責任のない立場にいたための錯誤も、あったでしょうし、なによりも育ちがよすぎて、才気走りすぎ、下のものを思いやる想像力に欠けたのではないでしょうか。
そして、現実にそこで戦っている兵士たちよりも、路頭に迷うかもしれない幕臣たちよりも、自分が朝敵となり、歴史に汚名を残すことの方に、リアリティーを感じてしまったのです。
置き去りにされた幕軍にとってみれば、あまりにも無責任な放り出され方であったでしょう。
「非議の勅命」など、どうでもいいではありませんか。
そう思いさだめられなかったところに、このお方の、悪い意味での育ちのよさがにじみます。

逃げ帰ってきた慶喜に泣きつかれて、天璋院は、その無責任にあきれ、煮えくりかえる思いだったことでしょう。最初は会わないとつっぱねていたものを、幾度も懇願され、周囲に説得され、ようやく会ったといわれています。
しかし、天璋院にも負い目はあります。実家が仕掛けていることなのです。
慶喜のため、ではありません。
徳川家の御台所として、できる限りのことをしなければ、という責任感が、天璋院を突き動かしたでしょう。
そして、徳川家は存続しました。
天璋院は、念願かなって家達を当主として迎え、手ずから養育して、徳川宗家の子々孫々に崇められ、一方で、慶喜を嫌い抜き、世を去ったのです。

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2 コメント

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Unknown (黒羽)
2008-06-24 01:34:12
大分前の記事ですが、拝見させてもらいました。
ただ一つ、あなたの仰る慶喜公の天璋院や島津久光へを蔑視していただろうという論調が不可解です。

というのも、慶喜公という人はそれこそ小さい頃、投網に熱中された事があるといいます。
投網とは、漁師の技ですが、それはどういうことでしょう?

つまり、慶喜公にとっての天璋院や島津久光というのは、投網ほど身を入れて付き合える人ではなかったという事ではないかと云う事です。
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黒羽さま (郎女)
2008-07-05 14:50:08
ようこそ、おこしくださいました。
お答えが遅れて失礼いたしました。

蔑視、というニュアンスは、少し変だったかもしれないですね。
軽視、ならば、よろしいでしょうか?

そんなものは目にもとまらず投網をなさっていたのに、前に立ちふさがって邪魔をされたので憎んだ、というところではなかったかと感じます。
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