幕末の大奥―天璋院と薩摩藩 (岩波新書 新赤版 1109)畑 尚子岩波書店このアイテムの詳細を見る |
大河ドラマのおかげで、天璋院本が多くでまわっております。
えー、私以前、天璋院篤姫と慶喜公vol1 vol2で、ろくに調べもしないで勢いで篤姫のことを書いてしまいまして、きっちり資料調べした本がないものか、と思っていましたところが、ありました!
この本の著者、畑尚子氏は、江戸東京博物館の学芸員さんだそうです。
やはり宮尾登美子氏の「天璋院篤姫」から入り、何度か読んで少し資料をかじるうちに、「小説といえどもかなりの時代考証がされている」と感じ、「どのような史料を見られたのかという興味が沸き上がった」と、前書きに書かれています。
で、あとがきでは、この本を書かれて、「私の天璋院像は一変し、宮尾登美子氏の小説に描かれたものは偶像であったことに気づいた」とされているんです。
最初、私は、「一変してるかなあ」とちょっと首をかしげていました。
たしかに、資料不足による細かなまちがいはあるようなんですが、将軍家御台所になってからの将軍後継者工作や、家定との関係、後に一橋慶喜を嫌い、家茂を支持していたこと、皇妹和宮との関係など、重用な部分はむしろ、宮尾氏がきっちり資料に基づいて書かれていたことがわかり、ただ、男勝りで「しっかり家をささえている」部分の描き方が古風なだけではないのか、と思ったのですが。
宮尾氏の描かれた篤姫像で、私が一番疑問だったのが、「情報不足による攘夷主義者で蘭方医嫌い」という部分でして、「蘭癖大名といわれた斉彬公の養女で、将軍家後継者工作もあって御台所となった人が、これってありなの?」と思っていたのですが、畑氏によれば、篤姫さんの主治医が、薩摩藩医でもある蘭方医・戸塚静海でして、さらに情報不足どころか、かなり積極的に情報を集めているようすで、たしかにこの点では、一変しています。
一番びっくりしましたのが、篤姫が御台所となりましたお相手の将軍家定が、大奥で逝去していたことです。
たしか宮尾氏の小説では、篤姫は夫の逝去もすぐには知らせてもらえず………、とかになっていたと思うのですが、「彦根藩公用方秘録」によりますと、「家定公が脚気で重体になり、井伊大老をはじめ老中は、ふだん足を踏み入れない大奥のご寝所に入った」ということなんだそうです。
また脚気ですか。いや、この当時の将軍家って、次代の家茂さんも和宮さんも、みなさん死因は脚気で、いったいどういう食生活だったんだろう、と思うんですが。
さすがに、あれです。最後の将軍慶喜公は、豚一と呼ばれるほどの豚肉好きだったといわれ、鳥羽伏見から逃げ帰った直後もまずは江戸前のウナギを食されたともいわれ、長生きなさいましたよねえ。
まあ、豚肉だのウナギだのは、品のいいものではなさげですが、大豆を食せばいいんですから、お豆腐なんか食べていればいい話ですし、副食をたくさん食べれば、と思うんですけどねえ。
運動しないものですから、あっさりと白米につけもの、そして甘いものばっかり、食べていたんでしょうか。
慶喜公は、なんとも身軽に、動きまわるお方でしたしねえ。
それはともかく、です。
家定将軍の脈をとった蘭方医の伊東玄朴は、「毒がまわられた」と言っちまったらしいんですね。いや、ですね、正確には「(脚気の)毒がまわられた」、だったそうなのですが、脚気は当時、ビタミンB1不足とは知られておりませんで、なんらかの毒素が体にまわってなるのだろうと考えられていましたようなわけで、脚気をはぶいちゃったんです。
あー、また話がそれますが、明治になって、西洋医学の導入を長州がしきってドイツ式に決まり、これも薩摩は、陸軍と同じでイギリス式を推していたんですが、敗れて、戊辰戦争で援助してもらったイギリス公使館の医師・ウィリアム・ウィリスを薩摩藩で引き取ります。
ドイツ式もいいんですが、なにも軍隊じゃないんですから、イギリス式も残しておけばいいのに、なんでそう、一辺倒にしてしまうんでしょう。
結局、医学においても、イギリス式が残ったのは薩摩がしきった海軍だけです。
薩摩でウィリスの教えを受けた高木兼寛が、イギリスに留学して、帰国後、海軍軍医となり、脚気の原因は食べ物にある、ということで、食事改善により、海軍の脚気による死者を根絶させます。
ところが、ドイツ医学では、これを細菌による病気と見ていたんですね。
森鴎外をはじめドイツ留学した陸軍軍医上層部、そして医学界の主流もそうなんですが、頑固に、海軍の成果を認めず、日清戦争においては、戦死者が450名ほどだったのに、その10倍近い脚気による死者を出します。それでも懲りずに、日露戦争においては3万近い脚気による死者が出たといいますから、あきれます。
話をもとにもどしますと、「上さまに、毒を!」と大奥はパニック状態。
家定つきの御使番(奥女中)藤波は、将軍逝去の翌日、「上さまはまだ、35才の若さでおられたのよ。御台さまも迎えられ、お世継ぎのご誕生をみんな楽しみにしてたのに、こんなことって! あんただから秘密の話をするんだけど、毒薬がつかわれたのよ! 水戸、尾張、一橋、越前がこれにかかわっていることは確かよ」と、弟に手紙を書いているんです。
水戸、尾張、一橋、越前です。
将軍後継者問題の一橋派、つまり、一橋慶喜を推す派が並んでいるんですが、薩摩がぬけてます。
たしかに、島津斉彬は帰国中ですし、将軍家のお世継ぎに関係する親藩じゃないんですが、一橋派が毒殺にかかわったというのなら、別個にでも薩摩も名があがりそうなものです。実際、先に失脚した老中の名なんかもあげているんですよね。
篤姫さん、ただ者じゃないですね。すっかり、大奥を掌握しています。
この直後、島津斉彬は国許で死去し、徳川将軍家では紀州から家茂が入って将軍となり、井伊大老による安政の大獄へとむかうんですが、天璋院となった篤姫さんが、どのようにしていたかは、やはりさっぱり、資料がないようです。
次いで、将軍家茂のもとへ御降嫁なった和宮さんとの軋轢です。
ここらへんが、私は一番、畑氏と感想を異にするところなんですが、畑氏の見解は、おおよそ、以下のようです。
「和宮は朝廷から格下の将軍家へ嫁いだわけで、さらにこの幕末、朝廷の権威は上昇している。尊重されて当然なのだが、天璋院は和宮とは逆に、格下の外様大名から将軍家へ嫁いだのに、これまでの大奥や将軍家、大名家のしきたりからいって当然のことに従わず、感情的な対処が多い」
見解を異にするというか、あれですわ。
朝廷の権威があがった、といいましても、それは薩摩藩など外様大名にとっては、われわれのおかげであって、薩摩藩は朝廷を盛り立てつつ、実力で将軍家を脅かすようになっていたんですから、天璋院が、「皇女ったって私の嫁よ。朝廷に実力なんかないんだから」と思ったとしても、それは、朝廷の権威があがると同時進行な事態ですわね。
で、残念なことに、文久2年(1862)、島津久光が朝廷の勅使と軍勢を引き連れ、幕政改革を迫りに江戸へ姿を現したとき、篤姫さんがなにをしていたかは、これもさっぱり資料がないみたいです。
一番、知りたいところなんですけどねえ。
ただ、篤姫さんは、江戸の薩摩藩邸とは密接に連絡をとり、島津家と縁戚関係にある大名家と、積極的に外交をくりひろげていたようでして、家格をあげてあげたりもして、同時に情報蒐集にも務めていたようです。
とすれば、私が以前憶測しましたように、京で一橋慶喜が久光を罵倒したことが、篤姫さんの慶喜嫌いを決定的なものにしたのではないか、ということは、十分ありえると思うんですね。
畑氏はまた、将軍不在の期間が長くなってから、篤姫さんは表へ出て、政にかかわっていた節が見える、とされていまして、まったくもって、「徳川家は私がささえなければ!」だったようです。
この本のハイライトは、なんといっても、徳川家存続の嘆願と、江戸開城でしょう。
畑氏は、ここで、江戸城無血開城は、篤姫さんの西郷隆盛への嘆願がきいたのではないか、とされます。
「いまさら言っても取り返しがつかないんだけど、一昨年、大阪で家茂公がはかなくなられたとき、慶喜は上京中だったし、そのまま将軍に座ったのも仕方がないかと口を出さなかったんだけど、慶喜は将軍としてどうよ、と前々から疑問だったし、国を危うくするようなことをしでかすんじゃないかと、心配だったの。だから、慶喜はどうでもいいんだけどね、徳川家がつぶれたのでは私、祖先に申し訳がたたないし、たくさんの家来たちを路頭に迷わせ、苦しませることに、たえられないわ。私は徳川家に嫁に来て、この家に骨を埋める覚悟よ。あの世で亡き夫に言い訳のたたないようなことには、したくないの。今の世の中、頼みがいがあり、実力のある諸侯(大名)もいなくって、ご迷惑でも、あなただけが頼りなの。わかって!」
いや………、すごいです、篤姫。
勝海舟に会って事情を聞いたりもしていたんでしょうが、ものすごい洞察力です。
事態を動かしているのは、実家の島津家ではなく、ましてや朝廷でもなく、下級藩士の西郷隆盛なんだって、ちゃんとわかってるんですね。
だって西郷は、和宮さんからの朝廷への嘆願に「和宮なんぼのもんじゃ!」とかいってますもんね。
おまけに、「ねえ、ねえ、私だって慶喜は嫌いなのよ」みたいにはじまる嘆願書って、実に効果的!
篤姫さんの嘆願書が、無血開城を決定的にした、という畑氏のご推測、なるほど頷けますわ。
そして、江戸城大奥の最後なんですが、よく大奥ドラマに出てくる最後の大奥取締・滝山は、一橋慶喜が将軍になると同時にやめていた、という推測が成り立つみたいです。よほど慶喜公が嫌いだったんでしょうね。
ともかく、篤姫さんも和宮さんも、荷物が多くて片付けが間に合わず、篤姫さんは薩摩藩士の海江田信義に、「女の荷物って大変なの。明け渡しの日を、少し先へのばしてもらえないかしら?」と言ってやるんですが、海江田の一存でできることでもないので、「動かせない荷物はまとめておいてくださったら、こちらで厳重に保管して、かならずお返ししますよ」との答え。
それで安心して、篤姫は大奥を去ったのですが。
ところがところが、後で江戸城にやってきた大村益次郎が、和宮さんのものも含めて全部略奪して売り払い、軍費にしたんだそうです。
ここから後は、東郷尚武著「海江田信儀の幕末維新」からですが、海江田はもちろん大村を咎めましたが、大村は我意を通し、篤姫さんとの約束を守れなかった海江田は、以来、大村と不仲になったのだとか。
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