今日はちょっと、思わずほろっとしてしまいましたので、維新の動乱前夜、数えの11歳、つまり現代でいうならばわずか10歳で、パリに留学しました貴公子のお話を。
モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたが、慶応元年(1865)、モンブラン伯爵のもとを訪れた薩摩使節団は、五代友厚、新納刑部、通訳の堀孝之(長崎出身)の三人でした。
私、五代友厚が中心であったように書きまして、事実そうなのですが、イギリス留学生をも含めて、この薩摩密航留学使節団の長は、新納刑部久脩です。
新納家は一所持と呼ばれる島津の門族で、850余石の大口領主。
新納久脩は、軍役奉行として藩兵制の洋式化を積極的に進め、大目付となって、密航使節団の長を務めました。
天保3年(1832)生まれで、渡欧当時33歳。寺島宗則と同じ年で、五代より3つ上です。帰国後、家老になりました。
実は、です。私、『密航留学生たちの明治維新?井上馨と幕末藩士』を再読していまして、五代が帰国後、諸藩士の留学に手を貸す話の中で、「家老新納刑部の息子次郎四郎がフランスに留学するにあたって、長崎遊学中の加賀藩士関沢考三郎(明清)と岡田秀之助(元臣)の両人を密かに同伴させたのも、加賀藩からのたっての依頼があったからである」と一節を、気にとめてはいました。
気にとめてはいたのですが、しかし、新納次郎四郎については、それだけしか出てきませんでしたし、あまり深く考えないでいたのです。
ところがある日、いつものお方のブログを見て、びっくり。
その方は、別の資料から、明治5年(1872)秋ころと思われる、在パリ日本人留学生の名簿から、新納武之助(次郎四郎)16歳、1866年11月29日フランス着、となっていたのを、発見されていたんです。
とすれば、新納武之助(次郎四郎)が留学したのは、10か11のころ!? これには驚きました。
しかも、よく考えてみましたら、武之助少年は、父親が帰国した年の暮れに、パリへ渡っていることになります。めんどうを見たのは、当然、モンブラン伯爵でしょう。
その方によれば、写真も残っていて、明治6年、岩倉使節団の一員として欧州に渡っていた大久保利通が、帰国するにあたって、当時パリにいた複数の薩摩藩士と写真を撮っているんですが、大久保の右側にいるのが、新納武之助だというのです。
この集合写真、よく見かけるんですが、たいていは小さい上に、ぼんやりしているのですが、私、大きくて、かなりくっきりした写真を見つけましたところが、17歳の武之助少年は、少しウェーブのかかった貴公子らしい髪型で、なかなかに秀麗な、品のある様子です。
いや、これもそのお方から送っていただいた資料に、密航留学生の書簡がありまして、慶応2年(1866)12月下旬、イギリスにいた畠山義成から新納刑部宛のものに、以下の言葉があります。
「御息童子も英十一月仏へ御安着。ほか加藩之両生も大元気に而着英被礼 童子様の事承候。その長船中殊の外退屈もこれなく、船酔などはまったく成られず候」
金沢藩のお兄さん二人につきそわれて、11歳の武之助少年は、元気に、船酔いもせず、退屈することもなく、欧州に至ったんですね。
パリには、朝倉(田中清洲)、中村博愛の二人の薩摩藩密航留学生がいましたし、まもなくパリ万博。すぐに、家老の岩下方平を長とする薩摩の正式使節団がやって来まして、その中には、岩下の息子で、やはりパリに私費留学することになっていた16歳の岩下長十郎もいましたから、とりあえず武之助少年は、寂しがる暇もなく、パリを楽しんだでしょう。
門田明氏著の上の本を見て、またまた、びっくりしました。
明治4年(1871)の後半、父親の新納刑部が、パリの息子に出した手紙が、載っているじゃありませんか!!!
それが、どういうわけか、森有礼がアメリカ公使(弁務使)だったとき、秘書として雇っていたチャールズ・ランマンが、「アメリカの日本人」という本を出していて、その中に英文で出てくるんだそうです。
元は、日本文、いわゆる漢字交じりの候文だったはずです。それが英語に訳されていて、またまたこの本で日本語に訳されています。
「お前と別れて、もう五年になる。お前ももう一六歳になる。真剣に一生の志をたてるべきこのときに、親心をもって言い聞かせておきたいと思う。第一に、国のため、わが最愛の子を捧げるのは父たる者のつとめである。残念にも日本に適切な教育制度がないために、わが子が、教育を受けることなく成人するかも知れないことを、私は怖れた」
パリ万博の半ばで、薩摩使節団は帰国し、モンブラン伯爵も朝倉(田中)も、ともに日本へ行きます。
残された薩摩留学生は、中村博愛と岩下長十郎、新納武之助の三人です。
そして年が明け、鳥羽伏見の戦いが起こり、維新を迎えて、明治元年5月ころ、中村博愛も帰国します。
モンブランが先に預かっていた、やはり薩摩藩留学生の少年、町田清蔵の例からしますと、おそらく二人の少年は、とても家庭的な下宿に預けられ、かわいがられていたとは思えるのですが、それでも、父親がその渦中にある祖国の動乱は、なにかしら二人を不安にしたんじゃないんでしょうか。
新納刑部は、欧州への往路の船がシンガポールに停泊したとき、七歳にもならない三人の子供を連れた、オランダ人の夫婦を見たのだそうです。夫婦は別れを惜しんで泣き、夫一人が陸に戻り、妻と子供たちは船に残りました。子供たちはシンガポールで生まれたけれども、教育のためには、故国オランダへ返さなければなりません。そのために、夫婦は離別の苦痛に耐えていたのだと。
「このことは、私の胸を強く打った。オランダのような小国でさえも、子供の教育にこれほどの熱意を持っている」
いや、オランダを小国と言い切ってしまうところに、なんか………、この時代の日本人のすごみを感じましたが、この情景を見て、そしてロンドン、パリの教育を視察して、二人の息子を、ロンドンとパリに、それぞれ送ろうと決意したのだというのですね。
「しかし、ロンドン滞在中に、お前の弟が亡くなった知らせが届いた。私の悲しみは大きかった。こうして私の願いは、すべてお前一人にかかることになった。私の大きな気がかりは、だれをお前の先生にお願いするか、ということだった。たまたま、モンブランというフランス人に会う機会があり、彼に私の考えを話し、お前には、主として政治経済学を学ばせたいといったところ、彼は私の考えをよく理解し、最善をつくすことを約束してくれた。これが、お前のために、私が心をくだき、努力してきた大体のいきさつだ」
ロンドン滞在中というのは、新納とうさんが、ロンドンに滞在していたときです。
武之助少年、弟を幼いときに亡くして、一人息子になったんですねえ。
ところで、薩摩藩は、幕末の動乱時に、あまり内紛を起こしませんでしたし、うまく立ち回って、犠牲者もほとんど出しませんでした。
そのために、小松帯刀、桂久武、岩下方平、新納刑部といった、島津家一門の革新派の家老が、みな健在でした。
長州は、中下級の藩士を取り立てた勤王派の家老は、維新までにほとんど死に絶えましたが、それが薩摩にはなかったんですね。
薩摩に下克上が起こったのは、戊辰戦争の結果、でした。
幕末すでに、実質的な薩摩の指導者は、西郷、大久保、外国へ出た場合も五代、寺島といった工合で、革新派家老たちと協力しながらも、中下級藩士たちがのしあがってはいたのですが、下級藩士たちが隊長となって勝利した戊辰戦争の実績が、すっかり様相を変えました。
戊辰戦争から帰国した「兵隊」たちが、門閥打破を叫んで藩政をにぎり、それを西郷が暗黙のうちに認めて、島津久光は、一門が禄を失うことに心を痛めたのですが、廃藩置県前の藩政改革で、高禄の門閥は消えたんです。
また、大久保が中心にいた新政府においても、次第に門閥は脇へ追いやられ、新納刑部は、最後の薩摩藩家老として藩政に幕引きをし、その後は大島の島司となり、中央で活躍をすることはなかったんです。
すでに、この手紙の時点で、生活はかなり苦しいものに変わっていたと思われます。
「お前を外国に送ったのは、短期間で呼び返すためではない。学業を達成するまでは、帰すつもりがないことははっきりしている。お前に、学業を終わってからしてもらいたいことは、文明ヨーロッパの各地、各国を回ってもらうことだ。帰り道には、中国の北京にも寄ってもらいたい。お前が、フランス語しか知らないのであれば、満足するわけにはゆかない。お前には、英語の知識も持ってもらいたい。モンブラン氏は、こういう細かいところまで、すべて理解され、その実現を目指すことに同意してくれた」
世界を回れ、というのは、ナポレオンを見習え、ということなのだそうなのです。
ナポレオンは、年端もいかないころ、母親に人生の目的を尋ねられ、「自分は、世界の歴史に残る地を、すべて心に留め、剣一振を持って、世界の端から端まで行くつもりだ」と答えたのだそうで、「私は、これを知って深い感銘を受けた」と。こういう雄大な目標を、人生に持ってもらいたい、と。
「ヨーロッパから帰ると、私は早速、お前を外国に行かせてもらいたいと両親にお願いした。有難いことに、二人は大変深い感心を持ち、すぐさま同意してくれた。それは、お前一人にとって幸せなことであっただけではなく、私にとっても幸せなことであった。お前は、その時、たった十一歳で、私が何を望んでいるかなど、まるで知らなかった。お前の年を考え、また、最近、次男が逝去したことを考えあわせて、友達や親戚の者が、大反対するのをおさえ、この人たちの心配を和らげるのは、実に大変なことであったが、とにかく、理解を得るのに成功した。お前が故郷を去り、一万マイルの外地に、このような大志をもって、行くことができたのは、まさに天の恵みというものである。お前の胸深く、このことは、いつも忘れてはならない」
おそらく、開明藩主、島津斉彬にかわいがられただろう新納刑部自身、錦紅湾の彼方の南の海に憧れを抱いて、少年時代をすごしたんじゃなかったんでしょうか。
その少年の日の夢を息子にたくしたような、そんな感じがします。
「私が、お前にほとんど手紙を書かないのには理由がある。これは、お前にたいする私の深い愛によるものなのだ。まだ年若い者が、遠く離れた土地にいて、故郷を思うのは、自然の情である。しかし、故郷からの便りというのは、益より害になる。便りは感情を刺激しがちで、勉学の妨げとなる。お前は、まだ三歳にも満たぬとき母と別れた。それ以来、余人の手によらず、ただ私の胸に抱かれて育てられてきた。このような事情であったから、お前をいとおしく思う気持ちが、どうして冷めたりするものか。お前に便りを送ることが滅多にないからといって、私を誤解しないでもらいたい」
な、なんか、泣けてきません?
武之助少年、死に別れか生き別れか、お母さんがいなかったんですねえ。
なんとなく、なんですが、死に別れではなかったか、と思われます。
新納とうさんが、子供の教育のために別れるオランダ人夫婦を見て、感慨を深くしたのは、年若い妻に先立たれた悲しみを抱いていたこともあったのではないかと、そんな気がするのです。
そして渡欧してロンドンにいたとき、妻の忘れ形見の次男を亡くし、それでも、たった一人残された幼い長男を、パリへ教育に出そうと決意する………。
当時の人々にとって、いかに欧州が遠い場所だったかを考えると、壮絶な覚悟、だったのではないでしょうか。
美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で書きました前田正名を連れて、モンブラン伯爵が日本を発ったのは、1869年(明治2年)12月30日です。どうも、長州の太田市之進(御堀耕助)もいっしょだったようです。
明けて1870年(明治3年)の3月ころには、パリについたでしょうか。
おそらくは、お父さんからの言付けを持っての正名の登場に、武之助、喜んだでしょうね。
しかし、喜んでまもなく、7月19日(和暦6月21日)、普仏戦争が勃発するんです。パリ籠城の時期には、あるいはインゲルムンステル城に、避難していたかもしれないですね。しかし翌年、パリコミューン騒ぎ。
この手紙が書かれたのは、その年の後半で、どうもこれ以前から武之助は、帰りたい、と訴えていたらしいのですね。
花のパリを半分廃墟に変えた一年の動乱。故郷の青い錦江湾と、とうさんの暖かい胸が、恋しくなったんでしょうか。
「私は、お前が前田氏に、もうすぐ日本へ帰るつもりだ、と言ったと耳にした。どういう理由があって、そうするのだろうか。お前を留学させた目的については、すでに十分話した。お前が学業を完全に終わったというのであれば、お前が戻って来ると聞いて、さぞかし嬉しいことだと思う。わたしにとって、それ以上の満足はない。しかし、お前が帰るといっているのは、怠惰な心から、わが家がなつかしくなったからではないかと、心配している」
正名くん、新納とうさんに頼まれていて、近況を知らせたんですかねえ。
どうも武之助は、日本人留学生が多くやってくるようになったパリで、焦りを感じるようにも、なっていたらしいのです。
「教育の第一の目的は、国の利益のために最善を尽くすことである。われわれは、広くわが国全土にわたって、漢字をつかっている。海外で、お前が出会う日本人は日本語や漢文を使うので、それが分からないと不便だと思うかもしれない。また、日本の事情を知るために、日本語や漢文を勉強しようという気になるかも知れない。これが私の最も気がかりなことだ。今こそお前にとって、最も大切な時なのだ。お前は未来の大きな目的を心得て、小さなことに係わってはいけない。お前は、全霊を尽くして、西洋の勉強に打ち込むのだ。日本語とか漢文とかは、日本に帰ってから学んでも、決して遅くはない。この問題で、お前が迷いを持たないことが最も大切だ」
お、お、お、おとーさん、それは極端ですって。
ちょうどこの手紙の頃、岩倉使節団とともに、アメリカ留学に向かった5人の少女がいました。
森有礼と黒田清隆と、そういえば、これも薩摩藩士の試みでしたね。薩摩の少女はいませんでしたけど。
5人のうち、もっとも長くアメリカにいたのは、留学時12歳だった山川捨松と8歳だった津田梅子なんですが、あー、忘れてましたわ。妻とともに津田梅子の面倒を見たのが、新納とうさんの手紙を英訳して本に載せたチャールズ・ランマンでしたわ。
そういう経験者だけに、新納とうさんの手紙に感激したのでしょうね。
しかし、どうやって手に入れたのやら…………。
ともかく、『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 日本初の女子留学生』によりますと、梅子は日本語をさっぱり忘れ、帰国直後には家族と話をすることもできなかった、といいます。そして、捨松もなのですが、日本語ができないために帰国した当座には仕事もなく、逆カルチャー・ショックに苦悩し、生涯、手紙を書くのも本を読むのも、英語だったとか。
当時の日本で、日本語も漢文もだめだとなれば、仕事ができないはずなのですが、門閥だった新納とうさんには、そんなせこせこした考えはなかったようです。
それがお国のため、なんですから、アイデンティティ・クライシスなんて、思もよらなかったんでしょうね。
そういえば、やはり薩摩門閥の子弟で、14歳でイギリスに密航留学し、モンブラン伯爵に気に入られてしばらくパリにもいた町田清蔵も、後年の回想ですが、「儒学なぞは国を弱体化して、滅ぼすだけだ」とう親の方針で、幼い頃から蘭学しか習わなかった、というようなことを言っていましたっけ。
帰国してから、兄に勧められて、やっと漢学を学んだんだとか。
蘭癖って言葉がありますけど、薩摩の開明派門閥って……、なにか、すごいものがあります。
これもいつものお方が調べてくださったのですが、武之助は結局、明治6年5月には、帰国しているようです。
私費留学だったので、あるいは、学費が続かなくなったのかもしれません。
帰国後は、主に陸軍省に勤務しているのですが、不運、というべきでしょう。
明治陸軍は、最初、フランスに習って、お雇いフランス人伝習教師も多く、教科書もフランス語のものが多かったのですが、徐々にドイツ式に切り替わっていくんです。
陸軍大学教授にまでなっていますから、それほど不運というわけではないのですが、地味な後半生です。
明治28年、病死。
新納とうさんは、この7年前、明治21年に世を去っていました。
検索をかけましたら、現在、カナダに、新納とうさんのひ孫に当たる方がおられるようです。
新納とうさんが、他に子供を作らなかったとすれば、武之助のお孫さんのはずですよね。
書簡とか、残ってないんでしょうかしら。
もし残っていたら、本にしてくれないものでしょうか。
「お前の手紙を、何度も何度も読んだ。まるで、お前と向き合って話しているような気がした。この父の手紙を読んで、お前も同じように感じて欲しい。おまえの学業がまっとうされるようにという、私の深い胸の内にある、ただ一つの思を、お前にいつまでも、忘れないでいてもらいたいと願っている」
追記
新納とうさんの手紙の英訳を、チャールズ・ランマンが見た経緯なんですが、畠山義成が見せたのではないか、という推測が自然ではないか、と、思われます。
武之助少年の帰国は、明治6年5月26日です。ということは、岩倉使節団に参加していて、一足先に帰国した大久保利通に、いっしょに連れて帰ってもらったことになります。パリの集合写真で、武之助が大久保のそばにいるのは、武之助少年の送別会でもあったからなんでしょう。
畠山義成については、また改めて書きたいと思いますが、1867年(慶応3年)、ロンドンからアメリカに渡って、ラトガース大学で学んでいました。1871年(明治4年)の春、新政府の帰国命令を受けたんですが、猶予をもらい、同年10月28日にアメリカを発ち、ヨーロッパまわりで帰国する予定でパリへ向かいました。あるいは、自分がロンドンにいたころ、留学して来た武之助少年のことが、気になっていたのかもしれません。
おそらくはパリで武之助に会い、とうさんの手紙を見せられて、望郷と不安を訴えられたのではないでしょうか。
これもまた、別の機会に詳しく書きたいと思いますが、13歳で密航留学生となり、ハリス教団にどっぷりと身を入れてしまった長沢鼎を、畠山は見たばかりですので、これは武之助の不安ももっともだと思っていたところへ、岩倉使節団への協力要請があり、アメリカへ引き返します。
ライマンが幼い女子留学生の世話をしてくれているのを見て、「親御さんは、こんな思いでいるんだよ」と、新納とうさんの手紙を見せます。
そして、使節団随行中、新納とうさんに連絡をとり、大久保利通に武之助の帰国のことを頼んだ、と、そういう筋道ではなかたかと、私には思えてなりません。
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モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたが、慶応元年(1865)、モンブラン伯爵のもとを訪れた薩摩使節団は、五代友厚、新納刑部、通訳の堀孝之(長崎出身)の三人でした。
私、五代友厚が中心であったように書きまして、事実そうなのですが、イギリス留学生をも含めて、この薩摩密航留学使節団の長は、新納刑部久脩です。
新納家は一所持と呼ばれる島津の門族で、850余石の大口領主。
新納久脩は、軍役奉行として藩兵制の洋式化を積極的に進め、大目付となって、密航使節団の長を務めました。
天保3年(1832)生まれで、渡欧当時33歳。寺島宗則と同じ年で、五代より3つ上です。帰国後、家老になりました。
実は、です。私、『密航留学生たちの明治維新?井上馨と幕末藩士』を再読していまして、五代が帰国後、諸藩士の留学に手を貸す話の中で、「家老新納刑部の息子次郎四郎がフランスに留学するにあたって、長崎遊学中の加賀藩士関沢考三郎(明清)と岡田秀之助(元臣)の両人を密かに同伴させたのも、加賀藩からのたっての依頼があったからである」と一節を、気にとめてはいました。
気にとめてはいたのですが、しかし、新納次郎四郎については、それだけしか出てきませんでしたし、あまり深く考えないでいたのです。
ところがある日、いつものお方のブログを見て、びっくり。
その方は、別の資料から、明治5年(1872)秋ころと思われる、在パリ日本人留学生の名簿から、新納武之助(次郎四郎)16歳、1866年11月29日フランス着、となっていたのを、発見されていたんです。
とすれば、新納武之助(次郎四郎)が留学したのは、10か11のころ!? これには驚きました。
しかも、よく考えてみましたら、武之助少年は、父親が帰国した年の暮れに、パリへ渡っていることになります。めんどうを見たのは、当然、モンブラン伯爵でしょう。
その方によれば、写真も残っていて、明治6年、岩倉使節団の一員として欧州に渡っていた大久保利通が、帰国するにあたって、当時パリにいた複数の薩摩藩士と写真を撮っているんですが、大久保の右側にいるのが、新納武之助だというのです。
この集合写真、よく見かけるんですが、たいていは小さい上に、ぼんやりしているのですが、私、大きくて、かなりくっきりした写真を見つけましたところが、17歳の武之助少年は、少しウェーブのかかった貴公子らしい髪型で、なかなかに秀麗な、品のある様子です。
いや、これもそのお方から送っていただいた資料に、密航留学生の書簡がありまして、慶応2年(1866)12月下旬、イギリスにいた畠山義成から新納刑部宛のものに、以下の言葉があります。
「御息童子も英十一月仏へ御安着。ほか加藩之両生も大元気に而着英被礼 童子様の事承候。その長船中殊の外退屈もこれなく、船酔などはまったく成られず候」
金沢藩のお兄さん二人につきそわれて、11歳の武之助少年は、元気に、船酔いもせず、退屈することもなく、欧州に至ったんですね。
パリには、朝倉(田中清洲)、中村博愛の二人の薩摩藩密航留学生がいましたし、まもなくパリ万博。すぐに、家老の岩下方平を長とする薩摩の正式使節団がやって来まして、その中には、岩下の息子で、やはりパリに私費留学することになっていた16歳の岩下長十郎もいましたから、とりあえず武之助少年は、寂しがる暇もなく、パリを楽しんだでしょう。
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門田明氏著の上の本を見て、またまた、びっくりしました。
明治4年(1871)の後半、父親の新納刑部が、パリの息子に出した手紙が、載っているじゃありませんか!!!
それが、どういうわけか、森有礼がアメリカ公使(弁務使)だったとき、秘書として雇っていたチャールズ・ランマンが、「アメリカの日本人」という本を出していて、その中に英文で出てくるんだそうです。
元は、日本文、いわゆる漢字交じりの候文だったはずです。それが英語に訳されていて、またまたこの本で日本語に訳されています。
「お前と別れて、もう五年になる。お前ももう一六歳になる。真剣に一生の志をたてるべきこのときに、親心をもって言い聞かせておきたいと思う。第一に、国のため、わが最愛の子を捧げるのは父たる者のつとめである。残念にも日本に適切な教育制度がないために、わが子が、教育を受けることなく成人するかも知れないことを、私は怖れた」
パリ万博の半ばで、薩摩使節団は帰国し、モンブラン伯爵も朝倉(田中)も、ともに日本へ行きます。
残された薩摩留学生は、中村博愛と岩下長十郎、新納武之助の三人です。
そして年が明け、鳥羽伏見の戦いが起こり、維新を迎えて、明治元年5月ころ、中村博愛も帰国します。
モンブランが先に預かっていた、やはり薩摩藩留学生の少年、町田清蔵の例からしますと、おそらく二人の少年は、とても家庭的な下宿に預けられ、かわいがられていたとは思えるのですが、それでも、父親がその渦中にある祖国の動乱は、なにかしら二人を不安にしたんじゃないんでしょうか。
新納刑部は、欧州への往路の船がシンガポールに停泊したとき、七歳にもならない三人の子供を連れた、オランダ人の夫婦を見たのだそうです。夫婦は別れを惜しんで泣き、夫一人が陸に戻り、妻と子供たちは船に残りました。子供たちはシンガポールで生まれたけれども、教育のためには、故国オランダへ返さなければなりません。そのために、夫婦は離別の苦痛に耐えていたのだと。
「このことは、私の胸を強く打った。オランダのような小国でさえも、子供の教育にこれほどの熱意を持っている」
いや、オランダを小国と言い切ってしまうところに、なんか………、この時代の日本人のすごみを感じましたが、この情景を見て、そしてロンドン、パリの教育を視察して、二人の息子を、ロンドンとパリに、それぞれ送ろうと決意したのだというのですね。
「しかし、ロンドン滞在中に、お前の弟が亡くなった知らせが届いた。私の悲しみは大きかった。こうして私の願いは、すべてお前一人にかかることになった。私の大きな気がかりは、だれをお前の先生にお願いするか、ということだった。たまたま、モンブランというフランス人に会う機会があり、彼に私の考えを話し、お前には、主として政治経済学を学ばせたいといったところ、彼は私の考えをよく理解し、最善をつくすことを約束してくれた。これが、お前のために、私が心をくだき、努力してきた大体のいきさつだ」
ロンドン滞在中というのは、新納とうさんが、ロンドンに滞在していたときです。
武之助少年、弟を幼いときに亡くして、一人息子になったんですねえ。
ところで、薩摩藩は、幕末の動乱時に、あまり内紛を起こしませんでしたし、うまく立ち回って、犠牲者もほとんど出しませんでした。
そのために、小松帯刀、桂久武、岩下方平、新納刑部といった、島津家一門の革新派の家老が、みな健在でした。
長州は、中下級の藩士を取り立てた勤王派の家老は、維新までにほとんど死に絶えましたが、それが薩摩にはなかったんですね。
薩摩に下克上が起こったのは、戊辰戦争の結果、でした。
幕末すでに、実質的な薩摩の指導者は、西郷、大久保、外国へ出た場合も五代、寺島といった工合で、革新派家老たちと協力しながらも、中下級藩士たちがのしあがってはいたのですが、下級藩士たちが隊長となって勝利した戊辰戦争の実績が、すっかり様相を変えました。
戊辰戦争から帰国した「兵隊」たちが、門閥打破を叫んで藩政をにぎり、それを西郷が暗黙のうちに認めて、島津久光は、一門が禄を失うことに心を痛めたのですが、廃藩置県前の藩政改革で、高禄の門閥は消えたんです。
また、大久保が中心にいた新政府においても、次第に門閥は脇へ追いやられ、新納刑部は、最後の薩摩藩家老として藩政に幕引きをし、その後は大島の島司となり、中央で活躍をすることはなかったんです。
すでに、この手紙の時点で、生活はかなり苦しいものに変わっていたと思われます。
「お前を外国に送ったのは、短期間で呼び返すためではない。学業を達成するまでは、帰すつもりがないことははっきりしている。お前に、学業を終わってからしてもらいたいことは、文明ヨーロッパの各地、各国を回ってもらうことだ。帰り道には、中国の北京にも寄ってもらいたい。お前が、フランス語しか知らないのであれば、満足するわけにはゆかない。お前には、英語の知識も持ってもらいたい。モンブラン氏は、こういう細かいところまで、すべて理解され、その実現を目指すことに同意してくれた」
世界を回れ、というのは、ナポレオンを見習え、ということなのだそうなのです。
ナポレオンは、年端もいかないころ、母親に人生の目的を尋ねられ、「自分は、世界の歴史に残る地を、すべて心に留め、剣一振を持って、世界の端から端まで行くつもりだ」と答えたのだそうで、「私は、これを知って深い感銘を受けた」と。こういう雄大な目標を、人生に持ってもらいたい、と。
「ヨーロッパから帰ると、私は早速、お前を外国に行かせてもらいたいと両親にお願いした。有難いことに、二人は大変深い感心を持ち、すぐさま同意してくれた。それは、お前一人にとって幸せなことであっただけではなく、私にとっても幸せなことであった。お前は、その時、たった十一歳で、私が何を望んでいるかなど、まるで知らなかった。お前の年を考え、また、最近、次男が逝去したことを考えあわせて、友達や親戚の者が、大反対するのをおさえ、この人たちの心配を和らげるのは、実に大変なことであったが、とにかく、理解を得るのに成功した。お前が故郷を去り、一万マイルの外地に、このような大志をもって、行くことができたのは、まさに天の恵みというものである。お前の胸深く、このことは、いつも忘れてはならない」
おそらく、開明藩主、島津斉彬にかわいがられただろう新納刑部自身、錦紅湾の彼方の南の海に憧れを抱いて、少年時代をすごしたんじゃなかったんでしょうか。
その少年の日の夢を息子にたくしたような、そんな感じがします。
「私が、お前にほとんど手紙を書かないのには理由がある。これは、お前にたいする私の深い愛によるものなのだ。まだ年若い者が、遠く離れた土地にいて、故郷を思うのは、自然の情である。しかし、故郷からの便りというのは、益より害になる。便りは感情を刺激しがちで、勉学の妨げとなる。お前は、まだ三歳にも満たぬとき母と別れた。それ以来、余人の手によらず、ただ私の胸に抱かれて育てられてきた。このような事情であったから、お前をいとおしく思う気持ちが、どうして冷めたりするものか。お前に便りを送ることが滅多にないからといって、私を誤解しないでもらいたい」
な、なんか、泣けてきません?
武之助少年、死に別れか生き別れか、お母さんがいなかったんですねえ。
なんとなく、なんですが、死に別れではなかったか、と思われます。
新納とうさんが、子供の教育のために別れるオランダ人夫婦を見て、感慨を深くしたのは、年若い妻に先立たれた悲しみを抱いていたこともあったのではないかと、そんな気がするのです。
そして渡欧してロンドンにいたとき、妻の忘れ形見の次男を亡くし、それでも、たった一人残された幼い長男を、パリへ教育に出そうと決意する………。
当時の人々にとって、いかに欧州が遠い場所だったかを考えると、壮絶な覚悟、だったのではないでしょうか。
美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で書きました前田正名を連れて、モンブラン伯爵が日本を発ったのは、1869年(明治2年)12月30日です。どうも、長州の太田市之進(御堀耕助)もいっしょだったようです。
明けて1870年(明治3年)の3月ころには、パリについたでしょうか。
おそらくは、お父さんからの言付けを持っての正名の登場に、武之助、喜んだでしょうね。
しかし、喜んでまもなく、7月19日(和暦6月21日)、普仏戦争が勃発するんです。パリ籠城の時期には、あるいはインゲルムンステル城に、避難していたかもしれないですね。しかし翌年、パリコミューン騒ぎ。
この手紙が書かれたのは、その年の後半で、どうもこれ以前から武之助は、帰りたい、と訴えていたらしいのですね。
花のパリを半分廃墟に変えた一年の動乱。故郷の青い錦江湾と、とうさんの暖かい胸が、恋しくなったんでしょうか。
「私は、お前が前田氏に、もうすぐ日本へ帰るつもりだ、と言ったと耳にした。どういう理由があって、そうするのだろうか。お前を留学させた目的については、すでに十分話した。お前が学業を完全に終わったというのであれば、お前が戻って来ると聞いて、さぞかし嬉しいことだと思う。わたしにとって、それ以上の満足はない。しかし、お前が帰るといっているのは、怠惰な心から、わが家がなつかしくなったからではないかと、心配している」
正名くん、新納とうさんに頼まれていて、近況を知らせたんですかねえ。
どうも武之助は、日本人留学生が多くやってくるようになったパリで、焦りを感じるようにも、なっていたらしいのです。
「教育の第一の目的は、国の利益のために最善を尽くすことである。われわれは、広くわが国全土にわたって、漢字をつかっている。海外で、お前が出会う日本人は日本語や漢文を使うので、それが分からないと不便だと思うかもしれない。また、日本の事情を知るために、日本語や漢文を勉強しようという気になるかも知れない。これが私の最も気がかりなことだ。今こそお前にとって、最も大切な時なのだ。お前は未来の大きな目的を心得て、小さなことに係わってはいけない。お前は、全霊を尽くして、西洋の勉強に打ち込むのだ。日本語とか漢文とかは、日本に帰ってから学んでも、決して遅くはない。この問題で、お前が迷いを持たないことが最も大切だ」
お、お、お、おとーさん、それは極端ですって。
ちょうどこの手紙の頃、岩倉使節団とともに、アメリカ留学に向かった5人の少女がいました。
森有礼と黒田清隆と、そういえば、これも薩摩藩士の試みでしたね。薩摩の少女はいませんでしたけど。
5人のうち、もっとも長くアメリカにいたのは、留学時12歳だった山川捨松と8歳だった津田梅子なんですが、あー、忘れてましたわ。妻とともに津田梅子の面倒を見たのが、新納とうさんの手紙を英訳して本に載せたチャールズ・ランマンでしたわ。
そういう経験者だけに、新納とうさんの手紙に感激したのでしょうね。
しかし、どうやって手に入れたのやら…………。
ともかく、『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 日本初の女子留学生』によりますと、梅子は日本語をさっぱり忘れ、帰国直後には家族と話をすることもできなかった、といいます。そして、捨松もなのですが、日本語ができないために帰国した当座には仕事もなく、逆カルチャー・ショックに苦悩し、生涯、手紙を書くのも本を読むのも、英語だったとか。
当時の日本で、日本語も漢文もだめだとなれば、仕事ができないはずなのですが、門閥だった新納とうさんには、そんなせこせこした考えはなかったようです。
それがお国のため、なんですから、アイデンティティ・クライシスなんて、思もよらなかったんでしょうね。
そういえば、やはり薩摩門閥の子弟で、14歳でイギリスに密航留学し、モンブラン伯爵に気に入られてしばらくパリにもいた町田清蔵も、後年の回想ですが、「儒学なぞは国を弱体化して、滅ぼすだけだ」とう親の方針で、幼い頃から蘭学しか習わなかった、というようなことを言っていましたっけ。
帰国してから、兄に勧められて、やっと漢学を学んだんだとか。
蘭癖って言葉がありますけど、薩摩の開明派門閥って……、なにか、すごいものがあります。
これもいつものお方が調べてくださったのですが、武之助は結局、明治6年5月には、帰国しているようです。
私費留学だったので、あるいは、学費が続かなくなったのかもしれません。
帰国後は、主に陸軍省に勤務しているのですが、不運、というべきでしょう。
明治陸軍は、最初、フランスに習って、お雇いフランス人伝習教師も多く、教科書もフランス語のものが多かったのですが、徐々にドイツ式に切り替わっていくんです。
陸軍大学教授にまでなっていますから、それほど不運というわけではないのですが、地味な後半生です。
明治28年、病死。
新納とうさんは、この7年前、明治21年に世を去っていました。
検索をかけましたら、現在、カナダに、新納とうさんのひ孫に当たる方がおられるようです。
新納とうさんが、他に子供を作らなかったとすれば、武之助のお孫さんのはずですよね。
書簡とか、残ってないんでしょうかしら。
もし残っていたら、本にしてくれないものでしょうか。
「お前の手紙を、何度も何度も読んだ。まるで、お前と向き合って話しているような気がした。この父の手紙を読んで、お前も同じように感じて欲しい。おまえの学業がまっとうされるようにという、私の深い胸の内にある、ただ一つの思を、お前にいつまでも、忘れないでいてもらいたいと願っている」
追記
新納とうさんの手紙の英訳を、チャールズ・ランマンが見た経緯なんですが、畠山義成が見せたのではないか、という推測が自然ではないか、と、思われます。
武之助少年の帰国は、明治6年5月26日です。ということは、岩倉使節団に参加していて、一足先に帰国した大久保利通に、いっしょに連れて帰ってもらったことになります。パリの集合写真で、武之助が大久保のそばにいるのは、武之助少年の送別会でもあったからなんでしょう。
畠山義成については、また改めて書きたいと思いますが、1867年(慶応3年)、ロンドンからアメリカに渡って、ラトガース大学で学んでいました。1871年(明治4年)の春、新政府の帰国命令を受けたんですが、猶予をもらい、同年10月28日にアメリカを発ち、ヨーロッパまわりで帰国する予定でパリへ向かいました。あるいは、自分がロンドンにいたころ、留学して来た武之助少年のことが、気になっていたのかもしれません。
おそらくはパリで武之助に会い、とうさんの手紙を見せられて、望郷と不安を訴えられたのではないでしょうか。
これもまた、別の機会に詳しく書きたいと思いますが、13歳で密航留学生となり、ハリス教団にどっぷりと身を入れてしまった長沢鼎を、畠山は見たばかりですので、これは武之助の不安ももっともだと思っていたところへ、岩倉使節団への協力要請があり、アメリカへ引き返します。
ライマンが幼い女子留学生の世話をしてくれているのを見て、「親御さんは、こんな思いでいるんだよ」と、新納とうさんの手紙を見せます。
そして、使節団随行中、新納とうさんに連絡をとり、大久保利通に武之助の帰国のことを頼んだ、と、そういう筋道ではなかたかと、私には思えてなりません。
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