郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上

2009年12月14日 | 幕末留学
岩下長十郎の死の続きです。

 えーと、ですね。今回、青山霊園を訪れましたのは、長十郎くんのお墓さがしもあったんですが、薩摩スチューデント路傍に死すで書きました、村橋久成のお墓にお参りする、という目的もありました。



右の方が、明治、行き倒れのニュースに衝撃を受けました開拓使人脈が募金を募り、建てられていた墓石のようです。さらに右の碑には、「残響」 (サッポロ叢書 (01))の一節が引かれています。こんなところへ、ようこそ、だったんですが、「残響」の著者でおられる田中和夫氏からコメントをいただき、もう、どびっくりだったんですが、お墓参りを、という思いは、それ以来のものです。
 いっしょにおりました、一般人(幕末オタクではない)のビール好きの友人は、この碑で初めて村橋を知り、「もっとちゃんと、サッポロビールが顕彰すべきよっ!!!」と叫んでおりました。



 で、今回、その友人だけではなく、桐野ファンの大先輩とブログに来ていただいた勝之丞さま、そして、アメリカから久しぶりに里帰りなさったtomoeさまがごいっしょで、みなさまのおかげで、無事、お参りすることができましたような次第です。なにしろ、青山霊園は迷路ですっ!!!

 ところで、tomoeさまは、留学生の一人、畠山義成の大ファンでおられ、なぜか知りませんが(あんまり書いた覚えはないのですが)、畠山義成で検索をかけると私のブログがヒットする確立が高いそうでして、gooホームの方にメールをくださっていたのです。ところが私、確かにgooホームを設定した覚えはあるのですが、ろくに見ておりませんで、長らく気付かないでいた、というボケぶり。
 まあ、ともかく、です。お知り合いになりまして、ごいっしょに、お墓さがしをすることとあいなった次第です。

 畠山義成につきましては、英仏世紀末芸術と日本人で、「(留学中)ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティなんかとお茶したらしい」と書いたのが最初でしょうか。このときの私の畠山に対するイメージは、堅物一辺倒でして、「なにか、ラファエル前派のインスピレーションに、寄与するものがあったんでしょうか」と懐疑的な書き方をしていたものですから、fhさまが、下の写真と資料を送ってくださいました。えー、後期ラファエル前派にちなみ、ウィリアム・モリスの壁紙を使って加工しております。



fhさまは、「大礼服の着くずしが似合う男!」とおっしゃるのですが、私のイメージは、「ギムリ!」wiki-ギムリ)です。

ともかく、性格が高潔で、ノーブレス・オブリージュを実践していた、とでもいうんでしょうか。

私、薩摩スチューデント路傍に死すで、以下のように説明いたしました。

使節団として渡欧した、新納刑部、五代友厚、寺島宗則(松木弘安)、通訳の堀孝之をのぞいて、留学生は当初16名。巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で書きましたように、町田四兄弟のうちの一人が、出発直前に発病し、最終的には15名になりますが、このうち、将来家老となるだろう島津一門の門閥から、町田民部(久成)、畠山義成、村橋久成、名越平馬の4人が選ばれていました。門閥出身で、もともと蘭学を学んでいて、一家中が渡欧を喜び勇んだのは、町田一家のみです。
薩摩門閥は、新納刑部や町田とうさんのような、蘭癖の開明派ばかりではありませんでした。ほんとうは最初、町田と畠山、そして島津織之助、高橋要が、門閥の跡取りで候補にあがっていたのですが、町田久成をのぞいた後の三人は、渡航を恥辱と感じて、拒んだといいます。
島津久光が、直々に説得し、ようやく畠山は承諾しましたが、あとの二人がどうしてもいやだと言い張り、代わりに急遽、門閥から選ばれたのが、村橋久成と名越平馬だったのです。
つまり、留学生メンバーの中で、畠山義成、村橋久成、名越平馬の三人のみは、渡欧するまで、蘭学とも英学とも、無縁でした。


 そうなんです。畠山は町田兄弟、村橋、名越とともに、「将来家老になりえる身分」でした。この名門の留学生たちのうち、村橋が最初に帰国。続いて、名越、長兄・久成をのぞく町田兄弟が帰国しまして(「巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2」参照)、慶応3年のパリ万博まで残っていましたのは、町田にいさん(久成)と畠山義成のみです。

 えーと、これまでに、ですね。薩摩の幕末外交に手を貸したローレンス・オリファントについては、幾度か触れたことがあるのですが、「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2」で書きましたように、寺島に手を貸しましたちょうどそのころ、以前から傾倒していましたアメリカの神秘宗教家、トーマス・レイク・ハリスにはまりこむんですね。

 このハリス教団、退廃した既存の西洋近代キリスト教社会を否定し、私設修道院のような共同体で新しい自己を見出し、社会をも変えていこうというものでして、新世界アメリカ、そして東洋に人類の新しい息吹を見出す、とでもいったような理想をかかげていました。それで、オリファントとハリスは、日本人留学生に非常な期待を持ちます。

 いえ、オリファントとハリスは、留学生だけではなく、留学生の所属する藩(薩摩と長州)が新しい日本を作るものと期待し、その新しい日本が、自分たちの教団の影響のもとに成り立つものだとまで、夢想したんです。ハリスは渡欧し、パリ万博において、薩摩藩の代表である岩下方平に接触しますが、方平は相手にしませんでした。

 パリ万博まで、欧州に残っていた薩摩藩留学生は、町田久成と畠山のほか、イギリスに森有礼、鮫島尚信、長澤鼎、吉田清成、松村淳蔵、フランスに田中静洲、中村博愛なんですが、畠山を含むイギリスの全員が、ハリス教団に入るべく、渡米することになります。年長で、学頭だった町田久成が、渡米することなく帰国したところをみれば、これは推測なんですが、薩摩藩の方針としては、ハリス教団への入団は認めていなかったのではないんでしょうか。

 オリファントとハリスの誘い方は非常にうまく、ハリス教団で学校を創設するので働きながら学べる、というような約束であったらしく、渡米した6人は、かならずしも全員がハリスに傾倒していたわけではなさそうです。最初にはまった吉田清成と鮫島尚信、そして森有礼、年少の長澤鼎は、かなり深くハリスを信じていたようですが、松村淳蔵の場合はどうも、イギリスでかなわなかった海軍の勉強がアメリカならば可能なのではないか、ということがすべてだったような気がします。性格は実によさそうなんですが、おそらく非常な現実主義者で、理念よりも技術、石にかじりついても初心貫徹、といった感じを受けます。

 そして、畠山です。彼がなにを考えてハリス教団に入団したかについては、ずっと以前にfhさまからご紹介いただいた林竹二氏の論文があります。ご関心のある方は、ご覧になってみてください。

 森有礼研究 第二 森有礼とキリスト教

 畠山こそが、もっとも真摯に、西洋文明の根底に横たわるキリスト教と対峙したのだという、林氏のご見解はもっともだと思うのですが、私はもう一つ、畠山には高貴に生まれた者の責任感があったのではないだろうか、という気がします。
 町田久成が帰国した後、渡米してハリス教団に入ろうとしていたイギリス留学生の中で、畠山はもっとも藩での身分が高く、責任ある立場だったんです。それぞれにとってハリス教団がほんとうに自らを生かす道なのか、もしかして道を誤っていた場合、彼らのめんどうを自分は見なければいけない、という思いを、強く持っていたのではないでしょうか。

 アメリカに渡ってから後の畠山については、私はまったく詳しくありませんで、ぜひ、tomoeさまのサイトをご覧ください。

 kozo-web 畠山義成 みじかい半生の足跡

 で、ようやくお話が、tomoeさまとの畠山義成墓探しにもどるのですが、次回、その詳細と、tomoeさまからいただいた資料から推測されます畠山家の血脈の謎に迫ってみたいと思います。

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