普仏戦争と前田正名 Vol5の続きです。
巴里の侍 (ダ・ヴィンチブックス) | |
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またちょっと「巴里の侍」に話を返します。
この小説中の前田正名の戦友として、架空の日本人がいます。
えー、度会晴玄という名で芸州人だそうですから、渡六之介(正元)から思いついた登場人物なんでしょう。本物の渡六之介については、また追って書きたいと思うのですが、本物の渡がサン・シール陸軍士官学校に入りますのはもっと後の話ですが、度会晴玄はパリへ着いたとたんに士官学校へ入学しています。
なめんなよ、サン・シールを!!!!!です。筆記試験がないとでも思っておられるのでしょうか。昔の日本の陸士は言うにおよばず、今の防衛大学だってけっこう難しいでしょうに。
詳細はfhさまのところにあるのですが、本物の渡は30歳と年もけっこういっていましたし、普仏戦争後、公使として赴任してきました鮫ちゃん(鮫島尚信)が、「リセ就学ぬきでサン・シールに入れてやってはくれまいか?」と当局と交渉を重ねた結果、特別にサン・シール入学を認められたような次第です。
通常ですと、オルチュス塾からサン・ルイ校(リセ)へ進学、そしてサン・シール受験です。
そのいいかげんな設定の度会晴玄が、です。
「わしゃァかの土方歳三率いる隊を向こうに回して、一歩も引かん戦ぶりを見せたんよ?」 と自慢し、それを士官学校のフランス人同級生に話したところ鼻で笑われた、と怒るんです。
もうーねえ。
この軍事好きだという芸州人は、1867年1月12日(慶応2年12月8日)フランス軍事顧問団 が来日して、戊辰戦争の幕府側にフランス人が参加していたことをしらなかった!!!!とでも言うのでしょうか。
確かに度会は、函館までは戦ってない設定になっていますが、幕府軍がフランス軍事顧問団の伝習を受けていたことを知らない、軍事好きの日本人なんてありえませんし、ブリュネ大尉を中心としますフランス人の函館戦争参戦は、局外中立違反として、外交問題になっていたんです。一応、正名くんは、フランス人で、なおかつ日本の欧州総領事になっていましたモンブランの秘書です。知らないなんて、これまたありえません。
ブリュネ大尉のことは、函館戦争のフランス人vol1に書いておりますが、鈴木明氏の「追跡―一枚の幕末写真 」(集英社文庫)によれば、帰国後、当然ですが普仏戦争に従軍し、セダン近郊で捕虜になっています。釈放は戦後。
悲惨なセダンの戦場には、土方歳三とともに戦ったフランス人が他にもいました。
函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦)の一節を、以下、再録です。
ニコールは、ブリュネ大尉たちとともに降伏寸前の五稜郭から抜け出し、コラッシュも結局、フランス公使に引き渡されて、二人は海軍を首になり、フランスへ帰されます。ところがその翌年、普仏戦争が勃発。
二人とも、一兵卒としてフランス陸軍に志願し、セダンの戦いでニコールは戦死。コラッシュは負傷しますが生き残り、明治4年、手記を出版したわけです。
セダンの戦いは、フランス軍にとっては無惨なものでした。
白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理にて訂正しておりますが、ウージェーヌ・コラシュが宮古湾海戦の折りの手記を旅行専門誌に発表しましたのは、1874年(明治7年)のことです。
上、宮古湾参戦当時のコラシュを描いた手記の挿絵です。
ニコールとコラッシュが、セダンで同じ隊にいたのかどうか、詳しいことはまったくわからないのですが、見習い士官の身でともに脱走して、日本での冒険に身を投じました二人は、普仏戦争でも同じ隊にいて、あまりのやりきれない事態に気が滅入ったときには、日本での楽しかった(普仏戦争の現実にくらべれば、格段に楽しかったと思います)戦いの思い出を語り合ったりしたのではないかと、想像したくなります。
ニコールは、土方歳三と同じく、甲賀源吾が艦長をしておりました回天に乗り込んで負傷し、そして一兵卒としてセダンで戦死。
前田正名とそれほど年もちがわなかったこのフランス人の若者の、最期の瞬間に思いを馳せるとき、私は言葉を失ってしまうのです。
ニコールにとっての普仏戦争は、祖国防衛戦ですし、戊辰戦争とくらべて格段に重かったはずなのです。それが……、ありえないほどの思惑違いの連続だったのですから、無念というのでしょうか、納得できない激情を、死の瞬間までかかえていたのではなかったでしょうか。
壊滅 (ルーゴン=マッカール叢書) | |
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論創社 |
実在のニコールとコラッシュは同年代の戦友ですが、「壊滅」の主人公、ジャンとモーリスは、39歳と20歳。倍近くも年が離れた戦友です。
二人がいたアルザスの軍団は、プロシャ軍に退路を断たれる!という知らせに慌てて、プロシャ軍を見ることもなく、ミュルーズからベルフォールへ引き上げたのですが、兵士たちが極度の疲労の中で、四日ぶりに暖かい食べ物にありついたとき、とんでもない真相を知ることになったのです。
そもそも、彼らがミュルーズへ向かったときの「マルコルスハイムにプロシャ軍が向かっている」という郡長の知らせは、事実ではなかったんです。恐怖のあまりか、郡長が幻に踊らされた、ということでして、水鳥の羽音に驚いて逃げた富士川の平家のようなものでした。
そして、フニンゲンでプロシャ軍がライン川を渡った、という知らせは、確かに事実と言えば事実だったんですが、シュバルツバルト軍団(南ドイツ連邦の連合軍、と思います)のうち、ヴュルテンベルク王国の少数の分遣隊にすぎなかったんです。それが巧妙にも、攻撃と退却を反復して3~4万の軍団に見せかけていまして、その見せかけにおびえた退却途上、フランス軍はダンヌマリーの陸橋を爆破し、周辺の住民をパニックに陥れ、「卑怯者!」とののしられたんです。
「どういうことなんだ! 俺たちは敵と戦うために出張っていたんじゃないのか? ところが敵は一人もいないぞ! 四十八キロ前進、四十八キロ後退、それなのに猫一匹いないぞ! こんなことしても何にもならないし、冗談にもほどがあるぞ!」
兵士がそう大声で罵り、士気を無くしてしまったのは、無理もないことでした。
そしてまたベルフォールで一週間、なんの情報もないままに、軍団は放っておかれます。ドゥエ将軍が命令を要請しても、梨のつぶてだったのです。
ジャンとモーリスの部隊は、ベルフォール城塞の補強工事にかり出されました。
兵士たちは不満でしたが、しかしこれは、けっして無駄なことではなかったのですけれども。
ベルフォールの要塞は、基本ヴォーバン式要塞でして、広瀬常と森有礼 美女ありき10において、五稜郭の建築を思いついたのは仏軍艦コンスタンチン号が伝えたパリのヴォーバン式(稜堡式)要塞ゆえらしい、と書いたのですが、要するにあの五稜郭のような星形要塞が基本にはあります。
ベルフォールは、ヴォーバン式でも最新式でしたところへ、その後も手が加えられ、ついこの5年ほど前にも大規模な補強工事をしたところでした。
前回ご紹介いたしました松井道昭氏のブログ、「普仏戦争 地方の決起 第二節 ヴェルダン、ビッチュ、ベルフォール」にありますし、またベルフォールで検索をかけましても出てまいりますが、ベルフォールの街は、この補強されました要塞のおかげも被り、1万5千というわずかな籠城軍で、猛烈な砲撃にも耐え、自国政府の休戦命令が届くまで戦いぬくのです。
この勇猛な抵抗は、相手のドイツ軍にも称えられ、戦後、アルザスがドイツ領とされる中、ベルフォールはフランス領にとどまります。
一週間の要塞補強工事の後、ジャンとモーリスの部隊に命令が届きます。
部隊は家畜車にぎゅうぎゅうにつめこまれて、パリへ。
しかし、すぐにその夜、列車はランスへと向かいました。シャロンのマクマオン軍が、ランス郊外、広大なサン=ブリス=クールセルの平野に退却してきて野営をしていて、それにに合流したのです。
ランスはシャロンよりパリに近く、モーリスは、パリまで退却してプロシャ軍を迎え撃つことになったのではないか、と推測します。
ところが、ちがっていたんです。
前回書きましたように、パリカオ伯爵と摂政のウジェニー皇后が皇帝とマクマオン軍のパリ帰還を拒み、メスのバゼーヌ軍と協力すべくヴェルダンをめざすように指示を出したわけなのですが、プロシャ軍の位置もつかむことなく、ろくに状況もわからず、なんの準備もなく、十万を超える軍団にともかく早く動けと後方からわめくのは、混乱を招くだけのことでしかありませんでした。
見渡すかぎりに野営した軍が、いっせいに動き出した騒動の中で、モーリスはそれでも、今度こそ敵と面と向かい合って銃を撃ち、勝利を引きよせられると信じていました。
しかし、それはすさまじい行軍だったのです。
十万の軍には、なんの補給の準備もありません。街道筋の食料は、先に進んだ部隊が食べつくし、後を行く部隊には、ろくに食べ物も行き渡りません。プロシャ軍がどこにいるのかはわかりませんが、やがて、槍騎兵の噂を聞くようになり、姿の見えない敵の影が不安を呼び起こします。
実はプロシャ軍は普仏戦争において、槍騎兵を強行偵察に使うという新しい戦法を採用していました。機動力のある騎兵が、まずは敵情をさぐり、他の部隊の前進はその後のことなのです。
フランス軍の方は、ただ闇雲な前進です。
しかもヴェルダンへの前進はパリからの命令で、皇帝もマクマホン元帥も、決して納得していたわけではありませんでした。
モーリスは、空腹の上にあわない靴で足を痛め、絶望的な行軍の中、伍長のジャンに助けられ、心を通わせます。
モーリスは彼(ジャン)の腕に身をあずけ、子供のように抱えられて歩いた。今までいかなる女もこれほどまでに暖かい手を彼に差し伸べてくれなかった。この悲惨な極限状態にあって、すべてが崩壊し、死を目前にして、彼を愛し介抱してくれる人間がいると感じることは、彼にとってまさに甘美な慰めであった。そして農民は土にへばりついている単純な人間だと最初嫌悪していた心のうちの考えが、今になって感謝のこもった無限の愛情へと変わったのであろう。すべての教養や階級を超えた友情、自ずから敵の脅威を前にして、相互に助け合うという日常の必要性から深く結ばれる友情、これが世の始まりの友愛ではなかったであろうか? 彼はジャンの胸の中にその人間性が高鳴っているのを聞いた。そして彼は自分自身がそれを強く感じ、救い上げ、心服しているのを誇りに思った。一方でジャンは自分の感情をよく確かめもしなかったが、自分にとって発育をとげていないこの友人の中にある優雅さと知性を保護することに喜びを味わっていた。
いったいなにがしたいのか、行軍している本人たちにもさっぱりわからない迷走の末、モーリスの部隊は、スダン郊外、アルジェリー高原に布陣することになります。
セダン(スダン)城内(セダンに城があるわけではなく、セダンの街を取り巻く城壁の内、という意味です)にはナポレオン三世がいて、その本隊を守るための布陣といえばそうなのですが、すでにプロシャ軍は多人数で包囲を終えていて、袋の口を閉じられ、セダンに押し込められた、という状態でした。
この瞬間に大砲の最初の一撃がサン=マンジュから発せられた。まだ霧がもやもやと漂っている向こうで、何やらわからなかったが、雑然とした一群がサン=タルベールの隘路に向けて進んでいた。
「ああ、奴ら」がいる!」とモーリスが言った。彼はあえてプロシア軍と言わずに、本能的に声を潜めていた。「僕たちは退路を断たれたんだ。畜生!」
プロシャ軍の砲撃は激しく、部隊は三百メートル後退し、キャベツ畑で伏せて待機し続けます。
砲弾が炸裂して、最前列にいた兵士の頭を粉々にしてしまった。叫びを上げることもなく、血と脳漿が飛び散った。ただそれだけだった。
「気の毒な奴だ!」とサパン軍曹は蒼白になっていたが、取り乱すことなく、ただ呟いた。「だがこの次は誰だ!」
しかし誰もがもはや理性を失い、とりわけモーリスは言い知れぬ恐怖におののいた。
フランスの砲兵隊は、モーリスの部隊のすぐ近くにいました。しかし、あきらかに劣勢で、しかもプロシャ軍の砲隊は、新たにフランス軍が放棄した場所に陣取り、集中砲火を浴びせはじめたのです。
さらにこの恐ろしい砲撃戦は続き、伏せている連隊の頭上を越え、炎天下の誰も見えない死んだような焦熱の平野の中で激しさを増した。この荒涼たる光景の中で展開されているのは砲撃の轟き、破壊の大旋風だけだった。時間は刻々と過ぎていったが、それは少しも止まなかった。だがすでにドイツ軍砲兵隊の優勢が明らかになり、長距離であっても直撃弾はほとんどすべてが炸裂した。一方でフランス軍の放った砲弾ははるかに射程距離が短く、標的に届く前にしばしば空中で燃えてしまった。だから全員が塹壕の中で小さくなっているしか手立てがなかったのだ! 銃を持つ手をゆるめ、茫然自失し、溜息をつくしかない。というのも誰に向かって撃つのか? なぜならば相変わらず地平線上には誰一人姿が見えないのだ!
見方の砲隊はやがて沈黙し、敵の十字砲火は激しさをまし、次々に隊員が倒れ、しかし敵の姿は見えず、恐怖は極限まで達します。
そのとき、前方四百メートル、小銃射程距離内の小さな森から、プロシャ軍が姿を現しました。その姿は、すぐにまた森の中に消えたのですけれども。
だがボードワン中隊は、彼らを目撃してしまったので依然としてそこにいると思った。軍用銃が自ずから撃ち出された。最初にモーリスがその一撃を放った。ジャン、パシュ、ラブール、その他全員の兵士たちがそれに続いた。命令が下されたのではなく、大尉はむしろ銃火を止めようとした。するとロシャが気晴らしも必要だと言わんばかりに、大きな身振りを示したので、大尉は認めるしかなかった。さあ、ついに撃ったのだ! 一ヵ月以上も一発も撃たずに持ち回っていた薬包をついに使ったのだ! モーリスはそのことにとりわけ上機嫌で、恐怖も忘れ、銃声に恍惚となっていた。森の外れは死んだように音もなく、木の葉一枚そよともせず、プロシア兵も再び姿を見せなかった。そして兵士たちは不動の樹木に向けていつまでも銃を撃ち続けた。
なんの効果もない銃撃、といいますか、弾が無駄になるだけのことなんですが、銃を撃ち続けることで、不安と恐怖がごまかせるんですね。
砲撃にさらされるだけの長い長い待機の後に、ようやく前進命令が出ますが、すでにそのときには、前進どころか、逃げ惑うだけしかない状況に追い込まれています。
予備のフランス軍砲兵隊がそばに来て布陣し、その中には、モーリスの従兄弟のオノレ・フーシャルがいました。しかし、布陣間もなく、プロシャ軍の砲撃に吹き飛ばされ、沈黙します。
モーリスの歩兵部隊ではボードワン大尉も砲弾に倒れ、連隊長も死に、イイ高原のフランス軍騎兵隊は、自殺行為にも等しい壮絶な突撃をプロシャ軍にかけ、ほぼ全滅してしまいます。
ロシャ中尉が中隊の退却を告げ、部隊はセダンの街中に向けて敗走をはじめますが、そのとき、砲弾の破片がジャンの頭をかすめ、ジャンは昏倒します。
モーリスはそれを見捨てることができず、渾身の力を振り絞ってジャンを運び、川の水をくんでジャンの顔にかけます。そのとき、ふと遠くの谷間を見やると、朝見かけた農夫が、そのまま麦畑で働き続けています。
ジャンは気をとりもどし、そうなってみると傷はたいしたことはなく、二人は自分たちの中隊に追いつき、プロシャ軍の嵐のような砲撃がおいかけてくる中、ガレンヌの森をつっきります。
ああ、凶悪な森、殺戮の森だ! そこでは瀕死の樹々がむせび泣き、次第に負傷者たちの苦痛のうめき声が充満するようになってしまったのだ! 樫の木の下でモーリスとジャンは内蔵をはみ出させ、された獣のような叫びを上げ続けている一人のアルジェリア歩兵を目にした。さらに離れたところに別の兵士が火達磨になっていた。青い帯が燃え、炎は髪にまで及び、焼けこげていたが、おそらく腰のあたりをやられてしまい、動くことができず、彼は熱い涙を流していた。それから一人の大尉は左腕を引きちぎられ、右の脇腹は腿のところまで裂け、うつ伏せに倒れ、肘で這いながら、甲高く恐ろしいまでの哀願の声で殺してくれと頼んでいた。他にもまだ何人もがおぞましい苦しみの中にあり、草の小道にあまりにも多くの兵士たちが散らばって倒れていたので、通るときに踏み砕かれないように用心しなければならなかった。だが負傷者も死者もかまっているどころではなかった。倒れてしまった同僚は見捨てられ、忘れられた。後を振り返る余裕すらなかった。それが宿命だった。他人のことなどかまっていられなかったのだ!
森の出口で、連隊旗を持った少尉が、肺に弾丸を受けて倒れます。
「俺はもうだめだ。くたばるしかない! 連隊旗を頼むぞ!」
そして彼は一人取り残され、何時間も苔の上でのたうち回り、この森の甘美な片隅にあって、麻痺する手で草をかきむしりながら、胸からうめき声を上げるのだった。
フランス軍には、個々の兵士の勇気が欠けていたのでしょうか?
いえ……、決してそうではないでしょう。
圧倒的に強かったプロシャ軍ですが、一年に満たない戦争で13万人以上の死傷者(フランス軍28万以上)を出していますし、小銃同士の近接戦に持ち込めた場合には、プロシャ軍のドライゼ銃よりもフランス軍のシャスポー銃の方が射程が長く、フランス軍が善戦しているんです。
なかなか、近接戦に持ち込ませてもらえなかったんですね。
普仏戦争の戦死者は全体で25万人といわれますが、そのほんの2年ほど前の戊辰戦争の戦死者は、双方でわずか一万三千人あまり。
火力の差もありますが、まずなによりも動員された兵士の数が圧倒的にちがいます。
鳥羽伏見の戦いで、多めに見積もって幕府軍一万五千、薩長軍五千ですが、普仏戦争はセダンの戦いのみで、フランス軍が十万を超え、プロイセンはおよそ二十四万です。
徴兵制ゆえの大軍です。島国で海軍中心のイギリスは、第一次世界大戦まで徴兵制はしかず、この時点で、こんな大陸軍は備えていません。
いったい、フランスを見習って徴兵制を導入しました明治陸軍は、当初、どこの国のどんな攻撃に備えるつもりでいたのでしょうか。私には、明治初年からの長州の徴兵大陸軍指向が、さっぱり理解できません。
それはともかく、セダンの戦いがフランスにとって悲惨だったのは、倍の数の敵軍により、十万を超える軍が狭い地域に押し込められ、圧倒的な火力をあびせかけられたがゆえ、です。
人にしろ馬にしろ、あまりな数の死体で、勝者のプロイセン軍も、始末をつけることに難渋し、腐敗し、悪臭を放って、疫病が蔓延します。捕虜になったフランス軍は、これもその数の多さゆえに、なってなお、飢えに苦しみ、多数の死者を出します。
ニコールは宮古湾海戦で、回天に乗り組んでいまして、艦長の甲賀源吾は戦死し、ニコールも軽傷を負いましたが、少なくとも、数がもたらす悲惨さからは、まぬがれていたと思うのです。
命が助かったコラッシュは、普仏戦争が終わって宮古湾海戦をふりかえったとき、おとぎの国の戦いででもあったかのような、そんななつかしさを抱いたのではないでしょうか。
ところで、その回天が、実はプロイセン海軍が初めて自国で作った軍艦、ダンジック号であったということも、なんとも数奇な運命です。
回天について、詳しくはwiki-回天丸をご覧ください。
なかなか、話が正名くんにいきつきませんが、次回に続きます。
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