唐突ですが、告知です。
9月30日(土曜日)、鹿児島市民文化ホールにおきまして、「明治維新150周年記念シンポジウム パリ万博と薩摩藩」が開催されます。
1967年のパリ万博につきましては、これまで幾度となく書いてきたような気がするのですが、実のところちゃんとは書いていないみたいです。
プリンス昭武、動乱の京からパリへ。に、初期のころの記事はまとめてあります。
以降となりますと、アーネスト・サトウと龍馬暗殺に、以下。
モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3で詳しく書きましたが、薩摩藩は、モンブラン伯爵にフランスの地理学会で「日本は天皇をいただく諸侯連合で、幕府が諸侯の自由貿易をはばんでいる。諸侯は幕府の独占体制をはばみ、西洋諸国と友好を深めたいと思っている」という発表をさせ、しかもちょうどこの時期にパリで開かれています万博で、琉球王を名目に、独立国然と交易の意欲を示し、おそらくはモンブランの地理学会演説をアーネスト・サトウに提示する形で「英国策」を書かせて、それをまた和訳して、「英国は天皇を頂く諸侯連合政府を認めるだろう」という感触を、ひろめていました。
薩摩ボタンはだれが考えたのか???の、以下。
SATUMAの名がヨーロッパに知れわたったのは、どうも、慶応3年(1867年)のパリ万博において、つまりモンブラン伯爵がプロデュースして、薩摩琉球国名義で幕府に喧嘩を売ったパリ万博、ですが、朴正官作の白薩摩錦手花瓶を出品して、好評を博してからのようです。
以上、断片的にしか触れてないのですが、私がこのブログを継続的に書き始めました最大の動機が、モンブラン伯爵ですから、1967年のパリ万博の様相は、このブログに通底していますテーマの一つです。
下の動画で、わかりやすく、かつ、かなり正確にまとめてくれていますので、ご覧になってみてください。
「パリ万博・鹿児島紡績所操業開始・異人館完成」解説映像
このときの薩摩藩の外交につきましては、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編をご覧ください。
日本近世社会と明治維新 | |
高木不二 | |
有志舎 |
高木不二氏の「日本近世社会と明治維新」は、大胆な推論をなさっていて、目から鱗、でした。名著と思います。
簡単には、薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵に以下のようにまとめてあります。
これまで幾度も述べてきましたように、この慶応3年の春、薩摩は岩下方平を「欧州使節並仏国博覧会総督」としてパリに派遣し、モンブランを外交顧問にして、幕府と派手な外交合戦をくりひろげていたんです。高木氏によれば、薩摩は、フランス、ベルギーだけではなく、イギリスとも、琉球国名義で、和親条約を結ぶつもりでいたんです。それには失敗しましたが、ともかく幕府のフランスでの借款はつぶしました。
幕府全権公使・向山栄五郎外国奉行は、モンブランが作った薩摩琉球国の勲章がフランス要人にばらまかれていましたのを憂い、「薩摩が勝手に条約を結ぶような事態になりかねない」と上申書を日本へ送っていますし、四候会議瓦解直後の京にまで、その話は伝わっていました。慶喜の腹心だった原市之進は、訪ねてきた越前藩士に、薩摩琉球国勲章の図案を示して、「これが薩摩の討幕論の証だ。あまりに憎らしい仕業だ」と言ったというのです。
パリ万国博覧会とジャポニスムの誕生 | |
寺本 敬子 | |
思文閣出版 |
最近、上の寺本敬子氏の著作が出版されたようでして、さっそく注文したのですが、まだ届いてません。高価ですが、おもしろそうです。
追記 届きました! シンポジウムで講演されます著者の寺本敬子氏は、フランス近代史、日仏交流史がご専門で、日本史の方ではないようです。それだけに、フランスの史料をしっかり読み込んでおられて、非常に興味深い著述が多く、特に、今現在の私にとりましては、徳川昭武の通訳を務めました、おイネさんの異母弟、アレクサンダー君の動静に詳しいのが、嬉しい限りです。まだ、とばし読んだだけですが、モンブラン家のことも、かなり詳しく、正しく書かれておりました。ただ、幕府とフランス(ロッシュ公使個人)の独占交易と、薩摩藩の政治的思惑につきましては、あまり踏み込んではおられませんので、そこらあたりに物足りなさはありましたが、画期的な研究書、と思います。
幕府のパリ万博一行の写真ですが、これ、昔の大河「獅子の時代」で、印象的に再現してくれています。
獅子の時代 第01回「パリ万国博覧会」
日本の民間業者が開いた茶屋は、大きな評判をよび、ジャポニズムの呼び水となります。
見出しの写真はナポレオン3世妃・ウジェニー皇后で、篤姫やエリーザベト皇后より、10歳ほど年長です。パリ万博の中枢で咲き誇った、シンデレラでした。
二人の皇后とクリノリンに書きましたが、ウジェニー皇后がひろめたともいえます巨大なクリノリンのドレスは、しかし、このパリ万博直前に、流行の最先端ではなくなります。普仏戦争前、幕末も押し詰まった日本が最初に参加した万博は、この時代のパリの最大にして最後の華やぎ、でした。
9月30日のシンポジウムは、申し込み受付9月20日まで。
無料ですし、まだ少しは空きがあるそうですので、ぜひ。
同時に黎明館では、企画展・1867年パリ万博150周年記念「薩摩からパリへのおくりもの」が催されます。
私は、なんとかかんとか都合をつけまして、参加する予定でおります。
私、シンポジウムにまいりました。お母様が紹介され、ご挨拶されたのを覚えております。
岩下長十郎くんと新納武之助くんのフランス留学は、私にとりまして、モンブランを調べるまではまったく知らなかったことで、衝撃でした。
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/4548d0eb2317b556d0c5b24fa4c36c11
中岡慎太郎が日記に「聞、岩下、新納、各知行五百石を出し、小児を外国に出す云々」と記しているのも、このときはじめて知りまして、びっくりしました。
貴重な情報をありがとうございます。史料がまとめられる日を心待ちにいたしております。
岩下方平の子孫とは昭和44年以降連絡が取れてなかったのですが、一昨年青山霊園のお墓参りをした際に岩下姓ではない別の姓表記もあったので、それを元に独自調査をしてFB上で見つけ出し、昨日は所沢で昭和44年に杉並の大円寺(薩摩藩菩提寺)での会合以来、岩下方美と岩下方平子孫が集いました。
その様子はいくつかツイートしましたので下記にもURL貼ります。
https://twitter.com/socialpreneur/status/1028958896201723904
https://twitter.com/socialpreneur/status/1028960321178750976
https://twitter.com/socialpreneur/status/1028961516291117056
https://twitter.com/socialpreneur/status/1028964068990697477
岩下方平は息子長十郎が早くに亡くなり、祖父である方平が孫の家一を1歳から育てた形に近いので祖父の話が直接孫に伝わっています。そのため多くの話が伝わっています。
岩下方平が息子長十郎をパリ万博使節団に同行させたのは、薩摩出港時点で既に日本が大きく変わる事を予期していたためでした。そしてかなり厳しい形で、長十郎に嘘をついて3日先に薩摩へ帰国しています。旅行に言ったら子供だけ置き去りにされた形です(笑)。厳しい・・・。しかしその期待通りにはならず、長十郎は早死してしまってます。
岩下方平の日記や岩下長十郎がフランス語で書いた日記がまだ玄孫の実家に眠っているそうです。岩下方平の日記については一度阿川弘之氏に情報提供していたそうですが書籍化するまでのご感心はなかったそうです。長十郎の日記は未発表で、パリ万博当時やその後の長十郎の動きや日本の刑法に関する新たな発見を期待できるので今後が楽しみです。いつ公開できるかは色々と家庭の事情もあるため未定ですが、私が岩下方平の書簡等(新たに入手したもの)を黎明館へ寄託しているので、それをお伝えし子孫の手元にはコピーを保管し原本は最終的に鹿児島で保管してもらうのがベストである仰ってました。
岩下方平と大久保、西郷、そして西南戦争のコメントを読みましたが、岩下方平は大久保とも非常に多く手紙のやり取りをしており、お互い馬が合わない事はあったのでしょうけどそれぞれ大切な存在だった事に違いはないと思います。
西南戦争前に岩下が西郷と話をしようと鹿児島へ向かった事があったのですが、途中で新政府勅使によって止められてしまい岩下としては共に薩摩で育ち、維新を成し遂げた大久保と西郷の仲を修復する事なく西郷を亡くしてしまいました。ただしこの話には今回新たな発見があり、岩下が西郷に会うのを阻止したのは大久保でも新政府でもなく、明治天皇が「行ってはならぬ」と命じたからでした。
岩下方平は麝香間祗候という立場で明治天皇とは週一共に食事をして明治天皇からも頼られた存在でした。明治維新前からも方平は公家と非常に多くのやり取りをしており、京都御所においては留守次官をしていたりとやはり皇族に近い立場だった様です。
私の先祖である岩下方美含め方平の養子先も基本藤原朝臣で、別の名を藤原道◯という形で皆名乗っています。私の高祖父は藤原道英(岩下方英)と戊辰戦争の際撮影された写真に記されてます。方平(みちひら)と読むのは道(みち)という背景があります。まあこれが公家との関係にどう関わっているかまでの背景は分かりませんが(笑)
華族制度については岩下は伊藤博文が主導していた華族制度と長州の仲間をどんどん華族にする動きに反発して本来は公爵でも良いのに爵位を放棄しています。しかしこれも明治天皇が「それではダメだ」という事で子爵に落ち着く形となりました。この爵位について明治天皇が言及したのは岩下だけという玄孫のお話でした。
宮内庁も岩下関連資料を所有しており、家一の娘は父である岩下家最後の子爵が亡くなった際宮内庁を訪れた事があるそうです。全ての華族に与えられているのかもしれませんが、宮内庁に入れる許可証というのが実際にまだありそれを使うと入れる(いつでも?)そうですが一度使用しただけだそうです。それを使うと宮内庁の岩下関連資料を見れるのかもしれません。
岩下家一が逗子で経営していたなぎさホテルには今上天皇も若かりし頃葉山から遊びに来たり、カレーを食されたりしてました。また大正天皇崩御の際には16宮家がなぎさホテルに滞在しする等皇族と頻繁な交流があったのですが、この背景には岩下方平が明治天皇と仲が良かった事も関係しているのかもしれません。
また岩下方平は当時かなり資産を持っていたそうで、国会議事堂の土地は岩下の土地だったという話が伝わってます。土地を提供する代わりにいくつか土地をもらったそうですがその後どうなったかは子孫も不明です。鹿児島にも蔵を5つ持っていたそうですが、東京に出てきてしまったのでそちらも蔵の中身も不明のまま。ただし家一が結構遊び人でして、丸の内ホテルや第一ホテル、なぎさホテルと手がける中で結構資産を使い果たしていた様子でした。
岩下家に関する資料の他、東郷平八郎の写真もいくつか実家に眠っているそうです。東郷平八郎は岩下家一の叔父という繋がりです。
お互い連絡先を共有してますので、今後10年、20年の中で新たな情報を出せるようにしたいと考えております。
おっしゃるとおり、半次郎役の中村瑠輝人さんが素敵でした。
子役が良すぎると大人役への不満が増加しそうで困ります。
第2回が未見なので、あれこれ言うのはいけないとは思いますが、やはりイトさんの黒木華さんが出ているのに違和感が押さえられません。半次郎より5歳年下のイトさんが大人で、半次郎が子役(笑)。
阿部正弘の藤木直人さんも期待していましたが、ややがっかり。他のキャストも不満満載(笑)。
今日の西郷さんも赤山さんに頼んで、他力本願かい、とツッコミ入れたくなりました。
家近良樹氏の「西郷隆盛 維新150年目の真実」に市来四郎の桐野利秋評がチラリ、書かれていました。
いまのところ、「花燃ゆ」ほどの嫌悪感はないのですが、大筋で、ちょっと変かも、という点は2点。イトさんの年齢も関係してくるのですが、「女は損」とわめいたイトさんは、あんまりにも昭和的で、ため息が出ましたが、子役のうまさに助けられましたね。お由羅の描き方のあんまりな通俗性とあいまって、女性視点が裏目に出ていると思います。
あとは、大久保の描き方と、鈴木亮平が西郷を演じることの問題点(子役はこちらもよかったです)。これは、西郷の最後の描き方にも通じてきますから、ほんとに不安で、一応、電話で中村さまにも危惧をもらしたのですが、中村さまは「まだ録画を見てません」というお話しで、「NHKに半次郎を出して欲しくないので、明治の初期までで終わってくれるといいですね」
とのことでした。
私は、なにしろ安定して通俗的な林真理子が原作ですから、「宝塚舞台で取り上げられた半次郎をとりあげないわけはないよなあ」と思ったのですが、それにしましても、これほど早く、とは思いもよりませんでした。不安です。
ともかく、なんとか今月中には、ちゃんと感想をあげるつもりですので、また読んでやってくださいませ。
また先月の投稿の際にはお忙しい中、貴重な情報をご紹介頂きまして本当にありがとうございました。
さて、年が明けましてとうとう「西郷どん」が始まってしまいました。
これまでの動向について郎女さんがどのように受けとめていらっしゃるのか、とても興味がありますので、お時間のある時にでも是非お聞かせ頂ければ幸いです。
ところで明日の第3話では「半次郎どん」が登場するようですね。
http://www.nhk.or.jp/segodon/story/03/
(以下、NHK公式サイトより)
第三回「子どもは国の宝」
「大家族の西郷家に四男が生まれ暮らしはますます苦しくなり、吉之助は父・吉兵衛と商家から大借金をする。そんなとき、武士の身分にありながら、貧しさのため土地を捨て一家で夜逃げする少年に出会う。一方、斉彬は意を決し、父・斉輿を隠居に追い込もうとするが、斉輿と由羅は大逆襲に転じる」
(中略)
「そして、剣豪の少年・半次郎が登場します。この少年がやがて明治政府の要人になる......!?そしてラストには、ある衝撃の事実が......!! 」
ちなみに私の感想としては、ドラマとは別の、年末年始に放送された「NHKの大々的な幕末薩摩・西郷キャンペーン」番組の中には稀に参考になる部分もありましたので、その点は興味深く見てはいるのですが、ドラマの内容は、まだ2回なので採点不能です。
幕末薩摩の国際的環境に全く触れていない点と、「岩山イトの年齢は一体どうなってんだ?」という点など、いぶかしく感じている点は色々とありますけど。
お忙しい中、貴重な情報をご紹介頂きまして、本当にありがとうございました。
郎女さんの素晴らしい見識に脱帽致します。
おかげ様で桂久武という人物は「おそらく好人物なのであろう」という事が多少は理解できたような気がします。
こういった地味な「内政・行政」畑の人物が大河で大きく取り上げられた例としては、3年前の楫取素彦(小田村伊之助)を思い出して嫌な予感がしてしまう所ですが、桂久武の場合は小田村と違って最期まで西郷と運命を共にするのですから、武士としての立派な生き様もおそらく描かれる事になるのでしょう。
(しかし制作するのがNHKですから、その点、大いに不安は残りますけど)
私は「翔ぶが如く」の「西郷と大久保」の描写について、DVDで全編見た時にはドラマの内容の面白さから素直に感動はしましたけれども、その後実際の史実を勉強していくにつれて、確かにいろいろと「誤差」がある事にも気が付きました。とりあえずあのドラマは良くも悪くも「大久保利通のイメージ回復」にはそれなりに寄与したのだろう、という気が私はしています。
岩下方平の言葉については、私の心境としてはちょっと複雑な感じです。
なるほど確かに維新が成った時点で大久保が政界から身を引いていたならば、西南戦争は起こらなかったかも知れません。
歴史のIFは慎重に取り扱わねばなりませんが、維新直後に大久保がいなくなっていたとしたら(それが明治初年頃のどの時期であったかにも依るのでしょうが)おそらく再度幕末の騒乱に逆戻りしていた可能性もあったのではないでしょうか。その結果、西南戦争のような九州限定の戦乱にとどまらず、戦乱は再度全国に飛び火した可能性もあったかと思われます。
(本来それも、西南戦争の一つの目的だったとは思いますけど)
確かに大久保がやった不平不満分子の潰し方は陰険でしたから、非難を浴びるのは仕方が無いと思います。しかし大久保自身も、きっちり西南戦争の翌年に始末されたのだから、それはそれで「歴史の落とし前のつけ方」としては妥当な形だったと言えるのではないでしょうか。ただし、倒幕を実行した武士も含めて、これで武士が事実上消滅してしまったのだから、歴史の皮肉な巡り合わせだとは思います。
ちなみにNHKとしては琉球の実情を語るのも避けたい所でしょうが、もっと問題なのは、それこそ「征韓論」をどう描くのか?という部分でしょう。
なにしろ今般の北朝鮮情勢の問題、またネット上で頻繁に見られる嫌韓的風潮の問題もありますし、よくもまあこんな時期に西郷隆盛を主役にしたものだと思います。もちろん西郷自身が征韓など望んでいなかった事は近年のドラマ制作ではごく普通になっていますから、その点では問題はないのでしょう。
それでも西南戦争の最中にパークスと会談した従道が「今から思えば朝鮮との戦争のほうが最善であった」みたいな事を語り、一方パークスは「朝鮮と戦争するよりも内乱で済んで良かった」とやり取りをしていますが、こんなのは多分ドラマでは描けないでしょうね。
ウィリスについては、今年5月に鹿児島に行った時に城山入口の交差点でこんな銅像を見かけました。
http://www.kagoshima-yokanavi.jp/data?page-id=2487
現地でこれだけ親しまれているのであれば、ひょっとすると今回のドラマでも出てくるのかも知れませんね。
https://bookshelf.wisebook4.jp/flash/Ehimeliving/17928/#1
桂久武、ですよね。私もいまひとつわかってないのですが、鹿児島県資料・桂久武日記が昭和61年に刊行され、一般に読みやすくなりましてから、少々、見解が変わってきたのではないでしょうか。今回、検索をかけて知ったのですが、なんとpdfになっているようです。
http://www.library.pref.kagoshima.jp/honkan/files/2017/03/%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E3%80%80%E7%AC%AC26%E9%9B%86_%E6%A1%82%E4%B9%85%E6%AD%A6%E6%97%A5%E8%A8%98.pdf
解題にもありますが、この日記で、現在もっとも注目されていますのは、いわゆる薩長同盟の締結で、木戸が上京していまとき、京都にいあわせていたことじゃないんでしょうか。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/1c67865eb477311bc52f65b4e2d8fdf7
上に書いている以下の部分。
私は、この時点において、薩長盟約締結は、少なくとも久光には隠されていて、だからこそ文章化されず、木戸が不安を感じていたのだと思います。桂久武は、見て見ぬふりをするために盟約締結に同席せず、その日の日記にそのことはなにもかかなかった、というわけです。
これはあらためて、そうだったと考えています。
桂久武と久光との距離からしましても。
もう一つ注目すべきは、五代との関係です。
モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編
上に書きました以下の部分。
高木氏に感服いたしましたのは、五代の商取引を、外資導入による拡大路線、としているところでして、これが主には生糸の問題でうまくいかず、五代が藩内で孤立した状況も、玉里史料を主な材料として、克明に述べられています。
慶応三年の初めころ、ですが、五代を支持していたのは桂久武一人であり、小松帯刀を筆頭に、吉井、汾陽(かわみなみ)、伊地知壮之丞 、松岡十太夫といった藩の経済官僚(オランダとの取り引きをメインにしていたと考えられます)が、そろって反発していた、というのは意外でした。
薩摩藩の倒幕運動が、ヨーロッパにおきます独自外交にまで発展したにつきましては、薩摩が琉球を植民地にしていたことが大きいと思うのですが、ここは、NHKとしましては、絶対に避けて通りたいところでしょうね(笑)
まあ、海音寺潮五郎氏の著作では、桂久武は非常な好人物として描かれ、大久保利通は疑惑つき、なんです。感触としましては、海音寺潮五郎氏の見解をベースにするんじゃないでしょうか。
原口泉先生、実はシンポジウム「パリ万博と薩摩藩」にも出ておられたんですが、なんで???って感じでした。パリ万博開催当時の薩摩藩留学生について、とんちんかんなまちがいをなさっておられましたし。まあ、重鎮でおられるから、どこでも顔を出されるのは、仕方がないんでしょう。
私自身の見解としましては、西郷と大久保の友情関係、というにつきましては、「翔ぶが如く」の見解には、相当な違和感がありました。岩下方平が明治20年ころに書き残した手記には、要するに「明治6年政変は西郷と大久保の大喧嘩で起こった。大久保は非常の人だったのだったから、維新が成った時点で政界から身を引くべきだった。そうすれば西南戦争の悲劇は起こらなかった」というようにあるんですね。岩下方平は中央に残った人で、その人にして、こうです。
私は、大久保の新政府内における活躍として、陸の長州に対抗する「海軍と海運の整備推進」は大いに認めますけれども、人柄としては、どうだったの???と大いに疑問です。
願わくば、鹿児島に帰った人々も産業振興に励んでいたことを、桂久武を語ることで、少しは語って欲しいなあ、と思います。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/ea6bf55d5fcd27a06679689d7a1a93a7
上のコメント欄に書いております、以下の部分。
西南戦争前の鹿児島には、紡績工場が有り、武器工場が有り、切子も作っていましたし、奄美大島には最新の砂糖精製工場もあり、大阪と鹿児島を結ぶ海運業もうまくいっていたようです。
さらに付け加えまして、医学校にはウィリアム・ウィリスがいて、紡績工場にもイギリス人技師がいました。正確に、そういう情景を描いていただきたいものです。
半年前にも書き込み致しましたが、例の「西郷どん」の番組開始まであと約2週間と近づいてきております。
そこで郎女姐様にお尋ねしてみたいと思いまして、不躾ながら再度書き込ませて頂きます。
今回の「西郷どん」でも、例によって時代考証は「あの原口泉先生」なのですけれど、NHK公式HPで原口先生が以下のように述べています。
http://www.nhk.or.jp/segodon/weekly/03/recipe02.html
今回の「西郷どん」の注目人物は「桂久武」である、と述べています。
(月照と篤姫の事はとりあえず脇に置くとして)
おそらく前回の「篤姫」で意外性のある役どころとして小松帯刀にスポットを当てたように、今回はそれが桂久武になるように思われます。
うーむ…。
確かに桂久武の名前は薩摩関連の本を読んでいると時々見かけますので初耳という訳でもないのですが、その人物像と言いますとどうもイマイチ、ピンときません。「翔ぶが如く」(大河ドラマ)では全く出番がありませんでした。年末時代劇の「田原坂」では奄美大島の場面でのみ出番があったようです。
私にとってはほぼノーマークな人物だったので、その選択の良し悪しはともかくとして、ちょっと意外な感じがしております。改めてちょっと調べてみると西南戦争に関する部分に「見所」があるようですので、まあ、それはそれで納得はできるのですけど。
私が愚考しますには、「西郷との友情関係」という部分を取り上げるにあたって、「翔ぶが如く」(大河ドラマ)では「西郷と大久保」という関係を強調するが故に、敢えてドラマの中から桂久武という人物を消し去ってしまったようですが、今回は「西郷と大久保」といった使い古されたパターンは捨てて敢えて「西郷1人」に主人公を担わせる訳で、そうであれば桂久武にも出番を与えられると踏んで、このような選択をしたのであろうか?と思うのですが。
(しかし、私は桂久武の人物像はよく分からないのです)
郎女姐様におかれましては、この点、いかがお考えになりますでしょうか。
相変わらず長文の書き込みで失礼致しました。
寺本敬子氏のご著書、借りられました。
28日までに寺本氏以外に図書館に返す本もありますので、こちらも必死に読まないと不味い状態です(笑)。
飛行機の時刻まで鹿児島県立図書館で寺本氏の本を読みたいと思ったのですが、貸出中だったんです。
では、鹿児島で。
私は今、仕事の原稿で、悪戦苦闘中!
なにがなんでも今週中に仕上げなければ、鹿児島へ行けませんから必死なのですが、苦戦です。
ごいっしょすることを楽しみに、がんばります!
本日、西郷どんのエンコに参加し、8~9km歩き、夕方は惜別譜演奏会で陸上自衛隊(国分)の演奏を聞いて、南洲翁を偲ぶ提灯行列に参加しました。
鹿児島に着いてから吉満氏にお電話しましたが、「西南之役官軍薩軍恩讐を越えて」の慰霊碑の除幕式で吉満氏にお会いできました。。
村田新八氏ファン様にもお会いできて、面白い(?)お話も伺いました。帰京したらお電話します。
寺本敬子氏のご著書は図書館の順番待ちです。
鹿児島に行く前に少しでも読めれば嬉しいのですが。論文「一七八七年パリ万国博覧会における前田正名の役割」は読みました。
でも、今回のシンポジウムには関係ないですね。(笑)
「パリ万博と薩摩藩」と同日同時刻に宝山ホールで、桐野作人氏の小松帯刀についての講演があり、鹿児島はイベント目白押しで大変な状態です。