そのー、私が幕末にのめり込みましたきっかけは、桐野利秋(中村半次郎)です。
翔ぶが如く〈7〉 (文春文庫) | |
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文藝春秋 |
司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」の桐野像に疑問を感じまして、史料を読むようになったわけですから、幕末からの陸海軍史、徴兵制度、銃器につきましては、そこそこ、調べております。
それで、続 主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』あたりに書いておりますが、私が来年の大河「花燃ゆ」に関心を持ちましたのは、萩の乱におきます玉木家、乃木家への思いが、けっこう大きく影響しています。
ともに維新の大きな主体となりました長州と薩摩。その地元で起こりました、萩の乱と西南戦争が、どうしてあれほどに規模がちがうのか、ということを説明しますのに、私は、イギリスVSフランス 薩長兵制論争に書いておりますように、「長州の士族はわずか3000戸で、薩摩の43119戸にくらべたら十分の一にも足りない人数」であることと、そしてなにより、「消された歴史」薩摩藩の幕末維新に書いておりますように、「薩摩では藩政時代から、基本的に銃は、藩がまとめて買ったものを個人に買わせるので、私物」ということを、持ち出します。
士族反乱、といいますか、士族が少なかった地方では庄屋層を多く含んでいますので、知識階級、といった方が近いと思うのですが、その知識階級が明治新政府に反対する反乱は、実のところ、全国各地で起ころうとしておりました。
半神ではない、人としての天皇をに書いております東北地方の真田太古事件、民富まずんば仁愛また何くにありやに出てまいります越後の大橋一蔵の企て、など、東日本にも火種はありました。
しかし、やはり主には西日本、それも九州を中心として、多くの事件があったのですが、西南戦争を除きますすべての蜂起が、簡単に潰えてしまいましたのは、銃と銃弾を奪うことに失敗したり、奪えても少量で、全員にいきわたらなかったり、ということも大きかったんです。
ところが鹿児島では、士族、郷士はみな銃を私有し、銃弾も蓄えていました。
これは藩政時代からのことでして、「忠義公史料」などを読んでいますと「貧乏な者には藩の仕事を与えて、今回藩が買った新式銃を買えるようにしてやれ」とか、いくつも命令書を見つけることができます。
なぜかと言いますと、城下士も含めました大多数の薩摩藩士が、開拓農業にはげんでいたからです。
イノシシや熊、オオカミなど、昔から、農作物や家畜を害する獣は多くいまして、いまでも山地の農家は、普通に猟銃を備えて、猟銃会に入っています。銃と火薬は、農業用品だったんです。
検索をかけましたら、「日米銃砲規制の歴史的・社会的背景」という論文が出て参りまして、江戸時代、大方の藩では、農民の鉄砲は許可制でした。
その延長線で、といえると思うのですが、農業にいそしみます薩摩藩士は、士族ですから、いざとなれば武器になりますし、藩が私有を奨励し、購入を手助けしていたような次第でした。
もちろん、銃には火薬と弾丸が必要でして、火薬なぞは個々の士族が家に備えていたらしいんですね。桐野利秋の伝記に、子供の頃、火薬箱で遊んで爆発させてしまって、外祖父に叱られた、みたいなことが、出てきたりします。
このように、薩摩における火薬や銃弾は、農業用品の側面を持つわけですから、「薩南血涙史 」に「火薬庫はもともと藩のものではなく、藩士が金を出し合って火薬弾丸を蓄積しておいたものだった」というようなことが出てきますのも、もっともなんです。弾薬も藩の管理下にはなく、下級藩士の共同管理だった、というわけです。
で、西南戦争の導火線になりました事件が、赤龍丸の火薬弾丸移送事件です。
定説では、藩が消滅しました後、薩摩藩の火薬や銃弾の集積所は、一応、陸海軍の管轄になったというんですね。
旧薩摩藩士たちにしましたら、「もともと藩のものではなく、俺たちが金を出し合って集積しているんだから」ということです。
一般的には、「明治新政府(大久保利通が中心になった施策と推論することが一般的です)は、薩摩の力をそぐために、事前の届け出も無く(中央の陸軍や海軍が鹿児島に集積しました弾薬を必要とする場合は、事前に運搬する旨、鹿児島県庁に届け出ることが義務づけられていました)、夜中にこっそりと、弾薬を赤龍丸で運び出したことに激高した薩摩士族が、各地の火薬庫から弾薬を運び出した」と言われていまして、「弾薬の運び出しは大久保利通の挑発であり(薩摩出身、西郷隆盛の親戚で、海軍の川村純義は挑発になるから反対した、ともいわれます)、火薬庫を襲った元藩士たちを罪人にすることは人情として忍びないので、西郷隆盛は立ったのではないか」というような、推測もなされていました。
私にしましても、あんまりこの定説を疑っていたわけではなかったんです。
「薩摩藩士にとっては、農具の一種でもある火薬と弾丸を、こっそり盗み出していくなんてものすごい挑発だわ。開戦のきっかけを、政府側から作ったわけよねえ」と、理解していたわけです。
で、だいぶん以前ですが、偶然、NHKのBSプレミアム英雄たちの選択「西郷隆盛の苦悩 なぜ西南戦争は勃発したのか」 の再放送に出くわしました。
私は大方、明治6年政変や西南戦争をあつかった歴史バラエティは、ばかばかしくなってきますので、見ません。しかし、「ちとはNHKもまともになっていたりするかしら」と、検証のため録画しました。
で、つい先日、他のことをしながら見流しておりますと、「武士の誇りを守るために士族反乱は起こった」とか、鼻で笑いたくなります話が連続していたのですが、そういう俗説は世間に蔓延していますし、まあ取り立てていうほどのことではありませんでした。
しかし、私にとりましてはちょっと、見過ごすことのできないことを言っていたんですね。
銃も火薬も弾丸も、薩摩士族にとっては農具の一種、ということは、あまり知られていませんから、まあいいのですが、「薩摩藩士たちは各地の弾薬庫を襲って武器を奪い取った」と言い、動画の方も、なにやら銃でも入っていそうな箱を運び出していて、私は思わず反射的に、「銃は私物だから、家にあるの。そんなとこに置いてないわ。運び出したのは弾薬だけでしょうに!」と叫んでしまったんです。
しかし、ちゃんと確かめなければと、もう一度見返してみますと、政府側が赤龍丸で奪ったものについても、これまで漠然と「火薬と弾丸」と言われていたこととはちがって、「薩摩は集成館で最新式のスナイドル銃の弾など、日本海軍の弾薬の多くを製造していて、明治10年1月29日、政府は夜間密かに、鹿児島に蓄えられていた弾薬を運び出した」と、驚愕の話でした。
「えっ!!! スナイドル(後装銃)のボクサーパトロン(金属薬莢)を集成館で作っていたの??? 国産できていたって???」
と驚きますと同時に、しかし、「集成館で作っていたんだったら、いくら造りためたものを政府に盗まれたからって、また造ればいい、ってことにならないの???」と、疑問でした。
私がこれまで知っていました俗説では、「ボクサーパトロンは輸入に頼っていたので、旧薩摩士族たちは後装銃を持っていたにもかかわらず、すぐに弾丸切れとなり、前装銃しか使えなかった」ということでして、すっかり信じこんでいました。
ずいぶん前に撮ったものですが、上が鹿児島の尚古集成館で、下はそのそばにあり、イギリス人技師などが住んでいた異人館です。
尚古集成館
幕末、薩摩の集成館事業は、佐賀藩と並ぶ近代化事業でして、考えてみれば、ボクサーパトロン製造もありえないことではなかったでしょう。
西南戦争が始まりますまでの鹿児島は、紡績工場のイギリス人技師や医師(ウィリアム・ウィリス)が住み、薩摩焼き輸出ブームに沸き、市来四郎は会社を設立して薩摩切子を作り、と、ずいぶんとハイカラな土地でした。
「集成館でボクサーパトロンを造っていたって、NHKはいったいどこから話をひっぱってきたの???」と検索をかけてみました。
出てきました! なんと!!! Wikiだったんです。
wiki-西南戦争 wiki-スナイドル銃
しかも。NHK、Wikiの部分拝借して嘘を放送するなよ!!! アジ歴の陸軍省大日記によれば、「赤龍丸が薩摩からこそこそと盗み出したのはスナイドルの弾薬製造器械で、命令したのは山県有朋」だったことが明白じゃないのっ!!!
ひいっ!!! 陸軍省大日記に、ちゃんと史料があったんですね。
改めて、基本資料とされる西南記伝を見てみました(中巻1です。近代デジタルライブラリーにあります)
西南記伝 (〈中〉1) (明治百年史叢書 (83巻)) | |
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原書房 |
うかつでした!!! 引用された市来四郎の日記に、ちゃんと書いてましたわ。
「当初磯(いそ)造船所、ならびに火薬所へ、製造仕りし大砲、ならびに諸要具類、弾薬などいっさいすべて、東京または大阪城へ積みまわしあいなりたりと」
この「諸要具類」というのが、ボクサーパトロン製造機械だったんですねっ!!! しかもこの市来四郎の書き方では、鹿児島県が製造して、海軍、陸軍へ納めていた、ともとれますし、製造機械を寄付なんかしてないでしょう。夜中にこそこそ、陸軍省は泥棒もいいとこじゃないですか。山県有朋って、本当に松陰の弟子なんでしょうかしらん。私には、信じられません。
私、どうも、もう一度ちゃんと、西南戦争を勉強し直さなければならないようです。
明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫) | |
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講談社 |
丁丑公論も、ちゃんと読み直さなければと。
追記 福太郎さまのお教え通りに、松尾千歳氏の「西郷隆盛と薩摩」に、集成館でボクサー・パトロン製造の件が載っていました! これも、うかつでした! 「忠義公史料」明治2年5月13日条、村田新八らがオランダ商社に、イギリス製のボクサーパトロン製造機械を注文しているそうなんです。忠義公史料のこのあたりは、とばし読んではいたはずなんですが、完璧、見逃していました。
西郷隆盛と薩摩 (人をあるく) | |
松尾 千歳 | |
吉川弘文館 |
最後に、愛媛が誇ります紅マドンナを、お歳暮がわりに、せめて写真でご紹介します(笑)
みずみずしいゼリーのようで、ほんとうに、おいしいんです。
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幕末に興味がある中年おじさんです。
この前吉川弘文館の『西郷隆盛と薩摩』を読んでいたら、
明治2年に薩摩藩がパトロン製造機械を買っていることや、同4年の小銃弾製造能力が一日15000発。備蓄量が小銃弾370万発(多くがスナイドル用)と書かれていました。
私学校が襲撃した時、守っている海軍兵が弾薬庫を水浸しにし、奪えたのはわずか30万発とも。
薩摩に対するイメージを覆されました。
他藩が早く反乱を起こしたのはやはり禄を取られたら、生活が成り立たない。ですからすぐ反乱が起こったのです。工場の部品を持ち去っても組み立てて製造できるまでには時間がかかる。確か2~3ヶ月後に製造開始となったように記憶しています。義のための戦いというのではなく生活のための反乱だったと思います。男の人は家族を守るために戦う。今も昔も同じなのかもしれません。
それから、風とともに去りぬを見ながら、レットが最後の決戦があると南軍に志願するシーンを見ながら、桐野他の戊辰戦争経験者が負け戦に身を投じたのも同じかなと考えていたところに郎女様のブログ更新。勝手な思い込みかもしれませんけど、私なりの西南戦争の解釈です。弾薬製造器械の持ち出しを知った時、これが戦争のきっかけに違いないと思いました。
先日、NHKでモト冬樹さんのファミリーヒストリーをやっていて、これはおもしろかったのですが、モト冬樹さんの曾祖父は、岩国藩高森の庄屋の出で、近衛兵に選ばれて上京した後、やはり明治5年頃、東京の警視庁に転じたそうでして、「ああ、フランス兵制の導入よね」とぴんときました。庄屋さんのおぼっちゃんが、上官に怒鳴り倒される一兵卒では屈辱でしょう。
町田家の兄弟はイギリス留学から帰ってきていますし、英米の政治理念を勉強すれば、政府が横暴にも財産権を侵害し、勝手に税金をつりあげ、言論を弾圧すれば、国民は、銃を持って立ち上がる権利があるんです。薩摩では、英米と同じく、銃を私有することが普通でしたし、英米のように、国防のための義勇軍(ミリシア)を組織していたわけですが、政府の人権侵害が目にあまれば、立ち上がる権利があるということだったのではないでしょうか。
負けるとわかっていても抵抗権を行使した意味は、私はあったと思いますし、戊辰の経験者が身を投じたのは、確かにレッド・バトラーを彷彿とさせますよね。私は特に、挙兵に反対だったのに、桐野との友情に殉じて参加した永山弥一郎がレッドかな、と思います。
西南戦争以前の鹿児島は、ほんとうに美しいところだったと思います。
我が家は士族ではありませんが、維新から明治10年くらいの間に、養子だった曾祖父の父親が家出して消えて、曾祖父の兄が家土地無くしてしまい、曾祖父は筑豊炭田に出稼ぎに行っています。当時の筑豊は露天掘りで、小規模な開発が可能だったようでして、どうも、四国九州各地から士族が集まり、秩禄公債を投じていたようなのですね。曾祖父はそこで藩主の従兄弟と知り合って妹を嫁がせ、柳川藩のけっこうな士族に娘を嫁がせます。そこそこの金を稼いで松山に帰ってきたのですから、幸運だったのでしょうけれども、以前の妻と別れて、落ちぶれた士族の娘でした曾祖母と結婚していますし、ほんとうに、庶民には暮らしづらい激動の時代だったのではないでしょうか。故郷を愛した元松山藩士の家の子弟も多く、松山は、瀬戸内海に面した県庁所在地としてそこそこ発展したとは思うのですが、あれほどの中央集権化、わけても、すさまじい重税を課しながら、中央官僚は大富豪と言っていい給料をとり、土地転がしにはげも、徴兵制度によります膨大な常備陸軍に莫大な金をかけることが、果たして必要だったのか、と、私は疑問です。
松山に起きます近代化政策なぞ、すべて民間がやったことでして、中央政府はなにもしてません。
問題はあるにせよ、各藩の地方自治を担っていた人たちは怒り心頭だったのではないか、と推量しています。
ただ明治、松山を発展させたのは、中央から派遣されてきました高給取りの知事では無く、もとの松山藩士たち、でした。鉄道だって、国鉄が松山まできましたのは昭和になってからで、中四国で最初の鉄道・坊ちゃん列車は、元藩士が資金を募って、明治21年私鉄としてできたものです。
ほんとうに、明治6年政変から明治10年までの中央政府って、なにをしていたのかと思います。官僚たちの莫大な給料だって、西南戦争後の緊縮財政では、ほぼ半額になったんですから、最初から、適切な金額にしておくべきでした。
そういえば、萩の文さんや民治さんがかかわった浄土真宗の女学校の記念誌のようなものを手に入れましたが、多くの女学生が卒業後、萩を離れていて、朝鮮や台湾、北海道にもいたようです。私は北海道の古本屋から、その冊子を買いました。我が家の落ちぶれた士族の曾祖母の兄は、昭和初期に大連で死んでいます。
父方の祖母の方も山口閥で産業革命で鉄道、金融、教育などの方向に進んでいったようです。台湾の鉄道を敷いた人や英語教育に人生をささげた人もいたみたい。教育というか意識を植え付けることが一番の原動力になりますね。