本日は、アラビア馬です!
ちなみに、使いました写真は、馬上の徳川慶喜公ですが、アラビア馬ではありません。
ナポレオン三世から贈られたアラビア馬、と紹介されていたりもしたと思うのですが、どうも私、これはアラブにしては馬体が小さすぎないか、と常々思っていたのですが、やはりこれは日本の在来馬だと、本日わかりました。
なぜわかったか………は、後でお話しします。
桐野利秋とアラビア馬 について、わかったわけではないのですけど、といいますか、謎はよけい深まったのですが、桐野のことは別にしましても、私、慶応3年にナポレオン三世が日本に贈ったアラビア馬については、昔から、関心を持っていました。
乙女の頃に、一時競馬にはまりまして、しかし私、はまったといっても妙な方向へ関心が向くのが常で、サラブレッドの歴史とか、に興味を持ちました。
えーと、サラブレッドの元になったのは、アラブです。
で、すっごく短絡な話をしますと、漢の武帝がシルクロードの大宛(フェルガナ)で手に入れたという汗血馬は、おそらく、アラブの祖先の親戚、くらいではあるでしょう。歴史のロマンです。
まあ、ともかく、です。アラブというのは、足が速くて、とてもきれいな馬なのです。
男が容姿なら、馬も容姿です。
で、ですね、慶応三年のアラビア馬が、日本に最初に入って来たアラビア馬ではないんですけど、なにしろフランス皇室の種馬ですし、その中でもえり抜きの26頭が、江戸幕府最後の年に入ってきて、維新のどさくさでその大方が行方不明になったって、劇的じゃないですか。もう、それだけでロマンです。
さらに、です。鈴木明氏の『追跡 一枚の幕末写真』を読みまして、函館戦争のフランス人vol2で書きました、カズヌーブ伍長の存在を知ったわけなんですね。
もっと詳しく知りたい! と思って、根岸の馬と競馬の博物館 まで行ったこともあるのですが、あまり時間がなくて調べ物もできず、収穫なく引き上げました。
なにもわからないままに時は流れて、インターネットの時代です。
個人掲示板で、なにかの拍子にアラビア馬の話題が出ましたところが、さっぱりお話しがかみ合わないのですね。
それで、私はその方に『追跡』を紹介し、その方からは『富国強馬 ウマからみた近代日本』という本が出ていることを、お教えいただきました。
とはいえ、この本も明治以降ずっとの日本の馬の歴史ですから、慶応3年のアラビア馬については、2、3ページがさかれているだけなのです。
が、その方は、すごい方です。岡宏三氏という方が、「慶応三年アラビア馬の受領と小金牧牧士の飼育伝習御用」という本を出されていることを発見され、教えてくださったのです。ただ、その本はごく少部数出された非売品で、古書もなく、国会図書館にはあったのですが、著作権がありますから、全部のコピーは無理です。
調べてみましたところ、岡宏三氏はさる歴史博物館の方でして、私、ずうずうしくも、「お手持ちによぶんがございましたら、なんとかお譲りいただけないものでしょうか」と、連絡を差し上げてみたのです。
そういたしましたら、岡先生、ご親切にもコピーして送ってくださったのです。
それが今日届きまして、慶喜公の写真の馬が、在来種である可能性が高いこともわかったのですが。
いや、岡先生、すごいです! もう、びっくりしました。
あー、まず第一、「アラブは格好がいいので、幕臣が乗馬用に使ったりした」と思いこんでいたのは、まちがいでした!!!
えー、でも、いろんなところに、そんなことが書いてありましたし。『富国強馬』にも。
ごめんなさい!!! 小栗上野介さま!!!
あなたが乗っていらしたのは、ナポレオン三世の種馬ではなく、米国から持って帰った乗馬だったなんて、知りませんでした。
種馬を贈られた幕府側では、ちゃんとその重要性を認識していて、乗馬にしたりなぞせず、育成の伝習まで始めていたのです。
小栗上野介さま、あなたはえらい!!!
土方久元の回想によれば、小栗上野介の乗馬は、官軍の豊永貫一郎が奪い取って乗っていたそうなんです。
小栗は、自分が米国から連れて帰った乗馬を、知行地の上州へ連れていったようですし、そこで首を斬られたときに奪われたのでしょう。
といいますのも、検索をかけてみましたら、豊永貫一郎は土佐出身の陸援隊士。坂本龍馬と中岡慎太郎の仇討ちだった天満屋事件に参加しているそうです。
で、東山道官軍の先鋒。首切りの責任者です。
ぎゃー、さらに検索をかけてみましたら、小栗が戦争の準備をしていると総督府にちくったのは、猫絵と江戸の勤王気分 に出てまいりました、猫絵の殿様、バロン・キャットだとか。
『街道の日本史 中山道 武州・西上州・東信州』に、「新田満次郎は小栗が砦を作り大砲や鉄砲等を用意し浪人を雇って戦争準備をしていると、総督府に報告した」とあるんだそうで、しかしそれは、高崎藩などが調べたところでは、戦争準備などではなかったとか。
つまり、小栗上野介の斬首命令は、江戸の総督府から出ていて、東山道官軍の独断では、なかったようなのですね。
そういえば、官軍がくる前に、小栗が地元上州の博徒や農民たちの暴動を鎮圧した、という話もあったりするんですが、それって、新田官軍と関係あり、なんでしょうか???
えーと、話がそれてしまいました。
維新のどさくさ時に、ナポレオン三世のアラビア馬は、現在の千葉県松戸市、小金牧に、一度は、大多数が収容されていたのだそうです。
それが………、江戸城明け渡しの翌々日、4月13日、どうも、幕府の伝習隊を筆頭とする脱走兵たちに、一部、略奪されたようなのですね。
えーと、そうです。大鳥圭介や土方歳三が率いていた、あの脱走伝習隊です。
ということは、アラビア馬の一部は、会津へ行ったんでしょうか?
どうも、そのようです。これも、ぐぐってみました。
柴五郎の「戊辰当時の追想談」 (『會津史談会誌』第十六号 昭和12年)
そのころ、軍事教練をしている幕府の騎兵士官は、アラビア馬とかいうずいぶんと大きな馬に乗っておった。なんでも、フランスのナポレオン皇帝が公方様に贈ってきたもんじゃということじゃったが……
どびっくりです。
もっとも、これは、小金牧から略奪されたものばかり、とは、かぎらないかもしれません。
といいますのも、4月22日には、略奪されなかった残りのアラビア馬がすべて、小金牧から、江戸神田橋近くの幕府騎兵所に、ひきうつされたからです。
上野戦争の前ですし、ここからも、騎兵伝習を受けた幕府の士官が、アラビア馬を盗んで会津へ行った可能性も、ありえるんじゃないでしょうか。
後の散逸は、やはり官軍側の私用ぶんどり、なんでしょうねえ。
他にも、いろいろいっぱい、興味深い話ばかりだったんですが、またの機会に。
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ちなみに、使いました写真は、馬上の徳川慶喜公ですが、アラビア馬ではありません。
ナポレオン三世から贈られたアラビア馬、と紹介されていたりもしたと思うのですが、どうも私、これはアラブにしては馬体が小さすぎないか、と常々思っていたのですが、やはりこれは日本の在来馬だと、本日わかりました。
なぜわかったか………は、後でお話しします。
桐野利秋とアラビア馬 について、わかったわけではないのですけど、といいますか、謎はよけい深まったのですが、桐野のことは別にしましても、私、慶応3年にナポレオン三世が日本に贈ったアラビア馬については、昔から、関心を持っていました。
乙女の頃に、一時競馬にはまりまして、しかし私、はまったといっても妙な方向へ関心が向くのが常で、サラブレッドの歴史とか、に興味を持ちました。
えーと、サラブレッドの元になったのは、アラブです。
で、すっごく短絡な話をしますと、漢の武帝がシルクロードの大宛(フェルガナ)で手に入れたという汗血馬は、おそらく、アラブの祖先の親戚、くらいではあるでしょう。歴史のロマンです。
まあ、ともかく、です。アラブというのは、足が速くて、とてもきれいな馬なのです。
男が容姿なら、馬も容姿です。
で、ですね、慶応三年のアラビア馬が、日本に最初に入って来たアラビア馬ではないんですけど、なにしろフランス皇室の種馬ですし、その中でもえり抜きの26頭が、江戸幕府最後の年に入ってきて、維新のどさくさでその大方が行方不明になったって、劇的じゃないですか。もう、それだけでロマンです。
さらに、です。鈴木明氏の『追跡 一枚の幕末写真』を読みまして、函館戦争のフランス人vol2で書きました、カズヌーブ伍長の存在を知ったわけなんですね。
もっと詳しく知りたい! と思って、根岸の馬と競馬の博物館 まで行ったこともあるのですが、あまり時間がなくて調べ物もできず、収穫なく引き上げました。
なにもわからないままに時は流れて、インターネットの時代です。
個人掲示板で、なにかの拍子にアラビア馬の話題が出ましたところが、さっぱりお話しがかみ合わないのですね。
それで、私はその方に『追跡』を紹介し、その方からは『富国強馬 ウマからみた近代日本』という本が出ていることを、お教えいただきました。
とはいえ、この本も明治以降ずっとの日本の馬の歴史ですから、慶応3年のアラビア馬については、2、3ページがさかれているだけなのです。
が、その方は、すごい方です。岡宏三氏という方が、「慶応三年アラビア馬の受領と小金牧牧士の飼育伝習御用」という本を出されていることを発見され、教えてくださったのです。ただ、その本はごく少部数出された非売品で、古書もなく、国会図書館にはあったのですが、著作権がありますから、全部のコピーは無理です。
調べてみましたところ、岡宏三氏はさる歴史博物館の方でして、私、ずうずうしくも、「お手持ちによぶんがございましたら、なんとかお譲りいただけないものでしょうか」と、連絡を差し上げてみたのです。
そういたしましたら、岡先生、ご親切にもコピーして送ってくださったのです。
それが今日届きまして、慶喜公の写真の馬が、在来種である可能性が高いこともわかったのですが。
いや、岡先生、すごいです! もう、びっくりしました。
あー、まず第一、「アラブは格好がいいので、幕臣が乗馬用に使ったりした」と思いこんでいたのは、まちがいでした!!!
えー、でも、いろんなところに、そんなことが書いてありましたし。『富国強馬』にも。
ごめんなさい!!! 小栗上野介さま!!!
あなたが乗っていらしたのは、ナポレオン三世の種馬ではなく、米国から持って帰った乗馬だったなんて、知りませんでした。
種馬を贈られた幕府側では、ちゃんとその重要性を認識していて、乗馬にしたりなぞせず、育成の伝習まで始めていたのです。
小栗上野介さま、あなたはえらい!!!
土方久元の回想によれば、小栗上野介の乗馬は、官軍の豊永貫一郎が奪い取って乗っていたそうなんです。
小栗は、自分が米国から連れて帰った乗馬を、知行地の上州へ連れていったようですし、そこで首を斬られたときに奪われたのでしょう。
といいますのも、検索をかけてみましたら、豊永貫一郎は土佐出身の陸援隊士。坂本龍馬と中岡慎太郎の仇討ちだった天満屋事件に参加しているそうです。
で、東山道官軍の先鋒。首切りの責任者です。
ぎゃー、さらに検索をかけてみましたら、小栗が戦争の準備をしていると総督府にちくったのは、猫絵と江戸の勤王気分 に出てまいりました、猫絵の殿様、バロン・キャットだとか。
『街道の日本史 中山道 武州・西上州・東信州』に、「新田満次郎は小栗が砦を作り大砲や鉄砲等を用意し浪人を雇って戦争準備をしていると、総督府に報告した」とあるんだそうで、しかしそれは、高崎藩などが調べたところでは、戦争準備などではなかったとか。
つまり、小栗上野介の斬首命令は、江戸の総督府から出ていて、東山道官軍の独断では、なかったようなのですね。
そういえば、官軍がくる前に、小栗が地元上州の博徒や農民たちの暴動を鎮圧した、という話もあったりするんですが、それって、新田官軍と関係あり、なんでしょうか???
えーと、話がそれてしまいました。
維新のどさくさ時に、ナポレオン三世のアラビア馬は、現在の千葉県松戸市、小金牧に、一度は、大多数が収容されていたのだそうです。
それが………、江戸城明け渡しの翌々日、4月13日、どうも、幕府の伝習隊を筆頭とする脱走兵たちに、一部、略奪されたようなのですね。
えーと、そうです。大鳥圭介や土方歳三が率いていた、あの脱走伝習隊です。
ということは、アラビア馬の一部は、会津へ行ったんでしょうか?
どうも、そのようです。これも、ぐぐってみました。
柴五郎の「戊辰当時の追想談」 (『會津史談会誌』第十六号 昭和12年)
そのころ、軍事教練をしている幕府の騎兵士官は、アラビア馬とかいうずいぶんと大きな馬に乗っておった。なんでも、フランスのナポレオン皇帝が公方様に贈ってきたもんじゃということじゃったが……
どびっくりです。
もっとも、これは、小金牧から略奪されたものばかり、とは、かぎらないかもしれません。
といいますのも、4月22日には、略奪されなかった残りのアラビア馬がすべて、小金牧から、江戸神田橋近くの幕府騎兵所に、ひきうつされたからです。
上野戦争の前ですし、ここからも、騎兵伝習を受けた幕府の士官が、アラビア馬を盗んで会津へ行った可能性も、ありえるんじゃないでしょうか。
後の散逸は、やはり官軍側の私用ぶんどり、なんでしょうねえ。
他にも、いろいろいっぱい、興味深い話ばかりだったんですが、またの機会に。
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本当に面白いですね。こういう「裏ネタ」大好きです♪ アラビア馬が、北海道に渡っていたら面白かったのに~♪
確かに、ヒトも馬も容姿です。大体、みてくれのよい(美形とは限りません。感じが良いとか、そういうので、判断するのが人間ですから)のが「よい人」ですからね~♪
またまた、のぞきます♪ 桐野さんか・・・彼カッコいいですよね。
興味シンシンで楽しみながら読ませて
頂きました。
やはり幕末にアラビア馬が来日していたとはいえ、
まだまだ在来馬が主流だったんでしょうね。
初めてアラブ産のお馬さんを見た人々は
あの背の高さや足の細さ、体躯に驚いただろうなぁと
妄想を膨らませてしまいました(笑)。
北欧神話の8本足の馬にまたがってきたのかな?
こちらの郎女さまも、ときに、ディープインパクトですからなあ!
馬談義をなさっていたの?あれ、お年の話も?
こちらは、馬齢を重ねてばかり、ブログもすぐ馬脚をあらわしたり
ところで、時代劇には、都井岬のやら道産子でも使ってもらいたいのものですね、
サラブレッドで、関が原なんか駆け回られると、どうもなあ....
愛媛県に菊間町ってありまして、ここの加茂神社の行事に、お供馬の走り込みって、少年が馬に乗って走り込む行事があるんですが、全部、サラブレッドです。
もともとは、野間馬という運搬用の在来馬だったんですが、戦後、まったくいなくなりまして。いなくなってから慌てて、動物園などにわずかに残っていたりしましたのをかけあわせ、今は78頭まで増やしているんですけど。
鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮の流鏑馬も、サラブレッドでしたし。