ID:2hao61
大河『西郷どん』☆あまりに珍な物語 Vol.1の続きです。
wikiの上野の西郷像の記述は、大方、上の「岩波近代日本の美術〈1〉イメージのなかの戦争―日清・日露から冷戦まで」を参考に書かれたようです。
この本、全体的な論調には小首をかしげるようなことが多いのですが、事実関係はよくまとめられています。以下、引用です。
この「西鄕星」(西南戦争直後に売り出された錦絵「一枚の絵は空にかかる火星を示し、その中心に西鄕将軍がいる。将軍は反徒の大将であるが、日本人は皆彼を敬愛している……E.S.モース」)は、文字通り西鄕が一般民衆のスターであったことを裏づけている。かれを描いた錦絵が流行したのみならず、戦後舞台のうえでも、実川延若や市川団十郎が西鄕を演じて大当たりをとった。西南戦争が終わって14年を経た1891(明治24)年にいたってもなお、来日するロシア皇太子一行とともに西鄕がもどってくるという風聞さえたった。
で、著者は、反徒の陸軍大将に人気が集まるのは政府にとって好ましいことではなく、上野の像は大将服を脱がされ、「西鄕は武人としての牙をぬかれ、犬をつれて歩く人畜無害な人物として、以降民衆のイメージのなかに定着していった」 というのですが。
果たして、ほんとうにそうだったのでしょうか。
政府が否定したかったことは、西郷は陸軍大将として薩摩軍を率いたのであり、反徒ではなかったという事実、つまりは、西南戦争の正当性、です。
例え、像が大将服を脱がされてしまいましたところで、当時の日本国民にとっての西郷隆盛は、反徒ではありませんでしたし、ある意味、大山巌が意図しましたガリバルディ像のように、普段着姿の沈黙でもって、政府に対峙していたのではないでしょうか。
したがいまして私は、文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編において述べたように、「結局、西郷隆盛は、陸軍大将の軍服によってではなく、質素な着物を愛用していたという伝説によって、十分に権威たりえた」のだと思うんですね。
大将姿の西郷隆盛の錦絵を、数多く描き残しました月岡芳年は、明治21年2月付け、やまと新聞付録で、上の着物姿の西郷を描いています。
大赦で追贈される1年前のことですから、このときまだ西鄕は朝敵です。文章を書いたのはだれだか知らないんですが、維新の元勲にして反賊の首相としながら、「陸軍大将の服を着て官兵と矛先を接ふ」と認めているんですね。
「隆盛は猟が好きで、軍中にあっても犬を連れて山野をかけめぐった。それを絵にしたものである」 とあり、しかもこの顔、すこぶる本物の西郷隆盛に似ていたといわれます。あるいは、政府側の薩摩人、それこそ大山巌でもの意向がはたらいたのかな、と思えます。
上野の銅像は、どうも、この芳年の絵をもとにしたか、と思えるのですが、羽織を着てませんし、お行儀の悪い感じで、糸さんが嘆いたのも無理はありません。
明治、西郷の後、民衆の大人気を得た大将と言えば、それはもちろん山縣有朋ではなく、陸軍大将・乃木希典、海軍大将・東郷平八郎の二人で、日露戦争の英雄は、陸海ともに、士族反乱で肉親を失った痛みをかかえていた(明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol6参照)わけなのですが、さまざまな事情で政府に留まりながら、しかし、とりわけ乃木希典は、政府への批判のまなざしを持ち続けました。
『花燃ゆ』とNHKを考えるは、「花燃ゆ」の放送がはじまる直前に書いたものです。以下再録です。
源平の時代が一番わかりやすいのですが、平家物語や源平盛衰記の古典物語があって、それが能になったり、浄瑠璃、歌舞伎になったり、明治以降、いえ、戦後も昭和までは、舞台になったり小説になったりしてきたわけでして、そういうものの積み重ねの上に大河ドラマはあったんだと思うんですね。戦国には太閤記がありますし、忠臣蔵には、元に歌舞伎があります。〜中略〜大河において、これまで幕末ものの視聴率が上がらなかったのは、古典というほどのものがなく、しかも戦前、戦後であまりにも大きく明治維新の評価が変わった、ということがあったと思います。
上の「これまで幕末ものの視聴率が上がらなかったのは、古典というほどのものがなく」という部分には、訂正の必要があると、いま思います。
西郷隆盛と西南戦争は、多くの錦絵になり、歌舞伎にも新国劇にもなりました。日本の近代史における、最大の伝説だったんです。
その最後をも含めて、西郷隆盛を評価したのは、決して守旧派ではありません。
福澤諭吉であり、中江兆民であり、内村鑑三であり、西洋的近代化を受け入れながら、なお、現実の明治政府のありように批判の視線を持ち続けた人々です。
ただ、戦後生まれの私が、そのことに思い至れないでいたのは、西郷と西南戦争に対する価値観が一変してしまっていたから、だと思います。
珍大河『花燃ゆ38』と史実◆高杉晋作と奇兵隊幻想と
珍大河『花燃ゆ39』と史実◆ハーバート・ノーマンと武士道で書いたのですが、宣教師の息子として日本で育ったカナダ人、ハーバート・ノーマンが、ケンブリッジで共産主義思想にかぶれまして、戦前に書いた「日本の兵士と農民」こそが、この価値観の転変に、非常に大きな役割を果たしました。
なにしろ、ハーバート・ノーマンは、敗戦日本に君臨しました占領軍の有力ブレーンとなり、戦後の日本の歴史教育におきましても、多大な影響力を発揮することとなりました。
武士道を忌み嫌い、西郷を守旧派の親玉としか見ていなかったノーマンの影響力は、戦後の日本の歴史学会が、唯物史観一色に染まったことにより、いまなお、根強く残り続けています。
といいますか、歴史学者がなにを言ったところで、戦前を肌で知る人々が健在だったころには、錦絵や歌舞伎、新国劇、童謡で親しんだ、西郷と西南戦争へのリスペクトは、生きていたのだと思うんですね。
むしろ問題は、戦後教育を受け、「日本の兵士と農民」というハーバート・ノーマンの奇妙なマルクス主義物語しか知らない世代が主流となりましたことで、よけいに大きくなってしまったように見受けられます。
歴史絵を好んで題材にしました月岡芳年は、西南戦争と西郷隆盛も多く描いているわけなのですが、ひとつ、ぎょっとするような絵があります。
明治11年7月、つまり、大久保が暗殺されて2ヶ月後の絵です。
明治8年、政府は、讒謗律と新聞取締法によりまして、反政府記事に体罰で応じるなど、はなはだしい言論弾圧を行い、西南戦争中、戦後もずっと、それを続けました。
もちろんこの当時、西郷軍を賞賛しただけで牢屋行き、だったんですけれども、錦絵で美しく描くぶんには、政府も取り締まりようがありません。
そして、美しく描いた錦絵の方が、庶民の人気だったわけですから、芳年の描く西郷も、英雄らしく、美しいものでした。
ところがこの絵は、冥界にいる、幽鬼のような西郷が、建白書を差し出しています。
「西郷隆盛霊幽冥奉書」を囲む鎖は「甲」の字に見えまして、これは大久保甲東の甲ではないのか、ともいわれます。
つまり、大久保により冥界に閉じ込められてしまいました西郷隆盛が、大久保に差し出した建白書こそが暗殺であった、といいます、痛烈な明治政府への批判の絵であったと見られるんです。
西南戦争直後の西郷星の錦絵です。火星の大接近で、夜空に赤く耀く星を見て、当時の民衆は、星の輝きの中に「陸軍大将の正装を西郷隆盛の姿が見えた」と、大騒ぎしたんですね。もちろんここにも言論弾圧を重ねる、政府への非難のまなざしは、十二分に感じとれます。
これはドラマでも使われたのですが、「お父さまは、こんなふうに人々にあがめられて喜ぶような人ではなかった」とかなんとか、糸夫人に語らせてなかったですか?
ものすごい矮小化なんですよね。
西郷その人は冥界にいるわけですから、西郷星騒動をどう見たかなぞ、だれにもわかりませんし、どうでもいいことなんです。
人々が騒いで、明治の伝説ができあがったわけでして、それはそのまま、日本人が大切にしてきたなにものかが、西郷軍と共に消えてしまった、という人々の哀惜の念でもあったわけです。
夫人のものとした、馬鹿馬鹿しい、ただただ個人的な感想で、伝説へのリスペクトを踏みにじった演出でした。
そうなんです。今回のドラマには、伝説と当時の日本人全体へのリスペクトが、微塵も感じられませんでした。
見るのもいやになりました最大の理由は、それだったと思います。
西鄕の最期も、語り残されたことをすべて無視して、リスペクトも哀惜もゼロ、ですませていませんでしたか?
これも古い記事なのですが、陸軍分列行進曲は鹿鳴館に響いた哀歌をごらんになってみてください。
陸自のフランス・パリの行進に、抜刀隊 陸軍分列行進曲を入れてみました。
上は、去年のフランス革命記念日軍事パレードに、日仏交流160周年を記念して、自衛隊が招かれたときの映像です。
陸軍分列行進曲は、制作者がかぶせただけで、実際に演奏されたわけではないんですが、作曲者がフランス人のシャルル・ルルーですし、演奏されていれば素敵だったんですが。
シャルル・ルルーを雇ったのは大山巌で、作詞者はもと幕臣の外山正一。
我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大將たる者は 古今無雙の英雄で
これに從ふ兵(つはもの)は 共に慓悍决死の士
江藤淳氏の「南州残影」によれば、「この改変の過程から浮かび上がって来るのは、明治の日本人にとって『抜刀隊』の歌が、いかに特別な歌だったかという動かしがたい事実である。『抜刀隊』は転調が多く、いかにも歌いにくい歌かも知れない。しかし、それはなによりもまず、『古今無双の英雄』と『これに従ふつはもの』を称える歌にほかならない」 ということでして、確かに、これほどに敵を褒め称えた軍歌は、類を見ないでしょう。
そして、最後はまた、この手まり歌でしめさせていただきたいと思います。
一かけ二かけて / 初音ミク
大河「翔ぶが如く」には、当時、いろいろと言いたいこともあったのですが、今にして思えば、この歌を最後に聞かせてくれただけでも価値がありました。
今は亡き父と、すっかり年老いてしまいました母が、テレビを見ながら声をそろえて歌ったことを、忘れることができません。
幼い頃、祖父に買ってもらいました絵本の『孝女白菊』とともに、いかに西郷伝説が、日本人の心をゆさぶり続けてきたのか、教えてくれた瞬間でした。
一掛け二掛けで三掛けて
四掛けて五掛けて橋を架け
橋の欄干手を腰に はるか彼方を眺むれば
十七八の姉さんが 花と線香を手に持って
もしもし姉さんどこ行くの
私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘です
明治十年の戦役に 切腹なさった父上の
お墓詣りに参ります
お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝みます
お墓の前には魂が ふうわりふわりとジャンケンポン
はるばる北海道から、祖先だと信じて桐野利秋のお墓参りに来られた桐野利春氏のご子孫の四姉妹も、かならずや、この歌を歌っておられたのではないでしょうか。
次回から稿を改めまして、桐野利秋について書くつもりですが、これにつきましては、もう少し詳しく、史実とのつきあわせもしてみたいと思っています。
大河『西郷どん』☆あまりに珍な物語 Vol.1の続きです。
岩波近代日本の美術〈1〉イメージのなかの戦争―日清・日露から冷戦まで | |
丹尾 安典,河田 明久 | |
岩波書店 |
wikiの上野の西郷像の記述は、大方、上の「岩波近代日本の美術〈1〉イメージのなかの戦争―日清・日露から冷戦まで」を参考に書かれたようです。
この本、全体的な論調には小首をかしげるようなことが多いのですが、事実関係はよくまとめられています。以下、引用です。
この「西鄕星」(西南戦争直後に売り出された錦絵「一枚の絵は空にかかる火星を示し、その中心に西鄕将軍がいる。将軍は反徒の大将であるが、日本人は皆彼を敬愛している……E.S.モース」)は、文字通り西鄕が一般民衆のスターであったことを裏づけている。かれを描いた錦絵が流行したのみならず、戦後舞台のうえでも、実川延若や市川団十郎が西鄕を演じて大当たりをとった。西南戦争が終わって14年を経た1891(明治24)年にいたってもなお、来日するロシア皇太子一行とともに西鄕がもどってくるという風聞さえたった。
で、著者は、反徒の陸軍大将に人気が集まるのは政府にとって好ましいことではなく、上野の像は大将服を脱がされ、「西鄕は武人としての牙をぬかれ、犬をつれて歩く人畜無害な人物として、以降民衆のイメージのなかに定着していった」 というのですが。
果たして、ほんとうにそうだったのでしょうか。
政府が否定したかったことは、西郷は陸軍大将として薩摩軍を率いたのであり、反徒ではなかったという事実、つまりは、西南戦争の正当性、です。
例え、像が大将服を脱がされてしまいましたところで、当時の日本国民にとっての西郷隆盛は、反徒ではありませんでしたし、ある意味、大山巌が意図しましたガリバルディ像のように、普段着姿の沈黙でもって、政府に対峙していたのではないでしょうか。
したがいまして私は、文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編において述べたように、「結局、西郷隆盛は、陸軍大将の軍服によってではなく、質素な着物を愛用していたという伝説によって、十分に権威たりえた」のだと思うんですね。
大将姿の西郷隆盛の錦絵を、数多く描き残しました月岡芳年は、明治21年2月付け、やまと新聞付録で、上の着物姿の西郷を描いています。
大赦で追贈される1年前のことですから、このときまだ西鄕は朝敵です。文章を書いたのはだれだか知らないんですが、維新の元勲にして反賊の首相としながら、「陸軍大将の服を着て官兵と矛先を接ふ」と認めているんですね。
「隆盛は猟が好きで、軍中にあっても犬を連れて山野をかけめぐった。それを絵にしたものである」 とあり、しかもこの顔、すこぶる本物の西郷隆盛に似ていたといわれます。あるいは、政府側の薩摩人、それこそ大山巌でもの意向がはたらいたのかな、と思えます。
上野の銅像は、どうも、この芳年の絵をもとにしたか、と思えるのですが、羽織を着てませんし、お行儀の悪い感じで、糸さんが嘆いたのも無理はありません。
明治、西郷の後、民衆の大人気を得た大将と言えば、それはもちろん山縣有朋ではなく、陸軍大将・乃木希典、海軍大将・東郷平八郎の二人で、日露戦争の英雄は、陸海ともに、士族反乱で肉親を失った痛みをかかえていた(明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol6参照)わけなのですが、さまざまな事情で政府に留まりながら、しかし、とりわけ乃木希典は、政府への批判のまなざしを持ち続けました。
『花燃ゆ』とNHKを考えるは、「花燃ゆ」の放送がはじまる直前に書いたものです。以下再録です。
源平の時代が一番わかりやすいのですが、平家物語や源平盛衰記の古典物語があって、それが能になったり、浄瑠璃、歌舞伎になったり、明治以降、いえ、戦後も昭和までは、舞台になったり小説になったりしてきたわけでして、そういうものの積み重ねの上に大河ドラマはあったんだと思うんですね。戦国には太閤記がありますし、忠臣蔵には、元に歌舞伎があります。〜中略〜大河において、これまで幕末ものの視聴率が上がらなかったのは、古典というほどのものがなく、しかも戦前、戦後であまりにも大きく明治維新の評価が変わった、ということがあったと思います。
上の「これまで幕末ものの視聴率が上がらなかったのは、古典というほどのものがなく」という部分には、訂正の必要があると、いま思います。
西郷隆盛と西南戦争は、多くの錦絵になり、歌舞伎にも新国劇にもなりました。日本の近代史における、最大の伝説だったんです。
その最後をも含めて、西郷隆盛を評価したのは、決して守旧派ではありません。
福澤諭吉であり、中江兆民であり、内村鑑三であり、西洋的近代化を受け入れながら、なお、現実の明治政府のありように批判の視線を持ち続けた人々です。
ただ、戦後生まれの私が、そのことに思い至れないでいたのは、西郷と西南戦争に対する価値観が一変してしまっていたから、だと思います。
珍大河『花燃ゆ38』と史実◆高杉晋作と奇兵隊幻想と
珍大河『花燃ゆ39』と史実◆ハーバート・ノーマンと武士道で書いたのですが、宣教師の息子として日本で育ったカナダ人、ハーバート・ノーマンが、ケンブリッジで共産主義思想にかぶれまして、戦前に書いた「日本の兵士と農民」こそが、この価値観の転変に、非常に大きな役割を果たしました。
なにしろ、ハーバート・ノーマンは、敗戦日本に君臨しました占領軍の有力ブレーンとなり、戦後の日本の歴史教育におきましても、多大な影響力を発揮することとなりました。
武士道を忌み嫌い、西郷を守旧派の親玉としか見ていなかったノーマンの影響力は、戦後の日本の歴史学会が、唯物史観一色に染まったことにより、いまなお、根強く残り続けています。
といいますか、歴史学者がなにを言ったところで、戦前を肌で知る人々が健在だったころには、錦絵や歌舞伎、新国劇、童謡で親しんだ、西郷と西南戦争へのリスペクトは、生きていたのだと思うんですね。
むしろ問題は、戦後教育を受け、「日本の兵士と農民」というハーバート・ノーマンの奇妙なマルクス主義物語しか知らない世代が主流となりましたことで、よけいに大きくなってしまったように見受けられます。
歴史絵を好んで題材にしました月岡芳年は、西南戦争と西郷隆盛も多く描いているわけなのですが、ひとつ、ぎょっとするような絵があります。
明治11年7月、つまり、大久保が暗殺されて2ヶ月後の絵です。
明治8年、政府は、讒謗律と新聞取締法によりまして、反政府記事に体罰で応じるなど、はなはだしい言論弾圧を行い、西南戦争中、戦後もずっと、それを続けました。
もちろんこの当時、西郷軍を賞賛しただけで牢屋行き、だったんですけれども、錦絵で美しく描くぶんには、政府も取り締まりようがありません。
そして、美しく描いた錦絵の方が、庶民の人気だったわけですから、芳年の描く西郷も、英雄らしく、美しいものでした。
ところがこの絵は、冥界にいる、幽鬼のような西郷が、建白書を差し出しています。
「西郷隆盛霊幽冥奉書」を囲む鎖は「甲」の字に見えまして、これは大久保甲東の甲ではないのか、ともいわれます。
つまり、大久保により冥界に閉じ込められてしまいました西郷隆盛が、大久保に差し出した建白書こそが暗殺であった、といいます、痛烈な明治政府への批判の絵であったと見られるんです。
西南戦争直後の西郷星の錦絵です。火星の大接近で、夜空に赤く耀く星を見て、当時の民衆は、星の輝きの中に「陸軍大将の正装を西郷隆盛の姿が見えた」と、大騒ぎしたんですね。もちろんここにも言論弾圧を重ねる、政府への非難のまなざしは、十二分に感じとれます。
これはドラマでも使われたのですが、「お父さまは、こんなふうに人々にあがめられて喜ぶような人ではなかった」とかなんとか、糸夫人に語らせてなかったですか?
ものすごい矮小化なんですよね。
西郷その人は冥界にいるわけですから、西郷星騒動をどう見たかなぞ、だれにもわかりませんし、どうでもいいことなんです。
人々が騒いで、明治の伝説ができあがったわけでして、それはそのまま、日本人が大切にしてきたなにものかが、西郷軍と共に消えてしまった、という人々の哀惜の念でもあったわけです。
夫人のものとした、馬鹿馬鹿しい、ただただ個人的な感想で、伝説へのリスペクトを踏みにじった演出でした。
そうなんです。今回のドラマには、伝説と当時の日本人全体へのリスペクトが、微塵も感じられませんでした。
見るのもいやになりました最大の理由は、それだったと思います。
西鄕の最期も、語り残されたことをすべて無視して、リスペクトも哀惜もゼロ、ですませていませんでしたか?
これも古い記事なのですが、陸軍分列行進曲は鹿鳴館に響いた哀歌をごらんになってみてください。
陸自のフランス・パリの行進に、抜刀隊 陸軍分列行進曲を入れてみました。
上は、去年のフランス革命記念日軍事パレードに、日仏交流160周年を記念して、自衛隊が招かれたときの映像です。
陸軍分列行進曲は、制作者がかぶせただけで、実際に演奏されたわけではないんですが、作曲者がフランス人のシャルル・ルルーですし、演奏されていれば素敵だったんですが。
シャルル・ルルーを雇ったのは大山巌で、作詞者はもと幕臣の外山正一。
我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大將たる者は 古今無雙の英雄で
これに從ふ兵(つはもの)は 共に慓悍决死の士
南洲残影 (文春文庫) | |
江藤 淳 | |
文藝春秋 |
江藤淳氏の「南州残影」によれば、「この改変の過程から浮かび上がって来るのは、明治の日本人にとって『抜刀隊』の歌が、いかに特別な歌だったかという動かしがたい事実である。『抜刀隊』は転調が多く、いかにも歌いにくい歌かも知れない。しかし、それはなによりもまず、『古今無双の英雄』と『これに従ふつはもの』を称える歌にほかならない」 ということでして、確かに、これほどに敵を褒め称えた軍歌は、類を見ないでしょう。
そして、最後はまた、この手まり歌でしめさせていただきたいと思います。
一かけ二かけて / 初音ミク
大河「翔ぶが如く」には、当時、いろいろと言いたいこともあったのですが、今にして思えば、この歌を最後に聞かせてくれただけでも価値がありました。
今は亡き父と、すっかり年老いてしまいました母が、テレビを見ながら声をそろえて歌ったことを、忘れることができません。
幼い頃、祖父に買ってもらいました絵本の『孝女白菊』とともに、いかに西郷伝説が、日本人の心をゆさぶり続けてきたのか、教えてくれた瞬間でした。
一掛け二掛けで三掛けて
四掛けて五掛けて橋を架け
橋の欄干手を腰に はるか彼方を眺むれば
十七八の姉さんが 花と線香を手に持って
もしもし姉さんどこ行くの
私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘です
明治十年の戦役に 切腹なさった父上の
お墓詣りに参ります
お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝みます
お墓の前には魂が ふうわりふわりとジャンケンポン
はるばる北海道から、祖先だと信じて桐野利秋のお墓参りに来られた桐野利春氏のご子孫の四姉妹も、かならずや、この歌を歌っておられたのではないでしょうか。
次回から稿を改めまして、桐野利秋について書くつもりですが、これにつきましては、もう少し詳しく、史実とのつきあわせもしてみたいと思っています。
手元に、森有礼全集のコピーが出てまいりません。
私の記憶の中の交渉記録は、もしかしまして、失敗しました条約改正のためのものだった、かもです。
引き続き、ブログを書きながら調べます。
萩原延壽『遠い崖』第11巻「北京交渉」と、犬塚孝明『森有礼』(吉川弘文館・人物叢書)を参照する限りでは。
明治7年の秋頃、大久保と交渉に当たったのは柳原前光公使で、他にボアソナード、田辺太一、井上毅、鄭永寧など数人で交渉に当たったようです。
森有礼が特命全権公使として清国に入るのは翌明治8年の12月のようで、多分この「北京交渉」の頃は日本で、例の常さんが関係する「ライマン事件」などに関わっていたのではないでしょうか?
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/87894fd5ec9652b3f72c92f2f191a8a9
草梁倭館と辛未洋擾については、一応、上に説明しております。続きを書いてないのですが、wikiの桐野利秋に少々書いております。
「同じく7月の廃藩置県の後、9月になって、これまで李氏朝鮮との外交を担当していて、鎮西鎮台管轄下にあった厳原県が、伊万里県に吸収されて消滅し、対朝鮮外交を外務省が担当するに伴い、草梁倭館接収の必要が生じた。利秋は、鎮西鎮台司令官として軍艦春日丸で倭館へ向かう外務大丞・花房義質につけて、鎮西鎮台対馬分営駐屯兵を送り出した。このとき春日丸には、花房に同行する陸軍中佐・北村重頼、同少佐・河村洋與、加えて偵察のため、陸軍大尉で利秋の従兄弟・別府晋介、後に評論新聞を創刊する利秋の友人・海老原穆(愛知県7等出仕、陸軍大尉兼陸軍大錄)が乗り組み、倭館に滞在した[27]。」
結局、草梁倭館に対馬藩士ではなく、外務省の人間が入り込んだことが朝鮮側の気に入らず、もめ事が起こって、派兵の話が、外務省主導で起こります。
だから、派兵といいましても漢城(ソウル)に派兵するのではなく、釜山の草梁倭館なんです。
江戸時代の日朝外交は、すべて草梁倭館で、対馬藩士によって行われていまして、対馬藩士は、倭館から出ることはありませんでした。
陸軍将校の視察も、倭館だけの話なんです。
それなんです。私は、当時のロシアを過大評価していましたパークスの言動を、大久保が政変に利用した、と思っています。
西鄕は、制韓がしたかったわけではなく、制台に反対していたわけでもありません。次回、桐野について書くときに、多少触れるつもりでいたのですが。
ロシアが極東に手を伸ばそうとしましたことに、イギリスが相当な危機感を持っていたことは事実です。
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/d0ae8dabbb956c94cd2f486511586539
「クリミア戦争の極東における戦いにつきましては、wiki-ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦をご覧下さい。
この記事には、「1855年5月に英仏連合艦隊は再度ペトロパブロフスクを攻めたがもはや無人であった」と書いてあるのですが、にもかかわらず英仏艦隊は、多数の戦病者を出したらしいのですね。
といいますのも、「武田斐三郎伝」によりますと、安政2年(1855)6月7日、仏艦シビル号が戦病者およそ40人を積んで箱館入港。同月14日には、同じく仏艦ウィルギニー号が入港。函館奉行・竹内下野守は、両艦乗組員の上陸を許可し、シビル号の戦病者については、実行寺を開放して療養を認めます。この厚遇を伝え聞いたためか、7月29日、長崎へ向かっていた仏旗艦コンスタンチン号が入港。
英艦も入港したようなのですが、なにしろ仏艦は傷病者の治癒を待ちましたので、長期滞在」
クリミア戦争では、極東に軍艦を派遣して、ロシアと戦ったわけですし。
しかし、明治6年政変前後のロシアに、朝鮮半島まで気にする余裕は、ありませんでした。
西鄕が朝鮮へ行く必要がでてきましたその要因は、一つは廃藩置県で対馬藩が朝鮮外交から退かされたこと、もう一つは、1871年(明治4年)の辛未洋擾におきまして、アメリカは日本の長崎で艦隊を編成し、江華島を襲撃して、朝鮮側に240名以上の戦死者を出させたことです。
日本が補給基地となっていましたから、米海軍はこれほどの攻撃をしかけることができたわけでして、まあ、朝鮮側の明治新政府への不信感は、相当、大きく膨れ上がった、と、私は思います。
とはいいますものの、相当な痛い目にあい、日本と戦う気にはとてもなっていませんでした。
だから、西鄕のいっていた通り、礼を尽くせば、日本との国交を回復した可能性はあったのではないでしょうか。
おっしゃる征台の「北京交渉」ですが、私は、ほぼ、森有礼の手柄だと考えています。森有礼全集に、交渉の記録がありまして、一応、目を通しました。
条約改正では、森有礼の突っ走りに大久保は振り回され、大失態だったわけですが、懲りずに森有礼を使った大久保は、確かに、えらかった、と思います。
なにかで読んだんですが、在日イギリス公使は日本に辛く当たり、在清イギリス公使は清に手厳しい傾向があったんだそうなんですのよ。まして森有礼は、イギリスで教育を受け、イギリス文化に親しみました優秀な新鋭外交官です。清国のイギリス公使館は、相当に好意的だったのではないでしょうか。
大久保の猪突猛進外交も、森有礼の力を存分に発揮させた、というプラス面は、たしかにありました! 忘れていましたわ。
また、ちゃんと政変前後を書きたいと思います。
ひとつだけ、三菱は、長崎を拠点に、薩摩・土佐・佐賀の長崎におきます海軍海運事業を引き継ぎました岩崎弥太郎がはじめ、薩摩の大久保、佐賀の大隈の援助を受けて大きくした事業でして、明治14年の政変で大隈が政府を追われ、井上馨を中心とします長州閥が、三井を使って半民半官海軍会社・共同運輸を起こし、運賃値下げ競争による三菱つぶしを試みるまで、海運にはまったくかかわっていないですし、明治海軍は薩摩と佐賀が握っていまして、山縣はまったく関係していません。
明治陸軍が、まったくもって内籠でしたのは、海軍、海運になんの理解もない山縣有朋が中心にすわっていたからだと思っています。
長州海軍は、松島剛蔵が殺され、高杉晋作が死に、前原一誠が引き込み、まったくもって政治力を持ちませんでした。
山縣には、政治力があったことは確かですし、人事をあやつって、石橋をたたいて渡って、大筋で落ち着きどころを見つける能力にはすぐれていたと思いますけれども、やっぱり私は、長州陸軍は、どうにも好きにはなれないでいます。
ぜひ、ご研究なさったことを、まとめてくださいませ。楽しみにお待ちします。
ある意味、西郷が思い描いていた「征韓交渉」を、それを潰した大久保が「北京交渉」で責任を取った(征韓構想を上回る外交実績をあげた)のではなかろうか?と。
私もやはり、当時の状況で朝鮮に「北進」してロシアと衝突するよりも、台湾に「南進」してロシアとの衝突を避けるほうが常識的な判断だったろう、と見ています。
樺太問題についてはあまり詳しくないのでこれからもっと勉強したいと思います。大久保に多少粗忽な面があったというのは、確かに仰る通りなのでしょう。
そして「サトウ アイノスケ」を名乗っている以上、「パークスに対する見方」を語りますと長くなり過ぎるのでやめておきますが(w)、そのパークスですら、大久保は「北京交渉」で失敗すると見ていたようです。パークスは清国育ちですから清国びいきで、まさか清国が日本にあれ程の譲歩をするとは思っていなかったようです。「北京交渉」の後パークスは
「幸運が日本に舞い降りたが日本にはそれを受ける資格がない。私はとても残念だ。海の向こうの老大国のほうが正しいというのに、この若造の国に屈服するとは。戦争がなくて嬉しいが、びた一文もらわなくとも日本は平和を喜んだ事であろう」(ディキンズ『パークス伝』より)
と悔しがっていたようです。
マウンジーの『薩摩反乱記』は東洋文庫の本でざっと読んだ程度ですが、確かに大久保は評価されていたように思いますので、郎女さんの仰る通りかも知れません。しかしそれよりもおそらく、むしろ西郷隆盛が、外国人には理解しづらい人物なので、比較的業績が分かりやすい大久保が評価されているのではないか?という気がします。西郷は、現在の日本人でもなかなか理解しづらい人物ですから(司馬氏でさえ「分からない」と書いてたぐらいで)。西欧化に突き進んだ大久保が西欧人に評価されている側面も、もちろんあるのだと思いますが。
まだまだついていくのが大変ですがとても面白く拝読しました。
複眼思考ができないと、ついつい騙されてしまいますね。
この数年、すこしずつ調べてわかってきたことは、本当に安政の大獄から士族の反乱までは本当に複雑。
尊王攘夷のそもそもの考え方から、明治政府の近代化の取り組みまで、結果としていろんな断行があって、特に士族の反乱に関しては、それまで考えていたのとは本当に違い複雑です。技術革新を利用した明治政府の勝利ではありますが、日本人のそれまでの価値基準が戦前と戦後のそれ以上にヒステリーのように否定されたことが少しずつわかってきました。
西郷隆盛については、今年の大河をところどころ見るくらいで、実はほとんど知らなかったのです。政権を途中で投げ出すなんて、一度引き受けたものを一人に押し付けられた大久保利通に対して同情すらしてしまいました。そうだったにしても一連の士族の反乱に対しての処分(江藤新平への制裁や、私にとっては大きな興味のある萩の乱での前原党や村塾関係者の処分と電信による情報収集などこちらは山縣?なんでしょうか)がやはりあまり好感がもてず、複雑な思いをもっていました。
ただ、大河でも紹介していましたが、三菱が政府軍のアドミにストレーションを一手に引き受けていたという事実、そういうグランドデザインができる山縣有朋については、個人的にはものすごく嫌いですが、再評価しました。
木戸孝允から大久保利通に移っていった伊藤博文の見識も、郎女さんのブログを読んでいると、ちょっと疑いたくなりました。
パークスについては、見識もあまりよくない一発屋のような外交官という印象ですが、大久保を高く評価してしまっていたので、がっかりです。
話がバラバラで申し訳ありませんが、非常に新鮮に読ませていただきました。まだまだ私にはこの時代もとても難しいです。
ただ、西鄕軍を擁護する福澤諭吉、アーネスト・サトウの証言にありますだけに、大久保が行った言論弾圧の惨さは、以前から大きくひっかかっていました。
しかし、ですね。近代化、といいますか、産業化といいますか、そこらへんには力を振るったのではないかと、普通に考えていたんですが、このブログを書いていろいろ勉強していますうちに、維新以降の大久保は、ろくなことはしていない! といいます結論に達した次第です。
まず、外交です。
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/6c895684fdefd651a26e2f6c081b2c71
深くは書いてないのですが、大久保は、明治初年のロシアとの樺太交渉で、イギリス公使・パークスの意見を鵜呑みにして、幕末から外交経験を重ねている外務大輔・寺島宗則の意見を聞かず、黒田清隆を支持して、大失敗を犯しているんです。
これが大失敗だったとわかりましたのは、文中にありますように、現在では、麓慎一氏の「維新政府の成立とロシアのサハリン島政策―プリアムール地域の問題に関する特別審議会の議事録を中心に―」という論文が公開されていまして、当時のロシア側の外交資料をさぐってみましたところ、結局問題は、「樺太の維持なんて無理なんだから、交渉がだめなら売ればいい、という、日本の弱腰の姿勢」で、それこそが、大久保がパークスの意見を鵜呑みにして出て来た方針でした。
明治6年政変の時にもいえることなのですが、パークスはアジア情勢への洞察にすぐれているわけではありませんで、見通しを誤ってばかりなのですが、大久保は、すぐに、それを鵜呑みにします。
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/d1c5947cc71104e31f6a02352de5f58f
「そういうわけでして、征台についても、デ・ロングが公使だったときに、兵士、物資の輸送に、米英国籍の民間船が協力するという約束ができていたんですけれども、清国に深く根をはっていますイギリスから横やりが入り、後任のアメリカ公使もそれに同調しまして、大久保利通と大隈重信は、急遽三菱を援助して船を買わせて使う、ということになったんです。
おまけに、ですね。そもそも、ル・ジャンドル案では「春以降、暑くなってくると疫病が蔓延する島なので、冬に」ということでしたのに、なにをとち狂ったのか4月に計画しまして、それが5月にのび、結果、多数の戦病死者を出すことになりました。
結局、イギリスの仲裁で、日本はほどほどの成果を得はしたんですけれども、これで清国が琉球の日本帰属を認めたわけでもなく、逆に清国は領有権の西洋ルールに目覚めまして、この直後、台湾の領有を確定的なものにすべく、出兵して、清に逆らう台湾現地民を徹底的に虐殺し、実質的な台湾領有権を確立したわけです。このときの清の残虐ぶりは、とうてい日本軍がまねできるものではなかったと、アメリカ人の学者さんが言っております」
https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/f913a606bc91b39cfa8394e85abe4b37
「その間の明治7年、征台において、輸送を約束していました英米船舶が参加を禁じられ、大久保利通と大隈重信は、急遽、グラバーの協力を求めて蒸気船を三隻買い求め、それを三菱商会に託して、指揮はブラウンに任せ、兵員と物資の輸送をやりおおせました。これが、先に述べました、三菱商会が海軍業で大きくなる最初のきっかけだったのです。
その後ブラウンは、新設の海運局で航海に関する規則制定に尽力し、大久保が民営海運保護育成政策をとったのに呼応して、三菱商会に入社します。入社後は、三菱商船学校(東京商船大学の前身)を設立して商船員の養成に務め、また船舶修理や造船にもつながる三菱横浜製鉄所の設立、グラスゴウの造船所からの船舶購入にも活躍し、しかも西南戦争においては、全面的に政府に協力して、三菱商会飛躍に大きく貢献しました」
唯一、大久保の功績だったと私が思っていますのは、けがの功名なんですが、征台と西南戦争をきっかけとしました海軍の整備です。
そのために払った犠牲は、とてつもなく大きかったわけではあるのですが。
外国人に大久保の評価が高いのは、おそらく、なんですが、英語で読める西南戦争の記述が、オーガスタス・H・マウンジー著「薩摩反乱記」くらいしか、ないんじゃないでしょうか。内容をよく覚えているわけではないのですが、西南戦争当時にイギリス公使館勤務でしたマウンジーは、大久保には相当好意的で、西鄕と薩摩隼人は守旧派、という位置づけだったと思います。確か、サトウとはちがいまして、パークスへの批判の目、したがいまして大久保への批判の視線は、あまり持っていなかったように思うんですね。ハーバード・ノーマンのような酷さはありませんけれども。
あとは、西洋近代文明だけが、文明と思っている思い上がりが、あるのではないでしょうか。
確かに、パックス・ブリタニカの全盛期でした。
軍事、産業、商業など、早急に西洋近代に見習わなければならないことは多かったですし、そのためには、痛みを伴う切り捨ても、まったく必要がなかった、とは思いませんが、日本にもまた、それなりの歴史があり、独自の文明を持っていたんです。
それを認める西洋人と、認めない西洋人といて、認めていた代表格は、モンブラン伯爵であり、アーネスト・サトウであったと、私は思っています。
私の祖先は佐幕藩の人間で、曾祖母の父親は松山藩士であり、あるいは長州征伐にも関係していたかもしれませんし、戊辰でなお、松山藩は幕府側にいたんですね。
ただ、西日本にいますと、庶民は長州の攘夷や薩英戦争を戦った薩摩を応援していただろうなあ、と思います。幕府には各藩から人材が集まっていましたし、会津にも内輪もめはあったわけですから、ときどき、「唯物史観の洗礼を受けた歴史学者が死に絶えるまで、どうにもならないのかも」なんぞと、思ってしまいます。
しかし、徐々にまともな学者さんも出てきていますし、将来に期待するしかないですよねえ。
なにしろ私は『翔ぶが如く』が放送されていた当時、幕末の歴史に全く興味の無い一学生でしたので番組を見ておらず、DVDで後追いで見ただけなのです。そして出身地も九州ではなくて北陸なので、薩摩や西南戦争の歴史・文化にはほとんど馴染みもなく、本や映像などで観念的に学んでいるケースがほとんどなのです。
(余談ですがyoutubeに『翔ぶが如く』第36話の動画が上がってますが、番組の最後に西郷がつぶやいている歌は「串木野さのさ」である、という事がコメント欄に書かれており、私はそれで初めて知りました)
司馬遼太郎氏がどこかで書いていたと思うのですが、日本の歴史を多少勉強している外国人の評価では、大久保の評価が高いらしいのです。
私も昨年、維新150年に合わせる形で外国人がそんなような事を書いているネット記事を見たように思います。
多分、文字などの二次的情報で幕末維新を論理的、あるいは観念的に勉強すると、そのような結論になるのでしょうか。私自身も、そのような傾向が強いように痛感しております。
あと、「幕末維新に対する日本人の評価が、先の大戦の敗北によって180度変わってしまっている」と郎女さんが文中で書かれているのは、私も全くその通りだと思います。「戦前を知っている人はそうではなかった」という事も含めて。
この事も、私は昨年いろんなネットサイトで痛感させられたのですが、郎女さん以外、ほとんど誰も指摘しません。
「日本人の歴史認識」を考えるに当たっては、かなり重要なポイントであるはずにもかかわらず。
中でも一番閉口するのは、特に年配者(ただし戦後教育育ち)と思われる人の発言で多いのですが
「薩長による明治維新で日本は素晴らしい変革を成し遂げた、などという歴史認識はもう古い。薩長には愚劣で悪辣な人物も多いし、逆に幕府には優秀な人物が多くいた。会津にも正義はあった。これこそが新しい歴史認識だ」
実はその「新しい歴史認識」が、70数年前にGHQによって作られた「古い歴史認識」である、という事に気付かずに発言している人が、本当に多いのです。
詳しく教えてあげる人がほとんどいないのですから、仕方がありません。
「日本国憲法はほぼGHQが作った」という事を多くの人が知らないのと、ある意味似ていると私は思います。