生麦事件と薩藩海軍史 vol2の続きです。
またまたうわーっ!!!です。
私、以前にもご紹介いたしました宮永先生の上記の本を読みながら、どうも不思議な気がしていたのです。
そもそも私が、この生麦シリーズを私が書き始めましたのは、明治40年から42年の間に、「横浜貿易新報」に連載された「生麦事件の始末」の内容が、意外に……、意外といいますのは、著者である元戸塚宿役人・川島弁之助の語り口が、講談調というんでしょうか、軍記調というんでしょうか、あまりに流麗で、嘘っぽい感じだったからなのですが、意外にも、傷を負って逃げ延びたイギリス人、マーシャル、クラークの口述とあまり矛楯しませんし、かなり正確なものだとわかり、目から鱗、だったからです。
この「生麦事件の始末」がまとめられた経緯については、生麦事件 補足に詳しくぬきがきしております。
事件当時に奔走した生麦村の年当番名主・関口次郎右衛門は、自分が書き留めたリアル・タイムの資料を、明治16年に記念碑を建てるとき、中村正直に貸し出し、そのままそれは帰ってきませんでした。
生麦事件に関心を抱いていた川島弁之助は、自分が村民からの聞き書きをまとめたものを、次郎右衛門に見せ、その記憶によって訂正してもらった、と。
著者は川島弁之助のはずなのです。
ところが宮永先生は、関口次郎右衛門であるように、おっしゃっているんですね。
で、この「生麦事件の始末」、大正15年に尾佐竹博士が出版された「生麦事件の真相」では、「生麦村騒擾記」になっています。検索をかけていてわかったんですが、横浜市教育委員会・文化財課が、平成4年に出した「生麦事件」というパンフレットでは、どうも「生麦村騒擾記」(明治28年)となっているらしいんです。
ところがこの「生麦村騒擾記」、どこの図書館で検索をかけても、出てこないんです。さっそく、文化財課に電話をかけて聞いてみたのですが、わかりません。
おそらく、なんですが、関口次郎右衛門が、川島弁之助がまとめたものの写しをとっていて、その写本をいうのか、あるいは、明治28年当時も村の資産家で名士だった次郎右衛門が、ごく少部数印刷したものなのか、なんでしょうか。
これについては、調査継続しますが、とりあえず、明治28年当時のものは、印刷されていたにしても少部数で、それほど世間に影響がなかったものと、考えておきます。
ただ、明治28年、日清戦争の勝利と同時に、幕末維新以来、日本の宿願となっておりました治外法権の撤廃が達成され、生麦事件についても、公に、自由に語れる条件は、整っていたのではないでしょうか。
(追記)
明治28年の「生麦村騒擾記」は、やはり写本でした。どうも、尾佐竹猛氏は、その現物をごらんになって書いておられるようなのですが、「生麦村騒擾記」が「横浜貿易新報」に連載されました経緯、文章に変化はないのか、などについては、これから資料を集めて調べますが、ちょっと調べに時間がかかりそうです。
時代は移っておりました。
日清戦争(明治27-28)勝利の後、やがて日英同盟が結ばれ、日露戦争(明治37-38)の勝利を経て、関税自主権も完全に回復されようとしておりました。
近代法が整備され、鉄道網は日本全国にわたり、数多い新聞雑誌の発行でマスコミュニケーションは発達し、近代国家日本は、はっきりとした形をとりつつあったのです。
横浜開港50周年。
それを記念した横浜貿易新報の特集で、「生麦村騒擾記」が載ります。
これには、久光の行列本隊で、リチャードソンたちが無礼討ちにされた場面は、勇猛な正義の薩摩藩士武勇伝として描かれているのですが、リチャードソン落馬後のよってたかっての斬殺は、まったく別個のこととして扱われ、ものかげから見ていた里人たちは「身の毛よだち、身体ふるえ物言う事もならざりし」と、斬殺者は悪鬼のように語られています。
日露戦争は、ロシア人捕虜のあつかいに細心の注意をはらった戦争でした。
勇ましく戦い、しかし礼節を忘れず、傷ついた敵、降伏する者には寛大に。
そういう理想の軍人像が、さまざまな報道を通じて、庶民の間でもすっかり根づいていた、といえるのではないでしょうか。
「生麦村騒擾記」が、「生麦事件の真相」として新聞に載るにあたって、表現が書き改められたものなのかどうか、わかりません。しかし、弁之助の語り口は、当時の庶民感情にぴったりくるものではあったでしょう。
そして明治45年、日英戦争50周年。
鹿児島新聞の特集記事において、生麦事件当時、19歳(数えだと思います)で、鉄砲儀仗隊の一員だった久木村利休が、突然、「俺がリチャードソンを斬った!!!」と言い出すのです。
突然も突然です。
それまで、リチャードソン殺害にかかわって、久木村の名は、一度も出ていません。
まず、もっともリアルタイムな証言としては、生麦事件考 vol2に書きました宮里書簡です。
行列本隊の先を行っていた宮里たちが、逃げていく異人3人を見て、大変なことになったと引き返しかけたところ、駕籠直前の中小姓集団にいた黒田清隆と本多源五が異人を追いかけてきたのに出会い、「何が起こった?」とたずねたところ、次のように答えた、というのです。
「奈良原喜左衛門殿、御供目付のことゆえ、一人を斬り殺し、一人に手負わせ申し候」
奈良原喜左衛門が供目付だから、異人一人を斬り殺し、一人に手負わせた、というのですね。
もう一つ、かなり近い時点での書簡に、那須信吾のものがあります。こちらは、新説生麦事件 上で、ご紹介しました。
当時、京都の薩摩藩邸にかくまわれていた那須信吾が、家族に書き送った聞き書きです。
秋頃、三郎様御東下、金川(神奈川)御通行のみぎり、夷人三騎、御行列先へ乗りかけ、二人切りとめ、一人は大分手疵を負いながらのがれ候。これに出合い候人数、海江田、奈良原喜左衛門が弟・喜八郎などの働きと承り候
これまでずっと書いてきたところで、海江田信義と奈良原繁は、行列本隊にいてリチャードソンたちを無礼討ちしたのではなく、落馬後のリチャードソンを斬殺したことは、わかっていただけたかと思いますが、ここで斬られた異人の人数は三人になっています。二人死んだ、という誤伝が入ってはいますが。
海江田と奈良原繁のこの「俺たち二人も斬り殺したんだぞ!!!」という自慢については、一度ふれましたが、実は、落馬後、蘇生したリチャードソンは、少なくともすぐに死ぬような状態ではなかったのではないか、と思われ、このことについては、後に再度書きます。
ともかく、ここでも久木村の名はあらわれません。
そして、明治25年の市来四郎の史談会速記録、明治29年の春山育次郎の「生麦駅」、ともに久木村の名は出てきません。
市来四郎は現場にいませんでしたが、春山は、少なくとも虐殺現場にはいた海江田信義から話を聞き、書いているのです。
そして、春山のエッセイ発表当時、もちろん海江田はまだ生きていたのですから、自分の名を出したエッセイに文句があるならば、当然、抗議したはずなのです。
もう一つ、はるか後世のものながら、事件当時現場にいたものが、確認したと思われる記録があります。
大正期、松方生前時から編纂されはじめた『侯爵松方正義卿実記』です。大正10年には、大正元年まで書き上がっていて、途中、松方本人が目を通しているそうで、当然、幕末期のものは松方のチェックを経ている、と考えられます。fhさまからいただきました情報です。ありがとうございました。
で、そこで生麦事件は、このように書かれています。
八月二十一日巳刻公高輪藩邸を発して帰国の途に上る。侯(松方)すなわち公駕(久光の駕籠)の右側に扈従す。途生麦に到るや、騎馬の英人其行列を犯し、先駆の士之を制すれども言語通ぜず。奈良原喜左衛門ついにその一人を斬り、二人を傷く。喜左衛門は温厚篤実沈着剛毅にして、真勇あるの傑士なり。
つまり、松方は、生麦事件発生時、近習番として久光の駕籠のすぐ右側にいたのですが、その彼の見たところでは、 「奈良原喜左衛門ついにその一人を斬り、二人を傷く」だったのです。
もちろん、これは久木村が「俺がリチャードソンを斬った!!!」と宣言した後の話ですが、まったくそんなことは書いていません。
非常に慎重な書き方で、「一人を斬り」はもちろんリチャードソンなのでしょうけれども、斬ったとあるのみで、殺したとは、ありません。
駕籠脇の松方の位置からでは、駕籠前の中小姓集団にさえぎられて、100メートルも先の久木村は見えなかったでしょうし、当然、およそ1キロ先のリチャードソン落馬地点の斬殺など、見えようもないのです。
松方が実際に見たことに、記述がしぼられているわけです。
では、「二人を傷く」は、どうでしょうか。
当然、これは、マーシャルとクラークなのでしょうけれども、喜左衛門がリチャードソンのみならず、残りの二人も傷つけた、ということは、ありえません。
第一、事件直後の黒田たちは、「喜左衛門どのが、一人を斬り殺し、一人に手負わせた」といっていたんです。生麦事件考 vol2で見ました通り、落馬直後のリチャードソンを、同行していたマーシャルは死んだと見、そのすぐ後に通りかかった黒田たちも、死んだと見ていたから、なのですね。
薩摩藩が、「死んだのは一人で、二人傷を負った」という正確な情報を得たのは、幕府との交渉の過程と思われますが、いつから藩士たちがそれを知ったか、ということは、個々の藩士によってもちがうでしょうし、まったくもってわかりません。
おそらく、なんですが、松方がそれを知った時点で、自分の見たことを思い返して、「喜左衛門どのが一人を斬り、二人を傷つけた」という認識に、なったのではないでしょうか。
クラークとマーシャルがどこで傷つけられたかは、本人たちの宣誓口述書が、一番正確でしょう。真説生麦事件 下で書きましたが、マーシャルは、「最初にリチャードソンに斬りつけた男に自分も斬られ、その後は、斬られていない」と言っていますので、喜左衛門がマーシャルを傷つけたことは、事実なのでしょう。
しかし、クラークは、「馬首をめぐらせて逃げていて、前から向かってくる鉄砲儀仗隊に斬られた」と言っているんです。
混雑した現場での見間違いは、生麦村住人にもあります。
「生麦村騒擾記」の弁之助の語りは、事件現場が目の前だった、豆腐屋・勘左衛門からの聞き取りです。
勘左右衛門の家は、行列の進行方向からいえば右側にあり、喜左衛門は久光の駕籠の右後方にいた、という話がありますので、駕籠に向かってくるリチャードソンの右側から、リチャードソンの身体の左側に斬りつけたとすれば、傷の状態ともあいますし、勘左右衛門は、これを目の前で見たことになります。
しかし、松方の位置からするならば、中小姓集団がリチャードソンに殺到したわけですから、それにさえぎられて、よくは見えていなかった可能性が高いでしょう。
しかも、マーシャルとクラークの証言からするならば、リチャードソンのすぐ後ろには、ボロデール夫人がいたわけです。
おそらく、なんですが、道の真ん中を進んでいたリチャードソンとちがって、ボロデール夫人は不安になり、行列の進行方向からは右(自分たちの進行方向からは左)によっていたとしますと、勘左衛門の家の手前で、馬をとめたのではないでしょうか。
勘左衛門からの聞き取りでは、リチャードソンに対して、喜左衛門は「雑踏の中なので自由にならず」、二度刀をふるっているんです。最初は浅手しか負わすことができず、次いで「二の太刀鋭く脇腹より腰部へかけて五、六寸」です。
実は、宮永先生の「幕末異人殺傷録」に、ジャパン・ヘラルド紙から、リチャードソンの遺体の詳しい検死結果が和訳されているのですが、この浅手に相当するような傷が、載っているんです。
「左の上腕の中程に斜めに横の槍傷。下方より外側に伸び、二頭筋を切断。しかし、骨は無傷」
二太刀目は、位置が勘左衛門の言う通りだとすると、長さは半分くらいなのですが、これになります。そして、落馬直後のマーシャルの目撃談や、村人、海江田の目撃談とも、これならば一致します。
「軟骨の3インチ下に、約3インチの長さの横の創傷。腹部に口を開けさせ、そこから大腸がはみ出ている」
この左腹部は、落馬後にも幾重にも傷つけられ、わかり辛くなっていたようですから、「肩より腹へ」という奉行所役人の覚え書きともあわせますと、右肩の下あたりから腹部にのびて、もう少し長かったものとも考えられます。
喜左衛門がリチャードソンに与えた傷については、尾佐竹博士も考察しておられるのですが、博士は、私が見つけることができないでいる、生麦村名主・関口東右衛門と次郎右衛門の検死口述書から、最初の傷が「左の肩先腕へかけ四寸ほど」で、二太刀目が「左の腹大傷」ではないかとの推測で、イギリス側検死とほぼあうようです。
というわけで、勘左衛門の目撃が正確なら、松方は、喜左衛門がリチャードソン一人にあびせた二太刀を、小姓集団にさえぎられて、二人を斬った、と見誤っていたのではないでしょうか。
斬られたリチャードソンの10ヤード(9メートル)ほど後ろには、マーシャルとクラークがいました。
クラークはいち早く逃げ出しますが、殺到してきた鉄砲儀仗隊の一人に、肩を斬られます。
一方、マーシャルが喜左衛門に斬られた理由なんですが、傷ついたリチャードソンが、おそらく、馬を右旋回させて逃げ出した後、取り残された親戚のボロデール夫人を気遣い、リチャードソンがいた位置まで、進んでしまったのではないでしょうか。
ボロデール夫人は、馬を右旋回させるために少し前へ進み、道脇ですので勘左衛門の視界をさえぎったのでしょう。
逃げ出したリチャードソンを追って、中小姓集団はばらけていたでしょう。
行列進行方向に対して、ボロデール夫人が右端にいて右旋回(ボロデール夫人のむきからいえば、です)しようとしたとします。それを気遣ったマーシャルは、左よりに進んで、ボロデール夫人の後を左旋回で逃げるのが自然でしょう。
喜左衛門は、自分の向かって左手から、右によせてマーシャルがまわろうとしているのを見て、向かってきていると思い、マーシャルが身体の左側面を見せたときに、斬りつけた、ということになります。
中小姓集団がばらけたこともあって、今度は、松方の方がよく見えて、ボロデール夫人に視界をさえぎられた勘左衛門には、別の人物が斬ったように見えた、のではないでしょうか。
そして、久木村と思われる鉄砲隊の一員が、クラークを斬ったのは、喜左衛門の位置よりおよそ100メートル先なのです。松方と同じく、勘左衛門にも、これは見えていなかったわけでして、目撃した生麦村住人は、別にいたでしょう。話をつぎあわせて、クラークとマーシャルを取り違えたものと思えます。
松方は、実際に自分が見た範囲のことしか、語っていません。
当然、そこに久木村は出てこないのですが、生麦村住人の目撃談でも、「鉄砲隊に斬られたのはマーシャル(実はクラーク)だけで、リチャードソンは久光の駕籠近くで斬られた後、耐えて逃げたが、およそ一キロばかり先で落馬して殺害された」となっているんです。
そして、「喜左衛門はリチャードソンを斬っただけで、殺していない」という点において、松方の見解と村民の目撃談は、一致しています。
長くなりましたので、次回に続きます。
人気blogランキングへ
またまたうわーっ!!!です。
幕末異人殺傷録宮永 孝角川書店このアイテムの詳細を見る |
私、以前にもご紹介いたしました宮永先生の上記の本を読みながら、どうも不思議な気がしていたのです。
そもそも私が、この生麦シリーズを私が書き始めましたのは、明治40年から42年の間に、「横浜貿易新報」に連載された「生麦事件の始末」の内容が、意外に……、意外といいますのは、著者である元戸塚宿役人・川島弁之助の語り口が、講談調というんでしょうか、軍記調というんでしょうか、あまりに流麗で、嘘っぽい感じだったからなのですが、意外にも、傷を負って逃げ延びたイギリス人、マーシャル、クラークの口述とあまり矛楯しませんし、かなり正確なものだとわかり、目から鱗、だったからです。
この「生麦事件の始末」がまとめられた経緯については、生麦事件 補足に詳しくぬきがきしております。
事件当時に奔走した生麦村の年当番名主・関口次郎右衛門は、自分が書き留めたリアル・タイムの資料を、明治16年に記念碑を建てるとき、中村正直に貸し出し、そのままそれは帰ってきませんでした。
生麦事件に関心を抱いていた川島弁之助は、自分が村民からの聞き書きをまとめたものを、次郎右衛門に見せ、その記憶によって訂正してもらった、と。
著者は川島弁之助のはずなのです。
ところが宮永先生は、関口次郎右衛門であるように、おっしゃっているんですね。
で、この「生麦事件の始末」、大正15年に尾佐竹博士が出版された「生麦事件の真相」では、「生麦村騒擾記」になっています。検索をかけていてわかったんですが、横浜市教育委員会・文化財課が、平成4年に出した「生麦事件」というパンフレットでは、どうも「生麦村騒擾記」(明治28年)となっているらしいんです。
ところがこの「生麦村騒擾記」、どこの図書館で検索をかけても、出てこないんです。さっそく、文化財課に電話をかけて聞いてみたのですが、わかりません。
おそらく、なんですが、関口次郎右衛門が、川島弁之助がまとめたものの写しをとっていて、その写本をいうのか、あるいは、明治28年当時も村の資産家で名士だった次郎右衛門が、ごく少部数印刷したものなのか、なんでしょうか。
これについては、調査継続しますが、とりあえず、明治28年当時のものは、印刷されていたにしても少部数で、それほど世間に影響がなかったものと、考えておきます。
ただ、明治28年、日清戦争の勝利と同時に、幕末維新以来、日本の宿願となっておりました治外法権の撤廃が達成され、生麦事件についても、公に、自由に語れる条件は、整っていたのではないでしょうか。
(追記)
明治28年の「生麦村騒擾記」は、やはり写本でした。どうも、尾佐竹猛氏は、その現物をごらんになって書いておられるようなのですが、「生麦村騒擾記」が「横浜貿易新報」に連載されました経緯、文章に変化はないのか、などについては、これから資料を集めて調べますが、ちょっと調べに時間がかかりそうです。
時代は移っておりました。
日清戦争(明治27-28)勝利の後、やがて日英同盟が結ばれ、日露戦争(明治37-38)の勝利を経て、関税自主権も完全に回復されようとしておりました。
近代法が整備され、鉄道網は日本全国にわたり、数多い新聞雑誌の発行でマスコミュニケーションは発達し、近代国家日本は、はっきりとした形をとりつつあったのです。
横浜開港50周年。
それを記念した横浜貿易新報の特集で、「生麦村騒擾記」が載ります。
これには、久光の行列本隊で、リチャードソンたちが無礼討ちにされた場面は、勇猛な正義の薩摩藩士武勇伝として描かれているのですが、リチャードソン落馬後のよってたかっての斬殺は、まったく別個のこととして扱われ、ものかげから見ていた里人たちは「身の毛よだち、身体ふるえ物言う事もならざりし」と、斬殺者は悪鬼のように語られています。
日露戦争は、ロシア人捕虜のあつかいに細心の注意をはらった戦争でした。
勇ましく戦い、しかし礼節を忘れず、傷ついた敵、降伏する者には寛大に。
そういう理想の軍人像が、さまざまな報道を通じて、庶民の間でもすっかり根づいていた、といえるのではないでしょうか。
「生麦村騒擾記」が、「生麦事件の真相」として新聞に載るにあたって、表現が書き改められたものなのかどうか、わかりません。しかし、弁之助の語り口は、当時の庶民感情にぴったりくるものではあったでしょう。
そして明治45年、日英戦争50周年。
鹿児島新聞の特集記事において、生麦事件当時、19歳(数えだと思います)で、鉄砲儀仗隊の一員だった久木村利休が、突然、「俺がリチャードソンを斬った!!!」と言い出すのです。
突然も突然です。
それまで、リチャードソン殺害にかかわって、久木村の名は、一度も出ていません。
まず、もっともリアルタイムな証言としては、生麦事件考 vol2に書きました宮里書簡です。
行列本隊の先を行っていた宮里たちが、逃げていく異人3人を見て、大変なことになったと引き返しかけたところ、駕籠直前の中小姓集団にいた黒田清隆と本多源五が異人を追いかけてきたのに出会い、「何が起こった?」とたずねたところ、次のように答えた、というのです。
「奈良原喜左衛門殿、御供目付のことゆえ、一人を斬り殺し、一人に手負わせ申し候」
奈良原喜左衛門が供目付だから、異人一人を斬り殺し、一人に手負わせた、というのですね。
もう一つ、かなり近い時点での書簡に、那須信吾のものがあります。こちらは、新説生麦事件 上で、ご紹介しました。
当時、京都の薩摩藩邸にかくまわれていた那須信吾が、家族に書き送った聞き書きです。
秋頃、三郎様御東下、金川(神奈川)御通行のみぎり、夷人三騎、御行列先へ乗りかけ、二人切りとめ、一人は大分手疵を負いながらのがれ候。これに出合い候人数、海江田、奈良原喜左衛門が弟・喜八郎などの働きと承り候
これまでずっと書いてきたところで、海江田信義と奈良原繁は、行列本隊にいてリチャードソンたちを無礼討ちしたのではなく、落馬後のリチャードソンを斬殺したことは、わかっていただけたかと思いますが、ここで斬られた異人の人数は三人になっています。二人死んだ、という誤伝が入ってはいますが。
海江田と奈良原繁のこの「俺たち二人も斬り殺したんだぞ!!!」という自慢については、一度ふれましたが、実は、落馬後、蘇生したリチャードソンは、少なくともすぐに死ぬような状態ではなかったのではないか、と思われ、このことについては、後に再度書きます。
ともかく、ここでも久木村の名はあらわれません。
そして、明治25年の市来四郎の史談会速記録、明治29年の春山育次郎の「生麦駅」、ともに久木村の名は出てきません。
市来四郎は現場にいませんでしたが、春山は、少なくとも虐殺現場にはいた海江田信義から話を聞き、書いているのです。
そして、春山のエッセイ発表当時、もちろん海江田はまだ生きていたのですから、自分の名を出したエッセイに文句があるならば、当然、抗議したはずなのです。
もう一つ、はるか後世のものながら、事件当時現場にいたものが、確認したと思われる記録があります。
大正期、松方生前時から編纂されはじめた『侯爵松方正義卿実記』です。大正10年には、大正元年まで書き上がっていて、途中、松方本人が目を通しているそうで、当然、幕末期のものは松方のチェックを経ている、と考えられます。fhさまからいただきました情報です。ありがとうございました。
で、そこで生麦事件は、このように書かれています。
八月二十一日巳刻公高輪藩邸を発して帰国の途に上る。侯(松方)すなわち公駕(久光の駕籠)の右側に扈従す。途生麦に到るや、騎馬の英人其行列を犯し、先駆の士之を制すれども言語通ぜず。奈良原喜左衛門ついにその一人を斬り、二人を傷く。喜左衛門は温厚篤実沈着剛毅にして、真勇あるの傑士なり。
つまり、松方は、生麦事件発生時、近習番として久光の駕籠のすぐ右側にいたのですが、その彼の見たところでは、 「奈良原喜左衛門ついにその一人を斬り、二人を傷く」だったのです。
もちろん、これは久木村が「俺がリチャードソンを斬った!!!」と宣言した後の話ですが、まったくそんなことは書いていません。
非常に慎重な書き方で、「一人を斬り」はもちろんリチャードソンなのでしょうけれども、斬ったとあるのみで、殺したとは、ありません。
駕籠脇の松方の位置からでは、駕籠前の中小姓集団にさえぎられて、100メートルも先の久木村は見えなかったでしょうし、当然、およそ1キロ先のリチャードソン落馬地点の斬殺など、見えようもないのです。
松方が実際に見たことに、記述がしぼられているわけです。
では、「二人を傷く」は、どうでしょうか。
当然、これは、マーシャルとクラークなのでしょうけれども、喜左衛門がリチャードソンのみならず、残りの二人も傷つけた、ということは、ありえません。
第一、事件直後の黒田たちは、「喜左衛門どのが、一人を斬り殺し、一人に手負わせた」といっていたんです。生麦事件考 vol2で見ました通り、落馬直後のリチャードソンを、同行していたマーシャルは死んだと見、そのすぐ後に通りかかった黒田たちも、死んだと見ていたから、なのですね。
薩摩藩が、「死んだのは一人で、二人傷を負った」という正確な情報を得たのは、幕府との交渉の過程と思われますが、いつから藩士たちがそれを知ったか、ということは、個々の藩士によってもちがうでしょうし、まったくもってわかりません。
おそらく、なんですが、松方がそれを知った時点で、自分の見たことを思い返して、「喜左衛門どのが一人を斬り、二人を傷つけた」という認識に、なったのではないでしょうか。
クラークとマーシャルがどこで傷つけられたかは、本人たちの宣誓口述書が、一番正確でしょう。真説生麦事件 下で書きましたが、マーシャルは、「最初にリチャードソンに斬りつけた男に自分も斬られ、その後は、斬られていない」と言っていますので、喜左衛門がマーシャルを傷つけたことは、事実なのでしょう。
しかし、クラークは、「馬首をめぐらせて逃げていて、前から向かってくる鉄砲儀仗隊に斬られた」と言っているんです。
混雑した現場での見間違いは、生麦村住人にもあります。
「生麦村騒擾記」の弁之助の語りは、事件現場が目の前だった、豆腐屋・勘左衛門からの聞き取りです。
勘左右衛門の家は、行列の進行方向からいえば右側にあり、喜左衛門は久光の駕籠の右後方にいた、という話がありますので、駕籠に向かってくるリチャードソンの右側から、リチャードソンの身体の左側に斬りつけたとすれば、傷の状態ともあいますし、勘左右衛門は、これを目の前で見たことになります。
しかし、松方の位置からするならば、中小姓集団がリチャードソンに殺到したわけですから、それにさえぎられて、よくは見えていなかった可能性が高いでしょう。
しかも、マーシャルとクラークの証言からするならば、リチャードソンのすぐ後ろには、ボロデール夫人がいたわけです。
おそらく、なんですが、道の真ん中を進んでいたリチャードソンとちがって、ボロデール夫人は不安になり、行列の進行方向からは右(自分たちの進行方向からは左)によっていたとしますと、勘左衛門の家の手前で、馬をとめたのではないでしょうか。
勘左衛門からの聞き取りでは、リチャードソンに対して、喜左衛門は「雑踏の中なので自由にならず」、二度刀をふるっているんです。最初は浅手しか負わすことができず、次いで「二の太刀鋭く脇腹より腰部へかけて五、六寸」です。
実は、宮永先生の「幕末異人殺傷録」に、ジャパン・ヘラルド紙から、リチャードソンの遺体の詳しい検死結果が和訳されているのですが、この浅手に相当するような傷が、載っているんです。
「左の上腕の中程に斜めに横の槍傷。下方より外側に伸び、二頭筋を切断。しかし、骨は無傷」
二太刀目は、位置が勘左衛門の言う通りだとすると、長さは半分くらいなのですが、これになります。そして、落馬直後のマーシャルの目撃談や、村人、海江田の目撃談とも、これならば一致します。
「軟骨の3インチ下に、約3インチの長さの横の創傷。腹部に口を開けさせ、そこから大腸がはみ出ている」
この左腹部は、落馬後にも幾重にも傷つけられ、わかり辛くなっていたようですから、「肩より腹へ」という奉行所役人の覚え書きともあわせますと、右肩の下あたりから腹部にのびて、もう少し長かったものとも考えられます。
喜左衛門がリチャードソンに与えた傷については、尾佐竹博士も考察しておられるのですが、博士は、私が見つけることができないでいる、生麦村名主・関口東右衛門と次郎右衛門の検死口述書から、最初の傷が「左の肩先腕へかけ四寸ほど」で、二太刀目が「左の腹大傷」ではないかとの推測で、イギリス側検死とほぼあうようです。
というわけで、勘左衛門の目撃が正確なら、松方は、喜左衛門がリチャードソン一人にあびせた二太刀を、小姓集団にさえぎられて、二人を斬った、と見誤っていたのではないでしょうか。
斬られたリチャードソンの10ヤード(9メートル)ほど後ろには、マーシャルとクラークがいました。
クラークはいち早く逃げ出しますが、殺到してきた鉄砲儀仗隊の一人に、肩を斬られます。
一方、マーシャルが喜左衛門に斬られた理由なんですが、傷ついたリチャードソンが、おそらく、馬を右旋回させて逃げ出した後、取り残された親戚のボロデール夫人を気遣い、リチャードソンがいた位置まで、進んでしまったのではないでしょうか。
ボロデール夫人は、馬を右旋回させるために少し前へ進み、道脇ですので勘左衛門の視界をさえぎったのでしょう。
逃げ出したリチャードソンを追って、中小姓集団はばらけていたでしょう。
行列進行方向に対して、ボロデール夫人が右端にいて右旋回(ボロデール夫人のむきからいえば、です)しようとしたとします。それを気遣ったマーシャルは、左よりに進んで、ボロデール夫人の後を左旋回で逃げるのが自然でしょう。
喜左衛門は、自分の向かって左手から、右によせてマーシャルがまわろうとしているのを見て、向かってきていると思い、マーシャルが身体の左側面を見せたときに、斬りつけた、ということになります。
中小姓集団がばらけたこともあって、今度は、松方の方がよく見えて、ボロデール夫人に視界をさえぎられた勘左衛門には、別の人物が斬ったように見えた、のではないでしょうか。
そして、久木村と思われる鉄砲隊の一員が、クラークを斬ったのは、喜左衛門の位置よりおよそ100メートル先なのです。松方と同じく、勘左衛門にも、これは見えていなかったわけでして、目撃した生麦村住人は、別にいたでしょう。話をつぎあわせて、クラークとマーシャルを取り違えたものと思えます。
松方は、実際に自分が見た範囲のことしか、語っていません。
当然、そこに久木村は出てこないのですが、生麦村住人の目撃談でも、「鉄砲隊に斬られたのはマーシャル(実はクラーク)だけで、リチャードソンは久光の駕籠近くで斬られた後、耐えて逃げたが、およそ一キロばかり先で落馬して殺害された」となっているんです。
そして、「喜左衛門はリチャードソンを斬っただけで、殺していない」という点において、松方の見解と村民の目撃談は、一致しています。
長くなりましたので、次回に続きます。
人気blogランキングへ
詳しい論考有難うございます。上記引用部分につき、最初ボラデール夫人がマーシャルより先に歩いていたという記録だったと思いますので、マーシャルは夫人の反転を助けるために一旦その前に出てから自分も反転したのでしょうね?それから、マーシャルが左半身を喜三郎に曝すとすれば、それは右旋回、つまり喜三郎から見れば右手から左に旋回してみえたのでは?
すみません。あまりに昔に書いた記事で、自分の推論を忘れこけてしまいました。あらためて読み直してみましたが、おっしゃっていることで正しいのではないかと思います。
どこかで書いていると思うのですが、松方正義の日記は、生麦事件の前後の部分のみが、行方不明なんですね。意図的だと思います。推論に推論を重ねる以外に、事実の掘り起こしようがありません。
だいたい、こうだったのではないか、というものはつかんでいるのですが、最後の詰めの史料を、いまなお見ることができていません。どこにあるかは、わかっているんですけれども。