えーと、またまた書きかけたものがあったんですが、fhさまからすばらしいTBをいただきましたので、予定を変更しまして。
大政奉還と桐野利秋の暗殺の続きですが、雰囲気はがらりと変わります。参考文献および引用は、すべて昨日のままで。
慶応3年9月3日、約束を違え、兵を連れず京へ帰って参られました土佐の後藤象二郎さまは、西郷隆盛さまにお会いになられます。
「土佐は言論でやるじゃがき!」
その4日後の7日、西郷さまが後藤さまにお答えになられました。
「もはや口先ではなりもはん。薩摩は兵を挙げもす」
翌8日、討幕反対派の高崎左太郎(正風)さまは、仁和寺に参られまして、光格帝のお手紙や御経文なんぞを拝観なさったようでございます。
氷とけみずぬるむえの水のあや をるやつつみの青柳のいと
西郷さまが、挙兵に言及なされたのは、6日に国許から歩兵三小隊と一大砲隊が到着いたしましたからでございます。
桐野利秋さま、このときのお名は中村半次郎さまですが、ともかく筋金入りの討幕派でおられる桐野さまは、7日、8日と上京して来られた旧知の方々と会われ、討幕挙兵が決したことへの喜びをかみしめられたようでございます。
つつみおく真弓もやがて引しぼり 打はなすべき時は来にけり
高崎さまは、後に宮中のお歌掛長を勤められ、明治大帝のお気に召されたお方でございますので、この歌合戦、当然のことながら、高崎さまに軍配があがりそうなものでございますが、なにしろ合戦でございますので、お歌の出来のみで勝敗がつくものでもございますまい。
チェストォォォーッ!!! 行けえーっ!!!
この桐野さまの迫力には、引いてしまう………、あー、いえいえいえ………、魅せられるものがございます。
ところがところが。
そうは問屋がおろさなかったのでございます。
後藤さまの口先大政奉還運動は、雅におすごしの高崎さまのお望み通りにうまく運びまして、薩摩さまでは、討幕反対の声が高まります。
お国元では、ご家老の関山糺さまが、このように言っておられたのだそうでございます。
「京の連中は長州なんぞに義理立てしもうして、お国を滅ぼすつもりでごわんどか!」
先に大久保利通さまは、長州に赴かれ、木戸孝允さまなどと、出兵の協議をされておられました。
ところが、お国元の反対が強いことなどもあり、薩摩さまのさらなるご出兵は、遅れたのでございます。
機会は失われました。
そこで、西郷さまや大久保さまは、新たな戦略を練られたのでございます。
大政奉還の実現を、むしろ好機ととらえよう!
大政奉還の後には、名目上のみでも、幕府の諸藩への拘束力は消え失せるのでございます。
その上で、薩摩の藩論をまとめあげ、本格的に軍勢を出せば、諸藩をなびかせることが容易になる、とでもいうことになりましょうか。
そこで、討幕の密勅でございます。
天子さまが、薩摩さまに討幕をお命じになれば、それに逆らうことは朝敵となることで、日ごろ尊皇の志云々と申しております以上、だれも逆らえない、というわけでございます。
慶応3年10月13日、島津久光公、忠義公に、討幕の密勅がくだりました。
そのようなことは夢にもご存じのない高崎さまは、大政奉還の行方のみを気にかけておいでです。
10月13日の高崎さまの日記にはこう書かれております。
今日諸藩を二条城にめす。我藩小松ぬしいでられぬ
一方の桐野さまの気がかりは、兵のことばかり。
密勅工作はさすがに詳しくご存じなかったとみえまして、薩摩さまの出兵が遅れておりましたことに、大政奉還の前になんとかと、焦りを感じておられたようでございます。
このたび長門の国まで兵士が来たと密に告げに来る。悦びに詠む。
よろこびも袖の中なるうれしさを やがて人にもつたうなりけり
翌10月14日、徳川将軍慶喜公は、朝廷に大政を奉還されました。
前日には、慶喜公は諸藩の代表を集められ、そうなさる旨を発表されておられまして、薩摩さまの代表は高崎さまの日記に見られますごとく、小松帯刀さまでございました。
この日高崎さまは、こう記しておられます。
朝かへりて小松ぬしを訪、きのうふのこと詳に聞く。よろこびにたへず。
一方の桐野さまは、昨日にうってかわって、うち沈まれたようでございます。
まず、「川上仲太郎が今朝発足帰国のこと」とありますので、あるいは川上さまに関係することかとも思われますが、やはりこれは、大政奉還前に挙兵が間にあわなかった衝撃ではありませんでしたでしょうか。
思うことあって。
草枕おもうもつらき世の中は ただうたたねの夢にこそあれ
ところがところが。
その翌日、桐野さまは、心願成就の感触を得られるのでございます。
10月15日、桐野さまはこうしたためられます。
西郷氏の所へ行き、御朝議のことを承ったところ、いよいよ将軍は職を退職御免となるなどの御内決であるとのこと。もっとも、ほかに勅書を写し置く。
桐野さまは、不安をかかえながらも、西郷さまを訪ねられたわけでございますね。
「西郷(せご)さあ、どげんぐあいでごわんそか?」
「半次郎どん、心配はいりもはん。こいがありもす」
と、にっこり、討幕の密勅を見せてもらわれたわけでございます。
チェストォォォーッ!!! 行けえーっ!!!
いえ、まあ、それからもいろいろと難しいことはございましたが、小松さま、西郷さま、大久保さまのお三人は、討幕の密勅を奉じて国許へ立たれまして、10月17日、それを桐野さまは伏見まで見送りに行かれました。
こうして挙兵へ向け、ご藩主忠義公さまの兵力を伴っての上京が、実現したのでございます。
本日の最後をしめるのは、これでいかがでございましょうか。Gackt-闇の終焉-紅白歌合戦
(日本版はあげる片端から消されているようですが、外国の方がまた次々あげてくださってます。美しくも笑えます)
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大政奉還と桐野利秋の暗殺の続きですが、雰囲気はがらりと変わります。参考文献および引用は、すべて昨日のままで。
慶応3年9月3日、約束を違え、兵を連れず京へ帰って参られました土佐の後藤象二郎さまは、西郷隆盛さまにお会いになられます。
「土佐は言論でやるじゃがき!」
その4日後の7日、西郷さまが後藤さまにお答えになられました。
「もはや口先ではなりもはん。薩摩は兵を挙げもす」
翌8日、討幕反対派の高崎左太郎(正風)さまは、仁和寺に参られまして、光格帝のお手紙や御経文なんぞを拝観なさったようでございます。
氷とけみずぬるむえの水のあや をるやつつみの青柳のいと
西郷さまが、挙兵に言及なされたのは、6日に国許から歩兵三小隊と一大砲隊が到着いたしましたからでございます。
桐野利秋さま、このときのお名は中村半次郎さまですが、ともかく筋金入りの討幕派でおられる桐野さまは、7日、8日と上京して来られた旧知の方々と会われ、討幕挙兵が決したことへの喜びをかみしめられたようでございます。
つつみおく真弓もやがて引しぼり 打はなすべき時は来にけり
高崎さまは、後に宮中のお歌掛長を勤められ、明治大帝のお気に召されたお方でございますので、この歌合戦、当然のことながら、高崎さまに軍配があがりそうなものでございますが、なにしろ合戦でございますので、お歌の出来のみで勝敗がつくものでもございますまい。
チェストォォォーッ!!! 行けえーっ!!!
この桐野さまの迫力には、引いてしまう………、あー、いえいえいえ………、魅せられるものがございます。
ところがところが。
そうは問屋がおろさなかったのでございます。
後藤さまの口先大政奉還運動は、雅におすごしの高崎さまのお望み通りにうまく運びまして、薩摩さまでは、討幕反対の声が高まります。
お国元では、ご家老の関山糺さまが、このように言っておられたのだそうでございます。
「京の連中は長州なんぞに義理立てしもうして、お国を滅ぼすつもりでごわんどか!」
先に大久保利通さまは、長州に赴かれ、木戸孝允さまなどと、出兵の協議をされておられました。
ところが、お国元の反対が強いことなどもあり、薩摩さまのさらなるご出兵は、遅れたのでございます。
機会は失われました。
そこで、西郷さまや大久保さまは、新たな戦略を練られたのでございます。
大政奉還の実現を、むしろ好機ととらえよう!
大政奉還の後には、名目上のみでも、幕府の諸藩への拘束力は消え失せるのでございます。
その上で、薩摩の藩論をまとめあげ、本格的に軍勢を出せば、諸藩をなびかせることが容易になる、とでもいうことになりましょうか。
そこで、討幕の密勅でございます。
天子さまが、薩摩さまに討幕をお命じになれば、それに逆らうことは朝敵となることで、日ごろ尊皇の志云々と申しております以上、だれも逆らえない、というわけでございます。
慶応3年10月13日、島津久光公、忠義公に、討幕の密勅がくだりました。
そのようなことは夢にもご存じのない高崎さまは、大政奉還の行方のみを気にかけておいでです。
10月13日の高崎さまの日記にはこう書かれております。
今日諸藩を二条城にめす。我藩小松ぬしいでられぬ
一方の桐野さまの気がかりは、兵のことばかり。
密勅工作はさすがに詳しくご存じなかったとみえまして、薩摩さまの出兵が遅れておりましたことに、大政奉還の前になんとかと、焦りを感じておられたようでございます。
このたび長門の国まで兵士が来たと密に告げに来る。悦びに詠む。
よろこびも袖の中なるうれしさを やがて人にもつたうなりけり
翌10月14日、徳川将軍慶喜公は、朝廷に大政を奉還されました。
前日には、慶喜公は諸藩の代表を集められ、そうなさる旨を発表されておられまして、薩摩さまの代表は高崎さまの日記に見られますごとく、小松帯刀さまでございました。
この日高崎さまは、こう記しておられます。
朝かへりて小松ぬしを訪、きのうふのこと詳に聞く。よろこびにたへず。
一方の桐野さまは、昨日にうってかわって、うち沈まれたようでございます。
まず、「川上仲太郎が今朝発足帰国のこと」とありますので、あるいは川上さまに関係することかとも思われますが、やはりこれは、大政奉還前に挙兵が間にあわなかった衝撃ではありませんでしたでしょうか。
思うことあって。
草枕おもうもつらき世の中は ただうたたねの夢にこそあれ
ところがところが。
その翌日、桐野さまは、心願成就の感触を得られるのでございます。
10月15日、桐野さまはこうしたためられます。
西郷氏の所へ行き、御朝議のことを承ったところ、いよいよ将軍は職を退職御免となるなどの御内決であるとのこと。もっとも、ほかに勅書を写し置く。
桐野さまは、不安をかかえながらも、西郷さまを訪ねられたわけでございますね。
「西郷(せご)さあ、どげんぐあいでごわんそか?」
「半次郎どん、心配はいりもはん。こいがありもす」
と、にっこり、討幕の密勅を見せてもらわれたわけでございます。
チェストォォォーッ!!! 行けえーっ!!!
いえ、まあ、それからもいろいろと難しいことはございましたが、小松さま、西郷さま、大久保さまのお三人は、討幕の密勅を奉じて国許へ立たれまして、10月17日、それを桐野さまは伏見まで見送りに行かれました。
こうして挙兵へ向け、ご藩主忠義公さまの兵力を伴っての上京が、実現したのでございます。
本日の最後をしめるのは、これでいかがでございましょうか。Gackt-闇の終焉-紅白歌合戦
(日本版はあげる片端から消されているようですが、外国の方がまた次々あげてくださってます。美しくも笑えます)
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八新で祝盃を傾ける高崎さま。一方、桐野さまは、お歌のご様子から拝察いたしますに、ご自分のお部屋でごろんとひっくり返ってふて寝をなさっていたにちがいありませんわ。郎女さまの料理の腕前を堪能させていただきました。拝。
掲示板の「10月22日の"清二"」ですが、別府晋介のことです。栗原氏は「清二が晋介と思われる」としていますが、晋介さんのご子孫から「清二は晋介」と伺っています。
村田屋さんのお子さん(半次郎様がいっしょに写真を撮ったこども)は「忠次郎」です。
10月1
10月14日の川上さんは晋介の姉婿なので、帰国を書き留めておいたと私は単純に思っておりました。
「思うところあって」は意味深ですが・・・。
Wikiこれから拝見してきます。どうもお疲れ様でした。
もうなんと申しますか、私、去年の暮れの紅白で、風邪にもかかわらず、もう涙が出るほど笑ってしまいまして。あんなに笑った紅白は、生まれてはじめてでした。歌詞と場面のアンバランスが、実に、「夢にこそあれ」と似ていると思うんですのよ(笑)
中村太郎さま
ご指摘ありがとうございます。読み直して気づきましたです。
10月14日の方の件ですが、桐野は、私的なことでは和歌はつくってないんですのよ。川上さんが身内だからこそ、そっちのことではない、と思ったんですの。憶測ですから、ちがうかもしれませんけど。
11月3日条を最初見たとき、「あれ、これなかなかうまい!」と思いましたら、「長府の奥善一、京都に於ける作」とあって、がっかりしましたです(笑)
読解力なし。(恥ずかしい。)
でも、桐野の和歌ですが、病気のときの「今は世によしをあしともしらねども・・・」はかなり個人的な感情を詠んだと私は解釈したんですけれど。
私の言い方が変だったかもしれませんが、この嘆き節も、こう、親族がどうだ、とか、親の命日だとか、という私的なことに関する慨嘆ではないです。
個人的な感情といえば、全部個人的な感情ですが、私的なことを題材にはしていない、ということなんです。「なにがよかったか悪かったかは後世の人こそが判断すべきである」ということですから、別に桐野の私的人生に関することではありませんで。