郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

「桐野利秋とは何者か!?」vol4

2019年02月14日 | 桐野利秋

 「桐野利秋とは何者か!?」vol3の続きです。

薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版


 桐野作人氏著「薩摩の密偵 桐野利秋」の「はじめに」より、以下引用です。

 薩摩藩は島津斉彬が国政関与に乗り出して以来、王政復古政変から戊辰戦争に至るまで、幾多の危機がありながらも、それを巧みに乗り越えて、政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない希有な勢力である。並び称されている長州藩の浮沈の激しさとは対照的だといえよう。
 そうした薩摩藩の卓抜な政治力の源泉のひとつが広範かつ正確な情報活動だった。その有力な成員として活躍したのが、本書の主役である中村半次郎、のちの桐野利秋(一八三八〜七七)である。
 

  まず、「薩摩藩は、政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない希有な勢力」という前提について、です。
 薩英戦争は薩摩の勝ち戦だったんでしょうか???

 薩摩側が賠償金を支払っています以上、勝ちではないですよねえ。薩摩は、確かに賠償金を幕府から借りて踏み倒していますが、それをいえば、長州も下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)の賠償金は、幕府に払わせています。条約を結んだ主体が幕府である以上、藩が勝手にはじめた戦争であっても、対外責任は、最終的に幕府にあったというだけのことなんですけれども。
 戦死者の数でいいましても、四国艦隊迎撃戦に限れば長州側18人ですし、それ以前の攘夷戦を含めましても30人ほど。
 薩英戦争の薩摩側戦死者24名で、長州とさほどかわりはないんですね。
 明治4年(1871)の辛未洋擾、アメリカ艦隊が江華島を攻撃しましたとき、李氏朝鮮側が二百数十名の戦死者を出しましたのにくらべ、格段の少なさです。
 城下を焼き払われましただけ、長州の被害よりも薩摩の被害の方が大きかったともいえそうですよねえ。

 「政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない」といえば、 「戊辰戦争の勝者で対外戦をやっていない佐賀藩こそ!」、そうじゃないんでしょうか。
 私、決して佐賀藩を褒めているわけじゃありません。対外戦をやって、負けていればこそ、薩長は自藩の改革に成功し、維新の主導者となり得た、と思っています。

 桐野作人氏は、(薩摩藩は)長州藩の浮沈の激しさとは対照的とも言っておられまして、おそらくはこちらが主眼なんでしょう。
 とすれば、薩摩と長州のちがいは、8月18日の政変と禁門の変、ということになります。
 しかしこれ、それほど単純に「長州は敗北したが薩摩は敗北しなかった」と言ってしまっていいことなのでしょうか。
 といいますか、なにをもって敗北、勝利というのか、という問題があります。
 8月18日の直前の状況、禁門の変の後の京都政局など、政治的に薩摩にとって、勝利とはとてもいえない状況でした。「その危機を乗り越えて勝者となった」というなら、長州もまた、大きな危機を乗り越え最終的に勝者となった、ということが可能でしょう。

 ここらあたりは、作人氏の「桐野利秋は密偵説」にも深くかかわってくる問題でして、以下、再び「はじめに」より引用です。

 桐野の諜報活動のなかで、もっとも異彩を放ち、成果をあげたのは一時期激しく敵対した長州藩に対してのものだった。
 桐野の「密偵」としての有能さは西郷が太鼓判を押しているから間違いない。では、なぜそのように有能だったのか。逆説的にいえば、桐野はむしろ、国父島津久光の下、小松帯刀・西郷・大久保利通らが指導する薩摩藩の方針とは対立、もしくは距離を置いていたからだといえる。
 桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった。
 

 まず、前提条件に間違いがあります。
 桐野はむしろ、国父島津久光の下、小松帯刀・西郷・大久保利通らが指導する薩摩藩の方針とは対立、もしくは距離を置いていたという点ですが、薩摩藩の指導者の方針は常に一枚岩だったんですか?と疑問を呈したいと思います。
 次いで、桐野はずっと薩摩藩の方針と対立し、距離を置いていたんですか?という疑問もわきます。

 最初に、慶応三年、幕末も押し詰まった最後の年の、勝海舟の見解を見てみましょう。

 
勝海舟全集〈1〉幕末日記 (1976年)
クリエーター情報なし
講談社


 全集1収録の「解難録」探訪密告慶応三年丁卯より、以下引用です(p.295~6)。「解難録」は海舟が幕末維新期に書いたものを、明治17年の夏、自ら整理したものです。

 慶応三年、上国に在て事を執る者、探索者の密告せし処有といへども、皆、皮相の見にて、多くは門閥家を以て是が最とす。予が考ゆる処、是と異なり、
 薩藩  西郷吉之助 大久保市蔵 伊地知正二 吉井幸輔 村田新八 中村半次郎 小松帯刀 税所長造
 萩藩  桂小五郎 広沢平助 伊藤俊輔 井上聞太 山縣狂介 前原
 高知藩 後藤象二郎 板垣退助
 佐賀藩 副島二郎 大木民平 江東俊平 大隈八太郎
 此輩数人に過ぎざるべし。大事を決するに到ては、西郷、大久保、桂の手に出て、其他は是を賛し是を助くるに過ぎざるべし。〜以下略
 

 慶応三年、西日本の有力諸藩で政治を動かしている人物について、幕府の探索者は藩主やその門閥のお偉方が主導していると報告を上げてきているが、それはうわべしか見ていない者の言うことであって、私の考えは異なっている。
 薩摩藩は西郷吉之助 大久保市蔵 伊地知正二 吉井幸輔 村田新八 中村半次郎 小松帯刀 税所長造。長州藩は、桂小五郎 広沢平助 伊藤俊輔 井上聞太 山縣狂介 前原。土佐藩は、後藤象二郎 板垣退助。佐賀藩は、副島二郎 大木民平 江東俊平 大隈八太郎。
 お偉方ではなく、これら各藩数名が主導している。とはいうものの、大事を決しているのは、薩摩の西郷・大久保、長州の桂小五郎で、その他の人々は、彼らに賛同し、彼らを助けているだけだ。


 少なくとも慶応三年において、勝海舟の見ていたところでは、国父島津久光は、薩摩藩首脳部の意志決定集団からはずれていましたし、西郷・大久保が牛耳っていて、小松帯刀はその下で、中村半次郎(桐野利秋)と並び、西郷・大久保に賛同して、手助けしていただけだ、というんですね。

 もちろん、こうなるまでには経緯というものがあります。
 桐野が、生まれ育った鹿児島から京都へ出ましたのは、文久2年(1862年)春のことです。
 島津久光の率兵上洛に従ってのことでして、このときから桐野は、たまに短期間帰郷することはありましたが、ほぼ京都にいました。

外様藩の藩主の父親が、1000名の藩兵を率いて京都へ出た、といいますことは、江戸時代のそれまでの常識からしますと、破天荒なことです。
これにより、日本の政局の中心は京都となり、一気に流動化して、二十代半ばの桐野は、まずは藩命で青蓮院宮付き守衛兵となって、渦中に身を置きます。

原口清著作集 1 幕末中央政局の動向
クリエーター情報なし
岩田書院


 「桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった」といいます作人氏の見解にそって、原口清著『幕末中央政局の動向』収録の「幕末長州藩政治史研究に関する若干の感想」より、以下の引用部分を見ていただけたらと思います。

 藩士身分の尊攘派志士が、なによりも自藩を尊攘の方針に転換さすために努力したことは当然であり、長州藩や土佐藩では、成功の度合いはちがうが、一藩挙げての尊攘運動を行った。因幡・備前藩などは、藩主自身が熱心な尊攘主義者であり、ここでは急進・漸進の差異はあっても、一藩の多数が尊攘主義者となっていたものと思われる。尊攘主義藩士の脱藩浮浪化は、多くの場合藩論を尊攘主義に転換できず、藩内抗争などがあって脱藩したものでああって、脱藩それ自体が本来の目的であったわけではない。尊攘派は、藩力を利用し、朝廷・幕府に働きかけている。つまり、彼らは既存の国家組織を挙げて尊攘主義に転換させることを主要な運動・組織形態としているのである。 

 つまり、尊攘主義といいますのは、日本に押し寄せてきました外国を意識してのものですから、当然のことながら、藩士身分のものは、日本全体の国家組織を外国と戦いうるものに転換、変革しようと意図して動き、自藩の力をそれに利用して、朝廷幕府に働きかけようとしていた、というんですね。
 としますならば、一薩摩藩士にすぎませんでした中村半次郎(桐野利秋)も、「日本全体が対外戦のできる国となることを願って、自藩に働きかけ、動かすことに成功して、慶応三年には、勝海舟の見るところ、西郷・大久保に賛同して手助けし、重臣・小松帯刀と並ぶほどの実力者になっていた」、ということが可能でしょう。

 以上、勝海舟と原口清氏の著作をあわせみまして、作人氏がおっしゃるところの「桐野利秋は密偵だった」説のなにが胡乱かということは、浮き彫りになったかと存じます。
 薩摩藩首脳部のあり方は、徐々に変化していたのですし、桐野利秋は決して、薩摩一藩のために行動していたのではなく、日本全体のことを考え、長州と手を結ぶ方向へ藩を動かそうと、西郷・大久保・小松に協力し、それを実現したわけです。
 「薩摩の密偵」だったということにしてしまいますと、西郷・大久保・小松に真摯な志を利用され、薩摩一藩のためにしか働けなかったことになってしまいます。
 作人氏自身がおっしゃっているように、「桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった」わけでして、としますならば、当然、唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』に書きました久坂の書翰、坂本龍馬に託して武市半平太に届けた書翰の以下の部分に、強く賛同していたと考えられるわけです。

「諸候たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事と、私ども同志うち申し合いおり候事に御座候。失敬ながら、尊藩(土佐)も弊藩(長州)も滅亡しても大義なれば苦しからず」
「諸候も公卿もあてにはならない。われわれ、無名の志士たちが集まって幕府を糾弾し、天皇のご意志を貫かなければならない。そのためには、長州も土佐も、滅びていいんだよ」

 幕末の動乱は、これほどの覚悟のもとにありましたのに、桐野利秋が薩摩の密偵であった、といいます作人氏の説は、桐野を貶めるだけではなく、桐野を利用したとされる西郷・大久保・小松をも、貶めることにならないでしょうか。この三人が、たかだか薩摩一藩の利益のみを考え行動していた、ということになってしまうわけですから。

 長くなりましたので、作人氏が「桐野利秋密偵説」におきまして、参考に挙げておられます史料の細かな見当は、次回にまわします。またまた、ありえない読み違いをなさっておられたり、します。

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41 コメント

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綾小路定利の如く (中村太郎)
2019-02-14 22:05:55
鋭い切れ味です。
いつもながらの快刀乱麻です。
自分の読解の浅さを恥じるばかりです。
次回も楽しみに致しておりますが、また、お忙しい時期となりましたので、どうかお身体にお気をつけ下さい。

返信する
ありがとうございます! (郎女)
2019-02-15 10:55:27
客観的に見て説得力のある反論にしようと、苦労してます。楽しみにしていただいて、嬉しいです。
返信する
Unknown (サトウ アイノスケ)
2019-02-15 19:44:54
当初はこの「桐野利秋とは何者か!?」のシリーズが全部終わってから最後にまとめて感想を書こうと思っていたのですが、終章はもうしばらく先のようですので一旦ここで私見を挟ませて頂きます。

私が拝見した所、郎女さんは「(vol1でも書かれていたように)桐野利秋の主観に立って、なるべく桐野を肯定するような形で書くべきである」という立場ですが、その一方で桐野作人氏は「桐野利秋を客観的に見て書く」という立場を優先しており、両者の立場にギャップが目立ちます。

プロの物書きである桐野作人氏が「なるべく多くの人に読んでもらいたい。本の売上げ部数も伸ばしたい」と意識して書くのは当然でしょうから、「桐野利秋の主観に立って読む人」と「客観的に見て読む人」の人数を天秤にかければ、後者を優先するのは適切な選択だと思います。そして私も後者に属する読者ですので、正直に言えばあまりこの本に違和感を感じませんでしたし、密偵説についても「そういう見方もあるんだな」という感想を抱く程度でした。

「西南戦争は大久保利通らが退いて、それで終わらせる(防ぐ)べきだった」「桐野利秋密偵説は胡乱である」という郎女さんのご見解と、この本の見解に相違が生じているのも、その主な原因は「主観か、客観か」の立場の相違にあるように私には感じられます。

密偵説云々の部分は措くとしましても、vol3で書かれていた「西南戦争は大久保利通(政府)が云々」と仰っている部分に関して言えば、桐野作人氏が「客観的」立場を優先してこの本を書く以上は「西南戦争の被害の責任を一方的に大久保(政府)側に求めて、西郷・桐野の責任には目をつぶる」などという立場は取れないのではないでしょうか。

そして世間一般の共通認識としても、そのような立場が、少なくとも多数派であるようには私には見えません(九州での雰囲気は私には分かりませんが、逆に当時の「旧賊軍」、特に東日本では会津の柴五郎の一族のように「薩軍への雪辱を果たしたい」という純粋な理由で、積極的に政府軍を応援した人達もいたようですし)。

西南戦争の見方は今でも複雑難解で、西南戦争における西郷隆盛の評価はいまだに揺れ動いているように私には感じられます(「征韓論・明治六年の政変」も含めて)。

少なくとも開戦直前に西郷隆盛や薩軍に生で触れていたアーネスト・サトウは当時「親西郷、反大久保」の感情を抱いてはおりましたけれども、私自身の評価は、それとはまた別です。

それでは続きを楽しみにお待ちしております。
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サトウ アイノスケさま (郎女)
2019-02-15 20:25:00
vol1でなにを書いたか、慌てて読み返してしまいました。「愛情がない本」ということですよねえ。しかし、それがそのまま「客観的」なんでしょうか。
誤解されてしまいそうな気がしましたので、といいますか、私がファンであることは事実ですので、「愛情があってなおかつ客観的な本」として栗原氏の史伝をだしたわけなのですけれども。

お言葉ですけれども、「西南戦争は大久保利通らが退いて、それで終わらせるべきだった」と私は思っておりません。桐野作人氏の「桐野利秋は切腹して戦争を終わらせるべきだった」という意見に、福沢諭吉の言葉を借りれば「大久保が引けば戦争は終わった」ということになるよ、と対峙して述べているだけです。
桐野が切腹すれば西南戦争が早期終了したとは、到底私には思えませんし、とすれば、大久保が引いたからといって、西南戦争は終わらなかったでしょう。

内戦の被害の責任、ということならば、通常、為政者の側に求めるでしょう。江戸時代でさえも、一揆を起こせば首謀者は磔になるかもしれませんが、起こされた藩の家老は、確実に切腹です。
起こされたときの為政者が、反乱の責任を問われない方が、おかしくないですか? 
私は、昔は「丁丑公論」をすべて理解することはできなかったんですが、いま読み返してみますと、中央集権の行き過ぎをちゃんと指摘していますし、反乱が起こる前に、政府ができることはたくさんあったのではないでしょうか。
 
しかし、自分の意見はまったく述べていないつもりなのですけれども、愛情があれば、どうしても客観性に欠けるのでしょうか。
とすれば、これまで書いてきたことは失敗かな、と思います。

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どのようにお返事するか少し悩んだのですが (サトウ アイノスケ)
2019-02-16 00:16:45
せっかく反論を頂いたのですから少し討論を試みたいと思います。

「内戦の被害の責任、ということならば(中略)反乱の責任を問われない方が、おかしくないですか?」の部分につきまして、私はそういったお考えに違和感があるのです。

「江戸時代でさえ」という例で仰るならば、西南戦争当時の「大久保政府」の立場は「藩の家老」ではなくて「幕府の首脳あるいは将軍」という立場だと思います。江戸時代に内戦、内乱によって幕府のトップが責任を取るなどという事があり得ますでしょうか?むしろ逆に徹底的に幕府から粛清されるのではないでしょうか?例えば島原の乱のように。

更に言えば二二六事件、五一五事件、竹橋事件などは「為政者の側の責任」なのでしょうか?

私は「大久保政府が正しかった」と申しているのではありません。「西南戦争の見方は今でも複雑難解で」と書きましたように、西南戦争はあまりにも不可解な点が多く、私もいまだによく理解ができないのです。

そして西南戦争は内乱、反乱というよりも、万単位の戦力を動員した、れっきとした「戦争」です。

なぜ西郷軍は開戦をしたのでしょうか?
政府の失政のせいで鹿児島の民が飢えていて死にそうだった、あるいは政府軍が理不尽にも大軍で鹿児島に攻め込んできた、というのが理由であればまだ分かります。

「江藤や前原が理不尽な形で政府に誅殺された」「民権が滅ぼされる」「西郷が殺されそうになった(それが真実だったとしても)」というのが万単位の人間を動員して戦争を起こす理由になるのでしょうか?中央集権を必死で目指している政府が地方政府に武装解除させようとした事がそれほど理不尽な事でしょうか?鹿児島だけ特別視するほうが他地域から見ればよほど理不尽なのではないでしょうか?

そして「西南戦争の責任」の「責任」という言葉の定義について、これには二通りの「責任」があると思います。それは「戦争を始めた責任」と「戦争に負けた責任」です。大久保政府側の事はとりあえず措くとして、西郷軍の首脳部にはこの二つの「責任」がありますので、やはり西郷や桐野の責任は問わざるを得ないでしょう。西南戦争の終盤では、西郷軍の徴兵、挑発が酷かったという話も時々聞きます(おそらく桐野作人氏のあの文言は、その点を差しているのではないでしょうか)。

私は西南戦争までが「一連の維新運動の一環だった」と思ってます。民権や野党が大事なのは私もよく分かりますが、江戸幕藩体制からたった十年で近代民主政治が出来るとは思えません。現代の中国は建国から何十年も経っているのに近代民主政治にはなっていませんが、国家は(一応)発展しているようです。

仮に西郷軍が勝っていたとしても、その後の「西郷政府」はどうなったでしょうか?私は「大久保政府」のように時には強権を発動してでも反乱を抑え込まない限り、第二、第三の「西郷軍」が続いていたのではないか?と思ってます。

乱文、失礼しました。
返信する
ありがとうございます! (郎女)
2019-02-16 10:51:41
中村さまは、私と同じく桐野のファンですし、そうではない方の正直な感想を読ませていただけるのは、嬉しい限りです。だいたい、この大伴郎女というハンドルネームは、とある討論サイトで喧嘩を売るために生まれたものですし(笑)

竹橋事件! なつかしいです。『火はわが胸中にあり―忘れられた近衛兵士の叛乱 竹橋事件』は徴兵制にからむ事件でしたので、昔、読み込んだのですが、すっかり内容を忘れてしまう始末です。
しかし、そうです。責任は、当然為政者の側にあったと思います。このことは、また徴兵制度について、ブログに書くときに述べたいと思います。作人氏が私の大昔の論文を参照なさっていますのが、徴兵制に関する部分ですし、昔の自分の知識不足も当然ありますが、とても不本意な引用のされ方で、これは、私の怒りの中心になっています。
 まあ、それこそ、大昔といえども公表した論文を、どう読もうが、それは作人氏の勝手なのかもしれませんが、論文を書いた本人にしてみましたら、とんでもなく短絡な読み方をされてしまった、という不満でいっぱいです。そして、その作人氏の読み方は、日記や書翰など、さまざまな史料の読解、あつかいにも通じていまして、なんでそんな解釈になるかなあ、という不信感の大きな要因となっています。

 二二六事件、五一五事件は、あまりに時代、条件がちがいすぎますし、近いところで、箱館戦争です。
 私は、責任はすべて、新政府にあると思います。軍艦を渡したことも含めて、原因を作ったのは新政府の側ですし、戦争を終わらせる責任も、すべて新政府の側にありました。
 例え、榎本軍の行動が、「300万坪という広大な土地を99年間リヒャルト・ガルトネルに貸し出す」というような売国的なものであったにしましても、蝦夷でどんな金集めをしたにしましても、日本の当事者は新政府なのですから、責任はすべて、新政府にありました。それと同じ事が、西南戦争についてもいえます。

それと、「江戸幕藩体制からたった十年で近代民主政治が出来るとは思えません」とおっしゃっている部分なのですが、むしろ、私は、なにもかもをあまりに急進的に、強引に変革しようとした歪みが、西南戦争を引き起こした、と思っています。もっと漸進的にやる必要があったのではないかと。

あと、第二、第三の「西郷軍」は起こりえませんでした。武器を私有し、弾丸を製造し、現役の大将、少将をいただいた国民軍は、外になかったから、です。

短いですが、以上。
返信する
もう一回だけ意見を述べさせて頂きますと (サトウ アイノスケ)
2019-02-16 15:43:37
昨日「西郷、桐野の責任」についていろいろと書きましたが、私は別に西郷、桐野が嫌いな訳ではありません。

むしろ私があの時代に生きていたら、なにしろ私も結構偏屈で浮世離れした性格の人間ですから「民権派」になって、反大久保の思想に染まっていたでしょう。しかし現代人の目線で客観的に述べるとすれば、福沢の「丁丑公論」の記述をそのまま受け入れる事は出来ません。

私は「丁丑公論」は読んでません。「福翁自伝」は読んでます。私は福沢の知性や人格は認めますが、vol3で書かれていた福沢の西南戦争に関する論述は、西南戦争の本質を突いていないと思ってます。

私は前回「西郷軍の開戦理由が分からない」と書きましたが、実は私なりに想定している「開戦理由」というのはあるのです。

それは西郷も大久保も「薩摩武士だから」戦争になったのだろう、という事です。

どっちに責任があるとか、善悪、理屈、それらは本質的な問題ではなかったと思います。決着は「果し合いで決める」、なぜなら「薩摩武士だから」です。挑戦を受ければ立たざるを得ない。「逃げる」という選択肢はあり得ません(こういう思考回路は現代人には理解不能だと思いますが)。

福沢は良識の人ですからああいった理屈付けをしたがるのでしょうが(あるいは一旦幕府に仕えた以上は「新政府には出仕しない」という在野意識の強さから来ているのでしょうが)、「福翁自伝」を読む限り、福沢は戦争や人殺しが嫌いで、そういった事を極力避けたがる人間です。それは江戸開城直前に「戦争になったらすぐに逃げるから」と加藤弘之と言い合ってた場面などで顕著です。文人、知識人なのだからある意味それも当然でしょう。

そんな福沢が「戦争を厭わない(武断的発想の強い)薩摩武士」の人間性を理解していたとは思えません。

西南戦争を避ける道は私もあったと思います。それは「対外戦争」をするという道です。

手頃な戦場としては朝鮮半島あたりが妥当だったでしょう。そうすれば内戦(日本人同士の殺し合い)を避ける事も出来て、対外強硬派の「民権派」も納得して世論も一本化され、愛国心も強まり団結心も生まれ、良い事尽くめだったでしょう。ただ一点、外征費による財政逼迫によって内政が著しく置き去りにされる、という点を除けば。

しかしこの道は選択されず、薩軍の武装解除もされず、最終的には西南戦争に至ってしまった、という風に私は考えています、今の所は。
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最後に私も一つだけ (郎女)
2019-02-16 23:11:25
 ご存じかと思うのですが、福澤諭吉の又従兄弟にあたる、民権論者の増田宗太郎は、中津隊を率いて西郷軍に参加し、戦死(最後の様子が結局わからないそうですが)しています。幕末には極端な攘夷主義者で、福澤の命を狙ったこともあったそうですが、明治、福澤に感服して、教えを受けていました。「丁丑公論」を読んでの話ですが、福沢は、自分の天命は戦いにはないと十二分に自覚していたでしょうけれども、福沢も時代の子です。アメリカ独立戦争を知り、南北戦争時の戦術書を訳したりもしていたわけですから、戦うことの重要性は、肌で知っていたと、私は思います。
 実は私、「丁丑公論」よりも先に、南北戦争時の戦術書の翻訳を読みました。
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Unknown (桐野利秋の弟の子孫)
2019-05-22 18:03:26
はじめまして。コメントではなくblogで直接メッセージを送る事は出来るでしょうか?
返信する
よろしければ (郎女)
2019-05-23 21:21:07
以下にメールでお願いします。

siori@af.wakwak.com

お返事、遅くなりました。
返信する

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