去年の3月11日の午後は、母を眼科に連れていっていました。
なんといえばいいのでしょうか、関東大震災が当時の日本の世相を一変させてしまったことが、身をもってわかったような気がしました。
安政の東海、南海、そして江戸直下型その他の連発大地震も、黒船来航と重なりまして、「生滅流転、この世に確かなものはない」というような諦念から、やがて、世の変革を促す大きなエネルギーが生まれたようにも思えます。
そんなわけで(どんなわけやら)、今回もちょっと寄り道しまして、「三千世界の鴉を殺し」の続きです。
なんだか最近、同名ライトノベルのおかげで、検索でこのページにアクセスする方が増えていたんですけれども、その理由の一つは、どうも私が、「主と朝寝がしてみたい」だけではなく、「主と添い寝がしてみたい」の歌詞も載せていたためでもあったのではないか、と思います。
これ「朝寝」の方が一般によく知られていまして、「添い寝」と書いているサイトさんは少ないんですよね。
それは、ともかく。
私が前回、この都々逸について書きましたのは、
この秀逸な都々逸を、桐野利秋作だと書いているブログがある、とお聞きしてどびっくりし、しかもそのブログのこの都々逸の解釈が、「邪魔なものは全て殺してしまえという考え方を述べたもの」ということであることに呆然として、のことでした。
要するに、私が憂えておりましたのは、です。
日本人の日本語読解能力がここまで低下するって、許されることなんでしょうかっ!!!
ということだったんですが、実はこれにはネタ本があった、ということが、最近わかりました。
名禅百話―人生の真理と不動の心を求めて (PHP文庫) | |
武田 鏡村 | |
PHP研究所 |
この武田鏡村氏の「名禅百話」が、元凶だったんですっ!!!
しかも、信じられませんことに、検索をかけてみますと、著者の武田鏡村氏は、僧籍のある作家!!!だそうでして、ここまで読解力のない作家さんがいまの日本には存在するのかっ!!!と、呆然といたします。
だいたい、書き出しからして、こうです。
幕末に、人斬り半次郎と異名をとった人物がいた。薩摩の中村半次郎、のちの桐野利秋である。
幕末に、人斬り半次郎なんて異名はないですから。あるとおっしゃるなら、典拠をはっきりさせていただきたいものです。
つーか、人名の前に「人斬り」とつけることは、半次郎に限らず、幕末にはありません。
人斬り俊輔とか、人斬り晋作とか、人撃ち龍馬とか、言わないですよねえ。
それと同じことです。
明治になっても、剣に強くて必要なときにそれを存分にふるえますことが英雄の条件だったとは、龍馬暗殺に黒幕はいたのか?に書いております近藤勇の例などを見ましても、わかることです。
これもだいぶん以前の記事ですが、詳しくは続・中村半次郎人斬り伝説をご覧ください。
萌えよ乙女 幕末志士通信簿 | |
幕末維新研究会 | |
泉書房 |
上の本を買いましたのは、ひとえに、薄桜鬼の土方と池田屋の沖田ランチに書きましたように、姪に「薄桜鬼」を教えられまして、「最近の幕末死人のおっかけ事情はどうなっているの???」と、関心をもったためです。
えー、それが、ですね。ちゃんと中村半次郎も見開きで載せてもらっていました。
書かれました内容はともかく、濡れ羽色の長髪の半次郎のイラストの色っぽいこと色っぽいこと、でして、ここで「三千世界の鴉を殺し、主と添い寝がしてみたい」と台詞を入れてくれましたら、芸者さんも悩殺されるよねえ、と思ったほどでした。
イラストは幾人かで分担して描かれているのですが、半次郎を手がけられたのは、あおいれびん氏。ぐぐってみましたら、BL系の漫画家さんみたいでして、どうりで、色っぽいはずです。
しかし、後書きであおいれびん氏が書いておられますことには、「四大刺客を描かせて頂きました!」ということでして、「四大刺客」って「四大人斬りの言い換えだよねえ」と、田中新兵衛、岡田以蔵、河上彦斎と並べられますことに、ちょっと違和感があったのですが、四人とも色っぽい中でも、半次郎は格別に色っぽく描かれていますので、まあいいか、と思いもしました。
違和感といいますのは、なになのでしょうね。
最大の違和感は、田中新兵衛も岡田以蔵も河上彦斎も、孤独な剣士という感じがしまして、桐野(中村半次郎)は、そうではないから、です。
伊集院金次郎も肝付十郎も、戊辰戦争で先に逝ってしまいましたけれども、永山弥一とは生涯の友で、桐野の説得で、死を覚悟してともに戦うことを承知してくれたわけですし、桐野の死後に桐野を描いた歌舞伎を見まして中井桜洲はしのんでくれましたし、おそらく前田正名も、パリで泣いてくれたはずですし。
なにしろ、私の半次郎に対しますイメージが、愛のバトン・桐野利秋-Inside my mind-に書いたようなものですから、ねえ。
といいますか、フランス軍服に金銀装の儀礼刀を持ち、アラビア馬に乗っていた桐野も史実なんですから、田中新兵衛、岡田以蔵、河上彦斎と並べますよりは、土方歳三の向こうを張るイメージの方が、事実に近いんじゃないんでしょうか。
と、話がそれてしまいましたが、武田鏡村氏の著作です。
人斬り半次郎云々の後に、こう続きます。
あるとき、半次郎が京都相国寺の独園和尚を訪ねて、たわむれに「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」と詠いましたところが、独園和尚はニヤリと笑い、「桐野さん、そんなことでは天下は取れぬ。わしならこう詠む。三千世界の鴉とともに、主と朝寝がしてみたい」と詠った、というのです。
ここまでは、いいんです。
実は、ずいぶん以前から、中村太郎さまが、相国寺さんのサイトで桐野の名前を見つけ、教えてくださっていました。
臨済宗相国寺派 歴史資料 関連人物に、独園承珠の項目があります。この最後に「参禅の居士に伊達千広、鳥居得庵(鳥尾小弥太)、桐野利秋、山岡鉄舟等があります」とありまして、独園和尚は、廃仏毀釈に反対して、信仰の自由を求めた方だそうですので、その和尚さんに私淑していましたといいますことは、これまた意外な桐野の側面ですよね、と、中村さまとも話していたようなことだったんです。
京都の薩摩藩二本松藩邸は、相国寺の領地を借りて、相国寺に隣接して建てられておりましたので、幕末、中村半次郎時代から、相国寺で修業しておりました荻野独園を知っていた可能性はあるのですが、wiki-荻野独園を見ておりますと、「明治5年(1872年)教部省が設置されて独園は教導職として招かれたのを機に東京に入り、次いで増上寺に大教院が設置されると大教正に任じられ、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の総管長を兼務した」とありますこの時期に本格的に私淑したと考えますと、おさまりがいいんじゃないのか、と思います。
ま、そういうわけでして、桐野と独園和尚との逸話伝説が残っていますこと自体は、ありえることとと思われました。
それで、中村さまが国会図書館でさがしてくださいまして、武田鏡村氏がネタにした可能性があります戦前の禅の逸話集が、いくつか見つかりました。
そのうち、一番古いものが、大正15年発行の「禅林逸話集」です。
中村さまいわく「国会図書館のデジタル化が進みますと、もっと古いものが見つかりそうですね」でして、私もそう思いますが、短い逸話ですから、全文引用します。
桐野利秋の情歌
西郷南洲の股肱といわれた桐野利秋、ある時相国寺の独園和尚に参じて、
「和尚さん、拙者はかやうな都々逸を作ってみたが、如何です?」と大いに自慢して見せた情歌に曰く、
三千世界の烏を殺し主と添寝がしてみたい
これを見た独園和尚、ニヤリと一笑して、
「桐野さん、そんな事ぢゃお気の毒だが天下は取れませんよ」
「それはまたどういふわけですか」
「わしならばかうするよ」と和尚が示した歌にいわく、
三千世界の烏と共に主と添寝がしてみたい
他日桐野が人に語って言ふやう、
「あの坊主はなかなか油断がならぬぞ」と。
大正時代に出版されていますこの逸話と、武田鏡村氏が書いた逸話のどこがちがうかといいますと、もっともちがいますことは、大正時代のものは「添寝がしてみたい」で、鏡村氏のものは「朝寝がしてみたい」ということでしょう。
添寝と朝寝。これだけでニュアンスが相当ちがってまいります。
三千世界の烏を殺し主と添寝がしてみたい
この世の義理もしがらみをみんな捨て、あなた(おまえ)と体を重ねてしまいたい
三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい
この世の義理やしがらみから解き放たれて、あなた(おまえ)とのんびり朝寝ができる身分になりたい
つまり、「添寝」は肉体関係を持つということですから、あからさまな恋歌にしかならないのですけれども、「朝寝」は朝寝坊という意味ですから、「のんびりしたいなあ」という気分の方が強く、高杉晋作や逃げの小五郎(木戸孝允)が作ったと仮託しますならば、「朝寝」の方がふさわしい、といえます。
大正時代の方の逸話を解釈しますと、以下のようではないでしょうか。
桐野利秋が、あるとき独園和尚のもとへ来ていいました。
「和尚さん、こんな恋歌を作ってみたんですが、いかがですか? 三千世界の烏を殺し主と添寝がしてみたい」
桐野は、三千世界という仏教用語を使って、「この世の義理もしがらみも、仏の教えもみんなかまわず、おまえと体を重ねてしまいたい」という恋歌を巧みに作ったわけでして、色っぽい世界で粋にふるまっていることを自慢するとともに、独園和尚をちょっとからかったつもりでした。
ところが、独園和尚はニヤリと笑って、こう返しました。
「桐野さん、そんなに色事にばかりかまけていては、お気の毒だがあなたは大成しませんよ。わしならばこうするよ。三千世界の烏と共に主と添寝がしてみたい」
つまり和尚は、「烏を殺し」を「烏と共に」と一言言い換えただけで、「この世の義理やしがらみやさまざまな政治上の難問を、あなた(桐野あるいは国民)とともに解決しよう」と、恋歌を治政者の歌に変えてしまったのです。
桐野は、「あの坊主はなかなか油断がならぬぞ」と感心して、他人にもそう言いました。
ところが、ですね。
武田鏡村氏ときましたら、「朝寝」の方でこの逸話を紹介しましたあげく、勝手に、こんな言葉を付け加えているんです。
桐野のようにカラスが邪魔だからと、殺してしまっては何にもならない。カラスを殺さずに活かし、ともに生きる。これが本当の生き方である。
その後、西郷隆盛に私淑する桐野は、政敵を倒すことを考えて蜂起し、西南戦争を引き起こして自滅した。
ライバルや政敵は、殺して葬るのではなく、殺し(否定)、活かし(肯定)、そしてともに生きるものである。その度量がなければ、天下人や大企業の社長にはなれない。
だいたい、桐野がこの歌を作ったということ自体、逸話の仮託にすぎませんが、それにしましても、「カラスが邪魔だからと、殺してしまっては」なんぞといいます無茶苦茶な解釈が、なんでできるのでしょう。えー、カラスが一匹、カラスが二匹と殺していく、これはカラス狩りの歌だとでもいうのでしょうか。馬鹿馬鹿しい。
次に、桐野が私淑しておりましたのは独園和尚だと、相国寺さんのサイトにちゃんと書いております。 中村太郎さまがおっしゃっておられましたが、独園和尚は私淑します桐野になんの影響も与えることができない程度の人物だった、ということになりまして、失礼きわまりないんじゃないでしょうか。
ちなみに、維新に際しまして、鹿児島で、徹底的に仏教が排斥されましたのを残念に思い、独園和尚は、禅宗の再布教を志し、明治9年から鹿児島入りするほど、熱心な導き手でした。
もっともお口あんぐりになりますのが、西南戦争が政敵を倒すことを考えて蜂起って、はあ。このお人は、福沢諭吉の「丁丑公論」を読んだことがない!!!のでしょうか。
明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫 (675)) | |
福沢 諭吉 | |
講談社 |
佐賀の亂の時には斷じて江藤を殺して之を疑はず加之この犯罪の巨魁を捕へて更に公然たる裁判もなく其塲所に於て刑に處したるは之を刑と云ふ可らず其の實は戰塲に討取たるものゝ如し鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典と云ふ可し一度び過て改れば尚可なり然るを政府は三年を經て前原の處刑に於ても其非を遂げて過を二にせり故に今回城山に籠たる西郷も亂丸の下に死して快とせざるは固より論を俟たず假令ひ生を得ざるは其覺悟にても生前に其平日の素志を述ぶ可きの路あれば必ず此路を求めて尋常に縛に就くこともある可き筈なれども江藤前原の前轍を見て死を决したるや必せり然らば則ち政府は啻に彼れを死地に陷れたるのみに非ず又從て之を殺したる者と云ふ可し
「江藤新平をちゃんとした裁判もなしに殺し、前原一誠も問答無用で殺して、志や意見を述べる場さえ与えなかった。西郷はその前例を見ていて死を選んだのだから、西郷を殺したのは政府だ」と、福沢諭吉は言っていまして、つまり、殺しまくって人材を葬ったのは政府の側で、アーネスト・サトウも「ここまで言論弾圧ばかりやっている独裁政府をありがたがることはない」と言っていますし、イギリス流に言いますならば、西南戦争は、圧政によって言論の道が封じられ、勝手に政府が税金を増やしましたがために、有志が武器をとって義勇軍を形成し、国民の抵抗権を行使した戦い、という言い方もできるわけです。
といいますか、福沢諭吉はそれに近い見方をしていますね。
政府の言論弾圧にも重税にも、国民には抵抗する権利があります。
で、西郷隆盛嫌いで、西南戦争も傍観しました元薩摩藩士、市来四郎は、『丁丑擾乱記』でこう言っているわけです。
「世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」
なんぞと、色気のない話になってしまいましたが、「三千世界の烏を殺し主と添寝がしてみたい」と、情歌を詠う桐野を、ぜひぜひ、あおいれびんさまに描いていただきたいものです。
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イケメン大好きとしては当然のチェック!
TV放映アニメにはまだ半次郎は出てきませんでしたが 本ではとっても「素敵」になっていますね。
「主と添い寝~」の色っぽさが合うと(^^)
でも ご安心くださいませ。
さすがに「歴史」ではなく「SFパラレルワールド」の認識ですが 「これが歴史」と思う
わこうど方もいらっしゃるでしょうね~!
「BRAVE10」とて「真田十勇士」を知らぬ世代にとっての史実でしょうから。
ところで「幕末維新」日本ブログのランク凄いですね。
おめでとうございます。
TOPも夢ではないですね。
やっと卒業式来賓の責務終了で来月から入学式4校です。
歴史から離れて 歴史風でストレス発散しておりますが 正しい認識に振り返る必要性を最近感じます。本に書かれた事を信じちゃいますからね~!!
郎女様の文献による「史実」でかろうじて正気を保てますです。
しかし、まあ、私が姪くらいの年には、自分が頭の中で、荒唐無稽な歴史物語を組み立てていましたから、もっとひどかったかも、です(笑) 古代にタイムスリップする、ですとか。
突然で申し訳ありません。お久しぶりのじぞうでございます。ブログの記事とは全く関係ないところでお邪魔いたします。
いえ、なんでまた突然、とお思いでしょうが、きっかけは今年の大河ドラマでしてね。ええ、平清盛です。その関連で、つい藤原ホモ長、もとい、藤原頼長さんをぐぐってそのホモ逸話を楽しく閲覧してましたら、いつの間にかここに辿り着いていたわけで…。どこかで見覚えがある、と思ったら実際に以前にも楽しく読ませていただいていた記事だったわけで…。
びっくりしました。でも、改めて読み返させていただいて、他のどこよりもホモ長さんに関する記述が充実していることに驚きました。さすがです。
いやもうお久しぶりだというにこんな書き込みですみません。こちらは元気です。無駄に。
※前回は土方歳三で今回はホモ長な山本耕史はすごいと思います。なんとなく。
もう、ぜひ、ですね。中臣鎌足みたいな半次郎を描いていただきたいもの、なんぞと思っておりましたところです~♪
私、いま薄桜鬼で誘われましたら、風間×土方でならゲストいたしましてよ。(笑)
私も、あのものすごいホモ日記を後世に残してくださいました美形左大臣を、山本耕史がやっているのを見ましたときには、あっとのけぞりました。
視聴率が悪いそうですが、NHKは腐女子狙いに徹するつもりなのでしょうか。だいぶん以前なのですが、じぞうさまのサイトの常連でもいらした某さまが、学習院だったかどこだかのゼミで、あのホモ日記の研究をしているような書き込みを見つけられまして、えー、そんなゼミがあるなら大学をやり直したいかも、とお話していました。
ぜひ、史実に忠実に、木曽義仲のお父さん帯刀先生源義賢との関係なんぞも、描きこんでいただきたいものです。
山本耕史なら、喜んで見ますです、私。
おまけに、後の後白河・雅仁親王が松田翔太ときたもんですわ。どびっくり。男のおぼえめでたすぎまして、平治の乱をひきおこしました藤原信頼はだれがやるのでしょう? ちゃんと史実に忠実に、ホモホモの乱になるんでしょうか?
平清盛の描き方が、ともかくいやで、白河法皇にお金と体を差し出して出世しました平忠盛が、あんまり食欲をそそりません中井貴一で、見る気がまるで失せていたんですが、テレビをつけてよそごとをしながら、山本耕史が出るととたんに見て、松田翔太だともう、くいいいるように見てます。
最大の笑いどころは、北面の武士が、会社のトイレの女たちのように、いっせいに白粉をはたいた場面だったんでしょうか? あんまりなギャグに、私はもう、ぽっかーんとしてしまい、笑うのも忘れてしまっておりましたけれども。
いや、男のおぼえも大変ですよねえ(笑)
また、ぜひ、お遊びに来てやってくださいまし。