昨年は、さまざまな災難がふりそそぎ、ひたすら落ち込んでおりまして、ブログどころではありませんでした。
年末ころから、そろそろ再開、と思っていたのですが、今度は風邪をひきこんでしまいまして。
同好のお知り合いとは、ありがたいものです。
昨夜、桐野ファンの先輩からお電話をいただきまして、久しぶりに桐野の話をしましたら、元気が出ました。
それにしましても、どびっくりなお話。
「三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい」
という都々逸があります。
一般に、高杉晋作が作ったといわれていますが、まあ都々逸、俗謡ですから、実のところ、だれが作ったものやらわかりません。
こういう流行歌の歌詞は、作者不明の古謡、民謡から歌詞がとられ、その歌詞が場に応じて歌いかえられたり、宴席などで即興で歌った歌詞がよければ、それがまた自然にひろまっていったりで、作詞者などわからないのが普通です。
普通に解釈すれば、これは、玄人の女が、好いた男に語りかけるセリフです。
芸者(遊女かもしれませんが)さんは、パトロンへの借金もあるでしょうし、義理もしがらみもあります。好いた男がいても、自由にその男とばかりつきあうことはできません。
身も心も焼きつくすような恋をして、「ああ、できることなら、あなたとゆっくり朝寝ができる身分になりたい。それを邪魔する、この世のすべてのしがらみ(三千世界の鴉)を、消してしまうことができればいいのに」
というのですから、切ない歌です。
「朝寝がしてみたい」ではなく、「添寝がしてみたい」という歌詞もあったようでして、意味としては添寝の方がふさわしいのでしょうけれど、音の響きとしては「朝寝」の方がいいですね。
「三千世界」という仏教用語を使うことで、スケールの大きさが出て、恋情の強さが感じ取られ、しかもゴロがいい。
梁塵秘抄の昔から、俗謡に仏教用語が入るのは珍しいことではないのですが、要は使い方でしょう。
この歌詞が、高杉晋作の作だと仮託されると、意味が変わってきます。
検索をかけてみますと、木戸孝允(桂小五郎)説もあるようですね。
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上の本に詳細が載っているんだそうです。
詳細はともかく、木戸説、高杉説ともに、活字としてあらわれるのは大正年間で、久坂玄瑞説もあったようです。
要するに大正年間には、長州の志士作、という伝説が出来上がっていたのでしょう。
高杉、木戸、久坂。
だれでもいいんですが、維新回天の志を持ちつつ、追い詰められています。
幕府役人に、新撰組に、あるいは藩内俗論派に追われ、愛人のもとでのんびりとくつろぐことは許されません。
「長州を、そして日本を縛りつけているすべてのしがらみを消して、おまえとゆっくり朝寝ができたらなあ」と、つかの間の休息を、ひいきの芸者の膝枕でとりながら、つぶやく……。
仮託から浮かび上がってくるのは、そういう状況でしょうか。
高杉晋作とおうの、木戸孝允と幾松、久坂玄瑞とお辰。
それぞれに有名な芸者の愛人がいましたし、俳句、和歌、漢詩ともにそこそこ達者で、木戸と久坂には、他にも作ったといわれる都々逸が伝わっています。
木戸孝允 「さつきやみ あやめわかたぬ浮世の中に なくは私とほととぎす」
久坂玄瑞 「咲いて牡丹といわれるよりも 散りて桜といわれたい」
こう並べてみますと、高杉晋作説が有力になっていった理由が、わかるような気がしますね。
「三千世界の鴉を殺し」と雄壮に言い切り、一転して「主と朝寝」という生々しい男女の情景をもってくる。
花鳥風月を排した言葉の選び方が近代的で、秀逸です。破天荒な性格の高杉作と仮託するのに、いかにも似つかわしい。
って……、いえ、どびっくりしたのは、この秀逸な都々逸を、桐野利秋作だと書いているブログがある、とお聞きしたからです。
はあ?
桐野の和歌は、すばらしく下手です。
かなり若い頃から、いい先生について学んでいたらしい、にもかかわらず、です。
薩摩の国学者で、歌人に、八田知紀という方がいます。
寛政11年(1799)生まれで、島津斉彬公の先生でもあった方で、多くの薩摩藩士が学んでいるのですが、桐野も不肖の弟子であったらしいのですね。
去年、いつものお方が、この八田知紀が明治元年(1867 慶応4年)に、関東へ旅をしたときの歌日記「白雲日記」を見つけてくださったのです。デジタルで読めます。
戊辰の夏です。江戸城は無血開城、上野戦争は官軍側の勝利に終わりましたが、奥羽越列藩同盟が結ばれ、戦争はまだこれから。そういう時期です。
八田のじいさまは、小松帯刀や大久保利通や、薩摩藩士たちと酒をくみかわし、小松帯刀の案内で横浜へ行きます。
詳細ははぶきますが、横浜の病院で、桐野を見舞っているのです。
「白雲日記」を見つけた方が調べられたところでは、じいさまの息子が、桐野と同じ隊(城下一番小隊)にいて、伏見で戦傷を負い、京都の病院で死んだそうなのですね。
したがいまして、じいさまは、息子のことを桐野に聞きたかったのでしょうけれども、同じ一番小隊にいたということは、です、じいさまの家は、桐野の家と同じ賴中にあった可能性が高いのではないでしょうか。
桐野がちゃんと和歌を習っていた、という話は、市来四郎が書き残していて、だとすれば、師匠は八田のじいさまだった可能性は大きいでしょう。
それにしても下手です、桐野の和歌は。
土方歳三の俳句とどちらが下手なのか……、いえ、俳句というのは、下手は下手なりにおもしろみが出ることもあるので、個人的には土方に軍配をあげてしまいたいほど、です。
その桐野が、このすばらしい都々逸を作ったあ?????
お口ぽかーんで、ぐぐってみましたら、ほんとうにそういうことを書いておられるブログがありましたわ、仰天。
しかもそのブログのこの都々逸の解釈が………、「邪魔なものは全て殺してしまえという考え方を述べたもの」ということで。
いや、まあ、その………、世の中にはほんとうに、いろいろな方がおられますねえ。
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城下一番隊は、城下士で編成される諸隊の一番隊ですから、精鋭で補強されていたようで、だからこそ指揮を執る薩軍幹部の一人として桐野さんが投入されているという面もあると思います。(あやふやなままですが、御復活記念にカキコ)
超長時間ご迷惑電話、申し訳ございませんでした。
お風邪がぶり返して、また寝込まれてしまわれたのではと案じておりました。
私も郎女さまのお蔭で元気を頂戴いたしました。
今後ともよろしくお願いいたします。
fhさま、ありがとうございました。ちゃんと届いております。
なんで見たんだか忘れたんですが、とりあえず、城下何番隊、というのは、基本的に隣接する賴中で組んでいたんだと思うんですのよ。訓練が容易ですし、仲間意識がそのまま団結力となりますし。それで、桐野の居住地と一番隊の賴中が重なっているのを見つけ、「だのになんで桐野が郷士だといわれるのよ」と思った記憶がありまして。もしかすると、記憶違いかもしれないんですけど。で、たしか春山育次郎の伝記には、桐野の賴中は、城下のはずれで開墾する桐野の家のような下級武士は少なく、お歴々の家が多くて、覇気がないので、桐野はよその賴中へ出向いていた、とかありまして。
でも、送っていただいた資料を見ますと、桐野が和歌を教わったとしましたら、京都勤務のときだった可能性が高そうですねえ。えー、続きは掲示板で。このコメント蘭って、使い勝手が悪くて。
中村太郎さま
お電話もですが、こちらへの書き込み、ありがとうございました。今度こそは、送っていただいた吉田清成への手紙のことを書きますです。しかし、一応さがしてみたんですが、太郎くんのことを書いた資料が出てこないんです。しくしく。
でも、やっぱり、太郎くんといえば、あの太郎くんしかいないと、私は思うんんです(笑)
殺人と性愛の詩だよな
半ば娼婦を嘲笑って皮肉るように
それを娼婦の睦言に引っかけてる
爛れた暮らしをしてた
残忍なテロリストという
印象はぬぐえないよね
本当に高杉が詠んだのならね
モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/221a625f2c1dd6aaee72653e71641c6f
で、書いたんですが、木戸日記によれば、欧州へ行く御堀耕助への餞に「欧羅巴洲何物ぞ我只朝寝をしたり睡足今将起少女と小児たもとヽすそにからむ嗚呼」と、書いたそうなんですわね。これ、この都々逸を踏まえた戯言、ですわね。
作者木戸説、ありかなあ、と、現在思っています。
国会図書館で桐野利秋で検索しましたところ、
『禅門逸話選』(堀口婆羅樹著 昭和18年)が出てきました。「三千世界の烏・桐野利秋」のタイトルで一文が載っているようです。近デジ(国会図書館内のみの閲覧)で、読めません。さらに大正15年に『禅林逸話集』(釈道円著)があり、「桐野利秋の情歌」が載っています。これも館内近デジ、読めません。
来週あたり、国会図書館へ行くつもりではいますが・・・・。
武田鏡村氏は先師の話を紹介しているということのようですね。
そんな題名で、殺しとあるから殺す歌、
なんて変な解釈は、していないように思えるんですけどねえ。
ど、ど、どうしましょうー。
色っぽすぎます。芸者さんの方が悩殺されちまいますよねえ。