郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

中村半次郎(桐野利秋)がいた! 映画「オトコタチノ狂」ほか

2013年08月01日 | 桐野利秋

 えーと。
 いろいろと書きかけているのですが、ちょっと忙しく、まとまって書く時間がとれません。

 久しぶりに桐野です。
 中井桜洲と桐野利秋桐野利秋と伊集院金次郎の続きでしょうか。
 実は、桐野に関しまして、ちまちまと情報が見つかり、それをメモしますついでに、Wiki-桐野利秋に大幅に加筆しておりました。
 
 きっかけは、しばらくお休みしておりましたヤフオクに復帰し、アラートで桐野利秋、中村半次郎にかかわる出品を、チェックし始めたことです。
 書とかゲームとか映画とか、それなりの情報を得ることができ、そこから話がひろがっていったのですが、wikiには書けなかったことをまとめて、こちらにメモしたいと思います。
 まずは、映画「オトコタチノ狂」から。こんな映画があったとは、存じませんでした。

オトコタチノ狂 [DVD]
クリエーター情報なし
インターフィルム


オトコタチノ狂



 これ、俳優たちの映画制作集団・石井組が自主制作のような形で作った映画だそうでして、低予算ですが、制作者の熱意は感じられます。
 しかし、一言で言いまして、熱意が空回り気味。残念な映画!!!です。

 どういう映画なのか、ごく簡単に言ってしまいますと、現代の東京で一人暮らしをする青年のアパートに、突然、幕末から、長州の久坂玄瑞、土佐の中岡慎太郎、薩摩の中村半次郎、新撰組の土方歳三の四人が、時を超えて現れた!!!、という設定です。なんでこの四人だったのか、なんの脈略もないんですが、魅力的な人選です。
 なにしろ低予算ですし、つっこみどころもまた満載です。
 薩摩藩士の中では突出して長州よりの中村半次郎が、なんでお友達だったと思われる久坂に斬りかかるのか、あげく中岡慎太郎ごときに(笑)押さえつけられるって、なんなんでしょ??? いや、慎太郎よりは、半次郎の方が力があると思うんですけどねえ。畑仕事で鍛えていますから。

 しかしね、制作者の熱意は十二分に感じられまして、もうちょっと、どうにかならなかったの?という意味で、残念だったんです。
 途中、幕末の四人が、一人の赤ん坊を囲んでいる映像が幾度か挟まれるのですが、赤ん坊は、近代国民国家としての日本を象徴しているのだろう、とは、容易に察しがつきます。
 これ、ですね。パゾリーニ監督のイタリア映画「アポロンの地獄」[DVD]を、ちょっと思い出す場面でした。
 「アポロンの地獄」はギリシャ悲劇『オイディプス王』を題材にしているんですが、 やはり突然、19世紀末か20世紀初頭と思われる衣装を身につけた若夫婦と赤ん坊の映像が、はさまれるんです。それが、とても印象的に、オイディプス王の悲劇が、時を超えた、普遍的な人間の業であることを、訴えてくるんです。

 私、もともとタイムトリップものは好きなんですが、時を超えた人々の思いが、もう少しこう、じんとくるように上手く描けなかったものなのでしょうか。終わり方も変でしたし。
 一番時の流れを感じましたのが、10年前の東京を描きました現代の場面の風俗が、とても古びて見えたことだった、と言いますのが、なんとも。

 次いで、桐野の雅号について、です。
 ヤフオクに、桐野が書いたもの、とされる書が一点出ていまして、雅号が鴨溟でした。どなたか、落札されたようですが、私には、桐野が書いたものとは、ちょっと思えません。しかし、他にも鴨溟、または鴨瞑という雅号で、桐野が書いたとされる書が複数存在することは、wikiに書きました通りです。

 いったい、どういう意味の雅号なんだろう、と検索をかけていまして、私、頼三樹三郎の雅号が、wiki-頼三樹三郎にもありますように、鴨崖だったことを知りました。そして、その漢詩集に北溟遺珠があるんです。
 いうまでもなく頼三樹三郎は、安政の大獄で処刑された漢詩人でして、なにしろ頼山陽の息子ですし、幕末の志士たちにとっては英雄だったでしょう。
 とすれば、都に出て、長州寄りの思想に目覚めました半次郎が、憧れて当然でしょうし、あるいは、漢詩を作ったのは有馬藤太か中井桜洲で、実は桐野の雅号を考えたのも彼らなのかもしれず、そうだったにしましても、どっちみち、鴨崖の北溟遺珠にちなんだ雅号の可能性は高そうだな、と思ったりしたのですが。

 で、「少年読本 桐野利秋」を読んでいましたら、著者の春山育次郎が、桐野の話を聞くために京都の中井桜洲を訪ねるんですが、この中井の住居を、鴨崖の家と書いているんです!!!
 「ええっ??? もしかして、頼三樹三郎が住んでいた家に、後年、中井が住んだとか???」と謎は深まりまして、もうこれしかない!と、中井にお詳しい某さまにお電話を。
 某さまのお話によりますと、中井が京都府知事時代に住んでいました家は、荒神橋のすぐ北で、鴨川のほとり(右岸)にあったから鴨崖と呼ばれていたんだそうなんです。
 「ええっ??? 鴨崖って、鴨川のほとりって意味だったんだっ!!!」と、ここではじめて気づいた、馬鹿な私でした。
 言われてみましたら、頼三樹三郎が育ちました山陽の山紫水明処は、荒神橋の南数百メートルのところにあり、やはり鴨川の右岸、なんです。位置関係は、下の地図に示しておりますので、どうぞ、ご覧になってみてください。

 Googleマップー幕末の京都

 えーと。
 つまり、です。
 中井が頼三樹三郎の号にちなんで、自宅を鴨崖の家と呼んでいたのではないか、ということは、あっておかしくないでしょう。若き日の中井が師としていた大橋訥庵は、刑死した頼三樹三郎の遺骸を引き取った人です。
 しかし、鴨崖の鴨が鴨川を意味するとしましたら、鴨溟って、鴨川の海、ですか? 相当、頓珍漢な雅号になるのではないだろうか、と思うのですが、鴨溟の意味について、他に考えられる解釈があれば、どうぞ、ご教授くださいませ。

 最後に、桐野利秋の子孫について、です。
 これね、私と中村太郎さまとの間に見解の相違がございまして、長らくお電話で、言い争いをさせていただいております。
 どういうことかと申しますと、伝えられています戸籍、あるいは大正5年に桐野が贈位されましたときの新聞記事などでは、「桐野利秋には子供がいなかったので、実弟・山内半左衛門(山内家に養子)の長男(幼名栄熊、利義と改名。明治3年生まれ)が跡を継いだ」となっているんですね。

 ところが、です。
 桐野の孫(利義の娘)にあたります桐野富美子氏のインタビュー記事には、利秋の正妻だった久(富美子には義祖母)の語った言葉として、以下のようにあるんです。歴史読本「子孫が語る幕末維新人物100」から、引用です。

 「栄どん(栄熊、利義)は妾(私)が生んだ子じゃないが、おじいさん(利秋)の若い時、自分の母方に弟の子として預けて、京など奔走したのだけど、籍は、私より先に入っていたね。むかしの結婚は、やかましかったで、その頃はおじいさんはもう軽輩じゃなかったでなあー」

 少なくとも桐野富美子氏は、このように信じていたようでして、直系のご子孫の間では、「利義は利秋の実子だった」と言い伝えられているようなのですね。

 桐野利秋本人のファンであります私にとりましては、ご子孫が桐野の直系か弟の血筋か、まあどちらでもいいことでして、気にもとめてなかったんです。
 ところが、ところが。

 美少年と香水は桐野のお友達に書いておりますように、この富美子氏談話に、以下の一節がありますことを再認識することとなりまして。

 生前の祖父と親交があり国士として世界中を旅していた前田正名翁が帰国して訪れ、私の兄利和に、「お前は顔も気性も、利秋によく似ている」と嬉しそうにみつめ、「この子は俺に食いかけの芋をくれた、うまかったなあ!」と言われたので、皆大笑いしました。
 この人に、父が赤い布に包んだ金太刀を桐箱から取り出して見せていた光景が、今でも私の脳裏から離れません。


 「まっ!!! 正名くんが、利和はおじいさんの利秋に似ていると言ってなつかしんだのなら、これは、実孫だった方が絵になるよねえ」と、俄然、富美子氏談話を信じる気になったんですね。

 これを信じて、利義が利秋の実子だったとしますと、利秋の若いころの話ですから、利義の母親は、桐野の京都時代の愛人だった村田さとさんの可能性が、高いんですね。
 しかし、だとすれば、利義が明治3年生まれ、というのは、ちょっとおかしな話にはなるんです。
 まあ、ですね。利秋の足跡がすべてわかっているわけではありませんから、明治2年に京都に立ち寄ったことがなかったとも言えず、だとすれば、さとさんが明治3年に出産した可能性が、これまたなきにしもあらず、なんですけれども。

 中村太郎さまは、利義は甥だとする戸籍の方を信じたい、とのお考えで、富美子氏談話になんらかの裏付けがあるわけではありませんから、ごもっともではあるんです。
 結局、おたがいに、私はこう信じたい、ということにつきまして、話は平行線にしかなりません。

 それは一応、置いておきまして、最近、検索をかけておりましたら、tondenwikiという、屯田兵の歴史を調べておられるサイトさんに行き着きまして、そこに、以下のようなことが書かれてあったんです。

 野幌屯田兵の名簿の中に「桐野利春」という名前が載っています。 西南戦争で戦死した西郷軍総司令・桐野利秋(中村半次郎・1838~1877)と名前が1字違い。 屯田兵名簿によると、利春は明治元(1868)年生まれで、原籍地は鹿児島郡清水馬場町(現・鹿児島市清水町)番外地となっています。 

 私がどびっくりいたしましたのは、桐野利秋と伊集院金次郎のコメント欄に来られた北村典則氏のご先祖のお話が、あったからです。
 さっそく、江別市役所発行の「野幌屯田兵村史」を買い込みました。

 これによりますと。
 江別の野幌への屯田入植は、明治18年と19年の2回行われまして、すべて士族です。
 鹿児島からの入植は、明治18年入植の30戸のみ。この中に、18歳の桐野利春がいたわけです。
 なにしろ、明治7年に桐野利秋は清水馬場に屋敷をかまえましたので、利春の原籍が清水馬場ということであれば、利秋の遠縁にあたるかなにか、関係があった可能性はありそうなわけでして、妄想をたくましくしますと、利秋が外で作った実子を遠縁の籍に入れてもらったり、もあり??? とか、つい、思ってしまったりするわけなのです。

 実は、栄熊が利義として、利秋の死後養子になりました時期が、奇妙なことに明治18年でして、桐野利春が野幌に屯田入植しました年と同じなんです。
 明治10年の西南戦争で、桐野利秋も実弟の山内半左衛門も戦死し、その時点で、山内家の長男となっていました栄熊が山内家を継ぎ、子供がいませんでした桐野家は妻の久さんが戸主になった、というのは、わからないでもないのですが、それから明治18年まで数年ありまして、養子に迎えるタイミングが、ちょっと遅いのではないのか、という気がしてしまうんです。ここでまたまた、妄想をたくましくしますと、利春と利義はともに利秋の実子かもしれず、遠縁に養子に出していました利春を跡継ぎに迎えようと考えていましたところが、養家先の事情で、利春は屯田入植することとなり、結局、利義が跡を継いだ、とか。

 妄想は横へ置いておくにしましても、北村典則氏のお話に、野幌に屯田入植しました桐野利春を重ねますと、あるいは、北村氏の曾祖母・桐野ヒロさんが、桐野利春の娘、ということも考えられるのではないんでしょうか。利春が利秋の遠縁だったとしまして、男の子が生まれず、屯田兵は世襲だったそうですから、故郷の鹿児島から、娘の婿として、利義の次男、三男を養子に迎えたのだとしましたら、話がぴったりとあうんですけれども。

 いずれ、もう少しちゃんと調べてみるつもりではいるのですが、なにかご存じの方がおられましたら、どうぞ、ご教授くださいませ。


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54 コメント

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ありがたく (郎女)
2015-09-28 11:54:13
頂きました。
西尾氏の村田家取材を添付して、お返事しましたので、よろしくお願いします。
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出てきました。 (中村太郎)
2015-09-28 00:38:10
郎女様
桐野の戸籍の論文がありました。
メール致します。

green様
渡辺千秋の新聞記事コピーも出てきました。
鹿児島新聞 大正10年8月29日「渡邊翁物語」です。
渡辺千秋に限っては今は有名ではないですが、弟も名のある方ですから、ご子孫が簡単に捨てるようなことはないと思います。
それなりに郷土の歴史関係機関に寄贈される可能性があると思いますよ。
Wikiを見たら、野依良治氏が曾孫で驚きました。
返信する
greenさま (郎女)
2015-09-27 15:48:14
おっしゃっていることが、よくわからなかったのですが、もしかして、以下のブログを見られたんですよね。
http://yamakibakumastu.blogspot.jp/2011/10/blog-post.html

で、このブログに出てくる中村梅さんが、中村太郎くんの子孫で、太郎くんは桐野の落とし子だったのではないか、ということでしょうか?

 このブログには、中村梅さんと太郎くんのつながりは、なにも書いていません。「桐野には婚外子が複数いて、そのうちの一人が中村梅さん」と、いっているだけではないでしょうか?
 中村梅さんは、桐野の曾孫、と書いていますし、素直に読めば、桐野の落とし子が加治木町に居て、満州鉄道に勤めて大陸で亡くなり、その子息が満州国の軍官学校へ入って軍人になり、その娘が中村梅子さん、ということですよね。
 普通に考えまして、梅子さんの嫁ぎ先の名字が中村だった、ということで、なんで太郎くんが出てくるのか、よくわからないのですが。
 加治木町は、別府晋介が区長を務めたところですし、郷士の旧家でしたら、別府との関係も考えられ、桐野宛、あるいは晋介宛の従道の書簡が残っていても、おかしくはないと思うのですが、素直に信じれば、加治木町の旧家にも桐野の愛人がいた、ということになろうかと思います。
返信する
中村太郎様? (green)
2015-09-27 11:05:34
戸籍を見て驚いたというお年寄の話も聞きます。中村梅さん、太郎さんの遺児のご子孫でしょうか。本当の出自を聞いています。と言うことだけでも残しておくべきかもしれません。
大正の頃、太郎さんが生きていた。西郷、桐野が生きていたとう新聞記事とはまた違う感じです。
子孫と言われたと言う方々の書き込みが集まった郎女様のブログ。渡辺千秋宛桐野の手紙は確か公開されてはいなかったと思います。ご子孫が保管されているとのこと。メジャーな人物ではない人達の手紙達。意外に埋もれている物もあるかも。そして、一族に歴史に興味のある人がいなければ、捨ててしまわれるかも。あの読めない字、明治生まれの祖母たちまではあれを書いていました。
篠原家では富裕な親族の家から西郷の借用書が出てきたと最近聞きました。
そんなものもまた箱にしまわれてそのまま保管となるのでしょう。歴史の真実はこうして隠れてしまうのかもしれません。取り止めなくてすみません。なんだかもう少しで真実に近づける感じがするのですが。
返信する
greenさま (中村太郎)
2015-09-25 22:45:16
ご無沙汰しております。
「渡辺千秋宛桐野の手紙」というのは、シルクハット拝借のお詫びが書かれていたのではないですか?
それと、これからの日本についての展望というかあとを頼む、みたいな内容だと聞いているのですが。
個人的なことは書いてないのではないでしょうか。
鹿児島新聞に渡辺千秋の記事があり、コピーしたのですが、出てきません。

戸籍もどこまで信用できるかという問題があります。特に戦前は。
実子でないのに実子で届けられている例を知っています。
それでも子どもには本当の出自は話していたようです。
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明治時代の桐野は (郎女)
2015-09-22 20:43:50
歌舞伎にもなりました英雄です。メリットがあるかどうかは存じませんが、憧れの存在だったかと思います。戦前と戦後で、がらりと評価が変わった人物ですよね。
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同じ名前 (green)
2015-09-21 17:42:19
確かに同じ名前が多いですね。混乱しなかったのでしょうか。(笑)戸籍上、実の親がはっきりしている。どうして桐野の子供だと言い伝える必要があったのでしょうか。あまりメリットはない様な。西郷、村田、篠原ならわかりますが。男の子を拾ったことにして実子(夫人以外の女性の子供)と言うことはないでしょうか。私も突然叔父が現れてびっくりしたことがあります。祖母の子供でした。戸籍に実母として書かれていなかったようです。私は「おばあちゃん、かっこいい」と思いました。今もかもしれませんが、婚姻外の子供は、ひた隠しにしていたようです。渡辺千秋さんに渡した桐野の書簡、これにはなんて書いてあったのでしょうか。見てみたいような怖い様な。公開されないでしょうか。他の人物も実子がしたとかいないとか話題になっている人がいるのでしょうか。わからないですね。
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利義氏の実父母は (郎女)
2015-09-21 14:28:43
書類上は、はっきりしております。
 父は桐野源左衛門(現右衛門のまちがいの可能性あり)で、幕末安政年間には、清水馬場番外地に住んでいました城下士です。母は岩田喜左衛門(加治屋町の城下士)長女です。

 前に申し上げたかもしれませんが、太郎君は生きていたという、大正年間だかの新聞の連載記事があります。禁門の変における京都では、薩摩藩士はけっこうみんな男の子をひろって、大久保も確か、太郎くんと名付けていたのではなかったでしょうか。
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実母、実父は? (green)
2015-09-21 13:49:05
実母、実父はの欄はどうなっているのでしょうか?
いきなり養父母から始まっているのではないかと想像します。幼名とかがわかると少しヒントになるのでしょうか。太郎さんの墓は桐野の墓からよく見えます。まるで父が子を見守っているような。これも、妄想でしょうか。星山家、住んでいた場所を考えれば、下級武士だとしても島津家近くに出仕していたと想像できないでしょうか。
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greenさま (郎女)
2015-09-20 12:15:32
従道の「兄(隆盛)を頼む」云々の書簡の件は、中村さまからお聞きしました。ご子孫が書かれた従道の伝記では、西南戦争にけっこうシンパシーを持っていたような話でしたし、私は、ありえる話だと思っております。

 実は、メールを差し上げようかと思っていたのですが、このコメント欄の最初の方で「夫人は南洲墓地の下で縫い物をして、生計を立てたと言います」と、おっしゃっておられますよね。兵籍簿によれば、屯田に行かれた桐野利春の兄に、利義という方がおられて、鹿児島士族の星山家の養子に入られていましたが、明治22年になって星山家を出られ、北海道へ渡って、利春氏の兵籍に入られたそうなんですね。この星山家のあった場所が、現在でいいますと大竜町3番の西で、南州墓地の入り口近くです。利春氏が桐野の実子ではなかったか、といいますことは、戸籍に残っていない以上、証拠はありえないのですが、偶然なのかなあ、と不思議です。清水町番外地の方の謎は、とりあえず解けております。
返信する
孫 中村梅さん (green)
2015-09-19 20:40:11
孫 中村梅さん  山善幕末通信 姶良郡加治木町
加治木高校を作った 従道さん「兄を頼む」という内容の書簡を今資料館に展示というメモを見つけました。
ブログからの情報だったと思います。兄(隆盛)を頼むと言われても、困ったでしょうね。
何か文献が出てくればいいのですが。
返信する
ようこそ (郎女)
2015-09-17 22:04:24
おこしくださいました。桐野さま。
いや、なんとコメントすればよろしいのやら、です。
返信する
桐野の末裔です (桐野)
2015-09-17 13:26:31
こんにちは

私、桐野利秋の末裔にあたります、「桐野」と言います

返信する
舅が? (green)
2015-08-21 15:49:08
そういえば、姑は舅が浮気した。とずっと責めていました。しかも自分の兄弟たちを巻き込んで。私は舅はそんなことしないと思っており、そういったことがあります。すると、友人が妻の浮気で責められているから身代わりになったと笑っていました。舅は若い頃かわいかったと言うことです。容姿は夫より桐野に似ていたかもしれません。あまり美人とは言えない姑をとても大切にして子供の面倒を見ていたような感じです。亡くなった後の日記を見て姑を大切にしているのをしみじみと感じたわけです。
返信する
もちろん妻のみ (郎女)
2015-08-21 11:10:03
という律儀な男性も、けっこういると思います。うちの父も教師でしたし、おそらくほとんど、母以外の女性と関係したことはなかったと思うのですが、それでも母は、疑えばきりがない、というようなことを言っていました。祖父が祖父でしたし(笑)
 まじめな夫だと信じていて、性病とか知らない間にうつされていて、他の病気で調べてわかったりすることも、けっこうあるんですね。友人の医師が「どう話せばいいのか、気の毒になるようなことがけっこうある」とも申しておりましたし、私も新婚旅行から帰ったばかりの友人に相談を受け、症状を聞いたかぎりでは性病のたぐいとしか思えず、「ともかく産婦人科へ」とだけは言いましたが、それ以上、なにも言えなかったことがあります。
 友人のもて旦那の話なんぞ聞いていますと、浮気じゃないんでしょうね。そのつどそのつど、真剣なんです。玄人と遊んで病気をうつされるか、素人と真剣に恋をされるか、どちらも妻にしたら、困ったものでしょうけれど。
 旦那がまた愛人を作ったと怒り狂っていました友人に、聞いてみましたら、振り込まれた給料は全額彼女のもので、旦那は愛人に食わせてもらっているらしい、と聞きましたので、「給料入れてくれるのなら、面倒見る手間が省けていいじゃない」と、私、つい言ってしまいましたら、友人は「旦那は私のものなのよ! 盗む女が悪いじゃない!」と、さらに怒りを募らせました(笑)
返信する
据え膳食わない男 (green)
2015-08-21 10:22:40
据え膳食わない男ばかり私の周りにいたのでしょうか。会社員だったころ、美人の後輩が上司のイケメンさんと2人で研究室にいたことがあって、騒ぐ人がいました。その時、「うちの会社の場合不倫となったら、男性社員が飛ばされる。不倫は怖い」と他の男性社員達が言っていました。女子社員が嫌がらない程度のセクハラはあったかな。もっとも私は対象外だったようですけど。(冗談が通じないと思われていた?笑)
シュワちゃんもタイガーウッズも浮気の理由は病気。まして不治の病梅毒があります。高橋秀樹さんが好きな女性がいるのにどうして浮気しなければいけないの?と言うのをテレビで見たことがあります。確かに次々女性に手を付けてうまく隠している公人を聞いたことがあります。
いろんな考えの男性がいるということなのでしょうか。ねえ、どうなの?と夫に聞くわけにもいかず。
馬鹿なこというなと相手にされないでしょう。ちなみに父は友人に誘われることがあっても一応教育者だから、断ったと申しておりました。一応と言うところが面白いですよね。
人種を問わず2つのパターンの男性がいる。けれど浮気をしないと宣言するのはよほど周りがもてると判断できる人しかいないでしょう。例えば高橋秀樹さん。ああ、なんてバカな、我ながら変な考えです。きっと頭の中が朝ドラヒロインのような病気かもしれません。(笑)
返信する
うちの祖父は (郎女)
2015-08-20 21:53:51
ちょっと背は低かったのですが、いい男でした。きれいな料理屋のおかみさんと浮気をして、祖母は東京で教師をしていました一人娘の母に、「このままでは私が追い出されそうなので、帰ってきて助けてくれ」と手紙を出し、母いわくは、仕方なく帰ってみたら、祖父の気持ちもわかるほど、相手は美人さんだったそうですが、手をきらすことに成功したそうです。

 いや、ですね。村田の煙草屋さんに部屋を持っていて、里さんと肉体関係がないといいますのは、私には、まったく信じられません。
 据え膳食わぬはなんとやらが、男の常ではないでしょうか。中井と永山がたずねていて、しかし部屋を持っていたのは桐野だけです。
 結婚云々も、奈良原みちさんの取材だったかと。

 ごめんなさい。芸者さんたちにしましても、関係がなかったとすれば、男として異常ではないですか?
 自分の恋人ではないですが、友人の夫で、もうやたらめったら愛人を作る人がいましたが、私には、彼がいい男だとはまったく思えず、たいして金持ちでもないのに、やたらにもてていました。友人とは再婚で、最初の奥さんとは、ものすごい悲恋だったり。けっこう、そういう男を見てきまして、据え膳食わない男がいたら、よほどの変人だと、私は思っています(笑)
返信する
ありがとうございます (green)
2015-08-20 17:42:45
変なことを書いてしまったと後悔していたところです。なのに丁寧に答えていただいてありがとうございます。
奈良原みちと言う方が京都の里さんの子孫に取材されています。(桐野利秋のすべて)里さんの写真は公開されていません。
同志社の支援もしたと言う家柄。幕末にも政治的に薩摩を支援しておられたと考えます。西郷や桐野もよく宿泊したとか。政治的な証拠書類、あるいは今後について相談されたのでは。政府には娘の婚姻という話のふりをして。
叔父や父私の周りの男性は同時に多くの女性と交際と言う人物がほとんどおりません。
イケメンもいますが、妻を大切にいえ、単に浮気する勇気がないのかもしれませんが。(笑)
基本的に妻がいて愛人がいるという状況を知らないので、京都の里さん東京の方も熊本の尼さんも愛人ではなかった。と思ってしまう。困ったものです。
桐野が遊郭でもてたのは以外にも女性に下心を見せなかったから。姉や妹のように接していたからと言うのはいかがでしょう。半次郎を演じた榎本さんクラスの方は時折、見かける薩摩にあって桐野はイケメンかどうかと言えばやや微妙。遊郭にある女性を一人の人間として接していたからこそもてたと言うのはどうでしょうか。
私は母が死んでいなかったら今も独身で仕事していただろうと思います。しかも、恋愛経験もなく。
そんな私が語る恋愛はとても歪なものです。
やはり、郎女様の説のほうが自然です。
ちなみに世の男性はどのように考えるのでしょうか。お邪魔をしてはいけないと自分のブログを作ってみたもののまたお邪魔してしまいました。
返信する
例えば、ですね (郎女)
2015-08-20 14:04:31
私、高杉晋作のおかあさんを、ちょっと想像してしまったりするわけなんですね。息子が下関の芸者を愛人にしていると聞けば、嫁と孫を連れて下関に押しかけ、にらみをきかそうとしたり、したわけでして、幕末の武家道徳からしましたら、正妻をないがしろにして芸者遊びをしますのは、決して褒められたものではなかったんですね。そして、正妻といいますのは、やはり士族の妻は士族でなければならず、そうでなくてどうしても、という場合は、士族の家の養女となってから嫁にいきます。息子の母の身分を大切で、やはり芸者の子だったりしますと、跡取りの資格には欠けて、親戚から養子をとったりになるわけです。
 明治といいましても初期は、その藩政時代からあまりたっていないわけでして、意識としましては藩政時代のまま、ということもあったかと思うわけなんです。
いろいろと、私の方もすべて妄想にすぎないのですが。
返信する
遅くなりまして (郎女)
2015-08-20 09:38:15
申し訳ありません。
 おっしゃるように、もちろん、桐野の実子という記録は、ありえるはずもないです。
 実子を隠すのではなく、実子として届けなければ、実子の記録は残らないからです。壬申戸籍で実子になっていれば、その後の戸籍でも、横に但し書きがあるとかで、書いてあるはずです。それがないということは、実子として届け出ていない、ということです。

 ですから、私の個人的な見解としましては、桐野に実子がいたとしましたら、すべて外で作った子で、久さんの子ではない、と思うんですね。
 久さんの意志といいますよりは、利秋のおかあさんのスガさんでしたっけ、が、壬申戸籍の段階で、実子として認めることを拒んだのではないかな、という憶測です。久さんがいい嫁だったから、子がないのがかわいそうで、まだまだこれから生まれる可能性があるのだから、と思っていたと、私は憶測しています。
 利春氏が明治元年生まれであって、もしも実子だとしますと、これは、私には、京都の里さんの子だとしか、考えられません。嫁にもらってくれと、家族が鹿児島まで交渉に出かけた、という話が残っていたくらいですから、子供があったのではないかな、と。

 久さんに子供があったとしましたら、戸籍に痕跡が残らないことはありえない、と思いますし、久さんやお孫さんの語り残しでも、「栄熊は私の子では無かった」と言っていますし。
 greenさまの旦那様のご一族は、前にも申しましたが、栄熊さんの子、ということは、考えられないんでしょうか。もしも、年齢からいって考えられないのだとしましたら、明治以降にも各地に女性がいたわけですから、西南戦争後に鹿児島へ連れてこられて、もしも芸者さんの子だとしましたら、昔気質のスガさんは嫌うでしょうし、知り合いの夫婦に引き取られた、とか。
 と、妄想がすぎてしまいました。ごめんなさい。
返信する
夫人の心情 (green)
2015-08-18 15:10:19
仮に利春氏が18歳で屯田兵になったとして、西南戦争のときは8歳。さらに仮にあとに6歳4歳2歳の弟たちがいるとして、長男次男は北海道に。3男が家を継ぐ。末っ子は養子に。ストーリーとしてはとても自然な感じがするのですが、いかがでしょうか。
返信する
壬申戸籍 (green)
2015-08-18 15:01:04
壬申戸籍だからと言うことではないようです。養父母の家系図にはこの人物は入っていません。それも変な話なのです。除籍謄本は見れるはずなのですが。
100年前までは見れるように法が改正されたようですから、もう一度市役所に問い合わせてみようかと思っています。
養子先は2の丸御殿に勤めていたとか。のちに縁戚関係となったようです。
久光の居城?ということでしょうか。
清水町に先祖が持っていた土地。こちらは記録があります。調べなくてはと思いつつ。
同和問題だけでなく土地の権利関係があるのかなと考えます。ですから、政府としては、戸籍をあまり遡るのは困るとか。
いずれにしても利春さんが実子だったとしても、栄熊さんでさえ、養子にしているところを見れば、桐野の実子と言う記録はない様に思います。
桐野に限らず、実子を隠すと言うことがありそうな気がしてなりません。
資料がない。これでは単なる妄想ですね。
ちょっとした謎が解けたようで自分では悦に入っていたのですが。

返信する
戸籍の話 (郎女)
2015-08-18 11:53:56
 greenさま、おそらく、戸籍がつながらない、と言いますのは、戸籍がなかったわけではなく、壬申戸籍は破棄されてしまったからだと思います。
 又従兄弟の話ですと、以前は壬申戸籍を見ることができまして、又従兄弟の家(私の祖父の姉が嫁にいっています)は、れっきとした松山藩の御用商人だかなんだかだったんですが、幕末の時点で、馬喰が夫婦養子になって入っていたそうです。馬喰って、被差別民だったわけでして、結局、同和問題からなのだと思うのですが、現在、壬申戸籍は、あっても見ることができなくなっているようなんです。
 我が家も、高祖母が養女で、どこの誰の娘か、までは書いているのですが、養女に入りましたのが幕末で、幕末に戸籍はありませんから、結局、詳しい身元はわからずじまい、です。おまけに高祖父は婿入りして夫婦養子になっていたようなのですが、どこの家から婿入りしてきたのかもわかりませんし、曾祖父とその兄、妹を残して、明治のはじめに行方不明になってしまい、墓は高祖母一人のものしかありません。

 桐野利春氏が、どなたかの養子になっていますことは、名簿だけでも確かです。「続柄 源七郎弟」となっていまして、この源七郎がだれやら、さっぱりわかりません。そこらへんや、妻がヒロさんなのかどうか、とか、家族6人を連れての入植となっていますので、これが養家の家族なのか、妻の家族なのかも、名簿ではわからないんですね。
 それで私は、奇跡的に兵籍簿が残っていると(屯田村が閉村しましたときに破棄されたものが多いだとかで)、「野幌屯田兵村史」に書いておりましたので、見せていただけたらと電話したのですが、他人ではだめなんだそうなんです。

 養子だったとして、どういう家の養子だったのかがわかれば、筋道が少しは、すっきりするかもしれません。戸籍がなかった、ということはありえません。明治18年まで、桐野家は、未亡人の久さんが戸主です。樋口一葉も戸主だったように、女戸主は、明治時代けっこうあった話です。
 実子が桐野家を継がず、よその養子になっていた、といいますのは、それなりに、いろいろと事情があった、ということではないでしょうか。
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おかしな妄想? (green)
2015-08-18 10:28:58
桐野利春氏の除籍簿の両親の欄どうでしょうか。
明治18年栄熊さんが養子に入った時です。
明治18年屯田兵になるため長男、次男が戸籍が必要となった。そのために養子縁組をしたと言うんはどうでしょうか。それまで戸籍はなかった。むしろ実子を隠していた。
と言うのは夫の先祖(桐野の子供)は唐突に明治13年の養子から始まっているのです。実の親は書いていない。貧しいながら慶長の役から記録の残る氏族が養父母になっています。是枝氏は桐野の一番下の息子、利邦の養子にしたと言うのはどうでしょうか。明治18年長男次男のために戸籍が必要。栄熊さんもこの際養子縁組したことにして家を継がせた。武吉君は養子にして隠してしまおう。
篠原家の方が戸籍がつながらないと家系図を作るとき不審に思っていたと聞いています。
ものすごい妄想です。(笑)
ですから、利春さんたちも桐野の実子にはなっておらず、どなたかの養子になっているのでは?
そして2~3歳年下の二男さんがいたと推測します。
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付け加えます (郎女)
2015-08-17 11:03:19
 兵籍簿には、桐野利春氏について、名簿よりもはるかに詳しく、載っているはずなんですね。それを調べて、今度は鹿児島市役所で、桐野利春氏の除籍簿を、祖先だから、ということで出してもらいますと、大方のことはわかると思います。
 私は、曾祖父、曾祖母の除籍簿を市役所で手に入れまして見ましたら、我が家で言い伝えられていたことは、ほとんど全部、本当だったとわかりました。

 唯一、曾祖母の前に前妻さんがいて、祖母の一番上のお姉さんは、実は前妻さんの子だった、ということのみが、私は聞いていなかったことなのですが、その前妻さんが帰った里とは、ずっと行き来があった形跡がありまして、祖父はもちろん、知っていて、あまり名誉なことではありませんので、話さなかっただけなのだと思います。

 よろしければ、iratume@gmail.comまで、ご連絡ください。
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中島さま (郎女)
2015-08-16 22:39:40
ようこそ、お越しくださいました。実は、北村様がこられたときには、野幌屯田村の桐野利春氏につきましては、まったく知りませんで、北村氏のご連絡先も聞かずじまいでした。
 その後、偶然、屯田wikiに行き当たったんです。
http://tonden.org/wiki/index.php?title=Tondenwiki:%E4%BA%95%E6%88%B8%E7%AB%AF

 びっくりです。
 おっしゃる通りだと、先にうちにこられた北村典則氏の祖父にあたられる方が、中島さまの曾祖父にあたられる北村勝太郎氏のようですね。
 北村勝太郎氏は、桐野利春と妻ヒロの間に生まれた桐野トメ、キクの姉妹と結婚されたようですが、その桐野利春氏は、明治18年、第一次野幌屯田兵として、鹿児島県鹿児島郡清水馬場町番外地から、野幌(北海道江別市)移り住まれたと考えて、まちがいないように思います。
 だとすれば、鹿児島で桐野家の跡を継ぎました利義の子が北海道へ行ったわけではなさそうです。つまり、桐野利春氏が桐野利秋の実子であった可能性が高くなってくるのですが、これ、私には調べる手立てもございません。

 実は、ですね。野幌屯田兵の兵籍簿は、奇跡的に残っています。
https://www.city.ebetsu.hokkaido.jp/site/kyouiku/3027.html

江別市の郷土資料館が所有している、という話でしたので、以前に私、見せていただけるものなのかどうか、電話だけしてみたんですね。結果は、他人ではだめなんです。

 屯田兵の兵籍簿は、一般の戸籍と同じですから、子孫でなければ閲覧できないそうなんです。

 私、自分の祖先を調べるために市役所で戸籍をとりましたが、曾祖父はもちろん、曾祖母の方の家の除籍簿もOKでした。
 中島さま、ぜひ、兵籍簿をごらんになってみてくださいませ。南州墓地の桐野利秋のお墓に、かつて、北海道から姉妹がお参りに見えていた、という話は本当なんですから、やはり、桐野利春氏は、桐野利秋の実子であった可能性は、高そうに思います。そうではなくても、鹿児島からはるばる北海道へ入植した祖先の桐野利春氏と妻のヒロさんについて、どうぞ、お調べになってみてくださいませ。
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桐野利秋の子孫?? (中島美弥(旧姓 北村))
2015-08-16 15:37:12
郎女様

私は、中島美弥(旧姓 北村)と申します。

郎女様のブログやコメントを拝見させて頂きました。

私も、北村典則さんと同じように ご先祖様が桐野利秋だと 父から聞いております。

北村家の家系図だからなのか、桐野利春・ヒロという名前があるのですが、詳しくは載っておりません。

その後、典則さんとは連絡がとれましたでしょうか?

私と典則さんは親戚ということになるのでしょうか?

もし、何か情報がありましたら教えて頂きたいです。

よろしくお願い致します。

ちなみに、私の ひいおじいさんは、北村勝太郎で、妻がトメ・キクとなっていて、家系図の見方がよくわからないのですが、トメ・キクの隣に 江別町弐参八・桐野利春 ヒロ 参女・四女

という感じに載っております。
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追記 (通りすがり@在札幌村)
2015-04-11 14:35:59
しかし、桐野→中村の経緯を見ると、「中村」は偶然だったような気もしてきました・・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/桐野九郎左衛門尉

以前、鴨池に行った際、「焼鳥 半次郎」という看板を見かけたので、変な刷り込みがあったのかもしれません(笑)。

お目汚し失礼しました。
ご放念ください。
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雅号についてですが (通りすがり@在札幌村)
2015-04-11 13:43:35
はじめまして。
たまたま立ち寄らせていただいたのですが、興味をひかれる記事が多く、遡って拝読させていただきました。

ものすごく時間が経っているので今さらなのですが、鴨溟は、鹿児島市鴨池にちなんでいるのではないかと、ちらりと思いました。Wikiで見てみると、元は「中村」という地名だったようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/鴨池

ただ、同地が鴨池と呼ばれるようになったのは忠義の代というだけで、いつ頃からなのかは確かにはわかりませんが、下記によると江戸時代に「鴨池の碑」というのが建てられているそうです。

http://kagoshima.digital-museum.jp/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=62003&data_id=10000153

では、またお邪魔します。
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ありがとうございます。 (とおりすがりの松)
2014-10-19 23:18:21
さすがです。長年これが読みたかったので感激しました。

これは明らかに防協協定ですね。
はっきりとした同盟の意思を感じます。

そしてこれは西郷の文そのもののように思います。

西郷が長州ファイブに狙われるわけです。

ありがとうございます。
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軍事同盟か? (郎女)
2014-10-19 21:48:11
と列強から疑われた、という話は、私もなにかで読んでみまして、検索をかけてみました。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13109643368

 上のYAHOO知恵袋の解答にありますように、日清修好条約の第二条。「両国、好みを通せし上は、必ず相関切す。若し他国より不公及び軽藐すること有る時、其知らせを為さば、何れも互に相助け、或は中に入り、程克く取扱い、交誼を敦くすべし」を列強が軍事同盟かと疑ったので、批准が遅れた、という話ではないですか?
 予備交渉を実質的に取り仕切ったのは、花房義質でして、花房は朝鮮との交渉で苦労していますから、宗主国の清と先同盟を結んでしまえば、朝鮮も開国せざるをえないだろう、という、甘い認識があってのことだったと記憶しています。

http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B13090891200?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2013100114454941553&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&

この第二条はもちろん、アジ歴の条約文で見ることができます。
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ありがとうございます。 (とおりすがりの松)
2014-10-19 10:36:37
やはりありませんか。その部分に英仏などが
日本政府に
「コレは軍事同盟か?」と詰問してきて
4年のものはベツモノになったようです。
元の資料も消したか公開は出来ないのでしょう。
あるいは明文化していない予備交渉であったか…。
傍証的な証言は探せばあるはずです。
これがわからないと6年政変は根本的に
意味がわからなくなりそうです。
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日清修好条規 (郎女)
2014-10-18 22:34:47
明治4年の日清修好条規の条項ではなく、明治2年の予備交渉のものでしょうか?

アジ歴で「日清修好条規 予備」でさがしてみましたら、レファレンスコードB06151018600「日清修好条規通商章程締結問題(明治元年-六年) 第一巻」というのが出てまいりました。しかし、通商章ですから、坊協協定は関係なさそうな気がします。

なお検索していましたら出て参りました「データベース『世界と日本』日本政治・国際関係データベース
東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室」によりますと、日清修好条規は明治四年七月二十九日天津ニ於テ調印されていますが、批准は明治六年三月九日ですね。副島外務卿がしたことだったかと。

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お詳しければ教えてください (とおりすがりの松)
2014-10-17 23:27:17
明治2年の日清修好条規に
日清防協協定の条項があるそうですが
条文を読みたくて資料を探しても見つかりません。
内容についてご存知でしたら教えてください。

明治5年の西郷中央復帰は前年日清修好条規の
防協協定部分の本格締結を中央政府が
びびってやらなかったために
鹿児島から出てきたようです。
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すみません (郎女)
2014-10-16 10:09:22
うっかりリンクをはりまちがえておりました。
明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/d1c5947cc71104e31f6a02352de5f58f

以下、再録です。
 明治6年政変と征韓論 明治4年で書きかけていたことなのですが、「征韓論」というのは、政変の後の事情を知らない世論の受け止めは方は別にしまして、実際に留守政府首脳の懸案になっておりましたのは、草梁倭館に出兵して開国を迫る、ということでして、李王朝が実効支配していました朝鮮半島を征服する、などという、突拍子もない案ではありません。
 しかし、同時期の征台論については、あわよくばその半分を征服しようという話でした。なぜならば、アメリカ公使デ・ロングが「台湾には清国の実効支配が及んでおらず、清国も領有を主張していない」という見解を、どうやら明確にしていまして、アモイ駐在アメリカ領事のル・ジャンドルを、征台顧問として日本に世話してもいます。そこらへんの細かな実情は、資料をつみあげていく必要がありまして、やりかかったんですけれど、めんどーになってきまして、中断しています。
 ともかく、政変の後に、征台は大久保利通、大隈重信の手で実行に移されますが、そのときはすでに、デ・ロングは在日公使を辞めさせられて、本国に呼び返されています。

 ともかく、明治6年政変を調べていますと、なんともやりきれなくなります。井上馨は、突出した予算を山県のしきります陸軍に与え、山県は山城屋和助に大金を預けて、生糸相場で大方すってしまい、岩倉使節団はお手盛りのものすごい給料で欧米をまわって、詐欺師に騙されて大金をすってしまい、海軍にまわる予算は、はるかに幕府を下回ったんです。しかし、アジアにあって、しかも島国の日本は、強力な海軍をもたないでは、列強との外交もままなりません。鴨緑江まで陸軍を送るにも、強力な海軍があって、制海権を握っていなければ、できないことなんですね。
長州で、楫取の実兄、松島剛蔵が生きていてくれたら、と、つくづく思うわけです。前原一誠では、政治力がなさすぎまして、どうにもならなかったのですが、高杉晋作の後をついだ唯一の海軍理解者が彼だったのですが。
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ありがとうございます。 (とおりすがりの松)
2014-10-16 04:08:35
詳しいお返事ありがとうございました。
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いろいろな見方が (郎女)
2014-10-16 00:55:00
あると思うのですが、私はそうは見ておりません。

http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/87894fd5ec9652b3f72c92f2f191a8a9

書きかけて、放ってあるのですが、政変の渦中の人物の回想(板垣、大隈のもの)では、審議されていたのは10万坪の草梁倭館に出兵するかしないか、なんですね。台湾の方が、アメリカ公使デ・ロングが「清は自分の領土ではないと言っている」と保障していましたし、アモイ駐在アメリカ領事で、実地に台湾を知っていたル・ジャンドルを、デ・ロングの紹介で雇ったのですし、兵士と物資の輸送に米英の民間船が協力する約束までしていたわけです。

http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/87894fd5ec9652b3f72c92f2f191a8a9
明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編

上より、以下、再録です。

そういうわけでして、征台についても、デ・ロングが公使だったときに、兵士、物資の輸送に、米英国籍の民間船が協力するという約束ができていたんですけれども、清国に深く根をはっていますイギリスから横やりが入り、後任のアメリカ公使もそれに同調しまして、大久保利通と大隈重信は、急遽三菱を援助して船を買わせて使う、ということになったんです。
 おまけに、ですね。そもそも、ル・ジャンドル案では「春以降、暑くなってくると疫病が蔓延する島なので、冬に」ということでしたのに、なにをとち狂ったのか4月に計画しまして、それが5月にのび、結果、多数の戦病死者を出すことになりました。

要するに、イギリスに帰っていましたイギリス公使パークスが再来日し、横やりを入れてきまして、突然、「朝鮮に出兵したら戦争になってロシアが首をつっこむ」といいます、大久保の書面で残った独演になるのですが、こういう馬鹿げた話をこの時点でしていましたのは、大久保とパークスだけなんですね。
シベリア鉄道は、とてもじゃないですけれども、明治6年の段階で、極東まで延びる可能性は、予測できていません。それは、パークスでさえも、です。あれはフランスの多大な出資で実現した(なければできていません)のですが、普仏戦争に敗れて、フランスはただただ、意気消沈している時期で、スエズ運河でさえ手放さざるをえなくなっていますし。
西郷党って、桐野は篠原とはちがいますし、鴨緑江の夢を見たとは、私にはまったくもって思えません。

はっきり言いまして、薩摩はもともと海軍重視ですし、陸軍は、イギリスと同じように志願兵制で、国防は義勇軍が担えばいい、ということなんですね。

http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/8be2119e5acee0c6b72b31184cc0a5f8

とすれば、多人数の軍勢を大陸へ繰り出すことは、もともと西郷は考えていなかった、と私は思います。外務省が主張しました草梁倭館への出兵でさえ、西郷は退けたのですから。

ロシアの南下を憂えたのは、幕末の志士はみな憂えたわけでして、北溟遺珠もそういう漢詩集ですが、朝鮮は清の朝貢国です。樺太でさえ、移住政策がうまくいっていませんでしたのに、鴨緑江を夢見るほど薩摩藩士が非現実的だとは、私には、とても思えません。

上にリンクをはりました「明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編」を、どうぞ、ご一読くださいませ。
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西郷党は… (とおりすがりの松)
2014-10-15 21:20:44
篠原国幹の漢詩にもあるとおり大陸に渡るのが
夢でした。屯田兵は北海道ではなく鴨緑江付近で
行うつもりだったのです。主眼は対ロシアでした。

アメリカが大陸横断鉄道を引きロシアも極東まで
鉄道を引くのは時間の問題でした。
ロシアに鉄道による輸送力が出来ればアジアと戦争になれば大変苦戦するのは目に見えています。
6年政変で西郷が待てないといった理由はそれです。

ロシアが鉄道を引くまでに大陸に橋頭堡を作る
これが西郷党の悲願だったのです。

鴨冥はそれにそった桐野利秋の「オレは鴨緑江のほとりで冥したい。」という願望を込めたペンネームですね。

そのための防協協定を清と韓の間に引く(遣韓の目的)これが西郷外交のアジア防衛策です。
というのが私の西郷理解なのです。
突然スミマセンでした。

かもめはシャレ鴨冥(かもめい)です。
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ようこそ (郎女)
2014-10-15 11:24:30
おこしくださいました。
ああ、鴨緑江ですか。そういう発想は、なかったです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%90%E9%87%8E%E5%88%A9%E7%A7%8B

以下、wikiに書いたのですが。

同じく(明治5年)7月の廃藩置県の後、9月になって、これまで李氏朝鮮との外交を担当していて、鎮西鎮台管轄下にあった厳原県が、伊万里県に吸収されて消滅し、対朝鮮外交を外務省が担当するに伴い、草梁倭館接収の必要が生じた。利秋は、鎮西鎮台司令官として軍艦春日丸で倭館へ向かう外務大丞・花房義質につけて、鎮西鎮台対馬分営駐屯兵を送り出した。このとき春日丸には、花房に同行する陸軍中佐・北村重頼、同少佐・河村洋與、加えて偵察のため、陸軍大尉で利秋の従兄弟・別府晋介、後に評論新聞を創刊する利秋の友人・海老原穆(愛知県7等出仕、陸軍大尉兼陸軍大錄)が乗り組み、倭館に滞在した[26]。

アジ歴に資料があるんですが、草梁倭館接収にあたって、鎮西鎮台司令の職務により、桐野は外交官に護衛兵をつけ(対馬藩士に対する意味が大きかったと思います)、別府や海老原を偵察に出したんですね。釜山の倭館から首都ソウルへ交渉に行くことが可能かどうかは、もしかしたら実地偵察したかもしれないと思うのですが、鴨緑江は視野に入ってなかったと思うんですね。
池上四郎ほかが満州を偵察したのは、「西南記伝」では西郷がやったことになっていますが、なにしろ発令は外務省ですので、副島種臣のしたことなんです。「西南記伝」は後世のものですし、しかもかなりアジア主義的なバイアスがかかっています。
生き残った有馬藤太が鴨緑江から作った雅号、というのは考えられなくもないですが、どうなんでしょうか。桐野も有馬も中井も、京都時代には相当な思い入れがあったと思うのですが、鴨緑江は視野に入ってなかったと、私は思います。
かもめ、は、わかってないです。ごめんなさい。
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雅号ですが… (とおりすがりの松)
2014-10-14 23:46:50
鴨瞑の鴨は 鴨緑江 のことだと
思いますよ。 あと かもめ。
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雪の中のSuperfry (ボーイング)
2013-12-26 22:58:06
黒髪に 白髪交じり 老ゆるまで
かかる恋には いまだ逢わなくに

松方正義、西郷従道、大山巌と言う薩摩藩出身の
明治の元勲たちの別荘があるこの那須のヶ原。
巌と捨松夫妻も老後はこの地を好み、農場や別邸で
仲睦まじく暮らしたようです。現在の大山別邸では
子孫によるバイオリンの演奏があるそうです。

Happy New Year to you andyour family.
May you have another healthy year.




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近藤勇との (郎女)
2013-12-22 10:50:35
エピソードは、おそらく有馬藤太の聞き書き本から取られたものだと思います。後年の聞き書きですので、細かい部分の思い違いや説明不足は多いですし、基本的におもしろいよう、話がオーバーになっていますが、近藤勇に対する思いは、そのままだったと思います。
 ただ、桐野は別に西郷に仕えていたわけではありませんで、桐野を引き立てたのは小松帯刀ですし、西郷とは方限がちがいますので、西郷と同じ下加治屋町方限だった篠原国幹や村田新八の方が、西郷に近い位置に居ます。大久保利通や吉井友実、黒田清隆も同じ下加治屋町方限ですし、西南戦争では敵味方に別れはしましたが、維新の中枢にいたのは下加治屋町方限だった、といっても過言ではありません。桐野にとりましては、もう少し小松帯刀が長生きしてくれたら、よかったんですけれども。

秋山兄弟は松山の出身です。御徒だったそうですから下級でして、もとは河野氏配下の水軍の一員だった、と伝えられているそうです。秋川雅史は、関係ないと思います。

那須には、一度行ってみたいと思いつつ、行ったことがないんです。大山巌の別荘がありましたよね。いつか行けることを願いつつ、よいお年を。
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那須のヶ原の雪の華 (ボーイング)
2013-12-16 00:04:44
近藤勇をして 「 薩摩人と勝負する時には、初太刀を
外せ 」と言わせるほど一撃必殺の示現流。特に
「 中村半次郎とは剣を交えるな ! 」 天然理心流の
使い手の新撰組でさえ恐れていたと聞いています。
近藤勇が流山で捕われ、板橋の刑場で処刑された時、
「 俺なら近藤を死なせはしなかった 」 と言われた
そうですが、松平丹後守に仕えた近藤と西郷に仕える
桐野には、敵ではあるにしろサムライとして男として、
一人の人間として尊敬できるところがあったのでしょう
か ? 

[ 坂の上の雲 ] の秋山好古、康之は松山の出身
でしたか ? 日本海戦のT字作戦は大胆で見事な
勝利だと思います。ところで [ 千の風になって ] の
テノール歌手、秋山雅史とは何か繋がりはありますか ?

明治の元勲たちの農場がある那須のヶ原。
もう雪の便りが届きました。
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みかんたまご (郎女)
2013-12-08 18:03:42
って、知りませんで、検索してみました。ミカンを飼料にまぜて食べさせたにわとりの卵みたいですねえ。アンテナショップにごく少量出しているとかで、地元では出回っていません。

 果汁そのままのような柑橘ゼリーというのも、他県に暮らします妹から、テレビで紹介されていたと聞かされ、道後商店街を歩いてさがして、やっと見つけました。けっこう、地元のものが知らなかったりします。
 しかし、愛媛が誇ります紅まどんなは、今年からかなり、数が出回るようになりました。カットして食べるみかんの一種ですが、ゼリーのような食感で、やみつきになるおいしさです。ぜひ。

桐野の情報、ありがとうございます。
私は、秋山好古が晩年に校長を務めました北予中学校の流れをくみます松山北高ですが、東高は藩校・明教館、松山中学校の流れをくみますので、好古の出身校ともいえます。今も、東高の敷地に、明教館の建物が移築されて残っていたりします。秋山兄弟の生家跡の整備には、東高と北高と、両方の同窓会がかかわってもいます。

ぜひ、お越しくださいませ。
返信する
ありがとうございます。 (ボーイング)
2013-12-06 21:16:10
秋冬に30歳になりました。ホーイングです。
仕事柄、全国の空港にお邪魔しています。
勿論、四国の愛媛松山にもです。

僕の近辺にも会津への戊辰戦争の途中、桐野が
立ち寄った藤原口が車で40分ぐらいの所にあります。
鶴ヶ城が新政府に受け渡しの際、桐野が新政府の
代理人として立ち会い、会津の人々の行く末を心から
心配していたそうです。後に藩主の容保から大切な
刀を送られたと聞いています。人間として思いやりの
ある心を持った桐野だから出来た事だと思います。

僕には今でも付き合いのある大学時代の友人が
います。何度となく蜜柑も頂きました。四国愛媛の
松山東高校の出身だそうです。

みかんたまご・・・とは何でしょうか ?
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「坊ちゃん」の故郷 (郎女)
2013-11-13 09:35:54
松山は、幕末にゆかりの史跡はほとんどないのですが、いいところです。愛媛県内には、宇和島藩や大洲藩もありますし、ぜひぜひお越しくださいませ。長崎がうらやましいのは、人口は松山より少ない都市なのに、町中の古い商店街が元気なことです。坂が多く平地が少ないことで、郊外型になりづらく、それがプラスに作用しているのかなあ、とも思のですが、市電は120円乗り放題で黒字だそうですし、ほんとうにうらやましい街です。
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Unknown (ボーイング)
2013-11-12 21:06:07
桂小五郎が木戸孝允、村田蔵六が大村益次郎だったように、中村半次郎が桐野利秋だなんて知らない人が多いのに、幾つになる娘さんか知らないけれど、立派だね。
ただの歴女と言うより歴史学の講師のように思えてならない。こういう女性がいる限り、日本はまだまだ捨てたものじゃないね。歴史展でも開催しようものなら [ 坊ちゃん ] の
故郷、愛媛まででも観に行きたいね。
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芳即正のご著書は (郎女)
2013-08-18 08:58:08
私も好きです。津本楊氏も、小説ですが、抑制した書き方をされていますよね。

実はいま、中村さまのパソコンの調子が悪く、コメントいただけないものですから、お電話で、「桐野利秋と調所笑左衛門の戸籍から」について、お聞きしてみました。ちゃんとしたコピーが見つからないそうでして、送っていただいたのは、除籍簿の写しが載った1ページぶんだけで、雑誌名とかも、私は知らなかったんです。
お話によりますと、「桐野利秋と調所笑左衛門の戸籍から」は、国会図書館で検索をかけて見つけられた論文だそうでして、雑誌「戸籍時報」に載っていたそうです。館内デジタルでは見ることができるそうですが、オンラインで見ることはできないそうで、論文名を指定して、コピーを依頼するしかなさそうです。
中村さまからいただいた1ページぶんだけ、ですが、PDFにしましたので、メール添付でお送りします。ついでに、久夫人のインタビュー記事も。

もっと野暮な件(わが家の財産管理)で、土地台帳は調べたことがありまして、調べ方はわかるのですが、鹿児島では、なかなか。機会がありましたら、ぜひ、お願いいたします。
返信する
遅くなりました。 (green)
2013-08-16 17:09:18
日本を変えた薩摩人 鹿児島と明治維新 : 芳即正 著と言う本を読んでいます。(なかなか進みません。)
芳即正先生は鹿児島の方そして、年齢からすれば、自由にものが書ける時代で、なおかつ幕末当時の人間をより、理解できる世代の方だと思っています。亡くなられて残念。
それから、津本楊氏、剣術をされるこの人物もまた当時の人の心情をより正確に理解できる方の一人と思っています。
そして、もう一人女性でありながら(残念ながら、女性は男性とは脳の構造が違うと言います。男性ならどう考えて、行動すると予想してみるのですが、私はうまくいかなくて。)彼らの実情に迫る事ができるのが郎女様だと思っています。

高校時代、幕末に来て「日本史が理解できない。」と放り出した私でした。
この年齢で少しばかりの本を読んで、斉彬のそして久光の人物像が今までと違ってきています。
法務局のOBが書かかれた「桐野利秋と調所笑左衛門の戸籍から」は一般人には読めないのでしょうか?
いずれ、郎女様か中村様の著作で新事実としてわかることを期待しています。
廃仏毀釈はあっても、本部(この表現ではおかしいのかもしれませんけど。)にバックアップしてあるのでは?などと考えてお寺に資料がないかと思ったわけです。

清水馬場の土地台帳については機会があれば調べてみたいと思うのですけれど。思うようにいきません。
ちなみに、西郷隆盛さんに対する私のイメージは学校の校長先生。
おかしいでしょう。
たんたんと資料を積み重ねて、事実に迫る郎女様の姿勢は誰でもまねできることではありません。
ですから、著作を本当に楽しみに待っています。
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2013-08-16 11:40:01
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再びgreenさま (郎女)
2013-08-10 11:04:39
 私たちは研究者ではないわけでして、基本的には、それぞれが信じたいことを信じればいい、と私は思っています。
 ただ、ですね。自分が描く像に客観性を持たせるためには、一応、資料の裏付けが必要とも思っているものですから、まずはリアルタイムの日記、書簡。後に書かれました伝記のたぐいも含めて、いつ、どういう状況で書かれた資料なのかが、気になってしまいます。
 イメージの変遷にしましても、細かく資料を見ていかないと、いつ、どういう世相のもとで、どういう像が描かれたのか、大変な作業で、いずれ、とは意気込んでいるんですけれども。

 一応、ですね。贈位されました大正5年の新聞記事では、久夫人は、養子の利義とともに、清水馬場の屋敷に住んでいた、と書いています。
 なんで読んだんだったか、ちょっとはっきり思い出せないのですが、明治7~9年頃、桐野が久光を指して「あんな名門先生にないがでくる」と言っている、ということを、かなり早くから読んでいまして、私の思い描く桐野は、幕末には長州寄りの革命の闘士、明治6年以降は、反政府で、自由民権を志す闘士、です。
 もっとも一方で、久光が非常に高く桐野を評価していた、という話も伝わっているのですが。

 思うに、ですね。明治6年までの久光は、大久保よりも西郷を嫌っていた感じですが、明治6年以降、政権の中枢に居座っている大久保をより多く憎み、明治10年のときには、なんとか戦争になることを防ごうと、息子たちを京都に派遣するのですが、長州閥を中心とします政府の妨害で、うまくいきません。
 結局、久光も桐野も、鹿児島を愛していたことでは同じですから、6年以降、久光は桐野を、高く評価することになったんじゃないんでしょうか。

 西南戦争で荒廃した鹿児島において、島津家が元藩士たちの救済に力をつくしたことは、事実だと思います。
 ただ、浄光明寺は一度、幕末維新期の廃仏毀釈で廃寺になっています。南洲墓地の墓碑が、すべて本名で、戒名がないのは、神道で葬られているから、なんです。

 私の方も、今年から来年の前半にかけては忙しいのですが、来年の後半あたりから、本格的に桐野に取り組みたいなと思っていまして、ほんとうに、お目にかかれることを楽しみにいたしております。
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清水馬場の古地図見てもよさそうですね。 (green)
2013-08-08 22:24:43
私は検証するのに文献等を使わなければならないとか研究者の取るべき方法を知らないので、勝手な事を言えるのかもしれません。本当に申し訳ないです。
例えば家光は春日之局の実子という説があって、家光の像(長年公開禁止だったそう)と春日之局の絵を見れば親子に違いないと思ったり、教科書の信長の絵が御子孫に似ていると言う事で納得したりしてしまいますから、我ながら困った物です。
私が桐野は女性的と思う理由の一つは髭がないこと、(もみ上げがわずかにふわふわしているだけで後は伸ばしてもまばらでとても格好がつかなかったと思います。)髪がふさふさしている事、一方頭の毛の薄い大久保利通さんは男性ホルモンが多いと言う事になります。
全くあきれた考えでしょう。しかも、脳科学者の受け売りなのですから。
夫人は南洲墓地の下で縫い物をして、生計を立てたと言います。と言う事で清水町ではありませんが墓地の周辺の土地台帳を見ますと、不思議な事に島津忠義、浄光明寺等の所有地があります。賊将の妻たちは彼らの保護を受けていたのでは?そして、吉野の藩士を江戸時代経済的にも支えてきた浄光明寺。浄光明寺に彼らの戸籍をたどるすべがないでしょうか。今でも、政治家・芸能人などわけのわからない女性関係をでっち上げられる人も多い。しかも、お話を作る上でロマンスは必須アイテムですから、京都や江戸で華やかな女性関係があったということになったのではないでしょうか。そう考えてしまうともう調べようがないのですけれど。
東京で桐野が住んでいたという無縁坂の上の妾宅、「金安までは江戸のうち」と言われた金安の近く(本郷)、つまり当時は江戸の外れでしょう。テロが起こらないように常に警戒してこのような場所を選んだとか考えられないでしょうか。京都、東京、桐野にとっての幕末の日々は決して一瞬の気を抜く事も許されない日々、恋愛をする余裕はないような。
会津戦争での惨劇を見て、桐野は知っていたと思います。人間の非情さを。勝てば官軍、負ければ賊軍。立場がほんの少し違っていただけと。そして、まずは自分を生んでくれた母のことを心配し、妻子のことを心配したに違いありません。
是枝氏の祖先の年齢ですが、墓石に刻まれた没年、これが唯一本人の年齢を探る手段と考えます。京都に出たとき桐野は既に若いパパ。根拠がないのにおかしいですよね。けれど、桐野のイメージは西南戦争以前から既に作られてきました。そして、時代を経るに従い上書きがされて現代に至っていると私は思うのです。
ほんとにお会いできる日が来るといいのですけれど、なかなか自由に時間が取れなくて。
そんな私にとって、ブログは楽しみ。私だけでなくもう既にたくさんの読者がいると思います。出版を楽しみにしている人はたくさんいると思います。ご自身の思われるとおり、自由に書いていただけたら。とても楽しみです。
島津家こそ桐野が忠誠を尽くした唯一の主家。西郷は先輩の一人。といったイメージなのです。そして桐野の子孫については何か手掛かりがあれば、いいのですが。
なんだか、長い上にまとまりがなくて、すみません。

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greenさま (郎女)
2013-08-06 15:12:13
 お久しぶりです。お元気でなによりでした。

 えーとまず、「寺田屋事件十人目の鎮撫士の可能性あり?」という点ですが、これはありえないかと思います。といいますのも、ちょっといま、何巻の何ページか出てこないのですが、松方正義の日記に、事件から1年以内に、挙兵側にいて謹慎をくらっておりました三島通庸と連れだって松方を訪れ、どうもその書きぶりからしますと、挙兵側に同情的な陳情をしたようなのです。
 春山育次郎の「少年読本・桐野利秋」にも、当時半次郎がもっとも親しくしていたのは、挙兵側にいて斬殺されました弟子丸龍助であり、鎮撫使だった奈良原繁のことを、半次郎は事件以降嫌った、というようなことが書いてあります。久光のお庭蕃だった、といいますのは、やはり春山育次郎が書いていますが、小松帯刀の引き立ててそうなったような書き方でして、寺田屋事件よりは、はるかに後の感じです。身分を上げるために便宜的に、ということです。

 次に、桐野利春の原籍地なんですが、清水馬場番外地、なんです。番外地って、なんなんでしょ? ちなみに、明治7年から久さんが住んでいました清水馬場の家なんですが、中村さまのお話では、同じ清水馬場ではあるんですが、番地が資料によってちがっているんだそうなんですのよ。おそらく、今回、中村さまが送ってくださいました吉田和夫(東京法務局武蔵野出張所長)著「桐野利秋と調所笑左衛門の戸籍から」に引用されました除籍簿の住所が正しいのではないか、と思われ、これによりますと「清水馬場町91蕃戸」です。

 で、中村さまは、敬天愛人第17号(平成11年9月24日発行)所蔵の宮下満郎著「正五位追贈の桐野利秋」という論文もご提示くださったんですが、これに、是枝氏の資料に対します、批判が載っております。是枝氏の所持しておられました戸籍の写しでは、「清水馬場町112蕃戸」となっているそうです。番地に変遷があったのか、写し間違いか、なんだと思います。
 是枝氏は、一般に「与左衛門兼秋」とされます利秋の父の名前を「利邦」として、これが自分の父親である、としています。是枝氏が添えていた史料からしまして、桐野利邦は海軍省に勤務しておりました実在の人物なんですが、調べてみると利秋より7つも若く、父親であることはありえないんだそうなんです。

 あるいは、肝付だったらかならず名前に「兼」がつきますように、鹿児島の桐野氏にはかならず「利」がつく、といいますような、伝統があったのかもしれないですね。
 私と中村さまは、是枝氏は、利秋の父親が島流し中に、島の女性に生ませた子供ではないんだろうか(よくある話でして)、と推測しておりました。
 
 村田さとさんですが、さとではなく、駒だったかと思うんですが、春山育次郎の「少年読本・桐野利秋」に、すでに出てきていたはずです(いま手元になく、確かめることができないんですが)。この伝記、書かれたのが明治30年頃で、関係者が生きていますし、春山育次郎氏は薩摩の人で、桐野の甥(妹の息子)と親しく、京都の中井に取材したりもして書いていますから、かなり、正確だと思います。

 鞍馬天狗は、ちらりとNHKBSで最近作られたドラマを見ただけでして、あまりにつまらなかったものですから、よくは見ていないのですが、鞍馬天狗が煙草屋に下宿していたっぽいんですよ。ちょっと村田煙草店を思わせる感じでした。ただ、鞍馬天狗は公家出身ですし、中山卿なんかがモデルかも、と思います。もしかしましたら桐野もモデルの一人かもしれませんが。

 野幌に屯田入植しました桐野利春につきましては、いまのところ、ブログに書きました以上のことは、わかりません。なんでも、明治23年の野幌屯田兵の詳しい名簿が残っているそうでして、なんとか、それをさがすしかないかな、という感じです。
 あと、戦後はともかく、戦前の鹿児島、それも明治期の鹿児島では、桐野利秋は英雄であった、と思うんですのよ。

桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1 - 郎女迷々日録 幕末東西

 上のページに載せておりますが、戦前の鹿児島におきまして、桐野利秋は、西郷、大久保と肩を並べて五偉人の一人に数えられ、葉書まで作られております。

 私たちそれぞれに、思い入れがあるわけですが、今度ぜひ、greenさんにも直にお会いして、ああでもないこうでもないと、お話してみたいものです。その日を楽しみに、しております。
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原籍からたどれませんか? (green)
2013-08-05 22:22:55
原籍が清水馬場。法務局に土地台帳というのがあって、閲覧・コピーができます。久夫人の相続した土地であれば利春さんは実子の可能性ありと言えるのではないでしょうか。明治18年伊地知正治さんの影響あり?偶然ではないような?

桐野の実子の子孫と言う人が墓の掃除を平成の初めごろまでしていたそうです。(桐野利秋のすべてに書いてあったのですが)文久2年桐野は軽輩ではなかった。と夫人は言っているそうですが、久光のお庭番だったと書いたものを読んだ事があります。

大塩平八郎の息子の護衛をしたとも。伊集院(有馬新七の出身地)の神社に切りつけたという逸話も。寺田屋事件十人目の鎮撫士の可能性あり?初めて半次郎の名前が出てきた時の西郷の手紙、その書き様はかなり冷たい感じがします。


政権奪取に向けて公家・幕府・各藩熾烈な競争をしていたはずですが、明治以降の為政者に都合よく作られた部分もあるのかもしれません。

「昔の結婚はやかましかったで。」この言葉の中に夫人と桐野の青春の秘密があるのでは?駆け落ち?とか。封建時代に、純愛を貫いたとしたらすごい。この辺の事情に久夫人の話の歯切れの悪さ・曖昧さの原因の一つがあるように思います。


さらに夫人は映画鞍馬天狗を見て、杉作が太郎の幼い頃に生き写しと続けます。(なぜ、京都時代の年頃の太郎君を知っているのか?)鞍馬天狗のモデルは桐野といわれる人がいますが、太郎君の存在がそういわせたのでしょうか。

村田さとさん恋人説はいつの間にか作られたものでは。写真で見れば、「少女のような」と取材した奈良迫ミチさんが書いておられます。桐野のタイプではないような。刀の趣味からしても、華やかな女性が好みのような気がします。
姉のカツさんも妹の恋人と2人で寄り添って写真を撮るかな?と思うのです。
それとハニートラップは幕末もあったのでは?女性関係に派手だったといわれる桐野ですが、誘われるまま、誰とでも、あちこちに子どもを作ると言うタイプではないような気がします。(女性的で小心な部分もある?)ハニートラップに気をつけていたからこそ幕末を生き延びたなんて事もあると思います。

(男子全般に対して失礼な言い方ですが多くの女性に言い寄られて望まれるまま関係を持つ生き方は男性の夢&願望?)

ところで、利春さん以外の方は何時ごろ誕生されたのでしょうか?
桐野との親子関係を戸籍でたどるのは困難かもしれません。戸籍上実子なしとなっているはずだと思うのです。子孫に災いがこない様に。
是枝家に養子に出された武吉さんは弟ではなく、実子なのではないでしょうか。御子孫が先祖に弟と言われていただけで。
それから、昔の戸籍はかなり自由に作られていると聞きます。生年月日・両親の名など。
昭和50年頃の雑誌(西南戦争の特集)に晩年の久夫人が6人か7人桐野の子を産んだと言っているという記事を見た事があるという人がいるのですが、未だ見つかりません。本当だとすれば、18歳で結婚して死ぬまでほぼ3年毎に1人。律儀というか微笑ましい。ともかく、特に鹿児島においては、桐野の子孫である事は生きていく上で非常にマイナスと言う判断が働いていて夫人・子どもの存在を隠したというストーリーはいかがでしょうか?
長くなってすみません。読むのは好き。書くのは苦手なものですから、まとまりがなくて。ブログの更新もうれしい。そして、本もとても楽しみにしています。
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