えー、昨日は、うそだろ!!! の連続でございました。
まずはこれ、いつものお方のブログ。
備忘 中井弘50
ええ??? 赤松小三郎のお墓が金戒光明寺にあって、しかも墓石の横に「中村半次郎の名前で師匠を称える言葉と死を悼む言葉が書かれた碑がある」ってえ?????
いや、ほんとにwikiにそう書いてあるんですけれども。
だいたい、京都黒谷の金戒光明寺といえば、会津藩がいたところじゃないですか! そんなところに、桐野が斬った赤松小三郎のお墓があるなんて知りませんでした。
が、たしかにそれはあるみたいなんですが、中村半次郎の名前の碑?
えー、ぐぐっても他に出てきませんで、信じられないんですが、どなたか京都にお住まいの方、おられませんか?(笑) いますぐ、たしかめに行きたいんですが、そうもできませんで。
いや、8.18クーデターを会津の秋月悌次郎と協力してやった高崎正風(左太郎)は、です。倒幕反対派で、ふう、びっくりした白虎隊でご紹介しました「落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎 」ではそうは描かれておりませんが、慶応3年の秋、京に帰ってきた秋月(左遷されて蝦夷にとばされていました)と会ったりしていたわけですし、薩摩藩邸にも軍学を教えに来ていた赤松小三郎への気配りを見せるのはわかるんですが、討幕派の桐野が、私の憶測では、おそらくは大久保利通、西郷隆盛の藩内倒幕推進コンビと連携して、公武合体論者の赤松小三郎を斬った桐野が、です。「師匠を称える言葉と死を悼む言葉が書かれた碑」をほんとうに建てているんだとすれば、です。赤松個人に恨みがあるわけではなく、倒幕のためにやったことだから、悼んだ、とでもいうことになりますかねえ。
いえ、実はまた、桐野ファンの先輩がお電話をくださいまして、ああでもない、こうでもないと、この金戒光明寺にあるという碑のことや、その他、桐野のことを話していたところが、です。桐野の嫁さんの回顧談の話になりました。
大正年間の桐野の嫁さんの回顧談、というのがあるんです。
これのコピー、私は持っているんですけれども、たしか、一坂太郎氏からいただいたもののような気がしまして、どこでどうコピーしたものやら、まったく覚えがないんです。しかし、持っております。
これをさがしたきっかけ、といいますのが、やはりこの先輩から、桐野が吉田清成に出した手紙の印刷コピーを、送っていただきまして、えー、吉田清成って、薩摩藩密航英国留学生で、最初に江戸は極楽であるに登場しまして以来、このブログには、たびたび出てまいります。
手紙は短いもので、まあだいたいの意味は、こういうことなんだと思います。
「お元気でがんばっておられてなによりです。太郎のことなんですが、先日こちらへ来て、函館へ共をしたいというんです。なにぶん、あなた(吉田)に相談しなければと聞き置いたんですが、また来て、お暇を願ってお許しを得てきたからつれていってください、というんですが、その通りでしょうか。もしあなたの方で差し支えがなければ、つれていってやりたいのですが」
8月10日(旧暦です)とあって、年はわからないのですが、吉田清成は明治3年にアメリカから帰国して大蔵省に奉職していまして、「太郎」を桐野が函館に連れていきたい、と言っているわけですから、考えられるのは、明治4年です。
明治4年の7月(新暦ではないかと)、桐野は函館出張命令を受けていまして、この年しか考えられません。
で、太郎くん、なんですが、桐野のまわりで太郎くん、といえば、桐野が京都でひろった少年、太郎くん、しかいません。
で、私、なんとなく、桐野が京都でひろった太郎くんに、英語の、といいますか英学の勉強をさせてやろうとしていたのに、明治6年政変で桐野が帰郷するとき、どうしてもついて行くといってきかず、結局、西南戦争でも桐野に殉じた、という話を、なにかで読んだよーな気がしまして、だとするならば、桐野は太郎くんを、同郷でアメリカ帰りの吉田清成のもとへ学僕として預けていて、この手紙になったのかなあ、などと考えたりしました。
にしても、なにに太郎くんのことが書いてあったっけ?と、最初に思い出したのが、桐野の嫁さんの回顧談です。
たしかに、この回顧談には、「御維新の際、京都から召し連れてきました太郎」とか、太郎くんの話が出てくるんですが、「勉強をさせてやろうとしていた」というような話はありませんで、もうひとつ回顧談を持っていたはず、と一生懸命思い出していたのです。
お電話の途中で、ムックの中の記事だった! と思い出しまして、お電話を切ってから、さがしました。
あったんです。私、勘違いをしていまして、こちらの方は、桐野の嫁さんではなく、お孫さんで、桐野富美子さんといわれる上品なおばあさんの回顧談でしたわ。
たしかに、こちらにも、太郎くんの話は出てきました。以下です。
大正の初め頃、鞍馬天狗の活動写真を観て帰った祖母が、「杉作とうちの太郎はすっかり同じだねえ……」「中村太郎はおじいさんの京都でのお仕事に、その意をよくくんですばしこく立ち回ったそうです。でも、あれだけ止められていたのに、後を追い戦死したのはいじらしくてたまらなかった。この子のお墓参りを忘れないでね」と目頭をおさえて言いました。
結局、「勉強をさせてやろうとしていた」は、こちらにもなしで、いったいなにで見たのやら、それとも記憶ちがいなのやら、なんですが、それよりも、どびっくりだったのは以下です。
生前の祖父と親交があり国士として世界中を旅していた前田正名翁が帰国して訪れ、私の兄利和に、「お前は顔も気性も、利秋によく似ている」と嬉しそうにみつめ、「この子は俺に食いかけの芋をくれた、うまかったなあ!」と言われたので、皆大笑いしました。
この人に、父が赤い布に包んだ金太刀を桐箱から取り出して見せていた光景が、今でも私の脳裏から離れません。
えええええっ!!!!! 前田正名あ?????
いや、「世界中を旅していた国士」が、桐野の孫を見て桐野をなつかしんだ、というようなことが書いてあったことは、覚えていたんです。ただ、その「国士」が前田正名だったなんて!!!!!
もうすっかり、名前を忘れこけておりましたわ。
つーか昔は、前田正名ってだれなん? とわからないまま、放っておいたですわね。ネットもないままに。いや、経歴くらいは調べたかもしれないんですけど、まったく印象に残らなかったようでして。
美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子の美少年です。
モンブラン伯爵についてパリに行き、ヴェルサイユ宮殿に圧倒され、普仏戦争とパリコミューンを経験し、貴公子新納少年の悩みも聞き、これはまだ書いたことがないですが、ゴンクールからも絶賛された美青年、正名くんです。
そりゃあ、同じ薩摩藩士です、知り合う機会はあったでしょうが、正名くんは、桐野より12歳年下なんですけど。
じゃあ、です。明治2年の初め頃、モンブランは薩摩に入国していますし、もしかして、正名くんも帰郷していて、桐野も会津から凱旋帰国していますし、太郎くんもまじえて、おフランスの香水の話なんかしたりって、ありなんでしょうかっ?????
われながら、いままで気づかなかった自分のうかつさに、愕然としました。
ちなみに、当時の香水は、そう甘ったるい匂いのもではありません。当時流行ったと思われる、ゲランが初めて作った香水「ブーケ・ド・ユジェニー」。
ユージェニーは、ナポレオン三世の妃で、その皇妃にささげられた(といいますかささげて宣伝にしたんですが)香水なんですが、現在、「オー インペリアル」という名前で復刻され、男性用ということで売られています。私、持っていますが、柑橘系の香りのとてもさわやかなものです。
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まずはこれ、いつものお方のブログ。
備忘 中井弘50
ええ??? 赤松小三郎のお墓が金戒光明寺にあって、しかも墓石の横に「中村半次郎の名前で師匠を称える言葉と死を悼む言葉が書かれた碑がある」ってえ?????
いや、ほんとにwikiにそう書いてあるんですけれども。
だいたい、京都黒谷の金戒光明寺といえば、会津藩がいたところじゃないですか! そんなところに、桐野が斬った赤松小三郎のお墓があるなんて知りませんでした。
が、たしかにそれはあるみたいなんですが、中村半次郎の名前の碑?
えー、ぐぐっても他に出てきませんで、信じられないんですが、どなたか京都にお住まいの方、おられませんか?(笑) いますぐ、たしかめに行きたいんですが、そうもできませんで。
いや、8.18クーデターを会津の秋月悌次郎と協力してやった高崎正風(左太郎)は、です。倒幕反対派で、ふう、びっくりした白虎隊でご紹介しました「落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎 」ではそうは描かれておりませんが、慶応3年の秋、京に帰ってきた秋月(左遷されて蝦夷にとばされていました)と会ったりしていたわけですし、薩摩藩邸にも軍学を教えに来ていた赤松小三郎への気配りを見せるのはわかるんですが、討幕派の桐野が、私の憶測では、おそらくは大久保利通、西郷隆盛の藩内倒幕推進コンビと連携して、公武合体論者の赤松小三郎を斬った桐野が、です。「師匠を称える言葉と死を悼む言葉が書かれた碑」をほんとうに建てているんだとすれば、です。赤松個人に恨みがあるわけではなく、倒幕のためにやったことだから、悼んだ、とでもいうことになりますかねえ。
いえ、実はまた、桐野ファンの先輩がお電話をくださいまして、ああでもない、こうでもないと、この金戒光明寺にあるという碑のことや、その他、桐野のことを話していたところが、です。桐野の嫁さんの回顧談の話になりました。
大正年間の桐野の嫁さんの回顧談、というのがあるんです。
これのコピー、私は持っているんですけれども、たしか、一坂太郎氏からいただいたもののような気がしまして、どこでどうコピーしたものやら、まったく覚えがないんです。しかし、持っております。
これをさがしたきっかけ、といいますのが、やはりこの先輩から、桐野が吉田清成に出した手紙の印刷コピーを、送っていただきまして、えー、吉田清成って、薩摩藩密航英国留学生で、最初に江戸は極楽であるに登場しまして以来、このブログには、たびたび出てまいります。
手紙は短いもので、まあだいたいの意味は、こういうことなんだと思います。
「お元気でがんばっておられてなによりです。太郎のことなんですが、先日こちらへ来て、函館へ共をしたいというんです。なにぶん、あなた(吉田)に相談しなければと聞き置いたんですが、また来て、お暇を願ってお許しを得てきたからつれていってください、というんですが、その通りでしょうか。もしあなたの方で差し支えがなければ、つれていってやりたいのですが」
8月10日(旧暦です)とあって、年はわからないのですが、吉田清成は明治3年にアメリカから帰国して大蔵省に奉職していまして、「太郎」を桐野が函館に連れていきたい、と言っているわけですから、考えられるのは、明治4年です。
明治4年の7月(新暦ではないかと)、桐野は函館出張命令を受けていまして、この年しか考えられません。
で、太郎くん、なんですが、桐野のまわりで太郎くん、といえば、桐野が京都でひろった少年、太郎くん、しかいません。
で、私、なんとなく、桐野が京都でひろった太郎くんに、英語の、といいますか英学の勉強をさせてやろうとしていたのに、明治6年政変で桐野が帰郷するとき、どうしてもついて行くといってきかず、結局、西南戦争でも桐野に殉じた、という話を、なにかで読んだよーな気がしまして、だとするならば、桐野は太郎くんを、同郷でアメリカ帰りの吉田清成のもとへ学僕として預けていて、この手紙になったのかなあ、などと考えたりしました。
にしても、なにに太郎くんのことが書いてあったっけ?と、最初に思い出したのが、桐野の嫁さんの回顧談です。
たしかに、この回顧談には、「御維新の際、京都から召し連れてきました太郎」とか、太郎くんの話が出てくるんですが、「勉強をさせてやろうとしていた」というような話はありませんで、もうひとつ回顧談を持っていたはず、と一生懸命思い出していたのです。
お電話の途中で、ムックの中の記事だった! と思い出しまして、お電話を切ってから、さがしました。
あったんです。私、勘違いをしていまして、こちらの方は、桐野の嫁さんではなく、お孫さんで、桐野富美子さんといわれる上品なおばあさんの回顧談でしたわ。
たしかに、こちらにも、太郎くんの話は出てきました。以下です。
大正の初め頃、鞍馬天狗の活動写真を観て帰った祖母が、「杉作とうちの太郎はすっかり同じだねえ……」「中村太郎はおじいさんの京都でのお仕事に、その意をよくくんですばしこく立ち回ったそうです。でも、あれだけ止められていたのに、後を追い戦死したのはいじらしくてたまらなかった。この子のお墓参りを忘れないでね」と目頭をおさえて言いました。
結局、「勉強をさせてやろうとしていた」は、こちらにもなしで、いったいなにで見たのやら、それとも記憶ちがいなのやら、なんですが、それよりも、どびっくりだったのは以下です。
生前の祖父と親交があり国士として世界中を旅していた前田正名翁が帰国して訪れ、私の兄利和に、「お前は顔も気性も、利秋によく似ている」と嬉しそうにみつめ、「この子は俺に食いかけの芋をくれた、うまかったなあ!」と言われたので、皆大笑いしました。
この人に、父が赤い布に包んだ金太刀を桐箱から取り出して見せていた光景が、今でも私の脳裏から離れません。
えええええっ!!!!! 前田正名あ?????
いや、「世界中を旅していた国士」が、桐野の孫を見て桐野をなつかしんだ、というようなことが書いてあったことは、覚えていたんです。ただ、その「国士」が前田正名だったなんて!!!!!
もうすっかり、名前を忘れこけておりましたわ。
つーか昔は、前田正名ってだれなん? とわからないまま、放っておいたですわね。ネットもないままに。いや、経歴くらいは調べたかもしれないんですけど、まったく印象に残らなかったようでして。
美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子の美少年です。
モンブラン伯爵についてパリに行き、ヴェルサイユ宮殿に圧倒され、普仏戦争とパリコミューンを経験し、貴公子新納少年の悩みも聞き、これはまだ書いたことがないですが、ゴンクールからも絶賛された美青年、正名くんです。
そりゃあ、同じ薩摩藩士です、知り合う機会はあったでしょうが、正名くんは、桐野より12歳年下なんですけど。
じゃあ、です。明治2年の初め頃、モンブランは薩摩に入国していますし、もしかして、正名くんも帰郷していて、桐野も会津から凱旋帰国していますし、太郎くんもまじえて、おフランスの香水の話なんかしたりって、ありなんでしょうかっ?????
われながら、いままで気づかなかった自分のうかつさに、愕然としました。
ちなみに、当時の香水は、そう甘ったるい匂いのもではありません。当時流行ったと思われる、ゲランが初めて作った香水「ブーケ・ド・ユジェニー」。
ユージェニーは、ナポレオン三世の妃で、その皇妃にささげられた(といいますかささげて宣伝にしたんですが)香水なんですが、現在、「オー インペリアル」という名前で復刻され、男性用ということで売られています。私、持っていますが、柑橘系の香りのとてもさわやかなものです。
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「太郎くん」のことも有難うございます。
もう、ホントどびっくりですね。
いくら同じ薩摩藩士でも接点がなさそうなというか、親しいとは思えない方々と仲良しだったんですねえ。
それと赤松さんのお墓、あれからいろいろなサイトを捜して写真がないか調べたんです。でも、桐野作人さんの「さつま人国誌」とひとつのサイトしか見つけられなくて。
「桐野利秋のすべて」の写真と合わせてみても、どうも『碑』らしきものはなさそうなんですよね。
桐野作人さんはちゃんと赤松のお墓参りをなさっているので(ブログ)、もし、そのような『碑』があれば、感想もあったと思うんですが・・・・。
本日、国会図書館行きました。
「山縣有朋関係文書」・・・・桐野書簡ひとつありました。「吉田清成関係文書」はありませんでした。中井さんは流石に多く、数頁。
雑誌「伝記」に載った「赤松小三郎」もコピーしました。
「オーインペリアル」欲しいです。(笑)
たしかに中村さまのおっしゃる通り、桐野氏の「さつま人国記」に添えられた写真では、墓域内に他の碑らしきものは見当たらないですよね。
ただいまぐぐっておりましたら、↓こちらのブログに赤松の墓の記事があるのをみつけました。中程よりやや下のあたりに該当部分があります。
http://mopokamura.exblog.jp/5009710/
「赤松の墓石の背面に刻まれた“刻文”を読んでたら」と書かれています。
本日、速達で、嫁さんのコピーとともに、桐野富美子さんの回顧談のコピーもお送りしました。「桐野利秋のすべて」の中の話よりは、直接、富美子さんのお話ですので、まだ確実性があろうかと存じます。
本日の妄想はいかがでしょうか?(笑)
furariherariさま、いつもお世話になります。
そのサイトさん、見せていただいたんですが、金戒光明寺のお墓だとしまして、その書き方からしますと、ご紹介の忠義公史料の文面と同じく、「薩摩 受業門生謹識」で、中村半次郎の名前はないんじゃないでしょうか。
中村太郎さまが電話でおっしゃっておられたんですが、赤松小三郎で検索をかけますと、一番上に出てまいります、「信州上田城公園赤松小三郎之碑の疑問」なんですが、昭和17年に建てられた碑で、裏面の刻文が、上田史談会の製作した文章みたいです。にしても、一部忠義公史料の文と似ているので、もしかすると、金戒光明寺のお墓の裏面に、やはり忠義公史料の文面が刻んであるのかも、と思うのですが、後年のものだけに、教え子として、有名になった薩摩人の名前を出して、桐野の名前を入れているようです。wikiの筆者は、もしかして、それをなにか勘違いされたのでは、と思うのですが。
私、その忠義公史料の文面には覚えがあり、やはり、藩内討幕反対派の勢力は強かったのだと実感していたのですが、高崎正風がそれを書かせたということは知らず、教えていただき、ますます藩内の綱引き状態がわかったようで、ありがたかったです。
で、いかがでしょうか、今日の妄想は(笑)