これも、昔資料をさがしていて、さっぱり見つからなかった事柄です。
出てきたチラシの中から、要点をまとめてみます。
桐野利秋、幕末の名は中村半次郎ですが、彼が、薩摩と長州の中が悪いころから、長州よりの過激尊攘派であったことは、西郷隆盛の書簡に、「中村半次郎と申す者、追々暴客の中間にも入込、長州屋敷内にも心置き無く召入り候て」と、あることから推測されます。
しかし、慶応3年、幕末も押し詰まった『京在日記』の時期まで、他人の書簡や日記に、断片的に姿を現すだけで、実像がつかみ辛いのです。
維新以降の話なのですが、桐野は、通称を、「半次郎」から「新作」に改めます。
これは、高杉晋作に心酔していたからだ、という説がありまして、傍証をさがしていたのですが、評論新聞の記事が、それにあたると思えたのです。
『評論新聞』は、桐野利秋の盟友・海老原穆(えびはらあつし)が出していた反政府民権派の新聞で、『西南記伝』によりますと、海老原は桐野の死後、その遺影を神牌として毎朝拝んでいたほどでした。
その海老原さんが出していた評論新聞の明治8年11月の紙面に、「桐野新作君は真正の憂国家にして民権連の大将軍」とあり、翌12月に「元毛利家の大元帥・高杉新作東行公は生きていた」と、あるんですね。
どちらも新作です。
高杉さんが生きていた、という奇妙な記事は、高知県のある人物が高杉に神戸で会った、という話で、高杉は「死んだふりをして実は上海に行っていた」と説明し、高知県人が「御留守中、維新以来天下方さに駿々として中郷の勢あり」というと、「高杉、大に笑いていわく、百万の蒼生、いまだ春を知らず。ともにめでたく春を見る日もまたありましょう」と、姿を消すのです。
評論新聞がこれだけ、高杉を持ち上げていたということは、桐野が高杉に心酔していた、という話は本当ではなかったか、と思うのですね。
いったい、桐野と高杉の接点は、どこにあったのか。
長州よりの過激尊攘派であった、とはいえ、薩長同盟以前の、桐野と長州人のつながりを示す資料は、出ていません。
元治元年4月16日、土佐の山本頼蔵の日記に、「当日、石清(中岡慎太郎の変名、石川清之助の略)、薩の肝付十郎、中村半次郎と逢て問答のよし。この両人、ずいぶん正義の趣なり」とあるんですが、この直前、中岡慎太郎は、高杉晋作とともに、島津久光暗殺を企てています。
ここらあたりが、一番、可能性があるかな、という感じなんです。
しかし、全集に残されている中岡慎太郎の書簡や日記では、慶応二年以降にしか、桐野の名は出てこないんですね。
後は、慶応元年3月3日、土佐脱藩の土方久元の日記に、「中村半次郎、訪。この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」と見えます。
これも、東行庵の一坂太郎氏にお訊ねして、なお資料が出なかったことなので、ほとんどあきらめてはいるのですが、もし、なにかお心当たりのことがございましたら、どうか、ご教授のほどを。
関連記事
桐野利秋とアラビア馬
出てきたチラシの中から、要点をまとめてみます。
桐野利秋、幕末の名は中村半次郎ですが、彼が、薩摩と長州の中が悪いころから、長州よりの過激尊攘派であったことは、西郷隆盛の書簡に、「中村半次郎と申す者、追々暴客の中間にも入込、長州屋敷内にも心置き無く召入り候て」と、あることから推測されます。
しかし、慶応3年、幕末も押し詰まった『京在日記』の時期まで、他人の書簡や日記に、断片的に姿を現すだけで、実像がつかみ辛いのです。
維新以降の話なのですが、桐野は、通称を、「半次郎」から「新作」に改めます。
これは、高杉晋作に心酔していたからだ、という説がありまして、傍証をさがしていたのですが、評論新聞の記事が、それにあたると思えたのです。
『評論新聞』は、桐野利秋の盟友・海老原穆(えびはらあつし)が出していた反政府民権派の新聞で、『西南記伝』によりますと、海老原は桐野の死後、その遺影を神牌として毎朝拝んでいたほどでした。
その海老原さんが出していた評論新聞の明治8年11月の紙面に、「桐野新作君は真正の憂国家にして民権連の大将軍」とあり、翌12月に「元毛利家の大元帥・高杉新作東行公は生きていた」と、あるんですね。
どちらも新作です。
高杉さんが生きていた、という奇妙な記事は、高知県のある人物が高杉に神戸で会った、という話で、高杉は「死んだふりをして実は上海に行っていた」と説明し、高知県人が「御留守中、維新以来天下方さに駿々として中郷の勢あり」というと、「高杉、大に笑いていわく、百万の蒼生、いまだ春を知らず。ともにめでたく春を見る日もまたありましょう」と、姿を消すのです。
評論新聞がこれだけ、高杉を持ち上げていたということは、桐野が高杉に心酔していた、という話は本当ではなかったか、と思うのですね。
いったい、桐野と高杉の接点は、どこにあったのか。
長州よりの過激尊攘派であった、とはいえ、薩長同盟以前の、桐野と長州人のつながりを示す資料は、出ていません。
元治元年4月16日、土佐の山本頼蔵の日記に、「当日、石清(中岡慎太郎の変名、石川清之助の略)、薩の肝付十郎、中村半次郎と逢て問答のよし。この両人、ずいぶん正義の趣なり」とあるんですが、この直前、中岡慎太郎は、高杉晋作とともに、島津久光暗殺を企てています。
ここらあたりが、一番、可能性があるかな、という感じなんです。
しかし、全集に残されている中岡慎太郎の書簡や日記では、慶応二年以降にしか、桐野の名は出てこないんですね。
後は、慶応元年3月3日、土佐脱藩の土方久元の日記に、「中村半次郎、訪。この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」と見えます。
これも、東行庵の一坂太郎氏にお訊ねして、なお資料が出なかったことなので、ほとんどあきらめてはいるのですが、もし、なにかお心当たりのことがございましたら、どうか、ご教授のほどを。
関連記事
桐野利秋とアラビア馬
山田の市ちゃんのドラマ、見逃してしまいましたわ。ひー。
市ィがドラマになるくらいなら、高杉の従兄弟の南貞助のドラマ、作ってくれないかなあ、と思うんですけど、無理なんでしょうねえ。
最近、長州情報にうとく、東行庵の裁判のことなどもお伺いいたしたく、またうかがいます、今度こそ、コメントさせていただくつもりでおりますので、どうぞ、よろしくお願いいたします。
私は高杉晋作ファンで、ブログを書いています。桐野さんのことも以前、「晋作」という名前のあやかりについて書きました。
よかったら遊びにきてください。
http://baisho.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-dc0a.html
楽しいブログですね。またお邪魔させていただきます。
久坂さんはイケ面すか? ご子孫のお写真なら持ってますけど(笑)
めっちゃ勉強になりましたー♪
入江九一!イイッスねーー。
僕は久坂 玄瑞も好きですねー!!!
イケ面ッス♪
あー、高知市観光課の岡林氏は律儀な方で、いまなお年賀状をいただいておりますが、もう観光課にはおられないんでしょうねえ。土佐史談会のおじさま方も、親切な方々でした。
長州が「かしこい」ということについては、伝説になっているようです。昔、私の友達の長州ファンが、霊山の長州の某さんのお墓の前に寄せ書きノートを入れるタッパーを置いていましたら、新撰組ファンのお友達が「さすが! 長州の方はファンまでかしこいですねえ。私たちは空き缶なんですが、空き缶は錆びます」と申されたとか。
桐野に龍馬暗殺の実行は無理です。中岡さんとも龍馬ともつきあいが深いですから、ねえ。面がわれます。とくに中岡さんとは元治以来のつきあいで、太宰府で一晩いっしょに飲み明かしたりしておりますから。
危ない橋をわたって、なんの得にもならないようなことは、薩摩人はいたしませんです。そういう現実的なかしこさは、薩摩人が一番持っております(笑)
情緒的な詩心があるのは、やはり長州人ですねえ。高杉さんもいいんですけど、入江さんの漢詩なんかも、いいです。
またどうぞ、おこしくださいませ。私もまた、遊びにいかせていただきます。
TBありがとうございまーす。僕は土佐の『HIP HOP&歴史』が大好きな27歳でーすッ。
高杉 晋作が好きになったのは昔の年末時代劇スペシャル『奇兵隊』を見てからです。長州☆最高ですね!!!!!秀才が日本一多いと思いました♪高杉の辞世の句・・・おもしろなき世を おもしろく 泣けますねーー! 僕的には桐野 利秋は龍馬&慎太郎 暗殺の実行犯もしくは・・黒幕を知っているのでは無いかと思います。又遊びに来ますねーー♪よろしければ、僕の歴史ブログにも遊びに来て下さいませーー♪今後ともヨロシクお願い致しまーーすッ!
基本的に、福岡人は良い意味でも悪い意味でも、アバウトですから、お許しを・・・。
確か、冨永有隣だったと想います。
伊藤博文などは、顕侯となってからも、「利助」と呼び捨てにしていたとか・・・(笑)。
ディープインパクト、残念でございましたね。
後で気づきまして、そちらの方にもTBさせていただきました。
会津出身の方は、二本松少年隊と碧血碑 のコメントに書いておりますが、すごいです。
ちなみに私は、親藩ゆえに征長にかり出され、長州に恨まれて朝敵となり、恭順して土佐藩兵が駐留しているにもかかわらず、長州藩兵に攻められ、土佐藩兵に守ってもらった伊予松山藩に住んでおりますが、まったく怨恨は残っておりませんのです。
私は、幕末ならばどこでも、という感じですので、またあらためてうかがい、読ませていただきます。
これからも、どうぞ、よろしくお願いいたします。
桐野と中岡慎太郎と親交が親交があったことは、はっきり資料に残っているのですが、長州人となると、品川、木戸といった薩長連合に関係した人物しか、資料が見つからないんです。
ただ、高杉は田中光顕にも心酔されておりますし、案外、他藩人の受けはよろしかったかと存じます。
村塾系の老人って、国木田独歩の『富岡先生』のモデルになりました冨永有隣でしょうか、それとも白井小助でしょうか。私、けっこう、お二方とも好きです。
私は会津サイドから幕末に入ったので
薩長サイドについてはまだ勉強中ですが、
桐野はなかなかの人物だったようですね。
西郷どんに「桐野に学問があったら自分はとてもかなわない」と
言わしめる程の人だったようですし。
ま、情熱家には違いありませんが(笑)。
こちらからもTBさせて頂きますのでよろしくお願い致します。
高杉くんは、意外に人望があるんですね(笑)。
そう言えば、明治になってから、出世した連中のところに行って絡むので、いやがられていた村塾系の老人がいたという話がありましたが、その老人に、「誰が一番、人間が出来ていたか?」と聞いたら、「高杉」と言ったといいますしね。
まあ、早くに死んだのと、彼は元々、上流階級の出だったから、伊藤や山県などと違い、老人の側でも、何かされても抵抗がなかったということがあったのでしょうが・・・。
大昔、世田谷の松陰神社からあまり遠くないところ、って経堂なんですけど、に住んでいまして、懐かしく拝読させていただきました。
歌舞伎町があまりご清潔になるのも、というご意見には、同感です。ハモニカ横町、ゴールデン街も、妙に清潔になったようですのに、歌舞伎町も、なんですか。寂しいですね。
ちんちん電車は、ここ松山にも走っております。
一時間に一台くらい、観光用の坊っちゃん列車が走っておりますので、そのうち写真に撮ろうかと。
あと高知市のちんちん電車は、諸国の車両をわざわざもらい受けて走らせてまして、楽しいんですけど、四国山脈を越えて行くのが、東京へ行くより大変でして(笑)
こちらこそ、どうぞ、よろしくお願いします。
TBさせてもらいました。
私は高杉晋作が好きで、ブログ上で「高杉晋作シリーズ」というものを書いております。
不定期投稿の連載という形ですので、まだ完結しておりません。
良かったら是非☆
また宜しくお願いします。。。