江戸時代の後半には、ペリーの黒船以前にも、異国船による事件は、頻繁に起こっていました。
高杉晋作と危機の兵学
でご紹介しました野口武彦氏の『江戸の兵学思想』によれば、江戸の兵学には「海戦」の概念がなかったのだそうです。
日本は島国ですから、これはちょっと不思議なことではあります。
しかし、そもそも「海戦」の概念とは、海上通商路を確保し、制海権を得るために艦隊が誕生してからの概念だった、と解説されると、なるほど、という気がします。
つまるところ、国家規模でが海外交易をし、その交易を守り発展させるために、西洋の海軍はあったわけですから、鎖国していた日本の近世に「海戦」は、概念すらなくてあたりまえなのです。
つまり近代海軍とは、そもそも、その存在意義からして、内政には関係のない存在なのですね。
一方の陸軍は、本質的に、内政に深くかかわる組織です。現在でも、軍事クーデターの起こる国は、多々ありますし、中国の人民解放軍がその筆頭ですが、政治にかかわっている陸軍も、多く存在します。
西洋近代の脅威は、黒船となって姿を現したわけですから、維新への原動力の最初の柱となったのは、海防意識です。
しかし、近代海軍を建設するためには、結局、大きく国を改革するしかないことが、やがて、わかってきます。
近代海軍建設に、最初に取り組んだのは政権を担っていた幕府ですが、長崎でのオランダ海軍伝習の中心となった勝海舟は、早くから、そのことに気づきます。
近代海軍建設を学ぶということは、それを培ってきた西洋近代を学ぶことでも、あったから、です。
しかし、海軍的な思考は、ある意味、内政に関しては不得手になりがちなのですね。国の変革をなすための決断は、軍事力を掌握した者にしかできないわけで、国内的な軍事力の掌握は、きわめて陸軍的な発想でなされるものです。
勝海舟は、そういう意味では、政治に疎い人でした。
それは、弟子だった坂本龍馬もいっしょで、維新前夜、薩長倒幕派首脳部と、一方で小栗上野介を中心とする幕府のフランス派が、武力で中央集権を達成するしかない、と見極めていた状況の中で、その必然性が見えていなかった、というべきでしょう。
では、薩摩倒幕派の中心だった西郷、大久保の思考が海軍的であったか、というと、なにしろ倒幕派なわけですから、そういう武力変革の思考は、海軍のものではありません。
しかし、倒幕を果たした時点で、大久保利通は、維新本来の目標であった海防に思考を切り替えるのです。
新政府が取り組む近代軍隊の建設において、大久保利通は海軍を中心に押し、長州は陸軍を中心にと、最初のヘゲモニー争いがはじまります。
海軍を中心に考え、それでも大久保が、ほぼ新政府の主導権を握り得たのは、大久保自身の思考は、必ずしも海軍的なものではなかったからでしょう。
しかし、明治6年の政変と西南戦争によって、薩摩閥は多くの人材を失い、大久保利通もまた倒れます。
それでも、薩摩閥は海軍を掌握しますが、陸軍を握った長州閥にくらべるならば、政治力は、格段に劣ったものとなりました。
薩摩閥の海軍で、政治的に傑出した人物を挙げるならば、海軍軍政に大鉈をふるった山本権兵衛くらいなものなのですが、大正になって政治家となり、内閣を組閣したところで、シーメンス事件に足をすくわれます。
長州閥の仕掛けた倒閣運動に、もろくも屈したわけでして、やはり海軍と政治は、相性の悪いものであったようです。
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つまるところ、国家規模でが海外交易をし、その交易を守り発展させるために、西洋の海軍はあったわけですから、鎖国していた日本の近世に「海戦」は、概念すらなくてあたりまえなのです。
つまり近代海軍とは、そもそも、その存在意義からして、内政には関係のない存在なのですね。
一方の陸軍は、本質的に、内政に深くかかわる組織です。現在でも、軍事クーデターの起こる国は、多々ありますし、中国の人民解放軍がその筆頭ですが、政治にかかわっている陸軍も、多く存在します。
西洋近代の脅威は、黒船となって姿を現したわけですから、維新への原動力の最初の柱となったのは、海防意識です。
しかし、近代海軍を建設するためには、結局、大きく国を改革するしかないことが、やがて、わかってきます。
近代海軍建設に、最初に取り組んだのは政権を担っていた幕府ですが、長崎でのオランダ海軍伝習の中心となった勝海舟は、早くから、そのことに気づきます。
近代海軍建設を学ぶということは、それを培ってきた西洋近代を学ぶことでも、あったから、です。
しかし、海軍的な思考は、ある意味、内政に関しては不得手になりがちなのですね。国の変革をなすための決断は、軍事力を掌握した者にしかできないわけで、国内的な軍事力の掌握は、きわめて陸軍的な発想でなされるものです。
勝海舟は、そういう意味では、政治に疎い人でした。
それは、弟子だった坂本龍馬もいっしょで、維新前夜、薩長倒幕派首脳部と、一方で小栗上野介を中心とする幕府のフランス派が、武力で中央集権を達成するしかない、と見極めていた状況の中で、その必然性が見えていなかった、というべきでしょう。
では、薩摩倒幕派の中心だった西郷、大久保の思考が海軍的であったか、というと、なにしろ倒幕派なわけですから、そういう武力変革の思考は、海軍のものではありません。
しかし、倒幕を果たした時点で、大久保利通は、維新本来の目標であった海防に思考を切り替えるのです。
新政府が取り組む近代軍隊の建設において、大久保利通は海軍を中心に押し、長州は陸軍を中心にと、最初のヘゲモニー争いがはじまります。
海軍を中心に考え、それでも大久保が、ほぼ新政府の主導権を握り得たのは、大久保自身の思考は、必ずしも海軍的なものではなかったからでしょう。
しかし、明治6年の政変と西南戦争によって、薩摩閥は多くの人材を失い、大久保利通もまた倒れます。
それでも、薩摩閥は海軍を掌握しますが、陸軍を握った長州閥にくらべるならば、政治力は、格段に劣ったものとなりました。
薩摩閥の海軍で、政治的に傑出した人物を挙げるならば、海軍軍政に大鉈をふるった山本権兵衛くらいなものなのですが、大正になって政治家となり、内閣を組閣したところで、シーメンス事件に足をすくわれます。
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先日はブログ上での複数画像の件、お教え頂きありがとうございました。
今回やってみましたので、TBさせてもらいました。
良かったら、ご覧下さい。
また是非いろいろとお願いします。
4月にまた下関に行くことになりました。
おそらく東行庵に行くと思います。
4月のご旅行で、写真を撮ってきてくださるのを、楽しみにしております。
そのときは、またどうぞ、お教えくださいませ。
東行庵も、変わったんでしょうねえ。
長州には水軍の末裔がいるというのは、当たり前のことなのに、失念していました。「そうだ、たしかに!」と目からうろこでした。
技術的なことは、どのように伝えられたかまだわからないのですが、追々調べてみたいと思います。