リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校の続きです。
このシリーズの最初にちょこっと書いたのですが、いま英文で、バーティ・ミットフォードの伝記を読んでいます。
伝記といいましても、ミットフォード家全体について書いてあるもので、そのうちバーティの伝記は100ページほどです。
著者はバーティの曾孫のモイン男爵ジョナサン・ギネスと、その娘のキャサリン・ギネスです。
前回の記事のコメント、のり坊さまとのやりとりで、ちょっと出てきたのですが、バーティの孫の美人6姉妹は、とてつもないお騒がせ姉妹でした。
といっても全員ではなく、話題になったのは主に、ダブル不倫の末英国ファシスト党党首夫人となった3女ダイアナ、ヒットラーに恋して自殺未遂事件を起こした4女ユニティ、共産主義に走って又従弟とかけおちした5女ジェシカ、の3人なのですが、第2次大戦直前の不穏な国際情勢の中で、国境を越えて仰天スキャンダルをまきおこしたものですから、欧米では、祖父バーティより、はるかに有名なのです。
姉妹については、メアリー・S. ラベル著 粟野 真紀子 ・大城 光子訳 「ミットフォード家の娘たち―英国貴族美しき六姉妹の物語」という翻訳本が出ていまして、以下、この本を主に参考にして、書かせてもらいます。
ジョナサン・ギネスは、ダイアナの最初の結婚で生まれた長男です。
ギネスって、あのギネス・ブックと関係ありか、といえば、名前の上ではあるんでしょう、一応のところ。ギネス・ブックを発行しているギネス・ワールド・レコード社は、アイルランドのビール会社・ギネス社 の関連会社だそうですから。
リーズデイル男爵令嬢ダイアナ・ミットフォードは、1910年の生まれです。幼児期には祖父バーティがまだ生きてましたから、バッツフォードのおじいさまが、うっすら、記憶にあったんじゃないでしょうか。
美人姉妹の中でももっとも美しいといわれたそうですが、ギリシャ彫刻のような典雅な美貌で、第一次大戦後の直線的なアールデコ・ファッション(アールデコのファッションブック参照)が、実によく似合う感じです。
1928年の春、ダイアナは国王、王妃の御前で紹介を受け、ロンドン社交界デビューを果たすと、まもなく、ブライアン・ギネスからプロポーズを受けます。ブライアンは、ギネスビールのギネス社創業の一族で、「イギリスでももっとも裕福な家柄」であるモイン男爵の跡取り息子でした。しかも、容姿もなかなかに端麗で、教養があって、おだやかな性格で、22歳の若さです。
ダイアナは2年後にブライアンと、だれもがうらやむような幸せな結婚をし、ジョナサン、デズモンドと二人の男の子にも恵まれるのですが、やがて、傲岸な魅力をもったオズワルド・モーズリー卿と激しい恋におちます。オズワルドにも妻がありましたし、通常、こういった上流階級の恋は、結婚生活はそのままに不倫を続けることが多いのですが、ダイアナは決然と離婚にふみきり、世間を騒がせることになったのです。
その後、オズワルドがファシスト党党首となったことなどから、ダイアナは第2次大戦では苦難を経験しますが、生涯添い遂げます。一途な恋だった、のではないでしょうか。
しかし一途と言えば、ヒットラーに恋をした4女ユニティなんですが、彼女の場合は、「男は容姿」をモットーとする私の理解を超えます。
いえね、ヒットラーの容姿も容姿なんですが………、なにしろユニティ・ミットフォードは、有力政治家ウィンストン・チャーチルの親戚の男爵令嬢で、姉が英国ファシスト党党首夫人です。ヒットラーも好意はよせたようなのですが、どこまで個人的なつきあいがあったかは、???なんです。少なくとも肉体関係はなかったとみられ、にもかかわらずユニティは、英国とドイツの開戦に絶望し、ドイツでピストル自殺を決行します。ヒットラーの手厚い配慮で、命は助かり、英国の両親のもとに帰りますが、以降は廃人同然だったとか。
ユニティが生まれたのは、1914年、第1次大戦開戦の年です。祖父のバーティが、セカンド・ネームは時勢にあったものにと、バルキュリー(ワルキューレ)と名付けたといいます。バーティったら………。
それはともかく、です。ダイアナの息子、モイン男爵ジョナサン・ギネスの手になるバーティの伝記です。
周に一回一時間半、英語の個人教授を受けつつ購読しているのですが、これがなかなか、先へ進みません。
まずは、ミットフォード家の祖先の話から、でして、先日、ようやく、バーティのお母さん、アッシュバーナム伯爵令嬢、レイディ・ジョージアナ・ジェミマ(1805-82)が登場したんですが、もう仰天!でした。
なぜ仰天したかといいますと………、です。
なにしろ、この本のバーティの伝記部分の冒頭は、オックスフォードを出て外務省に勤めていた若き日のバーティが、ベルギーの保養地でサー・バーナード・バークに会い、「もしもあなたが、エクスベリーのミットフォード氏とレディ・ジョージアナ・アッシュバーナムの息子なのなら、あなたはおそらく、イギリスでもっとも古い2つのサクソン人の家系の子孫だ」と言われたことにはじまり、延々とミットフォード家の祖先の話がはじまったんです。
にもかかわらず、です。
先日購読した部分の最後は、突然、20世紀の話になるんですが、実はバーティは、ミットフォードの血筋となんの関係もなかったかもしれない、という話になってしまったんです。
バーティの孫の美人6姉妹の末娘、デボラ・ミットフォードは、第2次大戦中に、デボンシャー公爵の次男、アンドリュー・キャベンディッシュ卿と結婚します。このときデボンシャー公爵は、クラブで友人に「息子がリーズデイル男爵の娘と結婚するのでね、バーク貴族名鑑で調べたよ」と、言ったのだそうです。すると友人は、こう答えたのだとか。
いまのリーズデイル男爵が、ほんとうに何者か知りたいなら、ミットフォード家で見てもわからないよ。セフトン伯爵モリノー家で見るべきだね。
あー、つまり、です。デボラの祖父のバーティは、ミットフォードを名乗っていても、その血筋は実はミットフォード家のものではなく、モリノー家のものだ、というのですね。
原因は………、バーティの母親、レディ・ジョージアナにありました。
その話に入る前に、ちょっと余談を。
デボンシャー公爵家に嫁行った末娘のデボラ・ミットフォードは、1920年、祖父バーティの死後に生まれています。
六姉妹のうちで、彼女一人はまだ、元気でおられるはずです。
公爵家の長男は、やはり第二次大戦中に、ジョン・F・ケネディ(後のアメリカ大統領)の妹、キック(キャサリン)・ケネディと、宗教のちがいをのりこえて結婚したのですが、結婚間もなく、戦死してしまうのです。
デボラの夫、次男のアンドリューは生還し、公爵家を継ぎます。
したがってデボラは、デボンシャー公爵夫人となったわけなのですが、大戦後の高額な相続税で、公爵家は窮地に追いやられます。
手放した屋敷もありましたが、最大のチャッツワース・ハウスだけは、デボラが主になって守り抜き、英国のカントリー・ハウスの中でも最大の集客力を誇る観光地に育て上げました。デボラが考えた土産物からブランド商品が育ち、カフェやレストラン、ケータリングなどの事業も成功をおさめているそうです。
Chatsworth-チャツワース
チャツワースは、さすが英国の公爵邸、大きさをいうならベルサイユ宮殿より大きいのだそうです。部屋数は300を超えると書いてあるものと、100以上というのもあるんですが、数え方でしょうか。階段は17カ所です。ちなみに、バーティのバッツフォード邸は、階段が5カ所でした。それでも十分、巨大ですけれどねえ。
ジェーン・オースティンが、「高慢と偏見」で登場させたベンバリー邸のモデルが、チャツワースだったといわれ、映画「プライドと偏見」は、実際にチャツワースでロケをしています。
と……、どうやら、キーラ・ナイトレイが新作で、チャツワースを舞台に、18世紀のデボンシャー公爵夫人ジョージアナ・スペンサー(1757-1806)、あー、スペンサー伯爵家が実家ですから、ダイアナ妃の実家の祖先でもある公爵夫人を、演じているみたいですね。
だいぶん話がそれましたが、バーティの母、アッシュバーナム伯爵令嬢レイディ・ジョージアナは、キーラ・ナイトレイ演じる公爵夫人が死ぬ前年、ナポレオン戦争の最中に、生まれていることになります。
で、血筋、ですよね。じゃあ、vol1出会いで書きました、バーティがスウィンバーンと従兄弟って話はどうなるの? ってことなんですが、これはまちがいなく従兄弟です。
バーティがレディ・ジョージアナの息子であることは確かですし、唯美派詩人スウィンバーンの母は、ジョージアナの4つちがいの妹、レディ・ジェイン・ヘンリエッタだったんです。
姉妹の実家アッシュバーナム家は、中世からサセックス(Wiki)にあった古い家系で、17世紀の清教徒革命の時には王党派として戦い、チャールズ1世が処刑されたときに着ていた血まみれのシャツを、家宝として伝えていたそうです。
そのお屋敷も、東サセックスで一番美しいカントリー・ハウスといわれていたそうなのですが、第二次大戦で被害を受けた上に巨額の税金で、補修ができないまま手放され、現在、ずいぶん規模が小さくなり、かつての面影はないそうです。
Ashburnham-past
また、絵画コレクションで有名で、わけても姉妹の父のアッシュバーナム伯爵(3rd)は、ルネッサンス以前のイタリア絵画を中心に集めていたそうなのですが、散逸してしまいました。
こういった豪奢なカントリー・ハウスでくりひろげられた、ヴィクトリア朝貴族の世界で、当然のことながら、血筋はとてつもなく重要なのでしょうけれども、それが夫人の行動いかんで?????になるというのは、なんとも皮肉ですね。
というわけで、次回へ続きます。
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このシリーズの最初にちょこっと書いたのですが、いま英文で、バーティ・ミットフォードの伝記を読んでいます。
伝記といいましても、ミットフォード家全体について書いてあるもので、そのうちバーティの伝記は100ページほどです。
著者はバーティの曾孫のモイン男爵ジョナサン・ギネスと、その娘のキャサリン・ギネスです。
The House Of MitfordOrionこのアイテムの詳細を見る |
前回の記事のコメント、のり坊さまとのやりとりで、ちょっと出てきたのですが、バーティの孫の美人6姉妹は、とてつもないお騒がせ姉妹でした。
といっても全員ではなく、話題になったのは主に、ダブル不倫の末英国ファシスト党党首夫人となった3女ダイアナ、ヒットラーに恋して自殺未遂事件を起こした4女ユニティ、共産主義に走って又従弟とかけおちした5女ジェシカ、の3人なのですが、第2次大戦直前の不穏な国際情勢の中で、国境を越えて仰天スキャンダルをまきおこしたものですから、欧米では、祖父バーティより、はるかに有名なのです。
姉妹については、メアリー・S. ラベル著 粟野 真紀子 ・大城 光子訳 「ミットフォード家の娘たち―英国貴族美しき六姉妹の物語」という翻訳本が出ていまして、以下、この本を主に参考にして、書かせてもらいます。
ジョナサン・ギネスは、ダイアナの最初の結婚で生まれた長男です。
ギネスって、あのギネス・ブックと関係ありか、といえば、名前の上ではあるんでしょう、一応のところ。ギネス・ブックを発行しているギネス・ワールド・レコード社は、アイルランドのビール会社・ギネス社 の関連会社だそうですから。
リーズデイル男爵令嬢ダイアナ・ミットフォードは、1910年の生まれです。幼児期には祖父バーティがまだ生きてましたから、バッツフォードのおじいさまが、うっすら、記憶にあったんじゃないでしょうか。
美人姉妹の中でももっとも美しいといわれたそうですが、ギリシャ彫刻のような典雅な美貌で、第一次大戦後の直線的なアールデコ・ファッション(アールデコのファッションブック参照)が、実によく似合う感じです。
1928年の春、ダイアナは国王、王妃の御前で紹介を受け、ロンドン社交界デビューを果たすと、まもなく、ブライアン・ギネスからプロポーズを受けます。ブライアンは、ギネスビールのギネス社創業の一族で、「イギリスでももっとも裕福な家柄」であるモイン男爵の跡取り息子でした。しかも、容姿もなかなかに端麗で、教養があって、おだやかな性格で、22歳の若さです。
ダイアナは2年後にブライアンと、だれもがうらやむような幸せな結婚をし、ジョナサン、デズモンドと二人の男の子にも恵まれるのですが、やがて、傲岸な魅力をもったオズワルド・モーズリー卿と激しい恋におちます。オズワルドにも妻がありましたし、通常、こういった上流階級の恋は、結婚生活はそのままに不倫を続けることが多いのですが、ダイアナは決然と離婚にふみきり、世間を騒がせることになったのです。
その後、オズワルドがファシスト党党首となったことなどから、ダイアナは第2次大戦では苦難を経験しますが、生涯添い遂げます。一途な恋だった、のではないでしょうか。
しかし一途と言えば、ヒットラーに恋をした4女ユニティなんですが、彼女の場合は、「男は容姿」をモットーとする私の理解を超えます。
いえね、ヒットラーの容姿も容姿なんですが………、なにしろユニティ・ミットフォードは、有力政治家ウィンストン・チャーチルの親戚の男爵令嬢で、姉が英国ファシスト党党首夫人です。ヒットラーも好意はよせたようなのですが、どこまで個人的なつきあいがあったかは、???なんです。少なくとも肉体関係はなかったとみられ、にもかかわらずユニティは、英国とドイツの開戦に絶望し、ドイツでピストル自殺を決行します。ヒットラーの手厚い配慮で、命は助かり、英国の両親のもとに帰りますが、以降は廃人同然だったとか。
ユニティが生まれたのは、1914年、第1次大戦開戦の年です。祖父のバーティが、セカンド・ネームは時勢にあったものにと、バルキュリー(ワルキューレ)と名付けたといいます。バーティったら………。
それはともかく、です。ダイアナの息子、モイン男爵ジョナサン・ギネスの手になるバーティの伝記です。
周に一回一時間半、英語の個人教授を受けつつ購読しているのですが、これがなかなか、先へ進みません。
まずは、ミットフォード家の祖先の話から、でして、先日、ようやく、バーティのお母さん、アッシュバーナム伯爵令嬢、レイディ・ジョージアナ・ジェミマ(1805-82)が登場したんですが、もう仰天!でした。
なぜ仰天したかといいますと………、です。
なにしろ、この本のバーティの伝記部分の冒頭は、オックスフォードを出て外務省に勤めていた若き日のバーティが、ベルギーの保養地でサー・バーナード・バークに会い、「もしもあなたが、エクスベリーのミットフォード氏とレディ・ジョージアナ・アッシュバーナムの息子なのなら、あなたはおそらく、イギリスでもっとも古い2つのサクソン人の家系の子孫だ」と言われたことにはじまり、延々とミットフォード家の祖先の話がはじまったんです。
にもかかわらず、です。
先日購読した部分の最後は、突然、20世紀の話になるんですが、実はバーティは、ミットフォードの血筋となんの関係もなかったかもしれない、という話になってしまったんです。
バーティの孫の美人6姉妹の末娘、デボラ・ミットフォードは、第2次大戦中に、デボンシャー公爵の次男、アンドリュー・キャベンディッシュ卿と結婚します。このときデボンシャー公爵は、クラブで友人に「息子がリーズデイル男爵の娘と結婚するのでね、バーク貴族名鑑で調べたよ」と、言ったのだそうです。すると友人は、こう答えたのだとか。
いまのリーズデイル男爵が、ほんとうに何者か知りたいなら、ミットフォード家で見てもわからないよ。セフトン伯爵モリノー家で見るべきだね。
あー、つまり、です。デボラの祖父のバーティは、ミットフォードを名乗っていても、その血筋は実はミットフォード家のものではなく、モリノー家のものだ、というのですね。
原因は………、バーティの母親、レディ・ジョージアナにありました。
その話に入る前に、ちょっと余談を。
デボンシャー公爵家に嫁行った末娘のデボラ・ミットフォードは、1920年、祖父バーティの死後に生まれています。
六姉妹のうちで、彼女一人はまだ、元気でおられるはずです。
公爵家の長男は、やはり第二次大戦中に、ジョン・F・ケネディ(後のアメリカ大統領)の妹、キック(キャサリン)・ケネディと、宗教のちがいをのりこえて結婚したのですが、結婚間もなく、戦死してしまうのです。
デボラの夫、次男のアンドリューは生還し、公爵家を継ぎます。
したがってデボラは、デボンシャー公爵夫人となったわけなのですが、大戦後の高額な相続税で、公爵家は窮地に追いやられます。
手放した屋敷もありましたが、最大のチャッツワース・ハウスだけは、デボラが主になって守り抜き、英国のカントリー・ハウスの中でも最大の集客力を誇る観光地に育て上げました。デボラが考えた土産物からブランド商品が育ち、カフェやレストラン、ケータリングなどの事業も成功をおさめているそうです。
Chatsworth-チャツワース
チャツワースは、さすが英国の公爵邸、大きさをいうならベルサイユ宮殿より大きいのだそうです。部屋数は300を超えると書いてあるものと、100以上というのもあるんですが、数え方でしょうか。階段は17カ所です。ちなみに、バーティのバッツフォード邸は、階段が5カ所でした。それでも十分、巨大ですけれどねえ。
ジェーン・オースティンが、「高慢と偏見」で登場させたベンバリー邸のモデルが、チャツワースだったといわれ、映画「プライドと偏見」は、実際にチャツワースでロケをしています。
と……、どうやら、キーラ・ナイトレイが新作で、チャツワースを舞台に、18世紀のデボンシャー公爵夫人ジョージアナ・スペンサー(1757-1806)、あー、スペンサー伯爵家が実家ですから、ダイアナ妃の実家の祖先でもある公爵夫人を、演じているみたいですね。
だいぶん話がそれましたが、バーティの母、アッシュバーナム伯爵令嬢レイディ・ジョージアナは、キーラ・ナイトレイ演じる公爵夫人が死ぬ前年、ナポレオン戦争の最中に、生まれていることになります。
で、血筋、ですよね。じゃあ、vol1出会いで書きました、バーティがスウィンバーンと従兄弟って話はどうなるの? ってことなんですが、これはまちがいなく従兄弟です。
バーティがレディ・ジョージアナの息子であることは確かですし、唯美派詩人スウィンバーンの母は、ジョージアナの4つちがいの妹、レディ・ジェイン・ヘンリエッタだったんです。
姉妹の実家アッシュバーナム家は、中世からサセックス(Wiki)にあった古い家系で、17世紀の清教徒革命の時には王党派として戦い、チャールズ1世が処刑されたときに着ていた血まみれのシャツを、家宝として伝えていたそうです。
そのお屋敷も、東サセックスで一番美しいカントリー・ハウスといわれていたそうなのですが、第二次大戦で被害を受けた上に巨額の税金で、補修ができないまま手放され、現在、ずいぶん規模が小さくなり、かつての面影はないそうです。
Ashburnham-past
また、絵画コレクションで有名で、わけても姉妹の父のアッシュバーナム伯爵(3rd)は、ルネッサンス以前のイタリア絵画を中心に集めていたそうなのですが、散逸してしまいました。
こういった豪奢なカントリー・ハウスでくりひろげられた、ヴィクトリア朝貴族の世界で、当然のことながら、血筋はとてつもなく重要なのでしょうけれども、それが夫人の行動いかんで?????になるというのは、なんとも皮肉ですね。
というわけで、次回へ続きます。
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あれまあ、なんとも、たいへんホンポーなお孫さんがたですね。
お騒がせさんたちもこれはこれで、現代史のまっただなかで、たいへんなものです。
でも、なんでよりによってファシスト党やら、ヒトラーなどと直な関係になっちゃうのかなあ...
これからすれば、レディ・ダイアナなんておとなしいごく並みのホンポーさだったかな?
ミットフォードおじいさまは、温厚な紳士だったように思うのだけど...
徳川慶喜さんと会ったときのことメモッたことあってトラバさせてね。
それにしても貴族の館と領地、想像もつきませぬが、いいものですなあ。
ちょっと遠出しての小川でマス釣りだって、そこも自分の庭だったりしてねえ...
キングズ英語は疲れますねえ、がんばってくださいませ。
珊瑚海海戦を英文でコピッてみたら、眼がショボショボ...あっ、そうそう、遅ればせながら、ヴィクトリア女王の本を眺め始めて、うら若き乙女いま戴冠したとこ。
回想録にも肝心のことはなにも書いていないので、「有名人に会った会った回想録」みたいな言い方をされているみたいです。
だいたい、外務省でも出世コースの駐在ロシア外交官になりながら、命の保障もない極東を志すなんて、それだけでけっこうな熱血漢、変わり者です。当時は金がなかった、のもあるでしょうけど。
ただ、家族については、自分が母に捨てられて寂しかったのか、非常に大切にした感じですよね。浮気はしても妻も大切に、っていうんでしょうか。載せておられる日露戦争後の日本訪問記は、妻への手紙をもとに書いたそうですし。
大戦前の英国のファシスト党については、オズワルド・モーズリー卿は、労働党にいて、政策があきたらず結成したそうで、国家社会主義が世界を救ってくれそうにも見える時代だったんじゃないか、としか。
あと、英国の上流階級には、ドイツと戦争をして欧州をめちゃくちゃにしてしまった反省、があったんでしょう。それで庶民の暮らしがよくなったかといえば、そうでもなく。
モーズリー卿は晩年のインタビューで、「自分もウィンザー公も第1次大戦で塹壕の恐怖を体験し、戦争を憎んでいた。なんとしても戦争を避けたかった」と言っているそうです。
ウィンザー公はシンプソン夫人との結婚で王位を退いた方ですが、ヒットラーと親交があり、大戦中に公がヒトラーにあてた手紙をとりかえすため、英国王室は結果的にソ連のスパイを容認した、みたいな話もあります。
ダイアナ・ミットフォードは、シンプソン夫人と仲が良く、伝記を書いているそうなんです。
ヴィクトリア女王の伝記は、上巻を読んで、下巻をまだ半分くらいしか読まないうちに、下巻が消え失せたんですの。
そして、あー、うー、珊瑚海海戦の英文って……
お願いですから、訳してくださいませ(笑)