リーズデイル卿とジャパニズム vol2の続きです。
えーと、19世紀前半、パブリック・スクール改革のお話でした。
野蛮な上流紳士ではなく、クリスチャン・ジェントルマンたらしめる人格教育が、どういった改革で生まれたのか。
それは、生徒の自治制度を活用したことと、全寮制を活用した生活指導、しつけの徹底でした。
最上級生から選ばれた生徒たちが、校内自治の中心となる制度は、それ以前からあったのですが、改革では、この上級生たちに自覚を持たせるため、少人数で直接校長と対話する時間をとり、同時に、鞭打ちの権利もあたえて、権威をもたせるようにしたのです。
そうです。別に、鞭打ちがなくなったわけではありません。
子供はものを知らず、ものを知らないということは動物といっしょなので、悪いことをすれば痛い目にあう、ということを体で覚えさせなければならない、というのは、当時の欧米の一般的な考え方です。
極東では、こういった子供に関する考え方はありませんでしたので、幕末に日本を訪れた欧米人は、子供が甘やかされることに驚いています。
鞭は別にして、日本でこのイギリスのパブリック・スクールの自治制度にもっとも近かったのは、あるいは、イギリス式を全面的に受け入れた海軍兵学校のそれ、ではなかったでしょうか。日本人にとっての鞭打ちは、こう、囚人に対するような感じで、いいイメージがなかったためか、上級生が下級生を拳固で殴る制裁に、変わってはいるのですが。
全寮制度については、それまでのパブリック・スクール、わけてもイートンのようなお坊ちゃま校では、寮は給費性、つまり基本的にあまり家庭が豊かではない生徒が入るもので、大部屋に数十名という多人数が押し込められ、教師は学外に家をかまえていて目が届かず、規律もなにもない状態でした。
一方、金のある生徒は、寮に入らないで、校外にある教師の家などに下宿し、家庭的で食事もよかったわけです。
そこで、全寮制にするかわりに、寮を教師が開く下宿の雰囲気に近づけることで、格差をなくしました。つまり一つの寮の人数を減らし、寮監督教師が家族と共にそばに住み、日々の生活が教育の一環となるよう配慮したわけです。
また、直接トーマス・アーノルドの改革というわけではないのですが、改革の当初には、狩猟好きで体力があまった上流階級の生徒の息抜きでしかなかった集団スポーツが、………フットボールとかクリケットとかボートとか、ですが………、やがて、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という精神のもと、次第に、チームワークを養うなど、人格形成の手段、教育の一環、となっていきました。
井村元道氏は、「英国パブリック・スクール物語」の中で、このパブリック・スクールの改革により、「野蛮」な上流階級と、上層中産階級(アッパー・ミドル)の子弟が入り交じり、「同じ釜の飯を食う」ことによって一体化し、「ジェントルマン」という名の新エリートが作り出されたのだと解説し、英国の社会史家、A・ブリッグズの以下の文章をひいています。
諸階級を融合させる上で、パブリック・スクールは、貴族と中流階級の子弟に対し、彼らの華美や安楽とは相反する「質素な生活を分かちあうことの訓練」を課し、その実をあげた。(中略)古くからのパブリック・スクールも新設のそれも、生まれと富で甘やかすことは決してなかった。これらの学校がなした最善のことといえば、それは、公務における責任の理念を生徒たちに教えたことであった。この理念は、技術の陶冶と思想の独創性の涵養とはほとんど無縁のもので、プロフェッションと官公吏の権威を高めるようには働いたが、実業の世界に活力を与えたり、学術の世界を啓発したりすることはできなかった。そしてそれはやがて、イギリス帝国と結びつき、その新しい理念に特徴的な色彩を付与することになったのである。
この種の理念の明白な限界は、上流階級と中流階級が労働勢力に対抗して融合し、新しい保守主義の同盟を結成しはじめた世紀末までには、誰の目にも明らかなものとなった。だが、世紀の中葉においては、この理念の直接的な効用こそが問題であり、その限界はほとんど問題にもされなかった。
前々回に書きましたが、バーティ・ミットフォードと、同い年のスウィンバーンがイートンにいたのは、以下の年代です。
1846年イートンに入学し、54年まで在学した。三級下のクラスに従兄弟に当るスウィンバーン(詩人・評論家。1837~1909)がいて、彼らは親友になった。
バーティは9歳から17歳までイートンにいたわけですが、入学年にはばがありますから、年が同じでも学年がちがうというのは、よくあることでした。
で、この当時のイートンは、おそらく改革にとりかかったばかりで、どこまで、アナザー・カントリーに描かれたようであったかは、わかりません。
この直前、1832~41年のイートン在学者の思い出話では、まだ全寮制ではなく、給費生のみが大部屋に押し込められていて、監督もなく、「野蛮で、粗野で悪ふざけが盛んな自由の国、ある時は陽気で馬鹿さわぎする無法者の国となりかねない寮生活であった」のだそうです。
元気な盛りの男の子たちが、女っ気なしで長年集団生活をしていれば、同性愛がまるでない、という方が不思議です。
「野蛮」な上流子弟たちは、ちょこっと同性愛で精力発散をしてみたところで、先生にばれなければいいのであって、気にもとめていなかったのではないか、と思うのです。
しかし、改革後のクリスチャン・ジェントルマン教育は、同性愛への罪悪感を強め、そして世紀末には、逆説的なのですが、アナザー・カントリーのガイがそうであったように、同性愛を社会への反逆行為として意識するような、そんな風潮が芽生えたのではないか、と思うのです。
そのはしりがスウィンバーン、だったのではないでしょうか。
スウィンバーンは、サド侯爵の著作を愛読し、当時の子供のしつけにおいてはごく普通のことであった鞭打ちに、性的な意味を見出します。
私、高校生のころに、澁澤龍彦氏の訳で、サド侯爵は読みましたが………、いえ、あまりに昔のことで、よくは覚えてないのですが、ともかく登場人物が、いつも延々と演説をぶつ感じで、「いくらサディズムが趣味の人でも、これでは劣情を催したりできないだろう」と、思ったものです。
えーと、そしてスウィンバーンは、SM趣味とともに同性愛をも誇示したようなのですが、双方を「イートンで覚えた」と公言していたのは、事実ではあったのでしょうけれども、改革されて、確立しようとしていたパブリック・スクールの、中産階級的な倫理意識を取り込んだ、クリスチャン・ジェントルマン教育に対する皮肉でもあったのではないか、と感じるのです。
ちなみに、アナザー・カントリーで描かれているように、イートンで軍事教練が行われるような状態は、20世紀になってからのもので、それも、本格的には第1次世界大戦中から、ですから、バーティやスウィンバーンは無縁でした。
だいたい、イギリス陸軍の軍服が、あのどんよりとしたカーキー色になったのは、1899年の暮れにはじまった第2次ボーア戦争の最中です。それまでは、華やかな真っ赤が主体、でした。
第1次世界大戦は、イギリス社会を根底からくつがえしました。
かろうじて、勝ちはしましたが、それはアメリカの参戦によるものであり、厖大な戦死者(第2次大戦よりはるかに多いものでした)を出し、深い傷を負ったのです。
「アナザー・カントリー」という題名は、第一次世界大戦中に作られた国教会の聖歌であり、イギリスの第二の国歌ともいわれる、I Vow to Thee, My Country(祖国よ、我は汝に誓う)の二番の歌詞から、とられました。
一番の歌詞で祖国への愛を歌い、二番の歌詞で、「軍隊もなければ王もいない」アナザー・カントリーを歌うのですが、「古くから聞き覚えた」アナザー・カントリー、もう一つの国とは、神の国であり、これは、大戦で祖国のために戦死し、いまは神のもとにいる人々への鎮魂歌なのです。
皮肉にも、イートンの先輩たちが率先して守ろうとした祖国の社会は、大戦で一変し、エリートの価値観も崩壊して、神の教えではなく、共産主義にアナザー・カントリーを見るエリートの卵が現れた、というわけです。
I Vow To Thee,My Country(祖国よ、我は汝に誓う) -You Tube
英国の第二の国歌といわれる歌は他にもあるのですが、18世紀に生まれたRule, Britannia(統べよ、ブリタニア)がもっとも有名でしょう。
Rule Britannia(統べよ、ブリタニア)ーYouTube
「支配せよ、ブリタニア! 大海原を治めよ!」と繰り返す、勇壮な曲です。
「Rule, Britannia」が「軍艦マーチ」なら、「I Vow To Thee,My Country」は「海ゆかば」であるようです。
狐狩りの話で、前回も触れましたが、K.M.ペイトンの「フランバーズ屋敷の人びと 」 、シリーズ第1巻の「愛の旅立ち」(岩波少年文庫 (3116))では、20世紀初頭、昔ながらの生活に固執して、落魄れかけた小ジェントリーの暮らしが描かれます。
フランバーズ屋敷の主人ラッセルは、マークとウィルという息子二人を残して妻に死なれ、落馬で半身不随になりながら、狐狩りにしか興味を示しません。おそらく農業不況で、なのでしょうけれど、借金にまみれて屋敷もぼろぼろでありながら、馬屋だけはぴかぴかで、息子たちにも、そういう狐狩りで世界がまわっているような暮らしを強いるのです。
主人公のクリスチナは、幼くして父母を亡くし、親戚をたらいまわしにされますが、21歳になれば父親の莫大な遺産を相続することになっていたため、伯父のラッセルによって、母親の実家のフランバーズ屋敷に引き取られるのです。
ラッセルは、自分によく似て、傲慢で、思い切りがよく、他人の感情を無視する無神経な………、それこそ、前世紀の上流野蛮人の典型のような、長男のマークが、将来従妹のクリスチナと結婚すれば、フランバーズ屋敷を建て直すことができる、と見込んだわけでした。
クリスチナは、乗馬と狐狩りには魅力を感じながら、ラッセルとマーク親子の、あまりにも旧式の傲慢さや無神経に、やりきれなくなり、次第に、知的で、進歩的な考えを持った次男のウィリアムに惹かれていきます。
一巻の最後で、17歳になったクリスチナは、狩猟舞踏会で、マークから結婚の申し込みを受けるのですが、そのとき、楽団が演奏するエルガーの間奏曲(威風堂々の第一番中間部で、エドワード7世の戴冠式威頌歌 Land of hope & gloryだろうと思えます)を聴きながら、マークがいうのです。エルガー指揮Land of hope & glory(希望と栄光の国)を聞きながら、お読みください。
「こんないいことがいつまでもつづくはずがない。じきに戦争がおこるだろう。でも、たとえ戦争になっても、ちっともかまわない。なんのために戦っているかがわかってさえいれば、いっちょうやりにいくさ……楽しむことだってできるかもしれない。ぼくはここにあるすべてのもののために戦うぞ。ぼくはばかなことをしているが、それでも感情はある、クリスチナ。ここにあるすべてのものが、けっして変わることがないとわかったら、ぼくはころされにいくよ、よろこんでね。古くからの場所、ここやフランバーズ屋敷のような。それと昔ながらの生活。この田園地帯……世界じゅう探したって、イギリスのようなところはないさ」
そしてマークは、ほんとうに喜んで、愛馬とともに第1次大戦の悲惨な戦場に出かけていくのです。
バーティが愛し、期待をかけた長男もまた、妻と二人の娘を残して戦場へ行き、二度と帰りませんでした。
バーティにバッツフォードを残してくれたリーズデイル伯爵(バーティの祖父の従弟)は、ラッセルより上流で、地方行政にも貴族院での活動にも熱心でしたが、やはり狩猟好きで、「専制君主」というあだ名を持ち、上流野蛮紳士の典型のような人物であったそうで、バッツフォードには大厩舎があり、多くのサラブレッドが飼われていました。
どうやらバーティも、その楽しみを受け継いだようです。バーティの生前には、大厩舎があったそうですし、親友のエドワード7世も、そういう趣味の方でしたし。
長男の後を追うようにバーティも生涯を閉じ、そして大戦後、壮麗なバッツフォードは、ミットフォード家の手を離れました。
話がそれましたが、次回、いよいよ、ともにイートンで青春の日々をすごしたバーティとスウィンバーンと、世紀末の唯美主義、そしてジャパニズムの関係にせまりたいと思います。
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えーと、19世紀前半、パブリック・スクール改革のお話でした。
野蛮な上流紳士ではなく、クリスチャン・ジェントルマンたらしめる人格教育が、どういった改革で生まれたのか。
それは、生徒の自治制度を活用したことと、全寮制を活用した生活指導、しつけの徹底でした。
最上級生から選ばれた生徒たちが、校内自治の中心となる制度は、それ以前からあったのですが、改革では、この上級生たちに自覚を持たせるため、少人数で直接校長と対話する時間をとり、同時に、鞭打ちの権利もあたえて、権威をもたせるようにしたのです。
そうです。別に、鞭打ちがなくなったわけではありません。
子供はものを知らず、ものを知らないということは動物といっしょなので、悪いことをすれば痛い目にあう、ということを体で覚えさせなければならない、というのは、当時の欧米の一般的な考え方です。
極東では、こういった子供に関する考え方はありませんでしたので、幕末に日本を訪れた欧米人は、子供が甘やかされることに驚いています。
鞭は別にして、日本でこのイギリスのパブリック・スクールの自治制度にもっとも近かったのは、あるいは、イギリス式を全面的に受け入れた海軍兵学校のそれ、ではなかったでしょうか。日本人にとっての鞭打ちは、こう、囚人に対するような感じで、いいイメージがなかったためか、上級生が下級生を拳固で殴る制裁に、変わってはいるのですが。
全寮制度については、それまでのパブリック・スクール、わけてもイートンのようなお坊ちゃま校では、寮は給費性、つまり基本的にあまり家庭が豊かではない生徒が入るもので、大部屋に数十名という多人数が押し込められ、教師は学外に家をかまえていて目が届かず、規律もなにもない状態でした。
一方、金のある生徒は、寮に入らないで、校外にある教師の家などに下宿し、家庭的で食事もよかったわけです。
そこで、全寮制にするかわりに、寮を教師が開く下宿の雰囲気に近づけることで、格差をなくしました。つまり一つの寮の人数を減らし、寮監督教師が家族と共にそばに住み、日々の生活が教育の一環となるよう配慮したわけです。
また、直接トーマス・アーノルドの改革というわけではないのですが、改革の当初には、狩猟好きで体力があまった上流階級の生徒の息抜きでしかなかった集団スポーツが、………フットボールとかクリケットとかボートとか、ですが………、やがて、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という精神のもと、次第に、チームワークを養うなど、人格形成の手段、教育の一環、となっていきました。
井村元道氏は、「英国パブリック・スクール物語」の中で、このパブリック・スクールの改革により、「野蛮」な上流階級と、上層中産階級(アッパー・ミドル)の子弟が入り交じり、「同じ釜の飯を食う」ことによって一体化し、「ジェントルマン」という名の新エリートが作り出されたのだと解説し、英国の社会史家、A・ブリッグズの以下の文章をひいています。
諸階級を融合させる上で、パブリック・スクールは、貴族と中流階級の子弟に対し、彼らの華美や安楽とは相反する「質素な生活を分かちあうことの訓練」を課し、その実をあげた。(中略)古くからのパブリック・スクールも新設のそれも、生まれと富で甘やかすことは決してなかった。これらの学校がなした最善のことといえば、それは、公務における責任の理念を生徒たちに教えたことであった。この理念は、技術の陶冶と思想の独創性の涵養とはほとんど無縁のもので、プロフェッションと官公吏の権威を高めるようには働いたが、実業の世界に活力を与えたり、学術の世界を啓発したりすることはできなかった。そしてそれはやがて、イギリス帝国と結びつき、その新しい理念に特徴的な色彩を付与することになったのである。
この種の理念の明白な限界は、上流階級と中流階級が労働勢力に対抗して融合し、新しい保守主義の同盟を結成しはじめた世紀末までには、誰の目にも明らかなものとなった。だが、世紀の中葉においては、この理念の直接的な効用こそが問題であり、その限界はほとんど問題にもされなかった。
前々回に書きましたが、バーティ・ミットフォードと、同い年のスウィンバーンがイートンにいたのは、以下の年代です。
1846年イートンに入学し、54年まで在学した。三級下のクラスに従兄弟に当るスウィンバーン(詩人・評論家。1837~1909)がいて、彼らは親友になった。
バーティは9歳から17歳までイートンにいたわけですが、入学年にはばがありますから、年が同じでも学年がちがうというのは、よくあることでした。
で、この当時のイートンは、おそらく改革にとりかかったばかりで、どこまで、アナザー・カントリーに描かれたようであったかは、わかりません。
この直前、1832~41年のイートン在学者の思い出話では、まだ全寮制ではなく、給費生のみが大部屋に押し込められていて、監督もなく、「野蛮で、粗野で悪ふざけが盛んな自由の国、ある時は陽気で馬鹿さわぎする無法者の国となりかねない寮生活であった」のだそうです。
元気な盛りの男の子たちが、女っ気なしで長年集団生活をしていれば、同性愛がまるでない、という方が不思議です。
「野蛮」な上流子弟たちは、ちょこっと同性愛で精力発散をしてみたところで、先生にばれなければいいのであって、気にもとめていなかったのではないか、と思うのです。
しかし、改革後のクリスチャン・ジェントルマン教育は、同性愛への罪悪感を強め、そして世紀末には、逆説的なのですが、アナザー・カントリーのガイがそうであったように、同性愛を社会への反逆行為として意識するような、そんな風潮が芽生えたのではないか、と思うのです。
そのはしりがスウィンバーン、だったのではないでしょうか。
スウィンバーンは、サド侯爵の著作を愛読し、当時の子供のしつけにおいてはごく普通のことであった鞭打ちに、性的な意味を見出します。
私、高校生のころに、澁澤龍彦氏の訳で、サド侯爵は読みましたが………、いえ、あまりに昔のことで、よくは覚えてないのですが、ともかく登場人物が、いつも延々と演説をぶつ感じで、「いくらサディズムが趣味の人でも、これでは劣情を催したりできないだろう」と、思ったものです。
えーと、そしてスウィンバーンは、SM趣味とともに同性愛をも誇示したようなのですが、双方を「イートンで覚えた」と公言していたのは、事実ではあったのでしょうけれども、改革されて、確立しようとしていたパブリック・スクールの、中産階級的な倫理意識を取り込んだ、クリスチャン・ジェントルマン教育に対する皮肉でもあったのではないか、と感じるのです。
ちなみに、アナザー・カントリーで描かれているように、イートンで軍事教練が行われるような状態は、20世紀になってからのもので、それも、本格的には第1次世界大戦中から、ですから、バーティやスウィンバーンは無縁でした。
だいたい、イギリス陸軍の軍服が、あのどんよりとしたカーキー色になったのは、1899年の暮れにはじまった第2次ボーア戦争の最中です。それまでは、華やかな真っ赤が主体、でした。
第1次世界大戦は、イギリス社会を根底からくつがえしました。
かろうじて、勝ちはしましたが、それはアメリカの参戦によるものであり、厖大な戦死者(第2次大戦よりはるかに多いものでした)を出し、深い傷を負ったのです。
「アナザー・カントリー」という題名は、第一次世界大戦中に作られた国教会の聖歌であり、イギリスの第二の国歌ともいわれる、I Vow to Thee, My Country(祖国よ、我は汝に誓う)の二番の歌詞から、とられました。
一番の歌詞で祖国への愛を歌い、二番の歌詞で、「軍隊もなければ王もいない」アナザー・カントリーを歌うのですが、「古くから聞き覚えた」アナザー・カントリー、もう一つの国とは、神の国であり、これは、大戦で祖国のために戦死し、いまは神のもとにいる人々への鎮魂歌なのです。
皮肉にも、イートンの先輩たちが率先して守ろうとした祖国の社会は、大戦で一変し、エリートの価値観も崩壊して、神の教えではなく、共産主義にアナザー・カントリーを見るエリートの卵が現れた、というわけです。
I Vow To Thee,My Country(祖国よ、我は汝に誓う) -You Tube
英国の第二の国歌といわれる歌は他にもあるのですが、18世紀に生まれたRule, Britannia(統べよ、ブリタニア)がもっとも有名でしょう。
Rule Britannia(統べよ、ブリタニア)ーYouTube
「支配せよ、ブリタニア! 大海原を治めよ!」と繰り返す、勇壮な曲です。
「Rule, Britannia」が「軍艦マーチ」なら、「I Vow To Thee,My Country」は「海ゆかば」であるようです。
狐狩りの話で、前回も触れましたが、K.M.ペイトンの「フランバーズ屋敷の人びと 」 、シリーズ第1巻の「愛の旅立ち」(岩波少年文庫 (3116))では、20世紀初頭、昔ながらの生活に固執して、落魄れかけた小ジェントリーの暮らしが描かれます。
フランバーズ屋敷の主人ラッセルは、マークとウィルという息子二人を残して妻に死なれ、落馬で半身不随になりながら、狐狩りにしか興味を示しません。おそらく農業不況で、なのでしょうけれど、借金にまみれて屋敷もぼろぼろでありながら、馬屋だけはぴかぴかで、息子たちにも、そういう狐狩りで世界がまわっているような暮らしを強いるのです。
主人公のクリスチナは、幼くして父母を亡くし、親戚をたらいまわしにされますが、21歳になれば父親の莫大な遺産を相続することになっていたため、伯父のラッセルによって、母親の実家のフランバーズ屋敷に引き取られるのです。
ラッセルは、自分によく似て、傲慢で、思い切りがよく、他人の感情を無視する無神経な………、それこそ、前世紀の上流野蛮人の典型のような、長男のマークが、将来従妹のクリスチナと結婚すれば、フランバーズ屋敷を建て直すことができる、と見込んだわけでした。
クリスチナは、乗馬と狐狩りには魅力を感じながら、ラッセルとマーク親子の、あまりにも旧式の傲慢さや無神経に、やりきれなくなり、次第に、知的で、進歩的な考えを持った次男のウィリアムに惹かれていきます。
一巻の最後で、17歳になったクリスチナは、狩猟舞踏会で、マークから結婚の申し込みを受けるのですが、そのとき、楽団が演奏するエルガーの間奏曲(威風堂々の第一番中間部で、エドワード7世の戴冠式威頌歌 Land of hope & gloryだろうと思えます)を聴きながら、マークがいうのです。エルガー指揮Land of hope & glory(希望と栄光の国)を聞きながら、お読みください。
「こんないいことがいつまでもつづくはずがない。じきに戦争がおこるだろう。でも、たとえ戦争になっても、ちっともかまわない。なんのために戦っているかがわかってさえいれば、いっちょうやりにいくさ……楽しむことだってできるかもしれない。ぼくはここにあるすべてのもののために戦うぞ。ぼくはばかなことをしているが、それでも感情はある、クリスチナ。ここにあるすべてのものが、けっして変わることがないとわかったら、ぼくはころされにいくよ、よろこんでね。古くからの場所、ここやフランバーズ屋敷のような。それと昔ながらの生活。この田園地帯……世界じゅう探したって、イギリスのようなところはないさ」
そしてマークは、ほんとうに喜んで、愛馬とともに第1次大戦の悲惨な戦場に出かけていくのです。
バーティが愛し、期待をかけた長男もまた、妻と二人の娘を残して戦場へ行き、二度と帰りませんでした。
バーティにバッツフォードを残してくれたリーズデイル伯爵(バーティの祖父の従弟)は、ラッセルより上流で、地方行政にも貴族院での活動にも熱心でしたが、やはり狩猟好きで、「専制君主」というあだ名を持ち、上流野蛮紳士の典型のような人物であったそうで、バッツフォードには大厩舎があり、多くのサラブレッドが飼われていました。
どうやらバーティも、その楽しみを受け継いだようです。バーティの生前には、大厩舎があったそうですし、親友のエドワード7世も、そういう趣味の方でしたし。
長男の後を追うようにバーティも生涯を閉じ、そして大戦後、壮麗なバッツフォードは、ミットフォード家の手を離れました。
話がそれましたが、次回、いよいよ、ともにイートンで青春の日々をすごしたバーティとスウィンバーンと、世紀末の唯美主義、そしてジャパニズムの関係にせまりたいと思います。
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当方、郎女さんの「海ゆかば」見てから、まえの戦争にすっかりはまってしまい、
いまはずっと、イートン校をやっと出た!?チャーチルさんの個人教授を受けて、あの当時を追っかけておりました。
きょうはシンガポール陥落あたり、こじつけでボブディランの歌書いてましたら、
こちらには、すばらしいジュピター、これでしたかなあ...
いいお話と映像を紹介して戴きありがとうございます。
真剣さがただようあの映像は、厳粛な気持ちになりますね。
さて、ミットフォードさんのむすめさんたちも世間を賑わせてたような!?
あとでゆっくりと、その辺も教えてくださいね。
ウィンストン・チャーチルは、大英帝国の最後を看取った方、ですよね。青年期に、第2次ボーア戦争参戦記を書いて名をあげ、第1次世界大戦で致命的な失敗をし、帝国の衰退とともにありながら、毅然と守るべきものを守った……。
えー、イートンではなく、ハロー校の劣等生でした。子供の頃は体が弱く、両親が、湿地にあるイートンより高台にあるハローの方が体によかろう、と、ハローにいかせたんだそうで。
なんでこんなことを知っているかといいますと、バーティ・ミットフォードは、ウィンストン・チャーチルの父ランドルフ卿とは、友人だったんです。
おまけに、ウィンストン・チャーチルの妻、クレメンタイン・ホージアは、バーティの妻の姉にあたるブランチの娘なんですが、ミットフォード家では、バーティの種であることが公然の秘密だったそうで、ウィンストン・チャーチルの伝記も読んでみたんです。
つまり、ウィンストン・チャーチルの妻の母であるブランチは、夫婦仲が悪く、10人を超える愛人をもってまして、妹の夫であるバーティもその一人であり、実のところチャーチルの妻はバーティの娘だった、ということなんです。
で、そのチャーチルの妻の妹(ブランチの娘)のネリーが、また不幸な結婚をしまして、二人の息子を作りましたが、その一人のエズモンド・ロミリーの実の父親はチャーチルであった、という噂があるのだそうです。
このエズモンドが共産主義に走り、バーティの孫のお騒がせミットフォード美人六姉妹の一人で、やはり共産主義に走ったジェシカと駆け落ちしてスペイン内戦にかかわろうとし、チャーチルが頭を痛めることになります。
孫のお騒がせ六姉妹までは、なかなか話がいかないか、と思うのですが、バーティと同世代だったウィンストン・チャーチルの両親については、そのうちふれるつもりですので、どうぞ、またいらしてくださいませ。
どうも、ボクいいかげん、イートンもハローもラグビーもごっちゃ。お騒がせ姉妹もバーティのお孫さんだったの!?
そういえば、チャーチルの、かの有名な
Never give in,never,never,never...
ハロー校での後輩を前にしてのスピーチでしたね。
”ジュピター”はじめてちゃんと見て聴きました。
こういうすばらしい映像をご紹介くださってほんとうにありがたいことです。
あらら、チャーチルさんもミットフォードともいろいろご関係深かったのですね...
チャーチルさんのママは、これまた話題の多いとってもきれいな人だった。
それにしても、ラテン語もつまづきオクスフォードどころではなく陸士に入れられた人が
ノーベル文学賞、出来のよかった秀才たちは何をしたんでしょうね、本読んで狐狩り...!?大英帝国の黄昏は、こういう指導者層・インテリの性向のせいだと思うのですが...
チャーチルがやったのは絶体絶命になってきたなかで最前線での沙漠の狐狩り、彼がほしかったのはノーベル平和賞、歴史というのも皮肉に満ち満ちておりますなあ。
別のところで幾度か書いていますが、イギリスに徴兵制はありませんでした。海軍力に頼って、陸軍は小規模なままだったんですね。当然、専門の将校もごく少ないんです。
ところが、諸処の理由から19世紀末にはそれではすまなくなってきたんですが、国家財政上からも陸軍の増強はむつかしく、陸戦にのめりこんでしまった第2次ボーア戦争などは、志願兵の大幅増強で乗り切ってます。
このとき、バーティの息子は、長男、次男ともにはじめて陸軍に参加しているんですが、二人とも、それまで、陸戦の訓練なぞ受けていたわけではありません。若いエリートたちが即席で下級将校になるんです。
第1次大戦では、50歳以下の貴族の男子の2割までが戦死したそうです。また、オックスブリッジの学生の三人に一人が戦死。これは、第2次大戦の日本の帝大生の死亡率より、はるかに高いんだそうで。生きて帰っても、肉体にも精神にも後遺症が残ったもの多数、だそうです。
「指輪物語」の著者トールキンも出征し、本人は帰還しましたが、オックスフォードの学友を多数亡くしています。戦後、オックスフォードはゴーストタウンのようだったそうです。
愛国心に満ちた彼らは、エリートだからこそ率先して戦場を志し、ろくに訓練も受けないで下級将校となり、指揮官先頭を実戦し、無謀な作戦の犠牲になったんです。
フランバーズ屋敷の話でも、これはフィクションですが、喜んで戦場に行ったのはマークだけではありませんで、知的で進歩的な(といっても理系ですが)弟のウィルも、率先して戦場へ向かっています。
だから、よけい、I Vow To Thee,My Countryは、悲しいんです。
えーと、ここらへんの感じは、中西輝正氏の「大英帝国衰亡史」(PHP文庫)、さすがはケンブリッジで歴史学を学んだ方で、非常にわかりやすく、コンパクトにまとめてくださってます。お勧めです。
イギリスの常備軍は一万程度。
それにくらべ、ロシア150万人、ドイツ100万人以上。
アメリカは南北戦争で、北軍のみで200万人動員を可能にしていました。(以上「ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ」有斐閣発行より、です)
第2次ボーア戦争から、大英帝国は狂いだした、と思うんですけど、私はいまだに、第1次世界大戦で(イギリスが加わったから世界大戦になったんですが)、なんでイギリスは、ドイツ相手に戦争をする必要があったのか、よくわかっていません。
またまた横道にそれて、お時間取らせているようで、申し訳ないです。
イギリスの軍備というのも、外にも少し出してはいるのでしょうが、
島国で軍事大国と鼻突き合わせることもないし、貧弱だったんですね、
大国・調整役きどりだったのでしょうかねえ、第二次大戦でもチャーチルは自分が閣外にあったころの政府が「軽率にもヨーロッパ問題の核心に手を出した」と言っていますね。
そして「Never was so much owed by so many to so few 」というようなことになるんですなあ...
ローマ帝国とおんなじように「大英帝国衰亡史」?ボクのいなかの本屋にはこの本なかったので、かわりに
Katherine Jenkinsの Living a dream買って来ましたよ、これ色々入ってて、でも彼女のメークちょといただけないなあ(まあ、3年前しょうがないか)
秀才たち...これは大叔母からも聞きました。日本でも、あの戦争で「優秀な文科系の男どもはみーんな死んじゃった...残ったのが政治家なんかやってるから...」
でも、選ばれてあることの恍惚と不安...そして責任感は庶民の感覚では測れないでしょうね。
キャサリン・ジェンキンスは、私も同じアルバム、買ってます。iTunesで買ったんですけど。
うー、実は、アーネスト・サトウのvol2を書きかけて、パクス・ブリタニカにふれることになって、わからないことだらけでとどこおり、ごちゃごちゃごちゃごちゃ調べていて、ミットフォードに迷い込んだので、しゃべりたいことだらけなんです、きっと(笑)
イアン・C・ラックストン著「アーネスト・サトウの生涯 その日記と手紙より」という本には、日本公使、清国公使時代が出てきまして、日英同盟をちょっと、これまでとはちがう角度で見ることができたんです。そこまでいく過程には、ボーア戦争もからんできまして、国際情勢って……、ほんとにややっこしいですねえ。おもしろくもあるんですけど。
えー、明日、じゃない、本日は週に一度のミットフォード伝購読英語受業の比なので、なんとか寝ます。もう英語がだめで、なかなか前へむいて進みませんのです。