郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

普仏戦争と前田正名 Vol7

2012年04月06日 | 前田正名&白山伯
 普仏戦争と前田正名 Vol6の続きです。

 今回、「巴里の侍 」(ダ・ヴィンチブックス)に感謝すべきなのかも、と思いましたのは、このさい普仏戦争に関する本をもっと読んでみよう、ということで、いろいろと読み返したり、新しい本にめぐりあったりで、発見が多々あったことでした。

壊滅 (ルーゴン=マッカール叢書)
エミール ゾラ
論創社


 このゾラの「壊滅」は、戦争文学として傑出していると、私は思います。
 と、ここまで書いて間が開きすぎまして、なにが書きたかったのかも、忘れるほどなんですけれども。

 これまでに、「壊滅」の主人公で若きインテリのモーリスと、年のいった農民ジャンが、戦友としての絆を深めながら、セダン(スダン)の戦いで敗走するところまで、ご紹介したんですけれども、二人は、セダンの城壁内に逃げ込みますこの敗走の途中で、なんと、モーリスの双子の姉・アンリエットに出会います。
 
 アンリエットは、普仏戦争と前田正名 Vol5で書きましたが、セダンの織物工場の監督になっているヴァイスという好青年と、恋愛結婚をしていました。
 ヴァイスは、仕事の都合でセダンに住んでいたのですが、近郊のバゼイユに家を持っていて、プロイセン軍が迫ってくる中、様子を見に出かけていて、市街戦にまきこまれます。
 まきこまれたといいますか、敵の砲弾が、息子の病気で避難できなかった街の女性を殺し、自分の家が破壊されるのを見ましたとき、ヴァイスは思わず、死んだ味方の兵士の銃を取り、戦闘に加わらないではいられませんでした。

 バゼイユを守っていましたのは、フランスの海軍陸戦隊です。
 以前にもご紹介いたしました松井道昭氏のブログ、普仏戦争 開戦 集団的熱狂の綺想曲(2) 第2章 泥縄式編成の軍隊を読ませていただきますと、海軍は圧倒的にフランスが勝っていたことがわかります。

 しかし、大陸国家同士の場合、この時期、海軍の優劣はあまり戦争全体の勝敗に影響しなかったようなのですね。
 1864年、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)のヘルゴラント海戦では、デンマーク海軍がオーストリア・プロイセン海軍に勝ち、1866年、普墺戦争のリッサ海戦では、オーストリア海軍がプロイセンの同盟国イタリア海軍に勝ちましたけれども、いずれも、海戦では勝った側が負けています。

 普仏戦争では、制海権はフランスが握りましたまま大きな海戦はなく、そのせいなのか、あるいは陸軍の兵隊が足りなくなったあまりなのか、よくはわからないのですが、フランスはずいぶんと、海軍陸戦隊を船から降ろして、内陸戦に使ったみたいです。

 それはともかく。
 バゼイユを攻撃しましたのは、南ドイツ連邦のバイエルン王国軍です。
 私、ですね。普仏戦争におきますバイエルン王国軍が、ものすごい勇猛ぶりを見せて奮戦した、という事実を、つい最近まで、まったく存じませんでした。

 
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紀伊國屋書店


 おそらく、このルキノ・ヴィスコンティ監督の映画、「ルートヴィヒ 神々の黄昏」の影響です。
 美貌のバイエルン王、ルートヴィヒ2世につきましては、ずいぶん以前に『オペラ座の怪人』と第二帝政で書いたんですが、この若き王が、普仏戦争をあんまりありがたがっていませんでしたことは、確かに映画の描く通りにそうだったんでしょうけれども、考えてみましたら、王が嫌がったからって、国民が嫌がったとはかぎらないんですよねえ。
 それで、ルートヴィヒ2世の伝記を読み返してみました。

 
狂王ルートヴィヒ―夢の王国の黄昏 (中公文庫BIBLIO)
ジャン デ・カール
中央公論新社


 私、相当なうっかり屋です。
 といいますか、映画の印象が強すぎまして、後で読みました伝記の内容が、まったく頭に入っていなかったのでしょうか。
 ジャン デ・カール氏によりますと、美貌のルートヴィヒ2世は、かなり冷静に外交を考え、バイエルン王国のためをはかって、プロシャに味方しての参戦を承諾した、ということなんですね。
 
 説明の必要があるでしょうか。
 神聖ローマ帝国について、書いたことがあったはず、と思いましたら、ずいぶんと古い記事なんですが、アラゴルンは明治大帝か、でした。まだ、じぞうさまといっしょに、パロディ本に参加させてもらっていたころ、ですねえ。
 必要部分を、再録します。

 ところで、神聖ローマ帝国です。
日本の天皇制が西洋で理解されないのと同じくらい、日本人には理解し難いものですが、ごく簡単に言ってしまえば、「中世ドイツ王国を基礎にして10世紀から19世紀初頭までつづいた帝国。盛期にはドイツ・イタリア・ブルグントにまたがり、皇帝は中世ヨーロッパ世界における最高権威をローマ教皇とのあいだで争った」となるんでしょうか。
 帝国は大中小さまざまな諸侯国から成り立ち、わずかな数の有力諸侯が選挙権を持って、諸侯の中から皇帝を選んだわけですが、15世紀から、ほぼハプスブルグ家の世襲となり、皇帝の権威がおよぶ範囲は、ドイツ語圏に限定されましたので、「ドイツ人の神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになりました。
しかし、そうなりながら、フランス王が皇帝候補として名乗りを上げたりもしていますので、なんとも複雑です。

 近代国民国家の成立は、神聖ローマ帝国を解体する方向で進みます。
 近世、ヨーロッパの王家の中で、ハプスブルク家だけが皇帝を名乗るのですが、これは神聖ローマ皇帝であり、しかしハプスブルク家が統治する領域は、神聖ローマ帝国と重なる部分はあるにせよ、一致しないんですね。
 つまり、神聖ローマ帝国は、領域国家ではなかったんです。

 最終的に、神聖ローマ帝国を葬ったのは、ナポレオンです。
 一応貴族ではありましたが、王家の血筋とはまったく関係のないナポレオンが、実力によって、自ら皇帝を名乗ったのです。このときから、ハプスブルク家は名ばかりとなっていた神聖ローマ皇帝の名乗りを捨て、オウストリア・ハンガリー帝国という領域国家の皇帝となりました。
 ナポレオンが、神聖ローマ皇帝という古い権威を否定するために持ち出したのは、古代ローマ皇帝です。もちろん、「古代ローマ皇帝に習う」とは、実質、新秩序の立ち上げです。


 基本的には、こういうことで、まちがってはいないと思います。
 「それが幕末維新になんの関係があるの?」といわれるかもしれませんが、以前の記事にも書いております通り、私は、大ありだと思っています。

 伝説の金日成将軍と故国山川 vol1に書いておりますが、簡単に言ってしまいますと、幕末維新の日本は欧米列強に対抗するためには、彼らのルールごと、積極的に西洋近代を受け入れるしかないという結論に達したわけでして、いわば、当時の西洋のグローバルスタンダードにあわせて独立を保つべく、懸命に、無理を重ねて、変革に挑みました。

 とかく、ですね。日本史は日本史のみで見る傾向があるんですけれども、それは、ちがいます。
 日本は、世界の中にあるのですし、まして幕末維新は、ロシアの南下に始まります西洋近代との衝突が、直接国内の動乱につながっていったわけです。
 生麦事件と攘夷寺田屋事件と桐野利秋 前編など、たびたび引用してまいりました中岡慎太郎の言葉が、もっとも鋭く、維新がなんだったのかを語ってくれています。

 「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケンはかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」

 攘夷感情は、国民国家を成り立たせますナショナリズムとなります。
 維新は、ドイツ、イタリアの統一とほぼ同時代の出来事ですし、慎太郎が、「日本の攘夷は、アメリカの独立戦争と変わらないんだよ」と述べていますのは、本質を突きました世界史的理解なのです。

 
ドイツ史と戦争: 「軍事史」と「戦争史」
三宅 正樹,新谷 卓,中島 浩貴,石津 朋之
彩流社


 上の本の中島浩貴氏著「第一章 ドイツ統一戦争から第一次世界大戦」に、非常にわかりやすく、ドイツ統一までの道程をまとめてくれていますので、引用します。

 地域としてのドイツは、ドイツ語によって、国家が成立する前から認識されていた。プロイセン、オーストリア、バイエルン、ザクセンといった諸国が地域としてのドイツには存在していたからである。地域名でしかなかったドイツが民族の統一的な国家の土台として認知されるのは、フランス革命戦争とナポレオン戦争の時期においてである。革命の炎によって生まれ出た国民国家フランスとの軍事的衝突、そしてフランスによる占領は、ドイツ地域に住む人々のナショナリズムを高めることになった。しかし当時その愛国主義の中核となるドイツ民族の国家は存在していなかった。この点で、ヨハン・ゴットフリート・フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』は、愛すべき祖国のない思想家の嘆きとしてもとることができよう。当時のドイツにあったのは、細かく分かれた小国家にすぎなかった。
 ドイツ国民のナショナリズムと統一国家への傾斜の発端を「はじめにナポレオンありき」という言葉で表現したのは、ドイツの歴史家トマス・ニッパーダイであるが、少なくとも隣国の変化が国民国家ドイツの建設を促進したことは否定できない。1871年(明治4年)のドイツ帝国の成立まで、統一国家としてのドイツは存在しなかった。普墺戦争の後の1867年(慶応3年)に、北ドイツ連邦が設立され、そして、その後の普仏戦争をへてドイツはプロイセンを中心とした統一国家になっていくのである。


ブラザーズ・グリム DTS スタンダード・エディション [DVD]
クリエーター情報なし
ハピネット・ピクチャーズ

 
 グリム兄弟の神風連の乱に感想を書いておりますが、映画「ブラザーズ・グリム」は、グリム兄弟の若かりし日、フランスに占領されましたドイツ領邦国家の攘夷の物語を、すばらしいパロディにしてくれています。

 グリム兄弟は年子でして、1785年とその翌年に、ヘッセン=カッセル方伯領で生まれました。
 フランス革命の始まりが1789年ですから、兄弟が三つ、四つのころです。
 フランス革命は、フランス国内の秩序を破壊しただけではありませんで、その変動はヨーロッパ全土の秩序をゆるがします。
 フランス革命期の対外戦争は、ナポレオンに受け継がれました。

 1805年、アウステルリッツの戦い(三帝会戦)で、オーストリア・ロシア連合軍は、ナポレオン率いるフランス軍に敗退します。
 それまで、名目的にではありましたが、オーストリアのハプスブルグ家が、神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)皇帝として、ドイツ領邦国家群の上に君臨しておりましたが、この敗戦により退位して、神聖ローマ帝国は消滅します。
 1806年、領邦国家群のかなりの数が、ナポレオンの圧力により、フランスを盟主としたライン同盟に参加します。
 ちょうど日本では、ロシア人が樺太、択捉で日本人を攻撃しました文化露寇が起こり、国防が憂慮され始めましたころです。

 プロイセンは、フランス革命の初期はともかく、ナポレオンに対しましてはずっと中立を保ち、対イギリスでは同盟国にさえなって、むしろ領土をひろげていたのですが、神聖ローマ帝国が解体され、今度はフランスに対ロシアでの同盟を求められて、ついに反旗をひるがえします。
 しかし、1806年イエナ・アウエルシュタットの戦いで、プロイセンはあっけなく破れ、プロイセンを支持していましたヘッセン選帝侯国(ヘッセン=カッセル方伯領)は消滅し、フランス軍に占領されて、ナポレオンの弟が統治するヴェストファーレン王国に組み入れられました。
 グリム兄弟は、青年期に祖国が消滅し、フランスの統治下に入る経験を持ったわけです。
 プロイセンのベルリンで、フィヒテが、「ドイツ国民に告ぐ」と名づけられました十数回の演説で、国が独立を失うことへの危惧を訴えましたのは、このフランスの占領下でした。
 
グリム兄弟―生涯・作品・時代
ガブリエーレ ザイツ
青土社


図説 プロイセンの歴史―伝説からの解放
セバスチァン ハフナー
東洋書林


 上の二冊の本を参照しまして、述べてまいりますと。
 1812年のナポレオンのロシア遠征は、60万もの大軍によるものでしたが、その遠征軍の三分の一はドイツ人でした。
 そのうちの半分、ヨルク将軍が率いていましたプロイセン軍は、バルト海沿岸地帯の側面防備にまわされていましたために、モスクワから退却中のフランス軍が被りました破滅からまぬがれ、単独で、ロシアと講和を結びます。
 
 これが、ドイツナショナリズムに火をつけるんです。
 フランスの徴兵制で、フランスのためにロシアまで連れていかれて、戦わされて飢えと寒さにさらされ、負傷させられたり、病気にさせられたり、あげく戦死させられたりしたのでは、ドイツの農民はたまったものではありません。

 1813年、プロイセン王はむしろ消極的だったのですが、国民の熱気が募り、プロイセンはロシアとの同盟、フランスへの宣戦布告に踏み切ります。
 フィヒテの弟子で、スウェーデン領で生まれました詩人・エルンスト・モーリッツ・アルントは、「バイエルン人ではなく、ハノーファー人ではなく、ホルンシュタイン人ではなく、オーストリア人ではなく、プロイセン人ではなく、シュヴァーベン人ではなく、己をドイツ人と呼ぶことが許されているすべての人々が、敵対するのではなく、ドイツ人がドイツ人に味方するのだ」と宣伝し、多くの人々が、「祖国ドイツの自由と統一を戦い取るために」、義援金を出し、また義勇軍に参加しました。

 当初、プロイセンの出兵は敗北に終わるのですが、オーストリアとフランスの交渉が決裂し、ドイツ民族解放闘争は、1813年10月、プロイセン、ロシア、イギリス、スウェーデン、オーストリアが同盟してナポレオン軍に対しました諸国民戦争の勝利で、ついに結実します。
 グリム兄弟もまた、積極的に祖国解放運動に参加し、ヘッセン選帝侯国が蘇り、ドイツ連邦の一員となる喜びを味わいました。

 えー、脱線のしすぎでしょうか。
 なぜ普仏戦争でバイエルンのドイツナショナリズムが燃え上がったか、というお話です。
 最近、なんとなく、ですね。
 薩摩はなぜ、バイエルンたりえずにプロイセンにならざるをえなかったのか、なんぞと思ったりもしていまして、もう少しおつきあいください。

 長くなりましたので、次回に続きます。

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