(11月25日午前1時39分の最初の文章から、かなりの変更があります)
突然ですが、先日の土曜日に青山霊園に出かけました。そして……、ないはずの墓石を見つけたんですっ!!!
えー、これ、普通に見て、墓石の正面だと思いますよね? それが……、ちがうんですっ!!!
上の写真の左に「岩下家」とあるのが墓石の正面でして、最初の大きく「巌下長十郎」と掘られた写真は墓石裏面なんです。
逆光で、しかも焦っていまして、うまく撮れなかったんですが、上の写真正面の右から二行目には、「岩下方平 明治三十年八月十二日」と掘ってあります。岩下方平については、いく度か名前だけは出したことがあるのですが、wiki-岩下方平をご参照ください。死亡日が墓石とちがってはいるのですが。
裏面に大きく刻まれた「巌(岩)下長十郎」は、岩下方平子爵の一人息子なんですが、側面に小さく掘られた父より早く、明治十三年八月十日に死亡しています。長十郎の妻・類は、東郷平八郎の長兄・実猗の娘さんだそうで、ということはおそらく(お妾さんの子でなければ)、海江田信義の妹・勢似の娘でもある、ということですが、墓石によれば、昭和6年8月16日まで生きておられたようです。
えーと、ですね。つまり、青山墓地の岩下家の墓石は、おそらく、なんですが、まずは、若くして父・方平より先に逝った岩下長十郎の個人墓として、建てられたみたいなんですね。で、愛する息子に先立たれた方平は、がっくりして、「自分は息子の付録でいい、岩下家は長十郎がすべてなんだ!」とでも思ったりしたんじゃないんでしょうか。自分を筆頭に家族の名はみんな小さく、長十郎くんの墓石に名を連ね、長十郎くんの墓石を岩下家の墓石とするように、遺言でもしたのだろうか、とでも、推測するしかありません。
もっとも、鹿児島にも岩下家のお墓はあるそうでして、あるいはそちらの方には、岩下方平子爵個人の墓石もあるのかもしれませんが。
ともかく、なぜ、そんなことになったのか。
岩下長十郎については、私、これまで、ほとんどなにも書いていません。「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」で、新納武之助(竹之助)少年の渡仏を書くにあたって、次のように述べただけです。
パリには、朝倉(田中清洲)、中村博愛の二人の薩摩藩密航留学生がいましたし、まもなくパリ万博。すぐに、家老の岩下方平を長とする薩摩の正式使節団がやって来まして、その中には、岩下の息子で、やはりパリに私費留学することになっていた16歳の岩下長十郎もいましたから、とりあえず武之助少年は、寂しがる暇もなく、パリを楽しんだでしょう。
パリ万博の半ばで、薩摩使節団は帰国し、モンブラン伯爵も朝倉(田中)も、ともに日本へ行きます。
残された薩摩留学生は、中村博愛と岩下長十郎、新納武之助の三人です。
そして年が明け、鳥羽伏見の戦いが起こり、維新を迎えて、明治元年5月ころ、中村博愛も帰国します。
モンブランが先に預かっていた、やはり薩摩藩留学生の少年、町田清蔵の例からしますと、おそらく二人の少年は、とても家庭的な下宿に預けられ、かわいがられていたとは思えるのですが、それでも、父親がその渦中にある祖国の動乱は、なにかしら二人を不安にしたんじゃないんでしょうか。
美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で書きました前田正名を連れて、モンブラン伯爵が日本を発ったのは、1869年(明治2年)12月30日です。どうも、長州の太田市之進(御堀耕助)もいっしょだったようです。明けて1870年(明治3年)の3月ころには、パリについたでしょうか。
このころ、長十郎くんがパリでなにをしていたのかは、さっぱりわからないんですけれども、田中隆二氏の『幕末・明治期の日仏交流』に明治5年ころに製作されたパリ留学生名簿が載っているんですが、それによれば、明治4年までの長十郎くんは、フブール氏に師事し、普通学を学んでいたとのことです。
ところで、モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟にあります西郷従道の渡仏には、中村博愛も同行していまして、当然、フランスに帰って来たモンブランと合流し、武之助くんや長十郎くんとも、会っているものと思われます。ただ、さがしているんですけれども、このときの従道の渡仏の記録には、めぐりあっていません。従道は、アメリカまわりで帰国しますが、その途中で、普仏戦争が勃発します。
で、帰国した従道と入れ違うように、今度は大山巌が普仏戦争の観戦に出発していまして、こちらは渡欧日記があります。今回、国会図書館の憲政史料室で、その渡欧日記の実物を、見ることができました。時間がありませんでして、ろくろく解読できてないのですが、冒頭に、以下のような記述がありました。えーと、私のいいかげんな読み、書き写しですので、語句のちがいもあると思われますが。
明治3年8月25日
………今日大迫、野津両氏横浜に来たり同宿す。また信吾(従道)、中村宗謙(博愛)子同道にて来る。万事両人の世話に預かる。殊にこの両人は近日欧州より帰りくれば……
ともかく、です。大山巌は帰ってきたばかりの従道と博愛の世話を受けて旅の準備をし、アメリカまわりでまずはイギリスへ、さらにプロイセン、そしてフランスへ入っているんです。この日記、後になるほど殴り書きで文字がくずれ、よく読めませんで、パリ着がいつなのかはわかりませんし、どういう状況なのかもわからないのですが、大山はパリで、長十郎くんと正名くんに会っているのは、確かみたいです。名前だけは、私にでもすぐに読みとることができましたので。普通に考えれば、1871年1月28日(和暦では明治3年12月末になります)のパリ降伏以降、明治4年の初めのこと、と思われます。
そして、fhさまのところの「備忘 岩下長十郎3」によれば、長十郎くん、どうも、大山巌に会ってしばらく後には、帰国したようです。もしかして、大山とともに帰国したのか? とも思われますが、ともかくパリのあたり、大山の日記がちゃんと読めておりません。複写をお願いするつもりですので、それから、ですね。
で、長十郎くんは、大久保利通のはからいで再び留学決定。とりあえずは、岩倉使節団にいて、大久保一家の通訳のようです。
さらに、再びfhさまの「備忘 岩下長十郎」。大久保がアメリカから一時帰国をしておりますすきに、長州の山田顕義が長十郎くんを奪います。結局、兵部省に属することになって欧州に渡ったらしく、明治5年(1872年)8月18日、パリで、山田顕義とともに仏留学してきた陸軍兵学寮生徒の夕食会に参加しているそうです。
もちろん長十郎くんは、大久保をはじめとするパリの薩摩藩出身者一同とも会っていて、大久保を囲む集合写真に写っています。
このとき、21歳。凛々しく、端正なお顔立ちです。
そして翌明治6年、長十郎くんは帰国して大尉となり、司法省においてボアソナード(wiki参照)の講義の通訳をしているそうです。
で、明治7年8月には「御用有之欧羅巴へ差遣」という辞令が出ているそうでして、またも渡欧。以降、フランス語の能力を買われて、フランス式兵制をとった陸軍で活躍していたことは確かです。この7年以降は、アジ歴にかなり辞令などがあがっています。
上の本は、明治、馬匹改良と直結していた日本の競馬について書かれた本なのですが、明治10年ころから、宮内省、内務省、陸軍が競って、競走馬の生産、育成に力をそそいだ、といいます。陸軍の持ち馬で活躍したのは、ボンレネーと朝顔なんですが、「お傭いフランス人馬医・アンゴ A.R.D.Angot か、砲兵大尉岩下清十郎、あるいはその共同名義で出走」していたのだそうです。この「砲兵大尉岩下清十郎」が「長十郎」のまちがいであることは、アジ歴の「参謀本部大日記 明治12年自6月至12月「大日記部内申牒2参水」にある「官馬拝借の処職務に難用引替願 陸軍砲兵大尉岩下長十郎 参謀本部長山県有朋殿」などの書類で証明できます。
つまり、どうも長十郎くんは、馬匹改良にもかかわっていたようなのです。
上の本には、短いながら、「異色の陸軍刑法編纂官」という章があり(fhさまの「備忘 岩下長十郎」『書斎の窓』466、1997年「明治史の一隅を訪ねて 法典近代化の先駆けとして-岩下長十郎-」と同じものです)、長十郎くんを「法典近代化の一端を担った人物」と評価しています。えーとですね、明治9年、陸軍刑法を新しくするための「軍律取調」がはじまったのですが、その11名の取調メンバーの一人に、長十郎くんが任命されているんですね。もちろん、フランス語の能力を買われてのものです。ところが、明治14年末に陸軍刑法が完成したとき、長十郎くんは功労者に連なってはいませんでした。不慮の死を遂げていたからです。
明治13年8月12日付の東京日々新聞は、次のように報道しているそうです。
長十郎くんは横浜のスイス時計商の夜会に招かれ、その帰りに、某国人と連れだって海岸へ行き、「我らが水泳を見せ申さん」と、衣服を脱いで海に飛び込みました。ところが、いつまでたっても浮かんでこないので、巡査に知らせて篝火を焚き、懸命に探したのですが見つからず、翌朝になって、波止場のわきに遺体が浮いていたのです。
享年、29歳。妻と幼子を残しての若すぎる死でした。
再々度、fhさまの備忘 岩下長十郎2。10年後までも、薩摩人の間で語りぐさになっていた悲劇だったんです。
霞信彦氏は、「『過去帳』は、岩下(長十郎)が『青山』に埋葬されたと述べていますが、それを現在の青山霊園と解するとき、岩下長十郎の奥津城をかの地に見出すことはできません」と述べておられるのですが、私、とあるサイトさんで「岩下子爵の墓は青山霊園にある」とお教えいただき、父親の墓があって、先立った愛息の墓がそばにないわけがない!!!と思い、さがしに出かけたような次第です。
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突然ですが、先日の土曜日に青山霊園に出かけました。そして……、ないはずの墓石を見つけたんですっ!!!
えー、これ、普通に見て、墓石の正面だと思いますよね? それが……、ちがうんですっ!!!
上の写真の左に「岩下家」とあるのが墓石の正面でして、最初の大きく「巌下長十郎」と掘られた写真は墓石裏面なんです。
逆光で、しかも焦っていまして、うまく撮れなかったんですが、上の写真正面の右から二行目には、「岩下方平 明治三十年八月十二日」と掘ってあります。岩下方平については、いく度か名前だけは出したことがあるのですが、wiki-岩下方平をご参照ください。死亡日が墓石とちがってはいるのですが。
裏面に大きく刻まれた「巌(岩)下長十郎」は、岩下方平子爵の一人息子なんですが、側面に小さく掘られた父より早く、明治十三年八月十日に死亡しています。長十郎の妻・類は、東郷平八郎の長兄・実猗の娘さんだそうで、ということはおそらく(お妾さんの子でなければ)、海江田信義の妹・勢似の娘でもある、ということですが、墓石によれば、昭和6年8月16日まで生きておられたようです。
えーと、ですね。つまり、青山墓地の岩下家の墓石は、おそらく、なんですが、まずは、若くして父・方平より先に逝った岩下長十郎の個人墓として、建てられたみたいなんですね。で、愛する息子に先立たれた方平は、がっくりして、「自分は息子の付録でいい、岩下家は長十郎がすべてなんだ!」とでも思ったりしたんじゃないんでしょうか。自分を筆頭に家族の名はみんな小さく、長十郎くんの墓石に名を連ね、長十郎くんの墓石を岩下家の墓石とするように、遺言でもしたのだろうか、とでも、推測するしかありません。
もっとも、鹿児島にも岩下家のお墓はあるそうでして、あるいはそちらの方には、岩下方平子爵個人の墓石もあるのかもしれませんが。
ともかく、なぜ、そんなことになったのか。
岩下長十郎については、私、これまで、ほとんどなにも書いていません。「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」で、新納武之助(竹之助)少年の渡仏を書くにあたって、次のように述べただけです。
パリには、朝倉(田中清洲)、中村博愛の二人の薩摩藩密航留学生がいましたし、まもなくパリ万博。すぐに、家老の岩下方平を長とする薩摩の正式使節団がやって来まして、その中には、岩下の息子で、やはりパリに私費留学することになっていた16歳の岩下長十郎もいましたから、とりあえず武之助少年は、寂しがる暇もなく、パリを楽しんだでしょう。
パリ万博の半ばで、薩摩使節団は帰国し、モンブラン伯爵も朝倉(田中)も、ともに日本へ行きます。
残された薩摩留学生は、中村博愛と岩下長十郎、新納武之助の三人です。
そして年が明け、鳥羽伏見の戦いが起こり、維新を迎えて、明治元年5月ころ、中村博愛も帰国します。
モンブランが先に預かっていた、やはり薩摩藩留学生の少年、町田清蔵の例からしますと、おそらく二人の少年は、とても家庭的な下宿に預けられ、かわいがられていたとは思えるのですが、それでも、父親がその渦中にある祖国の動乱は、なにかしら二人を不安にしたんじゃないんでしょうか。
美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で書きました前田正名を連れて、モンブラン伯爵が日本を発ったのは、1869年(明治2年)12月30日です。どうも、長州の太田市之進(御堀耕助)もいっしょだったようです。明けて1870年(明治3年)の3月ころには、パリについたでしょうか。
このころ、長十郎くんがパリでなにをしていたのかは、さっぱりわからないんですけれども、田中隆二氏の『幕末・明治期の日仏交流』に明治5年ころに製作されたパリ留学生名簿が載っているんですが、それによれば、明治4年までの長十郎くんは、フブール氏に師事し、普通学を学んでいたとのことです。
ところで、モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟にあります西郷従道の渡仏には、中村博愛も同行していまして、当然、フランスに帰って来たモンブランと合流し、武之助くんや長十郎くんとも、会っているものと思われます。ただ、さがしているんですけれども、このときの従道の渡仏の記録には、めぐりあっていません。従道は、アメリカまわりで帰国しますが、その途中で、普仏戦争が勃発します。
で、帰国した従道と入れ違うように、今度は大山巌が普仏戦争の観戦に出発していまして、こちらは渡欧日記があります。今回、国会図書館の憲政史料室で、その渡欧日記の実物を、見ることができました。時間がありませんでして、ろくろく解読できてないのですが、冒頭に、以下のような記述がありました。えーと、私のいいかげんな読み、書き写しですので、語句のちがいもあると思われますが。
明治3年8月25日
………今日大迫、野津両氏横浜に来たり同宿す。また信吾(従道)、中村宗謙(博愛)子同道にて来る。万事両人の世話に預かる。殊にこの両人は近日欧州より帰りくれば……
ともかく、です。大山巌は帰ってきたばかりの従道と博愛の世話を受けて旅の準備をし、アメリカまわりでまずはイギリスへ、さらにプロイセン、そしてフランスへ入っているんです。この日記、後になるほど殴り書きで文字がくずれ、よく読めませんで、パリ着がいつなのかはわかりませんし、どういう状況なのかもわからないのですが、大山はパリで、長十郎くんと正名くんに会っているのは、確かみたいです。名前だけは、私にでもすぐに読みとることができましたので。普通に考えれば、1871年1月28日(和暦では明治3年12月末になります)のパリ降伏以降、明治4年の初めのこと、と思われます。
そして、fhさまのところの「備忘 岩下長十郎3」によれば、長十郎くん、どうも、大山巌に会ってしばらく後には、帰国したようです。もしかして、大山とともに帰国したのか? とも思われますが、ともかくパリのあたり、大山の日記がちゃんと読めておりません。複写をお願いするつもりですので、それから、ですね。
で、長十郎くんは、大久保利通のはからいで再び留学決定。とりあえずは、岩倉使節団にいて、大久保一家の通訳のようです。
さらに、再びfhさまの「備忘 岩下長十郎」。大久保がアメリカから一時帰国をしておりますすきに、長州の山田顕義が長十郎くんを奪います。結局、兵部省に属することになって欧州に渡ったらしく、明治5年(1872年)8月18日、パリで、山田顕義とともに仏留学してきた陸軍兵学寮生徒の夕食会に参加しているそうです。
もちろん長十郎くんは、大久保をはじめとするパリの薩摩藩出身者一同とも会っていて、大久保を囲む集合写真に写っています。
このとき、21歳。凛々しく、端正なお顔立ちです。
そして翌明治6年、長十郎くんは帰国して大尉となり、司法省においてボアソナード(wiki参照)の講義の通訳をしているそうです。
で、明治7年8月には「御用有之欧羅巴へ差遣」という辞令が出ているそうでして、またも渡欧。以降、フランス語の能力を買われて、フランス式兵制をとった陸軍で活躍していたことは確かです。この7年以降は、アジ歴にかなり辞令などがあがっています。
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上の本は、明治、馬匹改良と直結していた日本の競馬について書かれた本なのですが、明治10年ころから、宮内省、内務省、陸軍が競って、競走馬の生産、育成に力をそそいだ、といいます。陸軍の持ち馬で活躍したのは、ボンレネーと朝顔なんですが、「お傭いフランス人馬医・アンゴ A.R.D.Angot か、砲兵大尉岩下清十郎、あるいはその共同名義で出走」していたのだそうです。この「砲兵大尉岩下清十郎」が「長十郎」のまちがいであることは、アジ歴の「参謀本部大日記 明治12年自6月至12月「大日記部内申牒2参水」にある「官馬拝借の処職務に難用引替願 陸軍砲兵大尉岩下長十郎 参謀本部長山県有朋殿」などの書類で証明できます。
つまり、どうも長十郎くんは、馬匹改良にもかかわっていたようなのです。
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上の本には、短いながら、「異色の陸軍刑法編纂官」という章があり(fhさまの「備忘 岩下長十郎」『書斎の窓』466、1997年「明治史の一隅を訪ねて 法典近代化の先駆けとして-岩下長十郎-」と同じものです)、長十郎くんを「法典近代化の一端を担った人物」と評価しています。えーとですね、明治9年、陸軍刑法を新しくするための「軍律取調」がはじまったのですが、その11名の取調メンバーの一人に、長十郎くんが任命されているんですね。もちろん、フランス語の能力を買われてのものです。ところが、明治14年末に陸軍刑法が完成したとき、長十郎くんは功労者に連なってはいませんでした。不慮の死を遂げていたからです。
明治13年8月12日付の東京日々新聞は、次のように報道しているそうです。
長十郎くんは横浜のスイス時計商の夜会に招かれ、その帰りに、某国人と連れだって海岸へ行き、「我らが水泳を見せ申さん」と、衣服を脱いで海に飛び込みました。ところが、いつまでたっても浮かんでこないので、巡査に知らせて篝火を焚き、懸命に探したのですが見つからず、翌朝になって、波止場のわきに遺体が浮いていたのです。
享年、29歳。妻と幼子を残しての若すぎる死でした。
再々度、fhさまの備忘 岩下長十郎2。10年後までも、薩摩人の間で語りぐさになっていた悲劇だったんです。
霞信彦氏は、「『過去帳』は、岩下(長十郎)が『青山』に埋葬されたと述べていますが、それを現在の青山霊園と解するとき、岩下長十郎の奥津城をかの地に見出すことはできません」と述べておられるのですが、私、とあるサイトさんで「岩下子爵の墓は青山霊園にある」とお教えいただき、父親の墓があって、先立った愛息の墓がそばにないわけがない!!!と思い、さがしに出かけたような次第です。
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近い将来、「幕末明治留学生の青春」というブログをつくろうと思っているので、すごく参考になります。
これからも、楽しい記事を載せてくださいね。
あ、申し遅れましたが、以前、妙光寺の件でやりとりさせていただいたものです。その節はありがとうございました。
5月に私も妙光寺に出かけて撮ってきたのですが、とてもかなわない出来でした。
「幕末明治留学生の青春」、楽しみです。つくられたら、ぜひお知らせくださいね。
存じませんでした。
私は大街道で生まれ、中学2年まで住まっていまして、城山へ遊びに行っては、石垣に登って𠮟られていましたが、確か秋山弟の方だったと思うのですが、よく登っていたような話だったかと。
青山霊園には、秋山家(好古の方です)のお墓もありまして、これが実にささやかなお墓です。でかいお墓の人物は、権勢欲が強いにきまっていまして(笑)、好古は司馬氏が書かれた通りのお方と思えます。えー、うちの高校(旧制北伊中学校)の校長なんかなさいましたし。在学当時は、校内に銅像があるのも気付かない駄目生徒でした。
今晩の放送が楽しみです。
好古さんの青山霊園のお墓と、分葬された道後のお墓どっちもいったんですが、どっちも夜で、撮影は断念しました…。
鎌倉霊園の真之さんのお墓は、まぁ無理すればお参りできるんでしょうけど、確か非公開とかで、それを押していくのは憚られました。
沖田総司の菩提寺(専称寺)みたいになっても嫌ですからね。
好古さん謹書の忠魂碑は、久万以外にも、いろんなところにあるようです。今治とか…。
『坂の上の雲』の第1回、なにか別の国の話のようで、ボーっと観てました。郎女さんは、どんな感想をもたれましたか?
妙香寺は生麦事件の史料を調べに行ったついで、なんですが、横浜へ着いた当日、友人といっしょに観光タクシーを傭ってスカイウォークへ行きまして(生麦から横浜方面を見たらどんな感じか、埋め立てが進んだ現代ではスカイウォークまで出るしかなさそうでして)、時間があまりそうでしたので、先にリチャードソンのお墓と妙香寺へまわってもらいました。翌日が生麦、翌々日が開港資料館で史料のコピー、その次の日が東京まで行って外交史料館、でした。
長十郎の写真を見たのは初めてですね。方平と方美の写真はあるけど、資料の中ではまだ長十郎のはっきりした写真はまだ見つけてないかもです。
いや~大変貴重な情報です。ありがとうございます。
長十郎くんの写真は、明治6年、パリで大久保利通を見送る薩摩人の集合写真です。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/soubetu.html
最後列右端が長十郎くんなんです。
上のサイトさんの写真は小さいみたいですが、私、かなり大きな写真が載っている本を持っていまして、引き延ばしました。
ところで、http://ja.wikipedia.org/wiki/岩下方平の記述についてお教え願いたく。「新納久仰は方平の叔父にあたる」って、どういうことなのでしょうか? 新納久仰が新納刑部の父だといくことは、岩下方平と新納刑部は従兄弟で、武之助くんと長十郎くんは又従兄弟、なんでしょうか。
なお方平の孫、家一の叔父は東郷平八郎です。
調べれば調べるほど新しい人やつながりがでてきて、一体とこへ行くやら・・・。
またなにか発見がありましたら、よろしくお願いいたします。