(11月25日午前1時39分の最初の文章から、かなりの変更があります)
突然ですが、先日の土曜日に青山霊園に出かけました。そして……、ないはずの墓石を見つけたんですっ!!!
えー、これ、普通に見て、墓石の正面だと思いますよね? それが……、ちがうんですっ!!!
上の写真の左に「岩下家」とあるのが墓石の正面でして、最初の大きく「巌下長十郎」と掘られた写真は墓石裏面なんです。
逆光で、しかも焦っていまして、うまく撮れなかったんですが、上の写真正面の右から二行目には、「岩下方平 明治三十年八月十二日」と掘ってあります。岩下方平については、いく度か名前だけは出したことがあるのですが、wiki-岩下方平をご参照ください。死亡日が墓石とちがってはいるのですが。
裏面に大きく刻まれた「巌(岩)下長十郎」は、岩下方平子爵の一人息子なんですが、側面に小さく掘られた父より早く、明治十三年八月十日に死亡しています。長十郎の妻・類は、東郷平八郎の長兄・実猗の娘さんだそうで、ということはおそらく(お妾さんの子でなければ)、海江田信義の妹・勢似の娘でもある、ということですが、墓石によれば、昭和6年8月16日まで生きておられたようです。
えーと、ですね。つまり、青山墓地の岩下家の墓石は、おそらく、なんですが、まずは、若くして父・方平より先に逝った岩下長十郎の個人墓として、建てられたみたいなんですね。で、愛する息子に先立たれた方平は、がっくりして、「自分は息子の付録でいい、岩下家は長十郎がすべてなんだ!」とでも思ったりしたんじゃないんでしょうか。自分を筆頭に家族の名はみんな小さく、長十郎くんの墓石に名を連ね、長十郎くんの墓石を岩下家の墓石とするように、遺言でもしたのだろうか、とでも、推測するしかありません。
もっとも、鹿児島にも岩下家のお墓はあるそうでして、あるいはそちらの方には、岩下方平子爵個人の墓石もあるのかもしれませんが。
ともかく、なぜ、そんなことになったのか。
岩下長十郎については、私、これまで、ほとんどなにも書いていません。「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」で、新納武之助(竹之助)少年の渡仏を書くにあたって、次のように述べただけです。
パリには、朝倉(田中清洲)、中村博愛の二人の薩摩藩密航留学生がいましたし、まもなくパリ万博。すぐに、家老の岩下方平を長とする薩摩の正式使節団がやって来まして、その中には、岩下の息子で、やはりパリに私費留学することになっていた16歳の岩下長十郎もいましたから、とりあえず武之助少年は、寂しがる暇もなく、パリを楽しんだでしょう。
パリ万博の半ばで、薩摩使節団は帰国し、モンブラン伯爵も朝倉(田中)も、ともに日本へ行きます。
残された薩摩留学生は、中村博愛と岩下長十郎、新納武之助の三人です。
そして年が明け、鳥羽伏見の戦いが起こり、維新を迎えて、明治元年5月ころ、中村博愛も帰国します。
モンブランが先に預かっていた、やはり薩摩藩留学生の少年、町田清蔵の例からしますと、おそらく二人の少年は、とても家庭的な下宿に預けられ、かわいがられていたとは思えるのですが、それでも、父親がその渦中にある祖国の動乱は、なにかしら二人を不安にしたんじゃないんでしょうか。
美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で書きました前田正名を連れて、モンブラン伯爵が日本を発ったのは、1869年(明治2年)12月30日です。どうも、長州の太田市之進(御堀耕助)もいっしょだったようです。明けて1870年(明治3年)の3月ころには、パリについたでしょうか。
このころ、長十郎くんがパリでなにをしていたのかは、さっぱりわからないんですけれども、田中隆二氏の『幕末・明治期の日仏交流』に明治5年ころに製作されたパリ留学生名簿が載っているんですが、それによれば、明治4年までの長十郎くんは、フブール氏に師事し、普通学を学んでいたとのことです。
ところで、モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟にあります西郷従道の渡仏には、中村博愛も同行していまして、当然、フランスに帰って来たモンブランと合流し、武之助くんや長十郎くんとも、会っているものと思われます。ただ、さがしているんですけれども、このときの従道の渡仏の記録には、めぐりあっていません。従道は、アメリカまわりで帰国しますが、その途中で、普仏戦争が勃発します。
で、帰国した従道と入れ違うように、今度は大山巌が普仏戦争の観戦に出発していまして、こちらは渡欧日記があります。今回、国会図書館の憲政史料室で、その渡欧日記の実物を、見ることができました。時間がありませんでして、ろくろく解読できてないのですが、冒頭に、以下のような記述がありました。えーと、私のいいかげんな読み、書き写しですので、語句のちがいもあると思われますが。
明治3年8月25日
………今日大迫、野津両氏横浜に来たり同宿す。また信吾(従道)、中村宗謙(博愛)子同道にて来る。万事両人の世話に預かる。殊にこの両人は近日欧州より帰りくれば……
ともかく、です。大山巌は帰ってきたばかりの従道と博愛の世話を受けて旅の準備をし、アメリカまわりでまずはイギリスへ、さらにプロイセン、そしてフランスへ入っているんです。この日記、後になるほど殴り書きで文字がくずれ、よく読めませんで、パリ着がいつなのかはわかりませんし、どういう状況なのかもわからないのですが、大山はパリで、長十郎くんと正名くんに会っているのは、確かみたいです。名前だけは、私にでもすぐに読みとることができましたので。普通に考えれば、1871年1月28日(和暦では明治3年12月末になります)のパリ降伏以降、明治4年の初めのこと、と思われます。
そして、fhさまのところの「備忘 岩下長十郎3」によれば、長十郎くん、どうも、大山巌に会ってしばらく後には、帰国したようです。もしかして、大山とともに帰国したのか? とも思われますが、ともかくパリのあたり、大山の日記がちゃんと読めておりません。複写をお願いするつもりですので、それから、ですね。
で、長十郎くんは、大久保利通のはからいで再び留学決定。とりあえずは、岩倉使節団にいて、大久保一家の通訳のようです。
さらに、再びfhさまの「備忘 岩下長十郎」。大久保がアメリカから一時帰国をしておりますすきに、長州の山田顕義が長十郎くんを奪います。結局、兵部省に属することになって欧州に渡ったらしく、明治5年(1872年)8月18日、パリで、山田顕義とともに仏留学してきた陸軍兵学寮生徒の夕食会に参加しているそうです。
もちろん長十郎くんは、大久保をはじめとするパリの薩摩藩出身者一同とも会っていて、大久保を囲む集合写真に写っています。
このとき、21歳。凛々しく、端正なお顔立ちです。
そして翌明治6年、長十郎くんは帰国して大尉となり、司法省においてボアソナード(wiki参照)の講義の通訳をしているそうです。
で、明治7年8月には「御用有之欧羅巴へ差遣」という辞令が出ているそうでして、またも渡欧。以降、フランス語の能力を買われて、フランス式兵制をとった陸軍で活躍していたことは確かです。この7年以降は、アジ歴にかなり辞令などがあがっています。
上の本は、明治、馬匹改良と直結していた日本の競馬について書かれた本なのですが、明治10年ころから、宮内省、内務省、陸軍が競って、競走馬の生産、育成に力をそそいだ、といいます。陸軍の持ち馬で活躍したのは、ボンレネーと朝顔なんですが、「お傭いフランス人馬医・アンゴ A.R.D.Angot か、砲兵大尉岩下清十郎、あるいはその共同名義で出走」していたのだそうです。この「砲兵大尉岩下清十郎」が「長十郎」のまちがいであることは、アジ歴の「参謀本部大日記 明治12年自6月至12月「大日記部内申牒2参水」にある「官馬拝借の処職務に難用引替願 陸軍砲兵大尉岩下長十郎 参謀本部長山県有朋殿」などの書類で証明できます。
つまり、どうも長十郎くんは、馬匹改良にもかかわっていたようなのです。
上の本には、短いながら、「異色の陸軍刑法編纂官」という章があり(fhさまの「備忘 岩下長十郎」『書斎の窓』466、1997年「明治史の一隅を訪ねて 法典近代化の先駆けとして-岩下長十郎-」と同じものです)、長十郎くんを「法典近代化の一端を担った人物」と評価しています。えーとですね、明治9年、陸軍刑法を新しくするための「軍律取調」がはじまったのですが、その11名の取調メンバーの一人に、長十郎くんが任命されているんですね。もちろん、フランス語の能力を買われてのものです。ところが、明治14年末に陸軍刑法が完成したとき、長十郎くんは功労者に連なってはいませんでした。不慮の死を遂げていたからです。
明治13年8月12日付の東京日々新聞は、次のように報道しているそうです。
長十郎くんは横浜のスイス時計商の夜会に招かれ、その帰りに、某国人と連れだって海岸へ行き、「我らが水泳を見せ申さん」と、衣服を脱いで海に飛び込みました。ところが、いつまでたっても浮かんでこないので、巡査に知らせて篝火を焚き、懸命に探したのですが見つからず、翌朝になって、波止場のわきに遺体が浮いていたのです。
享年、29歳。妻と幼子を残しての若すぎる死でした。
再々度、fhさまの備忘 岩下長十郎2。10年後までも、薩摩人の間で語りぐさになっていた悲劇だったんです。
霞信彦氏は、「『過去帳』は、岩下(長十郎)が『青山』に埋葬されたと述べていますが、それを現在の青山霊園と解するとき、岩下長十郎の奥津城をかの地に見出すことはできません」と述べておられるのですが、私、とあるサイトさんで「岩下子爵の墓は青山霊園にある」とお教えいただき、父親の墓があって、先立った愛息の墓がそばにないわけがない!!!と思い、さがしに出かけたような次第です。
人気blogランキングへ
突然ですが、先日の土曜日に青山霊園に出かけました。そして……、ないはずの墓石を見つけたんですっ!!!
えー、これ、普通に見て、墓石の正面だと思いますよね? それが……、ちがうんですっ!!!
上の写真の左に「岩下家」とあるのが墓石の正面でして、最初の大きく「巌下長十郎」と掘られた写真は墓石裏面なんです。
逆光で、しかも焦っていまして、うまく撮れなかったんですが、上の写真正面の右から二行目には、「岩下方平 明治三十年八月十二日」と掘ってあります。岩下方平については、いく度か名前だけは出したことがあるのですが、wiki-岩下方平をご参照ください。死亡日が墓石とちがってはいるのですが。
裏面に大きく刻まれた「巌(岩)下長十郎」は、岩下方平子爵の一人息子なんですが、側面に小さく掘られた父より早く、明治十三年八月十日に死亡しています。長十郎の妻・類は、東郷平八郎の長兄・実猗の娘さんだそうで、ということはおそらく(お妾さんの子でなければ)、海江田信義の妹・勢似の娘でもある、ということですが、墓石によれば、昭和6年8月16日まで生きておられたようです。
えーと、ですね。つまり、青山墓地の岩下家の墓石は、おそらく、なんですが、まずは、若くして父・方平より先に逝った岩下長十郎の個人墓として、建てられたみたいなんですね。で、愛する息子に先立たれた方平は、がっくりして、「自分は息子の付録でいい、岩下家は長十郎がすべてなんだ!」とでも思ったりしたんじゃないんでしょうか。自分を筆頭に家族の名はみんな小さく、長十郎くんの墓石に名を連ね、長十郎くんの墓石を岩下家の墓石とするように、遺言でもしたのだろうか、とでも、推測するしかありません。
もっとも、鹿児島にも岩下家のお墓はあるそうでして、あるいはそちらの方には、岩下方平子爵個人の墓石もあるのかもしれませんが。
ともかく、なぜ、そんなことになったのか。
岩下長十郎については、私、これまで、ほとんどなにも書いていません。「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」で、新納武之助(竹之助)少年の渡仏を書くにあたって、次のように述べただけです。
パリには、朝倉(田中清洲)、中村博愛の二人の薩摩藩密航留学生がいましたし、まもなくパリ万博。すぐに、家老の岩下方平を長とする薩摩の正式使節団がやって来まして、その中には、岩下の息子で、やはりパリに私費留学することになっていた16歳の岩下長十郎もいましたから、とりあえず武之助少年は、寂しがる暇もなく、パリを楽しんだでしょう。
パリ万博の半ばで、薩摩使節団は帰国し、モンブラン伯爵も朝倉(田中)も、ともに日本へ行きます。
残された薩摩留学生は、中村博愛と岩下長十郎、新納武之助の三人です。
そして年が明け、鳥羽伏見の戦いが起こり、維新を迎えて、明治元年5月ころ、中村博愛も帰国します。
モンブランが先に預かっていた、やはり薩摩藩留学生の少年、町田清蔵の例からしますと、おそらく二人の少年は、とても家庭的な下宿に預けられ、かわいがられていたとは思えるのですが、それでも、父親がその渦中にある祖国の動乱は、なにかしら二人を不安にしたんじゃないんでしょうか。
美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で書きました前田正名を連れて、モンブラン伯爵が日本を発ったのは、1869年(明治2年)12月30日です。どうも、長州の太田市之進(御堀耕助)もいっしょだったようです。明けて1870年(明治3年)の3月ころには、パリについたでしょうか。
このころ、長十郎くんがパリでなにをしていたのかは、さっぱりわからないんですけれども、田中隆二氏の『幕末・明治期の日仏交流』に明治5年ころに製作されたパリ留学生名簿が載っているんですが、それによれば、明治4年までの長十郎くんは、フブール氏に師事し、普通学を学んでいたとのことです。
ところで、モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟にあります西郷従道の渡仏には、中村博愛も同行していまして、当然、フランスに帰って来たモンブランと合流し、武之助くんや長十郎くんとも、会っているものと思われます。ただ、さがしているんですけれども、このときの従道の渡仏の記録には、めぐりあっていません。従道は、アメリカまわりで帰国しますが、その途中で、普仏戦争が勃発します。
で、帰国した従道と入れ違うように、今度は大山巌が普仏戦争の観戦に出発していまして、こちらは渡欧日記があります。今回、国会図書館の憲政史料室で、その渡欧日記の実物を、見ることができました。時間がありませんでして、ろくろく解読できてないのですが、冒頭に、以下のような記述がありました。えーと、私のいいかげんな読み、書き写しですので、語句のちがいもあると思われますが。
明治3年8月25日
………今日大迫、野津両氏横浜に来たり同宿す。また信吾(従道)、中村宗謙(博愛)子同道にて来る。万事両人の世話に預かる。殊にこの両人は近日欧州より帰りくれば……
ともかく、です。大山巌は帰ってきたばかりの従道と博愛の世話を受けて旅の準備をし、アメリカまわりでまずはイギリスへ、さらにプロイセン、そしてフランスへ入っているんです。この日記、後になるほど殴り書きで文字がくずれ、よく読めませんで、パリ着がいつなのかはわかりませんし、どういう状況なのかもわからないのですが、大山はパリで、長十郎くんと正名くんに会っているのは、確かみたいです。名前だけは、私にでもすぐに読みとることができましたので。普通に考えれば、1871年1月28日(和暦では明治3年12月末になります)のパリ降伏以降、明治4年の初めのこと、と思われます。
そして、fhさまのところの「備忘 岩下長十郎3」によれば、長十郎くん、どうも、大山巌に会ってしばらく後には、帰国したようです。もしかして、大山とともに帰国したのか? とも思われますが、ともかくパリのあたり、大山の日記がちゃんと読めておりません。複写をお願いするつもりですので、それから、ですね。
で、長十郎くんは、大久保利通のはからいで再び留学決定。とりあえずは、岩倉使節団にいて、大久保一家の通訳のようです。
さらに、再びfhさまの「備忘 岩下長十郎」。大久保がアメリカから一時帰国をしておりますすきに、長州の山田顕義が長十郎くんを奪います。結局、兵部省に属することになって欧州に渡ったらしく、明治5年(1872年)8月18日、パリで、山田顕義とともに仏留学してきた陸軍兵学寮生徒の夕食会に参加しているそうです。
もちろん長十郎くんは、大久保をはじめとするパリの薩摩藩出身者一同とも会っていて、大久保を囲む集合写真に写っています。
このとき、21歳。凛々しく、端正なお顔立ちです。
そして翌明治6年、長十郎くんは帰国して大尉となり、司法省においてボアソナード(wiki参照)の講義の通訳をしているそうです。
で、明治7年8月には「御用有之欧羅巴へ差遣」という辞令が出ているそうでして、またも渡欧。以降、フランス語の能力を買われて、フランス式兵制をとった陸軍で活躍していたことは確かです。この7年以降は、アジ歴にかなり辞令などがあがっています。
文明開化に馬券は舞う―日本競馬の誕生 (競馬の社会史)立川 健治世織書房このアイテムの詳細を見る |
上の本は、明治、馬匹改良と直結していた日本の競馬について書かれた本なのですが、明治10年ころから、宮内省、内務省、陸軍が競って、競走馬の生産、育成に力をそそいだ、といいます。陸軍の持ち馬で活躍したのは、ボンレネーと朝顔なんですが、「お傭いフランス人馬医・アンゴ A.R.D.Angot か、砲兵大尉岩下清十郎、あるいはその共同名義で出走」していたのだそうです。この「砲兵大尉岩下清十郎」が「長十郎」のまちがいであることは、アジ歴の「参謀本部大日記 明治12年自6月至12月「大日記部内申牒2参水」にある「官馬拝借の処職務に難用引替願 陸軍砲兵大尉岩下長十郎 参謀本部長山県有朋殿」などの書類で証明できます。
つまり、どうも長十郎くんは、馬匹改良にもかかわっていたようなのです。
矩を踰えて―明治法制史断章霞 信彦慶應義塾大学出版会このアイテムの詳細を見る |
上の本には、短いながら、「異色の陸軍刑法編纂官」という章があり(fhさまの「備忘 岩下長十郎」『書斎の窓』466、1997年「明治史の一隅を訪ねて 法典近代化の先駆けとして-岩下長十郎-」と同じものです)、長十郎くんを「法典近代化の一端を担った人物」と評価しています。えーとですね、明治9年、陸軍刑法を新しくするための「軍律取調」がはじまったのですが、その11名の取調メンバーの一人に、長十郎くんが任命されているんですね。もちろん、フランス語の能力を買われてのものです。ところが、明治14年末に陸軍刑法が完成したとき、長十郎くんは功労者に連なってはいませんでした。不慮の死を遂げていたからです。
明治13年8月12日付の東京日々新聞は、次のように報道しているそうです。
長十郎くんは横浜のスイス時計商の夜会に招かれ、その帰りに、某国人と連れだって海岸へ行き、「我らが水泳を見せ申さん」と、衣服を脱いで海に飛び込みました。ところが、いつまでたっても浮かんでこないので、巡査に知らせて篝火を焚き、懸命に探したのですが見つからず、翌朝になって、波止場のわきに遺体が浮いていたのです。
享年、29歳。妻と幼子を残しての若すぎる死でした。
再々度、fhさまの備忘 岩下長十郎2。10年後までも、薩摩人の間で語りぐさになっていた悲劇だったんです。
霞信彦氏は、「『過去帳』は、岩下(長十郎)が『青山』に埋葬されたと述べていますが、それを現在の青山霊園と解するとき、岩下長十郎の奥津城をかの地に見出すことはできません」と述べておられるのですが、私、とあるサイトさんで「岩下子爵の墓は青山霊園にある」とお教えいただき、父親の墓があって、先立った愛息の墓がそばにないわけがない!!!と思い、さがしに出かけたような次第です。
人気blogランキングへ
近い将来、「幕末明治留学生の青春」というブログをつくろうと思っているので、すごく参考になります。
これからも、楽しい記事を載せてくださいね。
あ、申し遅れましたが、以前、妙光寺の件でやりとりさせていただいたものです。その節はありがとうございました。
5月に私も妙光寺に出かけて撮ってきたのですが、とてもかなわない出来でした。
「幕末明治留学生の青春」、楽しみです。つくられたら、ぜひお知らせくださいね。
存じませんでした。
私は大街道で生まれ、中学2年まで住まっていまして、城山へ遊びに行っては、石垣に登って𠮟られていましたが、確か秋山弟の方だったと思うのですが、よく登っていたような話だったかと。
青山霊園には、秋山家(好古の方です)のお墓もありまして、これが実にささやかなお墓です。でかいお墓の人物は、権勢欲が強いにきまっていまして(笑)、好古は司馬氏が書かれた通りのお方と思えます。えー、うちの高校(旧制北伊中学校)の校長なんかなさいましたし。在学当時は、校内に銅像があるのも気付かない駄目生徒でした。
今晩の放送が楽しみです。
好古さんの青山霊園のお墓と、分葬された道後のお墓どっちもいったんですが、どっちも夜で、撮影は断念しました…。
鎌倉霊園の真之さんのお墓は、まぁ無理すればお参りできるんでしょうけど、確か非公開とかで、それを押していくのは憚られました。
沖田総司の菩提寺(専称寺)みたいになっても嫌ですからね。
好古さん謹書の忠魂碑は、久万以外にも、いろんなところにあるようです。今治とか…。
『坂の上の雲』の第1回、なにか別の国の話のようで、ボーっと観てました。郎女さんは、どんな感想をもたれましたか?
妙香寺は生麦事件の史料を調べに行ったついで、なんですが、横浜へ着いた当日、友人といっしょに観光タクシーを傭ってスカイウォークへ行きまして(生麦から横浜方面を見たらどんな感じか、埋め立てが進んだ現代ではスカイウォークまで出るしかなさそうでして)、時間があまりそうでしたので、先にリチャードソンのお墓と妙香寺へまわってもらいました。翌日が生麦、翌々日が開港資料館で史料のコピー、その次の日が東京まで行って外交史料館、でした。
長十郎の写真を見たのは初めてですね。方平と方美の写真はあるけど、資料の中ではまだ長十郎のはっきりした写真はまだ見つけてないかもです。
いや~大変貴重な情報です。ありがとうございます。
長十郎くんの写真は、明治6年、パリで大久保利通を見送る薩摩人の集合写真です。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/soubetu.html
最後列右端が長十郎くんなんです。
上のサイトさんの写真は小さいみたいですが、私、かなり大きな写真が載っている本を持っていまして、引き延ばしました。
ところで、http://ja.wikipedia.org/wiki/岩下方平の記述についてお教え願いたく。「新納久仰は方平の叔父にあたる」って、どういうことなのでしょうか? 新納久仰が新納刑部の父だといくことは、岩下方平と新納刑部は従兄弟で、武之助くんと長十郎くんは又従兄弟、なんでしょうか。
なお方平の孫、家一の叔父は東郷平八郎です。
調べれば調べるほど新しい人やつながりがでてきて、一体とこへ行くやら・・・。
またなにか発見がありましたら、よろしくお願いいたします。
岩下方平が「夜明け前」に出ていたとは、気づきませんでした。読み返してみます。国学熱心は蘭学熱心に通じるとは、昔は知りませんでした。
青山墓地のお墓は、どうも管理費にうるさいようでして、数年だか支払いがないと撤去されてしまうみたいなんです。岩下家のお墓はきれいにそうじされていましたし、ご子孫がしっかり管理されている感じでした。管理事務所にお訪ねになれば、ご親戚に出会うかも、です。
千葉の方夫さんから預かった資料に加え新たに方平の短歌も独自に入手してます。岩下と面識があった勝海舟、東久世通禧、大久保利通のご子孫とも一昨年から交流を始めてます。岩下一族の情報発信のために志保ちゃんや岩下孫一郎の子孫(北九州市)らとFacebook上で千石会を再度立ち上げてます。
今年はパリ万博150周年なのでパリ万博使節団特設サイトも準備中です。
https://www.facebook.com/Satsuma1867-1274423399344609/
https://twitter.com/satsuma1867
青山霊園の墓は家一の娘のうち誰かが管理しているのでしょうけども、3人とも嫁ぎ、また名字も変わっているため先祖に関心があるという連絡がない以上、こちらから無理やりなご連絡は控えております。
(別に仲が悪いという事ではなく、あまり自分の直系でもない先祖についてとやかく言うのも失礼かと)。
管理事務所ですが、2年程前に実際訪ねた所岩下長十郎の墓に関する情報がないという事でした。全てのお墓の位置を職員が認識しているという事でもないみたいです(笑)
ああ、岩下方平、長十郎のご子孫は、現在女性のみで、岩下姓を名乗っておられなかったんですね。
そういえば、私も事務所ではわからず、自分でなんとかさがしあてたような、気もします。
facebook楽しみですが、あれは本名の必要があると聞いて、私、やってないんです。まあ、家にセキュリティーもかけているので大丈夫とは思うのですが、押し込み強盗の下見に使われて、いざ押し込んでみるとなにもなくて、その腹いせにグサ、とかいやだな、と思いまして(笑)
岩下方平さんは、150年前には、パリから京都へ、ほぼ直行して、目の覚めるような活躍だったと思います。薩摩藩密航留学生で、大河をやって欲しかったと思います。
satsuma1867では使節団にフォーカスするため長十郎はおまけ的な扱いになってしまいますが、長十郎含め岩下一族の紹介サイトも今後立ち上げ予定です。
以前、2015年8月30日の『花燃ゆ』に関する記事でおしえて頂きました「薩摩藩英国留学生記念館」に先月、私行って参りました。
と言いますか、初めて鹿児島を訪問しましたので他にもいろいろと見て回ってきました。
さて、来年はNHK大河『西郷どん』です。
NHKの幕末大河と言いますと、どうしても2年前の『花燃ゆ』の悪夢を思い出さずにはいられませんが、郎女さんは桐野利秋、私はサトウと、『西郷どん』の事はどうしても気にせずにはいられない、というのが正直な所なのではないでしょうか。
実は今年の元旦にNHKのBSで『ザ・プレミアム 時空超越ドキュメンタリードラマ「江戸城無血開城」』というサトウが主役、西郷と勝を準主役にしたドラマ形式の番組が放送されました。その番組では一応、薩英戦争直後のサトウ・松木・五代のやり取りという、世間一般的には結構マニアックな場面も描かれていました。後に松木が英国外務省で交渉した場面もちょっとだけ描かれていたと思います。
そういったNHKの流れからしても、約四半世紀前に放送された『翔ぶが如く』ではほとんどスルーされていた松木・五代・薩摩スチューデントの話なども今回(来年)は少しは触れられるのかも?と多少想像もしているのですが、なにしろあの『花燃ゆ』を作ったNHKですから油断はできません(笑)
桐野は『翔ぶが如く』では第二部の明治編でしか登場してませんでしたが、今回はどうなるんでしょうね。
ちなみに私が鹿児島で見たバスのラッピングには西郷と篤姫をイメージしたと思われる不思議なキャラクターが描かれておりまして、世間一般的なイメージとしては「薩摩と言えば西郷と篤姫」といった認識のようで、NHKの公式HPでも篤姫の紹介欄に「婚儀をまとめるために奔走する西郷との間に恋心が芽生え、大いに揺れ動く」などと書かれております。(10年前の小松と同じパターンかよ!)
原作:林真理子、脚本:中園ミホという事で、私はこの二人がどんな作風の人であるのかよく知らないのですが、『花燃ゆ』同様「お花畑ファンタジー」な話になるのでは?という嫌な予感も拭いきれません。
久しぶりなのに長文ですみません。失礼致しました。
岩下家のサイト、楽しみにしております。
NHKの「西郷どん」、おっしゃるように気にしないではいられないわけなのですが、実は恐怖の方が強くて、できるかぎり気にかけないようにしています。
まず原作の林真理子なんですが、現代物の「下流の宴」は読みました。2011年にNHKでドラマになっていまして、けっこうおもしろかったもので、原作を読んでみたわけなんですが、このシナリオが中園ミホだったみたいです。
おもしろかったことは確かにおもしろかったのですが、なんといえばいいのか、年齢をあげた「お受験もの」でして、世界観が非常にせせこましく、絶対に幕末ドラマを手がけてもらいたくないコンビなんです。
林真理子は柳原白蓮の伝記を書いているみたいですし、中園ミホは朝ドラ「花子とアン」のシナリオを書いているんですが、「花子とアン」の白蓮をモデルにしたキャラが人気が出まして、確かに、その部分はおもしろかったんです。ただね、全体をいえば、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムに毒された紙芝居、としか見えませんで、「西郷どん」は、心底恐怖です。
知りませんでしたが、「NHKの公式HPで、西郷と篤姫に恋心が芽ばえ」と書いているんですかっ!!!!!
前回の小松帯刀は、「篤姫の知らない間に帯刀が憧れた」感じでしたのでまだ許せたのですが、林真理子と中園ミホじゃあ、「真剣な恋」に仕立ててしまいそうで、嫌悪感マックスです。
私もう、いっさいNHKを見るのをやめようかなあ、と。
私的には、モンブラン伯爵VSアーネスト・サトウを前面に出したドラマが見たかったところでして、世界史の中の日本史を描いてもらいたいのですが、どうやら、見果てぬ夢に終わりそうです。
NHKは、なにを勘違いしているんでしょうか。「篤姫」が、なんとか見所のあるものに仕上がっていたのは、原作の宮尾登美子氏の小説がすばらしかったから、シナリオがスウィーツでも、なんとか芯を保つことができたできたから、だと思うんですね。
原作の篤姫さんはストイックにすぎまして、私など、いまひとつ感情移入はできなかったのですが、認めるしかない迫力がありましたし、しっかりと時代が描けておりました。
もうなんなんでしょうか。
同じ時代物でも、土曜時代劇の「忠臣蔵の恋」はよかったですし、大義を大切にしつつ、生きることのせつなさを描いて欲しいのですが、よりによって大河で、最悪の原作・シナリオコンビだとしか思えません。
篤姫と西郷が恋!!! げんなりしすぎて、絶対に見ないことになりそうです。
「婚儀をまとめるために奔走する西郷との間に恋心が芽生え、大いに揺れ動く・・・。西郷と篤姫の絆は、やがて「江戸無血開城」へとつながっていく。」
そして当の西郷の紹介コメントは
「唯一無二の人柄で、とにかく男にも女にもモテた。」
とまあ、とにかく恋愛だの「好き嫌い」が物語の重要な要素を占めるのは、間違いなさそうです。
しかも【制作のことば】として、の部分で
「~「好きと嫌い」が時代を揺り動かした 幕末薩摩のキーパーソンたち~
制作統括 櫻井賢
幕末という時代は、主義主張の対立だけでは時代の流れを理解できないと言います。そこには、「好きか、嫌いか」という、感情が大きな役割を演じていると。人間とは多分に感情に左右される生き物で、嫌な奴のすることは、一々気に入らず、悪にさえ見えてくる。政治上の大事件も、主義や主張の裏側にある「感情のもつれ」が多分に作用していると。」
と述べておりますので、これはまあ「確信犯」なのでしょう。
更に追い打ちをかけるようで申し訳ありませんが、一番最初の制作発表の段階で
「知ってるつもりの「西郷隆盛」像をぶち壊し、誰も描かなかった愛すべき“人間西郷”を描きます。その生涯は謎に満ちていますが、最強のストーリーテラーお二人が紡ぎ出す“誰も描かなかった人間西郷”の姿が浮かび上がり、ますます私は「西郷どん」と会いたくなります。今の時代に、再び現れてほしいと願います。」
とまで述べておりますので、これは確かに仰る通り、もうダメかも知れませんね。
私自身は以前放送された『篤姫』も、決して褒められた内容のものではなかったと思っています。
その一方で『翔ぶが如く』は、様々な物足りない部分があるといえども、良作だと思っています。
それは細かな歴史描写の部分をもって指摘する事もできますが、もっと端的に言ってしまえば「後者では熱い薩摩隼人達、カッコイイ男達が何人か描かれていたから」という、私の個人的な評価基準に依る部分が大きいのかも知れません。
『花燃ゆ』にもそんなキャラクターは一人も出ていませんでしたが、NHKは薩摩に対しては長州程差別的な扱いをするとも思えませんし、2年前に長州に対してやり過ぎた反省から来年は多少薩長に対して「ガス抜き」をすると予想していたのですが、甘かったかも知れません。
余談ながら、NHKは五代を朝ドラで流行らせたと自負しているでしょうから、間違いなく五代は出ると思います。それ故に、松木と薩摩スチューデントも出るだろうと私は予想しています。
『翔ぶが如く』につきましては、どこかで感想を書いたはず、とさがしてみましたら、「スイーツ大河『花燃ゆ』とBABYMETAL」のコメント欄でした。http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/acedd38974bb6046fabac8494b6caa9f
再録しますと。
「翔ぶが如く」は、リアルタイムで私が録画するに至った、唯一の大河なんですが、これがまたアンビバレントで、嫌気がさして見ていない回もありますし、しかしラストが泣けるほどすばらしかったので、録画しました。司馬氏は、やはり非常なエンターティメント作家でおられるんです。「西南記伝」のみを元にして、西南戦争の最後の場面を、ここまで書けるものなんだ、と感嘆するしかない描写でして、 NHKが、それをまた、けっこう忠実にやってますので、今見ても、この最後だけはすばらしいんです。
私、杉本哲太さんの桐野は、けっこう好きでした。
しかし、この時代の大河でもっとも好きなのは、「獅子の時代」です。
これも、どこかに書いたはず、と思いましたら、「続・龍馬暗殺に黒幕はいたのか?」でした。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/0c84a85bbf72eedb4cc9fedad007dced
リアルタイムでは、ほんの少ししか見ることができなかったのですが、それが脳裏に焼き付いてまして、時代劇チャンネルで放映していたものを見て、「古いドラマだけど、やっぱりいいわ」と、あらためて感心いたしました。以下、再録です。
ともかく、かなりな大嘘ばかりで、平沼銑次は鞍馬天狗かジャン・バルジャンか、という描かれ方なんですが、大筋としましてはまあこんなものかも、といいますような時代相の基本が大きくはずれているわけではないですし、これがけっこう、おもしろいんです!!!
なんといいましても、30年も前のテレビドラマなのに、ちゃんと薩摩のパリ工作をやってくれているのがすごいですよねえ。モンブランの来日が描かれていませんし、事実関係をかなりまちがえてはいますけれども、一応、それが軸ではあるわけでして。
加藤剛が演じていました薩摩藩士は、一応、森有礼と村橋久成あたりがモデルかなあ、という感じですが、自分は政府側にいて、父親は西郷側にいて、おたがいに立場をゆずることはできないで、敵対するしかないのですが、沢村貞子さん演じます母親が、またいい味を出していますし、よかったです。
明治の自由民権運動に心をよせます山田太一は、左翼的なものの見方をなさってはいるのですが、明治維新の光と影を描くにあたって、大筋ははずしてないですし、薩摩藩士たちへの視線にも、あたたかなものがありました。
好き嫌いといえば、西郷隆盛は好き嫌いの激しい人物だったと思いますが、大久保利通との決裂は、まったくもってそれでは描けません。
岩下方平が、後年、明治6年政変について語っているのですが、彼は人柄としては大久保を嫌い、西郷を好いています。しかし、息子は新政府側で活躍していますし、はっきりいって成り行きから政府側にいただけの感じで、人柄からいえば、西郷軍側の人間を多く好んでいたようです。
要するに、大久保は非常の人だったのだから、維新が成った時点でさっさと引けばよかたのだ、という意見だったようです。
どうせ視聴率は落ちるだけ落ちたのですし、思いますにこれからの大河は、20代の男性を主なターゲットとして、しっかりした男のドラマにしていただきたいなあ、と。いい男をしっかり描けば、女も見ると思うんですけどねえ。
その当時は子供でしたからライブで見たのではなくて、後年DVDでまとめて見た上での感想ですけど。
但しこれは「ここ10数年(=21世紀)の大河ドラマとは比較の対象にするのもおこがましい」というレベルの話だと思いますよ。
制作者(役者も含めた)側のドラマ制作に対する姿勢が、21世紀に入ってのモノとは比較にならないくらい真摯なように見えますから。20世紀のモノは。
『西郷どん』に関するNHKのドラマ制作の姿勢として、NHKは「好きと嫌い」をドラマの軸にするという事ですが、これは「男達の側」という面で見れば(変な意味ではなくて(笑))確かにそれも一つの要素として「あり」だと思います。西郷の斉彬または久光に対するもの、村田新八の西郷に対するもの等々、そういった観点でドラマを作るのも、それはそれで良いでしょう。
但し男女間で言えば、『篤姫』や『花燃ゆ』のような女性が主役のモノならまだしも(この両者でそれがしっかりと描けていたかどうか?私には疑問がありますが)、男が主役である『西郷どん』では、その部分を最優先にされるのはご勘弁願いたいものだと思います。
そしてこれは大河ドラマに関してだけ、という訳でもなく、近年日本で作られる歴史ドラマ全般に言える話だと思うのですが、忠義心や正義心を表現する場面を相対的に薄める為に「その部分にドラマの軸足に置く」という手法が目立っているように私には感じられるのです。
歴史ドラマであるならば、もっと歴史の醍醐味を感じられるドラマにして頂きたいものだと、これは一幕末マニアとしての切なる願いです。
まあ『西郷どん』については、実際に中身を確認するまでは、あまり大袈裟に捉えないようにしよう、とは思っています。
どのみち私達幕末マニアは、世間一般から見れば超マイノリティーなのですから、テレビ局が「視聴率」などというものを基準にしてドラマ制作をしている限りは(民放ではないNHKが「視聴率」などを気にしてもしょうがないと私は思いますけど)、世間一般に対するウケが良いものを作らざるを得ず、それ故に私達が望む歴史の醍醐味などという堅苦しいものは遠慮され、「好きと嫌い」という部分に軸足を置いた子供でも分かるような歴史ドラマしか作られない、という結果になるのだと思います。
そのおかげで遅々として進まないのですが、イネさんの本、自分が出すのですから、なんとか一般にも、幕末維新の流れがわかってもらえるようにならないものかと、悪戦苦闘しています。
今年は大政奉還150周年ということで、秋には仕事で、短いながらも伊達宗城を書くことになっています。
がんばってみるつもりです。
私の直系先祖の岩下方美(方平の従兄弟)の妻が市来寿恵子という女性で、市来という事はひょっとしたら西郷琴を通じて西郷家にも繋がっているのでは?パリ万博に同行した市来政清も市来寿恵子の親族?パリ万博使節団はある意味親族や繋がりがある関係者で構成されたのか?という仮定をしてますが、市来家についてはネット上では調べる資料が少ないので現地調査が必要です。
方平が当時大久保より西郷寄りだったかもしれませんが、時代は変わって大叔父は大久保家文章から岩下関係の資料提供を受けてましたし、私も勝海舟フォーラム2016年に高山さんのご助力もいただき大久保利泰さんにお会いしました(笑)
西郷さんは直接お会いした事がありませんが、鹿児島の知人繋がりで私の動きは伝わっていると思うのでお会いする日も近いのかな~と思っております。
それまでに知識を蓄えなければなりませんが、古文書は難しいですね・・・(苦笑)
作品を世に送り出すにあたっては、大河ドラマの話でも少し触れましたように、それを「どういった層に対して送り出すのか?」というのは、制作者が一番最初に直面する大変困難な設定作業だと思います。
こんな話は釈迦に説法ですが、広く一般の人々に向けて表現する作品であれば、まず幕末維新のイロハからの解説が必要になってしまうでしょう。
しかしある程度の知識が備わっている人々が対象であれば、逆にそういったイロハの解説は冗長に感じられてしまう恐れもあり、逆効果にもなりかねません。
私の個人的な見解として申し上げれば、幕末維新に関心を持っている人間は今の日本では超マイノリティーであり、残念ながら活字のイネさんの本に対して積極的に関心を持つ人間というのは概ね「そういった人々」に限定されてしまうのではないでしょうか?(イネさんに関連のある愛媛、長崎といった地元を除けば)。
だからと言って世間一般の目線を無視して良いとは言えないので、その辺のバランスの調整は本当に難しいのだろうなあ、と拝察致します。
ちなみ私は「こんぺいとう おいね診療譚」というイネさんを主人公にしたマンガ作品の第1巻を1年程前に読みました。
歴史物のマンガ作品を扱っているリイド社の「コミック乱」で不定期連載をしていた作品なのですが、少女時代(14才)のイネさんを主人公にして「蘭学仕込みの医療知識で、世間を騒がす難事件を次々と解決していく法医学ミステリー」といった作品です。2014年に第1巻が出版されて以降、第2巻が出版される予定が立っていないようなので「売行きはあまり良くない」という事が推察できます。幕末を舞台にして医療知識を使って活躍する所などは、ある種「JIN仁」の二番煎じのようではあるんですが「JIN仁」とは作品の質のレベルが違い過ぎますので、まあ確かに内容的にはちょっと微妙な感じではあります。
おそらくイネさんのイメージとして世間に一番流布されているのは「花神」(特に大河ドラマのほう)、もしくは上記の「コミック乱」で連載している「風雲児たち」のイメージなのかなあ?と。
しかし、これも私の個人的な見解であり、しかも超マイノリティーである幕末マニアの一見解ですから、あまり大袈裟にお受け取りにならないようにお願いしたいと存じ奉ります(笑)。
岩下家と大久保家の親しいおつきあいは、当然のことかと思います。幼くして留学しました大久保家の兄弟(利和、牧野伸顕)の世話を頼まれて務めたのは、長十郎くんです。
長十郎君の履歴の中で、普仏戦争時のパリ籠城は、日本人としてけっこう希有な体験だったと思うのですが、このとき、長十郎君と共にパリにいた日本人のお一人、渡正元氏のご子孫が、私のブログがなにかの役に立ったということで、連絡をくださいました。『巴里籠城日誌』の現代語訳本を出版なさって、くださったのですが、日誌にはもとになった詳しいものがおありだそうで、そちらには、あるいは長十郎君も出てくるのではないかと思うのですが、お聞きしてはおりません。
とにもかくにも、維新に際してのご先祖の奮闘が、現代に引き続き記録として残されますのは、すばらしいことだと思います。
私の友だちも、幕末友だちを除けばごく一般人でして、はっきりいって、幕末と言えば龍馬と新撰組しか思い浮かばない、みたいなんですね。
そこにむかって、自分の思い描く維新をイロハから解説するのは至難の業なんですが、おイネさんについて書き始めて、私が書きたい最大のテーマは「維新と日本人のアイデンティティ」だったのだと気づきまして、そうだとすれば、おイネさんほど、それを浮き彫りにするにふさわしい人物はいないんです。
近代国家日本の誕生と日本人のアイデンティティは、現代にも通じる普遍的なテーマだと思うのですが、それだけに、それをわかりやすく提示するのは、至難の業でして、あるいは、非力な私の手にはおえないことなのかもしれません。
たとえ読んでもらえなくても、それを書き残すことは、私にとって意味のあることですから、なんとかがんばらねばと、思っているところです。