今回は、真説生麦事件 上真説生麦事件 下の補足です。
この「横浜どんたく」の中の「生麦事件の始末」が、私が今回書きました真説生麦事件の推理の中心となってます。
後世のものであるのはわかっているのですが、とりあえず薩藩海軍史の本文よりははるかに古いですし、それくらい、生麦事件には史料がないんです。
なぜか。
ということで、まず、川島弁之助が「生麦事件の始末」をまとめた経緯を、引用します。
わたくしは17歳の時より、戸塚の宿役人を勤めまして人馬継立の職を執ておりましたが、慶応2年より横浜へ参りましたのでございます。横浜にも開港以来50年間には種々な出来事がありましたが、そのなかにも、もっとも大事件と申しましては英国人殺傷で、これより大事件はほかにありませんでした。それゆえこの事件は駅吏たる者の心得おかなくてはならぬ事と思い、その当時ずいぶん精探(さが)して筆記して置きましたが、なお、その後生麦村の関口次郎右衛門氏は、その当時、同村の名主でこの事件に昼夜奔走して事を執られた人であるから、この人についてわたくしの記録の遺漏をも補い誤りもあらばなおしておこうと思いまして、同氏を訪問してその意を語りますと、関口氏の申されるには、該事件については自分の在職中の事であるから、寝食を安んぜず奔走しつつ一々筆記し置きたるを、かの黒川氏が松原へ記念碑を建てるについて、わたくしの筆記を中村正直氏に借られ、中村氏より細川潤次郎氏に貸されしとかで、数回催促するもいまに返されず、貴氏の所望を残念ながら満し難しといわれたるによって、わたくしは自分の筆記を氏に示し、氏の記憶により補遺訂正を受けました。
もちろん、生麦英人殺傷事件と申せば空前絶後の大事件ですから、この事を書いた書物も世に少くはありませんが、当時役人が出張して土地の百姓町人等を尋問せしも、後日の関係に及ばんことを恐れて、たれ一人実況事実を告白するものがない。もっとも、これはこの事件に限らず、すべての事がそのとおりなるは幕府時代の通弊なれば、世に在来の種々の書物、または事にあずからざりし人の筆記口碑などの幾多の誤りあれば、勢いぜひなき事であります。
維新後は、その弊習を除去されて、そのころ口を禁じたりし人もその実を語るにおよんで、わたくしは自分の記録を補遺訂正して生麦事件の実況を詳細に知ることが出来ましたのです。
うーん。この関口氏の資料が返ってこなかった経緯なんですけどね、明治16年のことですし、いま、私は疑惑でいっぱいです。細川潤次郎は、元土佐藩士で、アメリカへ留学し、主に文部省に奉職した人みたいです。しかしねえ、政府に薩摩出身者は多かったわけですし、抹殺しようと思った人の手に渡っても、おかしくないですよねえ。
それと………、弁之助は「役人が尋問しても事実を告白するものがなかった」と言っているんですが、関口家がらみで、あるいはある程度のことを神奈川奉行所はつかんでいたのではないか、と思われる材料があるんです。
関口家は生麦村の名家で、代々名主を務め、日記を残しているんです。ただ、弁之助のいう当時の名主・関口次郎右衛門なんですが、彼はどうも、分家の人だったようです。
文久2年当時、生麦村の名主は、関口家本家当主の東右衛門と次郎右衛門が勤めていて、次郎右衛門の方が、年番でした。現在残っている関口家の日記は、東右衛門が書いたものです。このうち生麦事件に関する部分は、、横浜開港資料館発行の『「名主日記」が語る幕末 ~武蔵国橘樹郡生麦村の関口家と日記~』が抜き書きしてくれてまして、以下、事件から3日後の文久2年8月24日の日記です。
七ツ半時過、定御廻り三橋敬助様当方へ御出、松原徳次郎女房并甚五郎女房異人殺害ニ而落馬いたし候始末御尋ニ付、当人共呼寄、桐屋へ御出ニ付参る、夜ニ入、御帰リニ相成候
えーと、ですね。要するに、「七ツ半時過」ですから、夕方の5時過ぎくらい、でいいんですかね、神奈川奉行所定廻役・三橋敬助が、関口家へ来て、リチャードソンが落馬してからのことを聞きたいので、松原徳次郎の妻と甚五郎の妻の二人を呼んで桐屋へ来てくれ、というので、東右衛門は二人を呼び寄せ、ともに桐屋へいった。三橋は、夜になってから帰った。ということなのですが。
桐屋というのは宿泊もできる料理茶屋かなんかで、奉行所が出張所みたいに使っていたみたいですね。そして、この二人の女性は、おそらく、なんですが、リチャードソン落馬後の惨劇を見ていた里人、ですよね。
三橋敬助は、弁之助の話にも出てきます。事件直後の話です。
このとき、神奈川奉行支配定廻役・三橋敬助は、生麦村に赴かんとして神奈川駅の内字新宿まで至りし。おりから、島津候の行列に行逢い、それより生麦村松原に至るに、同処は英人の殺害せられし場処なれば、村役人等打寄りいて、三橋敬助を出迎え、ただちに死骸の所在地に案内す。敬助死骸を見分し終り、なお異人等島津候に行逢い、かつ刃傷に及びし場所等子細に見分し、ここに居住せし同村百姓勘左衛門を呼出し、子細尋問に及ばる。勘左衛門は自宅前の出来事なれば、見分のままを言上し、左の書簡を出せり。
つまり、事件直後、三橋敬助は生麦村に入って、関口次郎右衛門たち村役人の出迎えを受け、ただちにリチャードソンの死体のある場所に案内され、見分していたんですね。行列が異人に行きあって、最初の刃傷が起こった事件現場も見分し、ちょうど、それが自宅の前だった勘左衛門に話を聞きます。そして、勘左衛門は、関口次郎右衛門、東右衛門を含む6人の村役人と連名で、届出書を出すんです。これはもう、ごく簡単な事実関係のみ、です。
「島津候の行列が、神奈川方面から馬で来た、どこの国ともわからない異人4人(うち女1人)と出合い、行列の先方の人々が声をかけたが、異人たちは聞き入れず、駕籠先近くまで乗り入れたので、行列の藩士が異人の腰のあたりに斬りつけたようで、そのまま異人は立ち去り、一人は深手の様子で、字松原で落馬して死に、他の三人はどこかへ立ち去った」
勘左衛門の家が、最初の事件現場にあったことは、関口東右衛門の日記でもわかります。
弁之助は、後にこの勘左衛門と親しくなり、このときには語られなかった詳しい話を聞き出して、「生麦事件の始末」をまとめたのだと言います。
そして、3日後に、三橋敬助が、リチャードソン落馬後の様子を聞きに現れた、ということは、おそらく、なんですが、イギリス公使館の医官、ウィリアム・ウィリスの検死で、落馬後の斬殺が疑われ、その聞き取りだったのではないか、と思われるんです。
ただ、生麦村は、事件の2週間後、「勘左衛門ほか2名以外の目撃者はいない」という届出書を出しているそうでして、果たして三橋敬助が、リチャードソンの落馬後を目撃した女性たちから、話を聞き出せたかどうかは謎です。
もし、聞き出せたとした場合、三橋敬助が覚書くらいは残したはずですけれど、私は、こういった事件直後の神奈川奉行所の取り調べ書類が、いったいどこへ消えたのか、ちょっと疑いを持っています。
いずれにせよ、少なくとも関口家には、女性たちの目撃談をまとめたものもあったはずでして、ほんとうに、いったいどこへ消えたのでしょうね。
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この「横浜どんたく」の中の「生麦事件の始末」が、私が今回書きました真説生麦事件の推理の中心となってます。
後世のものであるのはわかっているのですが、とりあえず薩藩海軍史の本文よりははるかに古いですし、それくらい、生麦事件には史料がないんです。
なぜか。
ということで、まず、川島弁之助が「生麦事件の始末」をまとめた経緯を、引用します。
わたくしは17歳の時より、戸塚の宿役人を勤めまして人馬継立の職を執ておりましたが、慶応2年より横浜へ参りましたのでございます。横浜にも開港以来50年間には種々な出来事がありましたが、そのなかにも、もっとも大事件と申しましては英国人殺傷で、これより大事件はほかにありませんでした。それゆえこの事件は駅吏たる者の心得おかなくてはならぬ事と思い、その当時ずいぶん精探(さが)して筆記して置きましたが、なお、その後生麦村の関口次郎右衛門氏は、その当時、同村の名主でこの事件に昼夜奔走して事を執られた人であるから、この人についてわたくしの記録の遺漏をも補い誤りもあらばなおしておこうと思いまして、同氏を訪問してその意を語りますと、関口氏の申されるには、該事件については自分の在職中の事であるから、寝食を安んぜず奔走しつつ一々筆記し置きたるを、かの黒川氏が松原へ記念碑を建てるについて、わたくしの筆記を中村正直氏に借られ、中村氏より細川潤次郎氏に貸されしとかで、数回催促するもいまに返されず、貴氏の所望を残念ながら満し難しといわれたるによって、わたくしは自分の筆記を氏に示し、氏の記憶により補遺訂正を受けました。
もちろん、生麦英人殺傷事件と申せば空前絶後の大事件ですから、この事を書いた書物も世に少くはありませんが、当時役人が出張して土地の百姓町人等を尋問せしも、後日の関係に及ばんことを恐れて、たれ一人実況事実を告白するものがない。もっとも、これはこの事件に限らず、すべての事がそのとおりなるは幕府時代の通弊なれば、世に在来の種々の書物、または事にあずからざりし人の筆記口碑などの幾多の誤りあれば、勢いぜひなき事であります。
維新後は、その弊習を除去されて、そのころ口を禁じたりし人もその実を語るにおよんで、わたくしは自分の記録を補遺訂正して生麦事件の実況を詳細に知ることが出来ましたのです。
うーん。この関口氏の資料が返ってこなかった経緯なんですけどね、明治16年のことですし、いま、私は疑惑でいっぱいです。細川潤次郎は、元土佐藩士で、アメリカへ留学し、主に文部省に奉職した人みたいです。しかしねえ、政府に薩摩出身者は多かったわけですし、抹殺しようと思った人の手に渡っても、おかしくないですよねえ。
それと………、弁之助は「役人が尋問しても事実を告白するものがなかった」と言っているんですが、関口家がらみで、あるいはある程度のことを神奈川奉行所はつかんでいたのではないか、と思われる材料があるんです。
関口家は生麦村の名家で、代々名主を務め、日記を残しているんです。ただ、弁之助のいう当時の名主・関口次郎右衛門なんですが、彼はどうも、分家の人だったようです。
文久2年当時、生麦村の名主は、関口家本家当主の東右衛門と次郎右衛門が勤めていて、次郎右衛門の方が、年番でした。現在残っている関口家の日記は、東右衛門が書いたものです。このうち生麦事件に関する部分は、、横浜開港資料館発行の『「名主日記」が語る幕末 ~武蔵国橘樹郡生麦村の関口家と日記~』が抜き書きしてくれてまして、以下、事件から3日後の文久2年8月24日の日記です。
七ツ半時過、定御廻り三橋敬助様当方へ御出、松原徳次郎女房并甚五郎女房異人殺害ニ而落馬いたし候始末御尋ニ付、当人共呼寄、桐屋へ御出ニ付参る、夜ニ入、御帰リニ相成候
えーと、ですね。要するに、「七ツ半時過」ですから、夕方の5時過ぎくらい、でいいんですかね、神奈川奉行所定廻役・三橋敬助が、関口家へ来て、リチャードソンが落馬してからのことを聞きたいので、松原徳次郎の妻と甚五郎の妻の二人を呼んで桐屋へ来てくれ、というので、東右衛門は二人を呼び寄せ、ともに桐屋へいった。三橋は、夜になってから帰った。ということなのですが。
桐屋というのは宿泊もできる料理茶屋かなんかで、奉行所が出張所みたいに使っていたみたいですね。そして、この二人の女性は、おそらく、なんですが、リチャードソン落馬後の惨劇を見ていた里人、ですよね。
三橋敬助は、弁之助の話にも出てきます。事件直後の話です。
このとき、神奈川奉行支配定廻役・三橋敬助は、生麦村に赴かんとして神奈川駅の内字新宿まで至りし。おりから、島津候の行列に行逢い、それより生麦村松原に至るに、同処は英人の殺害せられし場処なれば、村役人等打寄りいて、三橋敬助を出迎え、ただちに死骸の所在地に案内す。敬助死骸を見分し終り、なお異人等島津候に行逢い、かつ刃傷に及びし場所等子細に見分し、ここに居住せし同村百姓勘左衛門を呼出し、子細尋問に及ばる。勘左衛門は自宅前の出来事なれば、見分のままを言上し、左の書簡を出せり。
つまり、事件直後、三橋敬助は生麦村に入って、関口次郎右衛門たち村役人の出迎えを受け、ただちにリチャードソンの死体のある場所に案内され、見分していたんですね。行列が異人に行きあって、最初の刃傷が起こった事件現場も見分し、ちょうど、それが自宅の前だった勘左衛門に話を聞きます。そして、勘左衛門は、関口次郎右衛門、東右衛門を含む6人の村役人と連名で、届出書を出すんです。これはもう、ごく簡単な事実関係のみ、です。
「島津候の行列が、神奈川方面から馬で来た、どこの国ともわからない異人4人(うち女1人)と出合い、行列の先方の人々が声をかけたが、異人たちは聞き入れず、駕籠先近くまで乗り入れたので、行列の藩士が異人の腰のあたりに斬りつけたようで、そのまま異人は立ち去り、一人は深手の様子で、字松原で落馬して死に、他の三人はどこかへ立ち去った」
勘左衛門の家が、最初の事件現場にあったことは、関口東右衛門の日記でもわかります。
弁之助は、後にこの勘左衛門と親しくなり、このときには語られなかった詳しい話を聞き出して、「生麦事件の始末」をまとめたのだと言います。
そして、3日後に、三橋敬助が、リチャードソン落馬後の様子を聞きに現れた、ということは、おそらく、なんですが、イギリス公使館の医官、ウィリアム・ウィリスの検死で、落馬後の斬殺が疑われ、その聞き取りだったのではないか、と思われるんです。
ただ、生麦村は、事件の2週間後、「勘左衛門ほか2名以外の目撃者はいない」という届出書を出しているそうでして、果たして三橋敬助が、リチャードソンの落馬後を目撃した女性たちから、話を聞き出せたかどうかは謎です。
もし、聞き出せたとした場合、三橋敬助が覚書くらいは残したはずですけれど、私は、こういった事件直後の神奈川奉行所の取り調べ書類が、いったいどこへ消えたのか、ちょっと疑いを持っています。
いずれにせよ、少なくとも関口家には、女性たちの目撃談をまとめたものもあったはずでして、ほんとうに、いったいどこへ消えたのでしょうね。
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戦前出された鹿児島県史が、改訂(今のところ全くないようですが)されるようなことがあれば、必ず載せなければならない事項です。
今回、私の知らないことばかりでしたので、たいへん面白く読ませて戴きました。
なお、長岡さまなら、おわかりになられましたよねえ。明治16年に消えた資料が、最終的に奈良原弟の手にわたったのではないか、と、私が疑っていますのが。ぜひ、お調べになってみてくださいませ。奈良原弟のことについては、私はご著書でしか、くわしいことは存じませんです。
さて、明治16年の消えた資料云々ですが、そういう事実を知らなかったこともあり、考えもしませんでした。繁の年譜もかなり充実してきたとはいえ、まだまだ点の数を増やしているだけで、線として繋がっているとはいえません。ただ、線になるのは永久にないかもしれませんね。繁クラスでは。
今は、嫡子・三次が遺したものをその弟子である伊藤音次郎が受け継ぎ、そして最終的には、三次のことを書いた平木國夫氏宅に行き着いたものを入手したいと考えているだけです。
どうでもいいものしか残っていないかもしれませんが・・・。